左京大夫義賢(入道承禎)
六角義賢(一五二一-一五九八)定頼の長男。四郎。天文八年(一五三九)閏六月能登畠山義総の娘と祝言(『大館日記』『鹿苑日録』)、同年十月には従五位下左京大夫に補任された(『歴名土代』)。天文十一年(一五四二)には従兄弟義政(六角氏綱の次男)とともに伊勢出兵し、伊勢北畠氏を破った。これによって六角氏は北伊勢員弁・朝明両郡を獲得している。しかし義賢が単独で行動をとるのは、もうすこし後のことである。
天文十七年(一五四八)には細川晴元政権の内部で三好長慶と三好政長が対立すると、晴元は政長を支持して長慶と対立した。義賢は姉婿である管領細川晴元を支持し、天文十八年(一五四九)摂津江口に籠城する三好政長の救援に向かったものの、間に合わなかった。三好政長が戦死したことで、晴元は足利義晴・義輝父子を奉じて近江に逃亡している(『厳助往年記』『万松院殿穴太記』)。
天文十九年(一五五〇)五月に描かれた土佐光茂の『犬追物図』では、六角義秀の後見として義賢が描かれている。これまでに義賢が家督義秀の後見になったのだろう。病床に就いた父定頼に替わって、家督義秀の陣代になったのである。
しかし同年五月前将軍足利義晴は近江穴太で没したが(『万松院殿穴太記』)、七月には将軍足利義輝・細川晴元が北白川に出兵した(『厳助往年記』)。このとき日本で初めて実戦で鉄砲が使用されている(『言継卿記』天文十九年七月十四日条)。実は将軍義輝に鉄砲の製造を命じられた六角義秀が、中国人長子孔を近江に招いて国友村で鉄砲を製造させている(『白陽館年譜』『国友鉄砲由緒書』)。六角氏の保護を得た国友村は、こののち和泉堺・紀伊根来とともに鉄砲の三大生産地となっている。
その一方で六角氏は三好長慶と和談をすすめていたが、同年十月細川晴元が強硬な態度をくずさなかったため交渉は不調に終わり、十一月戦闘があって将軍義輝と晴元は再び近江に逃亡することになった(『言継卿記』)。
天文二十一年(一五五二)正月に父定頼が没したものの、義賢は三好長慶との交渉を続け、将軍義輝を帰京させるのに成功した。この和談で細川氏綱が細川氏の家督となり、晴元は若狭に出奔している(『言継卿記』『厳助往年記』)。これで三好長慶は細川氏家臣から将軍直臣になり、将軍御供衆にも列した。
しかし細川晴元も反撃し、天文二十二年(一五五三)将軍足利義輝が晴元を赦免したため、再び三好長慶と対立することになった。義輝・晴元はまたも敗れて近江朽木に逃亡している(『言継卿記』『厳助往年記』)。近江朽木は、佐々木高島流で幕府奉公衆の朽木氏の本拠であった。
このあいだに六角氏は周辺諸大名との抗争にも巻き込まれている。斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護し、北伊勢では北畠氏との抗争が再燃した。このようななか弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化している。
永禄元年(一五五八)義賢は足利義輝と三好長慶の和談を斡旋して、義輝の帰京を実現した。和平を実現させた義賢は、家督義秀が成長したこともあり隠居して抜関斎承禎と名乗っている。このように三十八歳という早い時期に出家したため、一般的には法名承禎の方が通りがいい。
永禄三年(一五六〇)浅井長政が自立を目指したため、承禎は北近江に侵攻した。しかし野良田合戦では敗北している。そこで宿老衆は、承禎の長男義治(当時は四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめて同盟を結んだ。承禎はこの縁談に反対したが(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書:七月二十一日付宿老宛六角承禎書状)、この同盟によって、永禄四年(一五六〇)浅井長政が美濃に侵攻した間隙を突いて佐和山城を攻略し、浅井氏を屈服させることに成功している。このようにして後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政とともに三好包囲網を築き、京都奪還を目指した。
