大原重綱

佐々木重綱(1207-1268)佐々木信綱の長男。母川崎為重の娘。近江太郎左衛門尉。承久の乱では父信綱に従い、宇治川の先陣を徒歩で駆けて戦功。そののち左衛門尉に補任され、将軍藤原頼経の近臣となり、有力御家人として幕府の諸行事にも参列。ところが遺産相続では、外祖父川崎為重(中山五郎)が比企能員の乱で滅亡していたため、所領を与えられず出家しました。しかし寛元元年(1243)重綱は幕府に弟泰綱を訴え、泰綱から坂田郡大原荘を獲得。ここから佐々木大原氏が始まりました。
 重綱の長男長綱は、近江守の長男左衛門尉の長男を意味する「近江左衛門太郎」の名で『吾妻鏡』に登場します。しかし沙々貴神社本では、長綱が不孝であったため家督を継承できなかったと伝えています。
大原氏の家督を継承したのは次男頼重(三郎左衛門尉)でした。しかし頼重には男子が無く、五男時綱(佐々木又源太)が兄頼重の娘婿として家督を嗣ぎました。又源太という時綱の仮名は、家督頼重の次に家督となったことを意味しています。時綱は、六角宗信が供奉した弘安9年(1286)の春日行幸では、右衛門尉として供奉しました。こののち時綱は左衛門尉・検非違使を経て対馬守に補任されて受領となっています。大原氏は、受領となった時綱によって有力御家人の仲間入りを果たしたといえます。
重綱の娘は2人で、1人は京極範綱(右衛門尉)に嫁ぎました。範綱は評定衆京極氏信の次男ですが、早世しています。もう1人は隠岐流佐々木義泰(富田左衛門尉・肥後守)に嫁いでいます。義泰は六波羅評定衆佐々木泰清の四男です。義泰の子息佐渡守師泰(佐々木佐渡入道如覚)は建武新政権で雑訴決断所三番(東山道)寄人に列しています(『雑訴決断所結番交名建武元年8月』続群書類従31輯下)。このように佐々木氏では庶子家も有力御家人となっており、しかも有力庶子家どうしでまた閨閥を築いていたことが分かります。
家督時綱の子息時重は、左衛門尉・検非違使を経て備中守に補任されて、受領になりました。以後、大原氏は備中大夫判官を世襲官途としています。官職は惣領六角氏と並んでおり、有力御家人に列していたことが分かります。事実、時重は得宗北条貞時の13回忌には、他の佐々木氏の有力庶子家である京極氏や隠岐氏とともに有力御家人として列しています。さらに元弘の変では、幕府軍の主力の一人として京都に上っています(『光明寺残篇』)。しかし、のち官軍に転じたのでしょう。建武新政権では武者所の一員に選ばれています。
時綱の娘は2人あって、1人は盛綱流佐々木氏の加地筑前五郎左衛門尉に嫁いでいます。加地筑前守の五男で左衛門尉の者という意味であり、加地筑前守長綱の五男宗長であると考えられます。『尊卑分脈』では「加地筑後五郎左衛門尉」としていますが、佐々木加地氏で筑後守を受領した者を確認することができず、沙々貴神社本にもあるように、筑後は筑前の誤りと考えられています。時綱のもう1人の娘は、六波羅評定衆長井茂重(丹後守)の子孫長井丹後左衛門大夫に嫁いでいます。史料によって六波羅評定衆長井宗衡(丹後前司)の存在が確認されており、丹後守の子息で五位(大夫)の左衛門尉の者を意味する長井丹後左衛門大夫は、長井宗衡もしくはその子息に当たる人物と考えられます。大原氏が六波羅評定衆と婚姻関係を結んでいたことが分かります。
大原氏は、京極氏や隠岐氏、加地氏など有力な佐々木一族と重縁関係を結んで一族の結束を固めるとともに、六波羅評定衆であった有力在京人長井氏と閨閥を形成していたことが分かります。やはり大原氏は有力在京御家人であり、室町時代にも有力幕府奉公衆になっています。

