朝倉義景

朝倉義景(一五三三-一五七三)六角氏綱の孫。義久あるいは義政(仁木殿)の子。 朝倉孝景の養嗣子。幼名長夜叉丸。本名延景。従四位下、左衛門督。越前国主。
 『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」では、義景が六角氏綱の子息だという異説が記されている。しかし、これまでは氏綱の没年が永正十五年(一五一八)で、義景の生年が天文二年(一五三三)であることから、年代が一致しないと否定されてきた。しかし義景誕生の前年・天文元年(一五三二)十二月に、六角氏と朝倉氏の間で密約が交わされている。これに関連する天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫『古今消息案』)では、密約の内容は記されていないものの、「末代迄」という文言から相当重要な内容であったことが分かる。そして、その翌年に義景は誕生したことになっている。このことから、密約の内容が義景誕生に関するものであることは容易に想像できる。
 実は沙々貴神社所蔵佐々木系図や六角佐々木氏系図略では、義実(実は義久)の次男義頼が若狭武田氏の養子になったと伝えられている。これは、義景が朝倉孝景の正妻若狭武田氏の養子になったことを誤り伝えたものであろう。義景は氏綱の孫と考えられる。
 実際に、朝倉義景の近辺には六角氏被官山内・河端・九里・杉若氏などが見える。天文七年(一五四八)山内丹後入道が越前から若狭に侵入することが、若狭武田氏によって懸念されていることも(『証如上人日記』天文七年九月二十九日条)、その一例といえよう。
 また天文十年(一五四一)朝倉孝景・長夜叉丸(義景)父子の気比神宮遷宮に際して、河端民部少輔が朝倉側の窓口として、幕府側の窓口大館晴光と対面している(内閣文庫『越前へ書札案文』)。河端氏といえば、六角氏綱の次男義政の子息輝綱(兵部丞)が河端氏を称したという系譜伝承があるように、六角氏との関係は近い。
 さらに永禄十年(一五六七)足利義昭の朝倉義景邸御成では、山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、六角氏綱の次男義政(仁木殿)が亭主義景ととも大門外で義昭を迎えて、相伴にあずかっている(『朝倉義景亭御成記』)。義政は義景の後見者として振舞っているのである。しかも門警固をした九里氏は、永禄十一年(一五六八)九月の織田信長上洛戦で、後藤・永田・進藤・永原・池田・平井ら江州衆(六角義秀近臣)のひとりとして足利義昭を奉じている(『言継卿記』)。このように義景の周囲には、多くの六角氏関係者がいた。
 実は義景は近江に多くの足跡を残している。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺され、弟義昭(一乗院覚慶)が奈良を脱出して近江甲賀郡に逃れたとき、同年八月五日付上杉輝虎(謙信)宛大覚寺門跡義俊副状で、義景の調略で義昭なら脱出が成功したと述べられている(上杉文書)。甲賀郡といえば、甲賀郡信楽郷が仁木氏を称した佐々木義政の本拠地であり、義景・義政が調略をめぐらすことは当然できた。しかも義昭が滞在した甲賀和田城は、六角氏綱の実弟和田高盛(佐々木大蔵大輔)が城主である。
 元亀の争乱では、信長との抗争の始まった元亀元年(一五七〇)に、義景は花押を六角氏様に変更している。同年十二月十五日織田信長との和議で発給された山門三院執行代宛朝倉義景書状案(『伏見宮御記録』:奥野高廣『織田信長文書の研究』に所収)では、「叡山之儀、佐々木定頼の時の寺務等の如く」と明記されており、義景が強く佐々木六角氏を意識していたことが分かる。
 滋賀県竹生島宝厳寺文書には、花押の異なる二通の義景書状がある。一通は、足利義輝から諱字を給付されて「延景」から「義景」に改名直後の十二月十六日付竹生島大聖院宛朝倉義景書状で、もう一通は六角氏様の花押のある六月二日付竹生島大聖院宛朝倉義景書状である。後者の書状では、去年参詣したときの祈願が成就したため太刀を贈ると記されている。元亀元年(一五七〇)志賀の陣での戦勝を祈願していたのだろう。義景書状に寄れば、その太刀は源頼朝から伊予河野氏に給付され、さらに河野氏が祈願成就のため比叡山に寄進し、さらに比叡山から義景に贈られたという。義景と近江の関係の深さを知ることができる。また元亀年間に義景が竹生島参詣していることは、姉川の合戦後も浅井氏が北近江支配を維持していたことを示していよう。やはり姉川の合戦は、六角・浅井・朝倉方の勝利だったと考えられる。
 このように義景自らが近江六角出身であることを強く意識していたため、六角義景が実在したと思われるほど、六角氏様の花押である朝倉義景書状が滋賀県内に残されている。そのため滋賀県和田文書採集の際に、調査官が(元亀元年)十月十五日和田源内左衛門尉宛朝倉義景書状を六角義秀書状と勘違いしたほどだ。調査官は義秀は実在しないという先入観を強く持っていたのだろう。本物の義景書状であるにもかかわらず、義秀と誤読した上で偽書と書き込んでしまったのである(東大史料編纂所和田文書影写本)。しかし、このように歴史学者が義景を六角義秀と勘違いするほど、六角氏様花押の朝倉義景書状が近江にある。
 元亀四年(一五七四)三月佐々木義政(佐左馬)が近江で挙兵すると、義景は近江武士多胡宗左衛門尉に宛て、義政の要害に合力することを約束している(尊経閣文庫所蔵文書)。義景と義政が連携していることが分かる。
 足利義昭が京都を追放されて天正元年と改元された同年(一五七四)八月、朝倉一族・譜代被官の多くが信長方に裏返り、義景は滅亡する。義景が他家出身であれば、自分こそ朝倉の血筋と思っている一族が裏切っていくのも当然といえるだろう。