永禄五年(一五六二)三月には畠山氏が長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎・長男義治・次男高盛を大将にして京都に出勢して(『厳助往年記』)、京都で徳政を実施した(『蜷川文書』:佐々木六角氏奉行連署徳政掟書案)。しかし承禎の動きは鈍く、三好氏に止めを刺すことはできなかった。
永禄六年(一五六三)子息義治(右衛門尉)が宿老後藤氏を謀殺したことで、承禎・義治父子は家臣団と対立した。これが観音寺騒動(後藤騒動)と呼ばれる事件である。さらに永禄七年(一五六四)三好長慶が没すると、松永久秀は暴走し、将軍義輝を支持していた六角氏が身動きできない間隙を突いて、永禄八年(一五六五)三好義継・松永久秀が将軍義輝を謀殺した(『言継卿記』)。
承禎は義輝の弟義昭(覚慶)が近江に逃れてくると矢島御所に保護し、丹波・丹後平定に尽力した(白井文書:正月二十二日付・二月二十日付白井民部丞宛六角承禎書状)。しかし子息義治が三好氏に通じため、義昭は近江を脱出して若狭武田、越前朝倉を頼っている。永禄十年(一五六七)家臣団は六角氏式目を制定し、承禎・義治父子に承認させた。これは承禎父子の行動を規制して体制の立て直しを図ったものだが、分裂を防ぐことはできず、家督義秀を立てた家臣団と承禎父子の対立は決定的になった。
永禄十一年(一五六八)九月足利義昭を奉じた織田信長は、上洛戦に先立って、承禎と会談して「天下所司代申付けらるべし」と提案している(『信長公記』)。当時すでに侍所頭人に任ずべき四職(山名・赤松・一色・京極)に実力は無く、替わって承禎を侍所頭人に任ずるというものだ。しかしすでに三好三人衆と結んでいた承禎は、この提案を一蹴した。
同年九月十日信長が近江中郡に出張すると、三好三人衆のひとり石成友通も、承禎父子支援のため近江坂本まで出張した(『言継卿記』)。十一日に近江愛智川で合戦があり、信長は敗れて帰国し、それを見た石成友通も帰京している(『言継卿記』)。しかしそれを見計らって信長は翌十二日に再び近江に出張し、六角氏の前線和田山城・本城観音寺城との正面衝突を避け、承禎父子の箕作城を直接攻略した。激戦の末、敗れた承禎父子は近江甲賀に逃走している(『信長公記』『江源武鑑』)。家臣団に支持されていた家督義秀は観音寺城に足利義昭を迎え、信長とともに入京した(『お湯殿の上の日記』)。このとき義秀は病床にあったのだろう、義秀本人が上洛することはできなかったようだ。義秀の様子を記す資料を見つけることができない。
まもなく義秀が没すると(滋賀県和田文書:年未詳五月十一日付浅井長政宛織田信長書状)、承禎父子は近江に帰国して浅井長政と語らい、元亀元年(一五七〇)四月挙兵した(『言継卿記』)。五月織田信長は近江勢多の山岡城で承禎父子と和平交渉を進めるが決裂している(『言継卿記』)。承禎父子は二万の大軍で近江甲賀郡石部城まで出張し、甲賀衆の杉谷善住坊が美濃に帰国する信長を狙撃した。
六月姉川の戦いで、六角・浅井・朝倉軍が織田・徳川連合に勝利した。信長は自軍の勝利と宣伝したが、九月には浅井・朝倉軍が近江高島郡の織田方の宇佐山城を攻略し、信長の弟織田信治と森可成を討っている。さらに承禎は逢坂山を越えて山科まで進駐した。信長は正親町天皇による調停を引き出すことに成功して、十一月承禎は信長と和談し、十二月には朝倉義景も信長と和談している。
承禎・義治父子はその後も甲賀郡石部城を拠点に信長包囲網を構築し、義治は愛智郡鯰江城に進出した。さらに近江一向一揆も六角氏と結び蜂起している(誓願寺文書:九月十日付十ヶ寺惣衆宛下間正秀書状)。しかし天正元年(一五七三)七月足利義昭が京都を追放され、八月朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡すると、九月義治は信長と和睦して鯰江城を退去した(『信長公記』『江源武鑑』)。