この記事へのコメント

重代の家宝
2008年01月28日 18:02
大原氏は、血筋からいえば六角氏よりも本家筋なんですね。鎌倉・室町初期の京極氏の勢力は佐々木一族最大最高のような気がします。六角氏が、嫡流の根拠は何でしょうか?。佐々木宗家の証しである家宝とかがあったのでしょうか?。
足利将軍家が大原氏を佐々木の総領と宣言したら、なれるようなものではなかったのでしょうか?。
佐々木哲
2008年01月29日 03:46
大原重綱の母は、比企能員で滅亡した川崎為重の娘ですから、血筋として本家筋とはいえません。やはり北条義時の娘が母である泰綱が血筋的にも本家筋に当たります。足利氏でいえば、足利氏と斯波氏の関係に当たります。

また六角氏と京極氏の関係ですが、近江守護と佐々木惣領職を継承したのは六角氏であり、佐々木導誉はあくまで六角氏頼の舅として近江守護と佐々木惣領職をあずかったに過ぎません。

六角氏は鎌倉後期にすでに全国に先駆けて郡守護代を設置して在国支配を進めており、幕府が一時的に近江守護を更迭することも数度ありましたが、六角氏の在地支配を無視できずに結局すぐに近江守護に復帰させています。

その近江は経済の先進地域であり、他国では数カ国に匹敵しました。とくに六角氏の本拠の湖東は経済的に豊かでした。

京極氏の勢力が、六角氏の勢力を凌いだのは、導誉と持清のときだけでしょう。

さらに六角氏は実力者であるだけではなく、佐々木氏の本拠近江佐々木荘を管領し、氏神沙沙貴神社の祭祀をしており、自他ともに認める惣領家でした。けっして幕府が左右できるようなものではありませんでした。
2010年03月16日 18:21
こんにちは、いつもお世話になっております。今回は、お尋ねしたいことがあります。
 自家の先祖調べの過程で、大原氏との繋がりを考えておるのですが、「坂田郡大原庄」が名字の地であることは周知の事実でありますが、「甲賀郡大原庄」と書かれてある文献を目にしたことがあります。
 実は、「源義綱」が甲賀山(甲賀郡鹿深山と考えています。)で子息共々自殺したとの伝承があることに疑問を持っておりまして、「もし甲賀郡大原庄が大原氏との関係があるようなら、義綱の子孫に大原氏との繋がりが有る。」と考えている私の自論に裏附けがとれるのですが…。
 やはり、単なる書き間違いでしょうね…。
ご意見を頂きたいのですが、宜しくお願い致します。
佐々木哲
2010年03月17日 01:31
佐々木大原氏は坂田郡大原荘です。甲賀郡大原は資の字を通字にした伴氏流大原氏の本拠で、佐々木大原氏とは別流です。

また甲賀郡に所領を有していたのは源義綱ではなく、源義光(新羅三郎)です。義光の所領で義綱父子が自殺したので、義光謀略説もあるのです。
右左衛門
2011年06月25日 12:43
いつも楽しみに拝見しています。また、たいへん参考にさせて頂いています。大原氏は備中守を代々受領するのですね。最近、米原市(旧大原荘)の滝が谷城を訪城しましたが、城主が滝沢備中守。大原氏のお膝元で同じ官途名を名乗れたのでしょうか。歴史オタクの素朴な疑問です。失礼しました。
佐々木哲
2011年06月25日 20:13
佐々木氏では、六角氏と大原氏が鎌倉~南北朝期に備中守を世襲官途にします。