この記事へのコメント

岩永正人
2005年07月12日 21:41
義景の花押に先生は言及されていますので、自分なりに調べてみました。
「花押を読む」佐藤進一氏によりますと、義景は初め武家様の将軍義輝類似のものを使用する。晩年(初見は永禄十一年白山神社知行目録)に至り、の将軍義晴公家様の花押に変えるとあります。
義景が花押選定にあたり、義晴に追従の念を表現しようとしたのでは?との指摘後、さらに、義晴の花押は彼の庇護者六角定頼の花押の影響下に形象された可能性まで言及されています。
庇護者が六角定頼とあるのが残念ですが。
佐々木哲
2005年07月13日 02:27
義景が六角氏出身の可能性が高いということを知っている方は少ないです。どんな先生でも、自分の専門外のところは、既存の学説に基づきますから仕方のないことです。
立山源次郎
2007年12月18日 14:07
朝倉義景が六角氏の出身というのは、実に興味深いのですが朝倉孝影がなぜ極秘に六角氏から養子を迎える必要があったのですか。
 時代背景的に極秘にする理由があったのでしょうか?。
佐々木哲
2007年12月19日 11:30
朝倉教景書状から六角氏と朝倉氏の間で密約が結ばれたことは分かりますが、密約である理由について示す資料はありません。そのため、理由を述べても、それはすべて推測になります。

わたしは新説を述べる立場ですから、余計な推測は述べずに、資料から読み込める事実を事実として発表するということを、自分の研究スタイルにしています。あとは後進に任せたいと思っています。