その後も承禎父子は甲賀郡石部を拠点にして活動し、大本所義堯と連絡を取るとともに、甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現した(木村文書所収『六角氏書状巻物』・黒川文書)。このようにして再び信長包囲網を築くことに成功している。さらに甲斐武田氏との連携を強めるため、次男高盛(中務大輔)を甲斐武田氏に派遣した(本堂平四郎氏文書:五月四日付穴山信君宛六角承禎書状)。
天正四年(一五七六)伊勢北畠具教・具房父子が滅亡すると、承禎は北畠具親(具教の弟)や坂内亀寿(具教の外孫)とも連絡をとり、北畠氏とも同盟関係を築き(坂内文書:十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状など)、越前朝倉義景の遺児宮増丸らとも連絡を取った(吉川文書:十二月七日付武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状)。しかし天正六年(一五七八)上杉謙信が没したことで、信長包囲網には穴が開き、天正八年(一五八〇)には本願寺が正親町天皇の調停で信長と和談している。天正十年(一五八二)には武田勝頼も滅亡した。本能寺の変での承禎の行動は不明である。
その後の承禎父子の行動を資料で追跡するはできない。承禎肉筆の自画像(石川県裏本友之氏所蔵)が能登の旧家に伝わることから、一時期北陸にいたことが推測できるだけである。しかし晩年は宇治に閑居し、慶長三年(一五九八)三月十四日に没している。宇治一休寺に佐々木六角氏の位牌がある。法号は梅心院殿四品前左京兆祥嶽承禎大居士。
天文十七年(一五四八)には細川晴元政権の内部で三好長慶と三好政長が対立すると、晴元は政長を支持して長慶と対立した。義賢は姉婿である管領細川晴元を支持し、天文十八年(一五四九)摂津江口に籠城する三好政長の救援に向かったものの、間に合わなかった。三好政長が戦死したことで、晴元は足利義晴・義輝父子を奉じて近江に逃亡している(『厳助往年記』『万松院殿穴太記』)。
天文十九年(一五五〇)五月に描かれた土佐光茂の『犬追物図』では、六角義秀の後見として義賢が描かれている。これまでに義賢が家督義秀の後見になったのだろう。病床に就いた父定頼に替わって、家督義秀の陣代になったのである。
しかし同年五月前将軍足利義晴は近江穴太で没したが(『万松院殿穴太記』)、七月には将軍足利義輝・細川晴元が北白川に出兵した(『厳助往年記』)。このとき日本で初めて実戦で鉄砲が使用されている(『言継卿記』天文十九年七月十四日条)。実は将軍義輝に鉄砲の製造を命じられた六角義秀が、中国人長子孔を近江に招いて国友村で鉄砲を製造させている(『白陽館年譜』『国友鉄砲由緒書』)。六角氏の保護を得た国友村は、こののち和泉堺・紀伊根来とともに鉄砲の三大生産地となっている。
その一方で六角氏は三好長慶と和談をすすめていたが、同年十月細川晴元が強硬な態度をくずさなかったため交渉は不調に終わり、十一月戦闘があって将軍義輝と晴元は再び近江に逃亡することになった(『言継卿記』)。
天文二十一年(一五五二)正月に父定頼が没したものの、義賢は三好長慶との交渉を続け、将軍義輝を帰京させるのに成功した。この和談で細川氏綱が細川氏の家督となり、晴元は若狭に出奔している(『言継卿記』『厳助往年記』)。これで三好長慶は細川氏家臣から将軍直臣になり、将軍御供衆にも列した。
しかし細川晴元も反撃し、天文二十二年(一五五三)将軍足利義輝が晴元を赦免したため、再び三好長慶と対立することになった。義輝・晴元はまたも敗れて近江朽木に逃亡している(『言継卿記』『厳助往年記』)。近江朽木は、佐々木高島流で幕府奉公衆の朽木氏の本拠であった。