地元有力者と同じ官途は名乗らないものですが、室町~戦国期には六角氏も大原氏も備中守を名乗らなくなりますので、それ以後であれば備中守を名乗るのは可能です。
右左衛門
2011年09月16日 18:48
いつも楽しみに見させてもらっています。
大原氏は、政重の次は六角氏から世継ぎを迎えていますが、「武家家伝 大原氏」によりますと、六角定頼の浅井攻めに政重子息、五郎某を参戦させたという記録があり、立派な跡取りがいたようです。それにもかかわらず、何故他家から世継ぎを迎えたのでしょうか?
また、政重-某-金綱という傍流があったそうですが、これらはどうなってしまったのでしょうか?
よろしければ、教えてください。宜しくお願い致します。
佐々木哲
2011年09月18日 23:44
サイト『武家家伝』の「大原氏」の頁にある「五郎」は京極高慶(五郎)の間違いです。高慶もいちじ大原氏を名乗っていたようですが、まもなく京極氏に復して六角氏に支持され、兄京極高広父子と争っています。浅井攻めに「五郎殿」が見えるのも、そのためです。
右左衛門
2011年09月23日 15:49
御回答ありがとうございます。大原氏について調べています(当サイトは江南主体にもかかわらず質問してすみません)。大原氏は六角氏と関係を蜜にしていたようですが、永禄年間の信長による六角攻めの際は、成敗されたのでしょうか?また大原氏が在地を離れた時期や背景を教えてください。よろしくお願いします。
佐々木哲
2011年09月24日 00:14
六角高頼の三男中務大輔高保が大原政重の跡を継ぎますが、高保の跡は六角義賢(承禎)に次男中務大輔高盛(のち高定)が継ぎます。

高盛は永禄11年信長上洛戦における箕作城の戦いで父承禎・兄義治とともに甲賀に逃亡しています。元亀年間には浅井・朝倉両氏と結び、甲賀から湖東平野に出撃しており、『信長公記』にも「佐々木承禎父子三人」と記されています。天正年間に甲斐武田勝頼の許に派遣され、甲斐で活動しています。信長の恵林寺焼き討ちの原因になる「佐々木次郎」は大原高盛です。甲斐武田氏滅亡後に徳川家康に仕えることになります。これが幕府旗本佐々木氏であり、同氏は本来「大原氏」といえます。

高盛(高定)以後は、長男次郎左衛門高賢(民部)は大坂に仕えて、次男大膳大夫高和が幕府旗本になりました。そのため幕府旗本佐々木氏は『寛政重修諸家譜』では「佐々木庶流」とされています。

高賢の長男兵庫助定治は義治の養子になり、大阪落城後に加賀前田家に仕えています。次男半左衛門高俊(幸綱)は奥羽に下って、仙台伊達家に仕えた者もいます。

高盛と同時代人に大原賢永がいて、一般的には高盛と同一人物と考えられていますが、花押の形状から別人物の可能性があり、系譜は不明といえます。

これが大原氏嫡流の系譜ですが、庶流は多いでしょう。ただし幕府旗本大原氏は、甲賀の伴姓大原氏の子孫であり、佐々木氏流大原氏ではありません。
右左衛門
2012年01月04日 01:49
こんにちは。いつもお世話になっております。今回は自家の先祖探しで、お尋ねしたいことがあります。
それは以前もお聞きしましたが、旧山東町(現米原市)の滝ヶ谷城居住の滝沢備中守についてです。
江戸期の地誌「淡海国木間攫」に「古、滝ヶ谷城に滝沢備中守という武士居住す。此の人万貫の地を領す」とあるのが唯一の出典です。
万貫と言えばかなりの所領、その割に他文書に名がありませんし、大原氏のお膝元で備中守とはどういうことか(大原氏の誰かが仔細有って滝沢を名乗ったのか、大原氏が名乗らなくなった時代に名乗ったのか、はたまた…)と思います。
人物像・時代背景等々何かご存知であれば、ご教示いただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
佐々木哲
2012年01月04日 16:43
滝沢備中守は上記資料以外には見られませんので、詳細は分かりません。

戦国期に備中守を名乗った例に、六角氏重臣の永田備中守がいるように、重要な意味を失っています。

戦国期の官途は、実質的なものが喜ばれ、近江国主であれは近江守を名乗り、伊賀に進攻すれば伊賀守を名乗ります。それ以外の官途名は、直接朝廷から給付されたものではなく、領主から給付されたものとお考えください。

