中務大輔高盛
大原高盛(一五四七-一六二〇)義賢の次男。母は土岐頼芸妹。大原高保(氏綱弟)の養子。次郎左衛門尉・中務大輔。本名は高定。『近江蒲生郡志』では「義定」とするが、「義定」と自署する文書はない(『龍太夫文書』ほか)。佐々木六角氏で「義」の字を使用するのは、将軍から給付されたときであり、高盛が兄義治から家督を継承したように見せるため、「義定」という名乗りが創作された可能性が高い。高盛の孫で江戸幕府旗本の源兵衛高重が「義定」という名乗りを創作したと考えられる。実際、宝永五年(一七〇八)に、兄義治の子孫である加賀藩士佐々木定賢が、旗本佐々木氏を糾弾しており(「新定佐々木氏系譜序例」系図綜覧所収)、『寛政重修諸家譜』では高盛(同書では「高定」)を佐々木庶流と記している。では史実を見ていこう。
永禄六年(一五六三)兄義治が宿老後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺して(観音寺騒動)、宿老衆と対立すると、『近江蒲生郡志』は高盛が兄から家督を移譲されたと記すものの、この騒動後も兄義治は本願寺と交流があり(『顕如上人書状案』)、官位も右衛門尉(三等官)から右衛門督(長官)に昇進している。資料に基づく限り高盛が家督を継承した形跡はない。
永禄十一年(一五六八)織田信長の上洛戦では、父承禎・兄義治とともに箕作城に籠城し、敗れて近江甲賀郡に逃走した。元亀元年(一五七〇)に始まる元亀騒乱では、父承禎・兄義治とともに信長包囲網を築くのに奔走し、『信長公記』では「佐々木承禎父子三人」と記されている。しかし『言継卿記』では「六角入道・右衛門督」と承禎・義治父子のみ記し、高盛は家督の扱いではない。
高盛単独の行動を見ることのできる資料は、天正三年(一五七五)五月四日付武田玄蕃頭(穴山信君)宛承佐々木禎書状(東京都本堂平四郎氏所蔵文書)である。このとき高盛(中務大輔)は、落合八郎左衛門尉とともに甲斐武田勝頼の許に派遣されている。
高盛は、甲斐武田家滞在中に武田勝頼の養女を娶ったという系譜伝承がある。「佐々木系譜」(『系図綜覧』所収)で、高盛の子息高和の記事に、准母武田勝頼養女と記されているのである。同系図については、高盛の実名を「義定」とし、高盛が観音寺騒動(後藤騒動)で兄義治から家督を継承したと伝えるとともに、高盛の孫高重を「義忠」と伝えているように作為が多いため信用できるものではない。しかも高盛の正妻が武田勝頼の養女であったことを裏付ける資料は、管見の限り見当たらない。ただし六角氏と甲斐武田氏の関係が深く、なにかしらの事実を反映している可能性はある。
天正十年(一五八二)武田勝頼滅亡時に、佐々木次郎が登場する。宮内卿法印(松井友閑)宛織田信長黒印状(『織田信長文書の研究』:『武家事紀』古文書録)によれば、佐々木承禎の子次郎は若狭武田五郎・土岐頼芸・岩倉織田・犬山織田らとともに民家に潜伏したものの、土岐頼芸・岩倉織田・犬山織田はそれぞれ相計らい、佐々木次郎・若狭武田五郎は切腹させたとある。
しかし恵林寺が佐々木次郎を匿っていたとして焼き打ちされており(『信長公記』)、実際には高盛は逃走している。そののち高盛が資料に登場するのは慶長五年(一六〇〇)で、『鹿苑日録』慶長五年五月八日条に佐々木次郎作が鹿苑院を訪ねたという記事がある。次に登場するのが、慶長十一年(一六〇六)正月二十七日条の豊臣秀頼に歳首を賀した記事で、このとき江家中将(義康)と初めて対面し、今後の入魂のためにと酒杯を交わしている。