このあいだに六角氏は周辺諸大名との抗争にも巻き込まれている。斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護し、北伊勢では北畠氏との抗争が再燃した。このようななか弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化している。
永禄元年(一五五八)義賢は足利義輝と三好長慶の和談を斡旋して、義輝の帰京を実現した。和平を実現させた義賢は、家督義秀が成長したこともあり隠居して抜関斎承禎と名乗っている。このように三十八歳という早い時期に出家したため、一般的には法名承禎の方が通りがいい。
永禄三年(一五六〇)浅井長政が自立を目指したため、承禎は北近江に侵攻した。しかし野良田合戦では敗北している。そこで宿老衆は、承禎の長男義治(当時は四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめて同盟を結んだ。承禎はこの縁談に反対したが(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書:七月二十一日付宿老宛六角承禎書状)、この同盟によって、永禄四年(一五六〇)浅井長政が美濃に侵攻した間隙を突いて佐和山城を攻略し、浅井氏を屈服させることに成功している。このようにして後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政とともに三好包囲網を築き、京都奪還を目指した。
永禄五年(一五六二)三月には畠山氏が長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎・長男義治・次男高盛を大将にして京都に出勢して(『厳助往年記』)、京都で徳政を実施した(『蜷川文書』:佐々木六角氏奉行連署徳政掟書案)。しかし承禎の動きは鈍く、三好氏に止めを刺すことはできなかった。
永禄六年(一五六三)子息義治(右衛門尉)が宿老後藤氏を謀殺したことで、承禎・義治父子は家臣団と対立した。これが観音寺騒動(後藤騒動)と呼ばれる事件である。さらに永禄七年(一五六四)三好長慶が没すると、松永久秀は暴走し、将軍義輝を支持していた六角氏が身動きできない間隙を突いて、永禄八年(一五六五)三好義継・松永久秀が将軍義輝を謀殺した(『言継卿記』)。
承禎は義輝の弟義昭(覚慶)が近江に逃れてくると矢島御所に保護し、丹波・丹後平定に尽力した(白井文書:正月二十二日付・二月二十日付白井民部丞宛六角承禎書状)。しかし子息義治が三好氏に通じため、義昭は近江を脱出して若狭武田、越前朝倉を頼っている。永禄十年(一五六七)家臣団は六角氏式目を制定し、承禎・義治父子に承認させた。これは承禎父子の行動を規制して体制の立て直しを図ったものだが、分裂を防ぐことはできず、家督義秀を立てた家臣団と承禎父子の対立は決定的になった。
永禄十一年(一五六八)九月足利義昭を奉じた織田信長は、上洛戦に先立って、承禎と会談して「天下所司代申付けらるべし」と提案している(『信長公記』)。当時すでに侍所頭人に任ずべき四職(山名・赤松・一色・京極)に実力は無く、替わって承禎を侍所頭人に任ずるというものだ。しかしすでに三好三人衆と結んでいた承禎は、この提案を一蹴した。
同年九月十日信長が近江中郡に出張すると、三好三人衆のひとり石成友通も、承禎父子支援のため近江坂本まで出張した(『言継卿記』)。十一日に近江愛智川で合戦があり、信長は敗れて帰国し、それを見た石成友通も帰京している(『言継卿記』)。しかしそれを見計らって信長は翌十二日に再び近江に出張し、六角氏の前線和田山城・本城観音寺城との正面衝突を避け、承禎父子の箕作城を直接攻略した。激戦の末、敗れた承禎父子は近江甲賀に逃走している(『信長公記』『江源武鑑』)。家臣団に支持されていた家督義秀は観音寺城に足利義昭を迎え、信長とともに入京した(『お湯殿の上の日記』)。このとき義秀は病床にあったのだろう、義秀本人が上洛することはできなかったようだ。義秀の様子を記す資料を見つけることができない。