備中守にこだわっていると、大原氏からどんどん遠ざかります。得策ではありません。

大原氏を調査するのであれば、むしろ大原金綱などを調べた方がいいでしょう。

また一般的には、大原高盛(高定)と大原賢永を同一人物としますが、私は疑問を感じています。

この大原賢永の子孫を名乗る伴信友は、伴氏を名乗ることから、甲賀衆大原氏の子孫と考えられます。

幕府旗本大原氏も、「資」の字を通字とすることから、甲賀衆大原氏と考えられます。

甲賀衆を調べるのも良いでしょう。
右左衛門
2012年01月04日 18:47
ご丁寧に回答頂きありがとうございます。
地域がら大原氏の、傍流の「金綱」を調べようと数年前から試みていますが、史料には乏しい(皆無)ではないでしょうか(当然ネットには載っていません)。
何か良い史料、切欠になるものはないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
佐々木哲
2012年01月04日 19:25
大原氏は専門ではないので、お答えするには相当の労力と時間を要します。そのため即答はできません。

またネットの情報は、同一情報源からの切り貼りが多いので、内容はどれも似ています。そのため、坂田郡志など地方史に当たると良いでしょう。

また大原氏の研究者では、太田浩司氏がいます。問い合わせてみたらどうでしょう。

ただし大原氏は断絶しているため、資料が少ないので期待しすぎないようにしてください。
舞鶴市役所職員
2013年09月27日 13:10
当舞鶴は長岡(細川)藤孝の居城があったところとして有名です。

そこで教えていただきたいのですが藤孝の真の養父とされる細川高久(室町幕府内談衆?)が大原氏出身なのに細川を名乗る経緯を知りたいです。和泉守護細川の養子というのは大大名となった熊本藩の作り話らしいですし、忠興が父は高久の養子と言っているらしいですね。

佐々木源氏として細川と称しただけなら藤孝も近江源氏ということにになりますよね?。歴史って面白いけど、恐いですね。
佐々木哲
2013年10月25日 11:53
学術雑誌『遥かなる中世』19号(2001年5)所収の設楽薫「足利義晴における内談衆の人的構成に関する考察」を参照してください。

天文年間(1532-55)に記された故実書「御対面次第」に、「御部屋衆之事、(中略)又佐々木大原息にて候つるを、細川淡路守名字をえて、喝食よりめしつかはる、後には淡路治部少輔と号候」と記されるように、もともと佐々木大原氏でした。武家故実雑書九「条々聞書」では、細川治部少輔に「寿文房と云御喝食」と注記されています。

政誠が加えられた御部屋衆とは、将軍が身近に置きたい人物を、家柄と関係なく引き上げて側近に任用したものです。さらに「入名字」といい、足利一門の名字を給付されると、殿中での席次や書札礼なども一門の扱いを受けました。

佐々木大原判官持綱が上様(日野富子)御供衆であったため、持綱の子も義政の目に留まったのでしょう。

さらに政誠の子高久は、十二代将軍足利義晴が新設した内談衆に加えられます。内談衆は、天文五年(1536)に設置された幕府の中枢機関で、将軍の政務決裁を支えました。近衛尚通の日記「後法成寺尚通公記」天文五年十月十八日条によれば、大館常興・晴光父子、朽木稙綱、細川高久、摂津元造、荒川氏隆、海老名高助、本郷光泰の八名です。

この内談衆細川高久の子が刑部少輔晴広であり、細川幽斎(藤孝)はこの佐々木大原流細川氏の養子になることで、将軍足利義輝・義昭に近侍したと考えられます。これが熊本藩主細川氏の家系です。
舞鶴市役所職員
2014年02月08日 16:54
御返信ありがとうございます。
大原政誠という人物が淡路守護細川の養子になって細川政誠になったのですね。よく解りました。
ありがとうございます。
政誠の養父ですが淡路守護ということは細川持親
でしょうか?細川成春でしょうか?御教えください
ませんでしょうか。
熊本藩主大原氏としたほうが血統的には良いのに、
細川氏を江戸時代も称し続けたことは残念です。
六角や京極の兄の家系なのだから大原も充分名門の
誇れる名字だと思います。

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