それまで高盛(中務)は、江戸幕府旗本となった次男高和(大膳)とともに江戸にいたものと考えられる。武田氏滅亡後、徳川家康に仕えていたのだろう。以後、高盛は『鹿苑日録』に頻出するようになり、元和六年(一六二〇)八月十四日条には高盛没の記事がある。鹿苑院主が弔問し、子息高賢(民部)の使いが礼を述べている。この記事で、豊臣秀頼に仕えた長男高賢と暮らしていたことが分かる。旗本の地位を次男高和に譲り、晩年には長男高賢と暮らしたのだろう。法名は承漢。
ところで、宝永五年(一七〇八)加賀藩士佐々木定賢が幕府旗本佐々木高重を訴えるという事件があった。実は高盛の長男高賢は伯父義治の娘婿となり、長男定治(兵庫)が義治の養子になった。定治は大坂落城後に加賀藩に仕官し、その後も定之・定賢と続いていた。そして定賢が、幕府旗本になっていた高盛の長男高和の子高重を訴えたのである。
定賢の主張は、幕府旗本高重は自らを佐々木嫡流とする系図を幕府に提出したが、義治の直系である自分こそが佐々木嫡流というものである。さらに氏綱の子孫も否定して、沢田源内批判を展開した(「佐々木氏偽宗弁」系図綜覧所収)。実は『重編応仁記』『大系図評判遮中抄』は、この定賢の一方的な主張をもとに書かれたものである。しかも定賢を高重の子と勘違いしたため、定賢が高重を訴えたのが事実であるにもかかわらず、高重・定賢が沢田源内を訴えたと誤解してしまった。しかも両書が旗本高重を「義忠」とするのも正しくない。誤解だらけだ。これが現在に至る沢田源内論の源流である。小林正甫・建部賢明は自分たちできちんと実証したわけではなく、一方の言い分を鵜呑みにしていただけであった。しかも誤解に誤解を重ねていた。それにもかかわらず彼らが高名な学者だったため、彼らの著作の内容は今日まで疑われなかった。これが沢田源内批判の源流である。これでは、けっして実証歴史学とはいえない。
永禄六年(一五六三)兄義治が宿老後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺して(観音寺騒動)、宿老衆と対立すると、『近江蒲生郡志』は高盛が兄から家督を移譲されたと記すものの、この騒動後も兄義治は本願寺と交流があり(『顕如上人書状案』)、官位も右衛門尉(三等官)から右衛門督(長官)に昇進している。資料に基づく限り高盛が家督を継承した形跡はない。
永禄十一年(一五六八)織田信長の上洛戦では、父承禎・兄義治とともに箕作城に籠城し、敗れて近江甲賀郡に逃走した。元亀元年(一五七〇)に始まる元亀騒乱では、父承禎・兄義治とともに信長包囲網を築くのに奔走し、『信長公記』では「佐々木承禎父子三人」と記されている。しかし『言継卿記』では「六角入道・右衛門督」と承禎・義治父子のみ記し、高盛は家督の扱いではない。
高盛単独の行動を見ることのできる資料は、天正三年(一五七五)五月四日付武田玄蕃頭(穴山信君)宛承佐々木禎書状(東京都本堂平四郎氏所蔵文書)である。このとき高盛(中務大輔)は、落合八郎左衛門尉とともに甲斐武田勝頼の許に派遣されている。
高盛は、甲斐武田家滞在中に武田勝頼の養女を娶ったという系譜伝承がある。「佐々木系譜」(『系図綜覧』所収)で、高盛の子息高和の記事に、准母武田勝頼養女と記されているのである。同系図については、高盛の実名を「義定」とし、高盛が観音寺騒動(後藤騒動)で兄義治から家督を継承したと伝えるとともに、高盛の孫高重を「義忠」と伝えているように作為が多いため信用できるものではない。しかも高盛の正妻が武田勝頼の養女であったことを裏付ける資料は、管見の限り見当たらない。ただし六角氏と甲斐武田氏の関係が深く、なにかしらの事実を反映している可能性はある。
