高島高信

佐々木高信(生没年未詳)佐々木信綱の次男。母川崎為重の娘。左衛門尉。父信綱から近江国高島郡田中郷を相続して、高島七頭の祖。嘉禎元年(1235)7月勢多橋の修理のとき、日吉社神人に負役を課したところ神人が拒否。負役に応じるよう強要したことから、延暦寺衆徒との闘争。地頭代多胡兵衛尉が山王社僧を殺害したため、延暦寺衆徒が強訴。高信は豊後に配流されました。
 高信の長男泰信は、佐々木四郎(信綱)の孫の四郎左衛門尉を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」の名で、『吾妻鏡』弘長3年(1263)正月条に登場します。また次男頼綱は弘安8年(1285)の霜月騒動で、安達泰盛追討の賞で出羽守を受領しました。この頼綱の子孫が朽木氏であり、以後朽木氏は出羽守を世襲官途にした。朽木文書には頼盛流平氏の文書が多く残されており、朽木氏が佐々木氏の有力庶子家であったばかりではなく、頼朝の助命を夫清盛に願った池禅尼の子孫で平氏嫡流の頼盛流平氏の名跡を継承していたことが分かります。こうして高島七頭(七佐々木氏)も有力御家人の仲間入りを果たしました。
 また高信の娘は2人あって、2人とも有力吏僚系御家人の二階堂氏に嫁いでいます。1人は出羽家の二階堂義賢に嫁ぎました。義賢は左衛門尉・民部少丞を経て叙爵され、引付衆に列するとともに、伊賀守に補任されて受領となっています。またもう1人の娘は和泉家の二階堂行員(大宰少弐)に嫁いでいます。行員の祖母(父行章の母)は佐々木信綱娘で、しかも行員の妹は六角頼綱に嫁いで頼明を生んでおり、和泉流二階堂氏は佐々木氏との間に重縁を結んでいたことが分かります。高島佐々木氏は庶流とはいえ、有力御家人との間に閨閥を築きました。
 泰信の長男八郎左衛門尉泰氏は左衛門尉に任官し、のちに従五位下越中守に補任されて受領して越中家の祖となり、以後、越中家は越中守を世襲官途としました。
 また次男行綱(佐々木四郎が高島惣領となり、六角宗信が供奉した弘安9年(1286)の春日行幸に、正員の右衛門少尉として供奉。行綱にとってまさに晴れ舞台でした。行綱の娘は京極宗綱の嫡子貞宗(能登三郎左衛門尉)に嫁ぎましたが、貞宗が嘉元の乱で討死してしまった。その結果、京極氏の家督は宗綱の娘婿宗氏(佐渡大夫判官)とその子息高氏(佐渡大夫判官・導誉)によって受け継がれました。行綱のもう1人の娘は、越中四郎範綱に嫁いでいます。行綱の子行信で高島家は断絶しますので、高島惣領の地位は越中家に移りました。越中家が四郎とも八郎とも名乗るのは、高島氏惣領の四郎と、越中家惣領の四郎のどちらも名乗れたからです。
 このように有力在京御家人となった高島七頭は、室町時代にも幕府奉公衆になっていきます。

この記事へのコメント

岩永 正人
2005年05月07日 22:24
これにより、朽木氏が力があるのがよくわかります。
平顕盛の名跡を継いだとありますが、娘婿にでもなったのでしょうか?
佐々木哲
2005年05月08日 02:43
縁戚であったということでしょう。
堀尾岳行
2006年12月04日 22:34
佐々木高信の嫡流が佐々木越中氏であり、越中氏庶流に高嶋氏がいるが高嶋氏は決して嫡流家の受領名である越中守を名乗ることはないとの見解があります。また、庶流の高嶋氏は永享3年を初見に、永正4年まで窺え、室町幕府の奉公衆二番衆に編成された在京庶子である。とされていますが越中氏と高嶋氏の関係は如何なものでしょうか。
佐々木哲
2006年12月05日 13:14
高島氏の嫡流が、佐々木越中家ということです。佐々木一族はそれぞれの家名を名乗りながらも、佐々木氏を名字としています。高島氏なら佐々木高島氏と呼ばれるゆえんです。