まもなく義秀が没すると(滋賀県和田文書:年未詳五月十一日付浅井長政宛織田信長書状)、承禎父子は近江に帰国して浅井長政と語らい、元亀元年(一五七〇)四月挙兵した(『言継卿記』)。五月織田信長は近江勢多の山岡城で承禎父子と和平交渉を進めるが決裂している(『言継卿記』)。承禎父子は二万の大軍で近江甲賀郡石部城まで出張し、甲賀衆の杉谷善住坊が美濃に帰国する信長を狙撃した。
六月姉川の戦いで、六角・浅井・朝倉軍が織田・徳川連合に勝利した。信長は自軍の勝利と宣伝したが、九月には浅井・朝倉軍が近江高島郡の織田方の宇佐山城を攻略し、信長の弟織田信治と森可成を討っている。さらに承禎は逢坂山を越えて山科まで進駐した。信長は正親町天皇による調停を引き出すことに成功して、十一月承禎は信長と和談し、十二月には朝倉義景も信長と和談している。
承禎・義治父子はその後も甲賀郡石部城を拠点に信長包囲網を構築し、義治は愛智郡鯰江城に進出した。さらに近江一向一揆も六角氏と結び蜂起している(誓願寺文書:九月十日付十ヶ寺惣衆宛下間正秀書状)。しかし天正元年(一五七三)七月足利義昭が京都を追放され、八月朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡すると、九月義治は信長と和睦して鯰江城を退去した(『信長公記』『江源武鑑』)。
その後も承禎父子は甲賀郡石部を拠点にして活動し、大本所義堯と連絡を取るとともに、甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現した(木村文書所収『六角氏書状巻物』・黒川文書)。このようにして再び信長包囲網を築くことに成功している。さらに甲斐武田氏との連携を強めるため、次男高盛(中務大輔)を甲斐武田氏に派遣した(本堂平四郎氏文書:五月四日付穴山信君宛六角承禎書状)。
天正四年(一五七六)伊勢北畠具教・具房父子が滅亡すると、承禎は北畠具親(具教の弟)や坂内亀寿(具教の外孫)とも連絡をとり、北畠氏とも同盟関係を築き(坂内文書:十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状など)、越前朝倉義景の遺児宮増丸らとも連絡を取った(吉川文書:十二月七日付武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状)。しかし天正六年(一五七八)上杉謙信が没したことで、信長包囲網には穴が開き、天正八年(一五八〇)には本願寺が正親町天皇の調停で信長と和談している。天正十年(一五八二)には武田勝頼も滅亡した。本能寺の変での承禎の行動は不明である。
その後の承禎父子の行動を資料で追跡するはできない。承禎肉筆の自画像(石川県裏本友之氏所蔵)が能登の旧家に伝わることから、一時期北陸にいたことが推測できるだけである。しかし晩年は宇治に閑居し、慶長三年(一五九八)三月十四日に没している。宇治一休寺に佐々木六角氏の位牌がある。法号は梅心院殿四品前左京兆祥嶽承禎大居士。
この記事へのコメント
佐々木さんの佐々木六角の系譜を永源寺町の図書館にて読みました。六角氏は信長の野望にしか出てこないので興味深かったです。
「先人の常識を疑え。歴史学は必ず主観が入る。」の言葉は近現代史にも言えますね。
マニアックですが僕にはど真ん中でした。
信玄、頼朝画像も今は偽と言われていますよね。歴史新発見で面白かったです。
次の新作楽しみです。
「常識を疑え…」は、私のテーマですので、
気に入って頂き大変うれしく思います。
いま現在も執筆中で、
『偽系図と史実』
『反信長』
『東大力をつける』
『弱者の進化論』
などが近刊予定です。
また読んでいただければ幸いです。
また『六角佐々木氏系図略』によれば、浅井久政は六角氏綱の庶子と記されています。興味深い記事です。