天正十年(一五八二)武田勝頼滅亡時に、佐々木次郎が登場する。宮内卿法印(松井友閑)宛織田信長黒印状(『織田信長文書の研究』:『武家事紀』古文書録)によれば、佐々木承禎の子次郎は若狭武田五郎・土岐頼芸・岩倉織田・犬山織田らとともに民家に潜伏したものの、土岐頼芸・岩倉織田・犬山織田はそれぞれ相計らい、佐々木次郎・若狭武田五郎は切腹させたとある。
しかし恵林寺が佐々木次郎を匿っていたとして焼き打ちされており(『信長公記』)、実際には高盛は逃走している。そののち高盛が資料に登場するのは慶長五年(一六〇〇)で、『鹿苑日録』慶長五年五月八日条に佐々木次郎作が鹿苑院を訪ねたという記事がある。次に登場するのが、慶長十一年(一六〇六)正月二十七日条の豊臣秀頼に歳首を賀した記事で、このとき江家中将(義康)と初めて対面し、今後の入魂のためにと酒杯を交わしている。
それまで高盛(中務)は、江戸幕府旗本となった次男高和(大膳)とともに江戸にいたものと考えられる。武田氏滅亡後、徳川家康に仕えていたのだろう。以後、高盛は『鹿苑日録』に頻出するようになり、元和六年(一六二〇)八月十四日条には高盛没の記事がある。鹿苑院主が弔問し、子息高賢(民部)の使いが礼を述べている。この記事で、豊臣秀頼に仕えた長男高賢と暮らしていたことが分かる。旗本の地位を次男高和に譲り、晩年には長男高賢と暮らしたのだろう。法名は承漢。
ところで、宝永五年(一七〇八)加賀藩士佐々木定賢が幕府旗本佐々木高重を訴えるという事件があった。実は高盛の長男高賢は伯父義治の娘婿となり、長男定治(兵庫)が義治の養子になった。定治は大坂落城後に加賀藩に仕官し、その後も定之・定賢と続いていた。そして定賢が、幕府旗本になっていた高盛の長男高和の子高重を訴えたのである。
定賢の主張は、幕府旗本高重は自らを佐々木嫡流とする系図を幕府に提出したが、義治の直系である自分こそが佐々木嫡流というものである。さらに氏綱の子孫も否定して、沢田源内批判を展開した(「佐々木氏偽宗弁」系図綜覧所収)。実は『重編応仁記』『大系図評判遮中抄』は、この定賢の一方的な主張をもとに書かれたものである。しかも定賢を高重の子と勘違いしたため、定賢が高重を訴えたのが事実であるにもかかわらず、高重・定賢が沢田源内を訴えたと誤解してしまった。しかも両書が旗本高重を「義忠」とするのも正しくない。誤解だらけだ。これが現在に至る沢田源内論の源流である。小林正甫・建部賢明は自分たちできちんと実証したわけではなく、一方の言い分を鵜呑みにしていただけであった。しかも誤解に誤解を重ねていた。それにもかかわらず彼らが高名な学者だったため、彼らの著作の内容は今日まで疑われなかった。これが沢田源内批判の源流である。これでは、けっして実証歴史学とはいえない。
この記事へのコメント
また徳川治宝は三井氏と関係ありますが、治宝生母と三井氏は関係あるのでしょうか?
水戸頼房室も紀伊治宝母も、わたしの手元に資料はなく、希望に沿うような答えをすることはできません。
また、ちなみに幕府高家の六角家は、藤原氏日野流ですので、まったくの別家です。
再度お尋ねしますが、寛文年間の島津家の資料「諸家大概」の佐々木源氏田中氏の項で、「田中伊豆事別て被召仕 慶長の頃本多佐渡守より被遺候状なと其外御地行被下候証書等所持申候 就中御旗本佐々木中務殿より本名の佐々木名乗可申之由被仰遺候証書在之候 当(田中)半左衛門代にも右の子孫佐々木源兵衛之申入候証書取置候」とあり、ここに出てくる佐々木中務と佐々木源兵衛は先生の著書にでる大原高盛とその孫で加賀藩士に訴えられた佐々木高重のことでしょうか?
ついでにお聞きしますが、この田中氏が得た、佐々木氏への改姓許可書の控えは佐々木源兵衛家側には残っているのでしょうか。