同じく高信流の朽木氏も、佐々木出羽家であり、佐々木嫡流の六角氏も佐々木備中家であり、京極氏も佐々木能登家・佐々木佐渡家です。

それぞれの家名を名乗った後も、佐々木一族は佐々木を名字としますので、高島氏の嫡流が佐々木越中守と呼ばれて何の不思議もありません。
湖西湖北湖東
2008年01月23日 14:45
基本的な質問なのですが、六角氏と京極氏が分裂した時に、高島郡は京極氏の取り分になったと記憶しているのですが、鎌倉時代から室町時代末まで高島一族は京極氏の支配下にあったのでしょうか?。
東軍西軍
2008年01月26日 11:13
高島流の本家は高島氏だと思うのですが、朽木氏が大名として栄えたのに比べ名前を聞きません。
戦国末は高島郡全域を朽木氏が平定してしまったのでしょうか?。
佐々木哲
2008年01月29日 04:15
高島七頭は、室町将軍奉公衆(直臣)として、六角氏からも京極氏からも自立した存在でした。戦国時代には六角軍に従軍することがありましたが、「殿」と敬称で呼ばれていました。六角氏譜代の被官とは区別されています。織田信長によって奉じられた足利義昭の奉公衆としても高島七頭は活躍しています。ただ近世大名として存続したのが、朽木氏ということです。

朽木氏については池流平氏を継承したこともあり、他国にも所領を持ち、高島流の中でも有力な家であったことは、間違いありません。

※こちらではIPアドレスが分かりますので、同一の方が多くのニックネームを利用してコメントを書き込んでいらっしゃることが分かりますので、今後はニックネームを統一して、質問も絞り込んでくださいますよう願います。
東軍西軍
2008年01月31日 11:22
申し訳ございません。
会社の共有のパソコンより質問させていただいております。弟・父・伯父等それぞれが質問してしまったようです。みな歴史ずきで御ざいまして・・・。ただいま親族一同で先祖の佐々木氏について調べており、先生の著作やブログは非常に参考になります。ありがとうございます。
佐々木哲
2008年01月31日 11:35
事情は了解いたしました。

それで、同じIPアドレスにもかかわらず、イタズラと思えるようなチグハグな筆問があったのですね。

簡単な質問でしたら、コメントでも対応いたしますが、質問で調査を必要とするものは、あらためてメールで申し込んでいただきたく存じます。わたしも高学歴ワーキング・プアな研究者のひとりで、貧乏暇なし状態ですので(笑)。
東軍西軍
2008年08月23日 16:51
江戸時代の高島氏の本流はどうしていたのでしょうか?。すでに滅んでしまっていたのでしょうか?。
徳川の旗本や大名の家臣として生き残っていたのなら、どこの大名家か教えていただきたいです。
佐々木哲
2009年02月27日 23:41
高島流の多くは蟄居したと思われます。ただし、近世に公家の万里小路輔房の孫持房が高島家を興しました。本流が断絶していたため、家名を再興したものかもしれません。
東軍西軍
2009年03月16日 23:59
高島越中守の子息が近江守護になったことがあるそうですが、高島氏は近江守護になるほどの勢力があったのですか?
京極氏などからは文句は出なかったのですか?
高島氏は、そんなに凄い家だったのでっしょうか
佐々木哲
2009年03月17日 11:38
高島越中守(頼高)の子息六角八郎のことですね。応仁・文明の乱、長享・延徳の乱(六角氏征伐)という六角高頼の幕府からの自立の時期のことです。近江守護をめぐり六角高頼と争っていた六角四郎(政堯)の猶子として、近江守護に補任されたものです。しかし力はなく、まもなく佐々木小三郎(山内就綱)に交替されていますが、就綱も高頼に敗れ、高頼が守護に復帰します。
東軍西軍
2009年05月07日 18:07
ありがとうございます
そうですか六角家の猶子としての就任ですか。
八郎さんにはイミナは無かったのですか?
あれば御教え願いたいです。
佐々木哲
2009年05月08日 12:50
「八郎」と仮名を名乗っているのですから、元服して実名を持っているはずですが、資料が限られており不明です。歴史では分からないことが多いと思ってください。
東軍西軍
2013年03月13日 10:43
丹波 山家藩の谷氏も佐々木氏の高島高信の末裔みたいですが、どういう系譜の繫がりなのでしょうか?。

高島氏一族の何家からの別れか御教えください。

宜しく御願い申し上げます。
佐々木哲
2013年03月13日 11:23
佐々木系図から谷衛好に下ることはできません。谷系図では谷氏の祖重尚は高島高信の子とされていますが、佐々木系図では確認できません。寛政重修諸家譜などで谷氏の系図を探し、谷衛好から上がっていくといいでしょう。

ただし織豊系大名の多くは、本人以前の系譜は不明であることが多く、作為や錯誤が多いのが現実です。

これ以上、詳しい内容は調査を必要としますので、メールにて調査依頼をしてください。研究支援と実費が必要となりますが、レポート形式で報告します。

この記事へのトラックバック