言えることは、六角・土岐・朝倉は大名一揆を結んでいたということ、六角氏は近江に足利義晴を保護していたこと、対抗者である足利義維を支持していた堺幕府が崩壊したこと、足利義晴派の六角氏が幕府内で大きな実力を持つことが確実視されたこと、朝倉孝景に実子がなかったこと、朝倉氏には家督をめぐる確執があったこと、などが挙げられます。一族同士の確執を避けるためにも、孝景に後継者がいることが望まれたのでしょう。しかも、それが六角氏との同盟関係を強化できるものであれば、最善であると考えられたものと思われます。本来、自らが朝倉氏の後継者候補であった教景(宗滴)の義景への奉仕振りを見れば、そのことが理解できます。
岩永正人
2008年02月08日 21:15
姉川の戦いについて
「織豊期研究会第六号姉川合戦をあるく」にて、太田浩司さんは、毛利宛信長書状にて「横山と申し候地を打果たすべきために詰陣申し付け、信長も在陣候、然して後巻きとして、越前衆、浅井衆、都合三万に及ぶべく候か、取り出で候」と指摘されている。つまり、横山城攻めをしていた信長が後詰め(最後尾)にいて、そこ(南)に浅井・朝倉が南下してきた状況が書かれている。また、「信長公記」の戦死者からみても、浅井・朝倉に致命的な打撃、有力な家臣が含まれていないことを明らかにされている。浅井朝倉が退却するなか、徳川が朝倉に追い討ちした結果、朝倉側に多くの戦死者が出たのはが、姉川ではなく、田川・虎御前あたりであったこと、具体的な戦死者となると記載がないと「寛政重修諸家譜」から明にされています。
さらに、同年9月に志賀の陣に出陣する余裕を持っていたとあります。
佐々木哲
2008年02月08日 22:02
コメントありがとうございます。

きちんと資料に基づいた研究が進めば、それだけ拙論を支持する実証的研究が増えるということです。

これまで姉川の合戦に自ら出陣しなかった朝倉義景は暗愚と考えられましたが、実はもともと義景が出陣するほどの戦いではなかったということです。
竹中 雅一
2009年10月20日 23:26
佐々木先生 はじめまして。
六角義秀のコーナーでお願いしようかと思ったのですが、姉川の合戦との関連がありますので、こちらで質問させていただきます。
実は、昭和6年に私の先祖が書き残した書類に以下のように記されています。概略を記しますと、当家の始祖は繖山の城主佐々木氏の家臣となり、数代に渉って仕えた。永禄年間、主、六角義秀より、義によりて浅井氏に助勢の旨下命を受け、手勢を率いて加わり、姉川の合戦にて
討ち死にした。(以下略)
これについて、どうしても理解できないところがありますので以下に質問させていただきます。
佐々木先生の説では、六角義秀は親信長派だと考えられますが、浅井側に加勢を命じたのは、どのような背景が考えられますでしょうか。
書類は昭和6年のものですが、一族の者は皆この内容を事実と信じて口伝で伝え、後に祖先の墓を造ったほどです。書類になんとか信憑性を与えたいと思い、質問させていただきました。なにとぞよろしくお願いいたします。
佐々木哲
2009年10月21日 00:08
竹中雅一様

コメントありがとうございます。お問い合わせの件についてお答えします。

六角義秀の没年については、永禄11年説と天正10年説の2説があります。わたしは和田文書所収の織田信長宛浅井長政文書に「義秀遠行」の記事があることから、永禄12年説を採用しています。しかし元亀年間にも近江修理大夫を名乗る人物がいます(近江修理大夫宛織田信長書状・士林証文三)。この人物が姉川の戦いで浅井氏に与した人物と考えられます。

ご先祖を浅井氏方に派遣したのは、この近江修理大夫でしょう。貴家の口頭伝承を大切に伝えてください。
竹中雅一
2009年10月22日 00:00
佐々木先生 ご教示ありがとうございます。
無学ゆえの初歩的な質問で恐縮ですが、下記3点よろしくお願いいたします。
①士林證文とはどのような資料でしょうか。
書き下し文で読める参考書籍はありますでしょうか。
②佐々木先生の「元亀争乱と近江修理大夫」、「義秀遠行」、その他の記事を拝見しますと、元亀年間にも近江修理大夫を名乗った人物というのは、大本所義堯ということになるでしょうか。そして義堯も観音寺城に入ったと考えてもよいでしょうか。
③近江修理大夫義秀は観音寺城にあって信長と同心、永禄11年に義秀没後は大本所義堯が近江修理大夫に任じられ、この義堯が元亀元年6月10日承禎父子に接触、以後六角氏は浅井・朝倉軍と行動をともにする、とのことですので、私の先祖が義秀から浅井への助勢命令を受けたというのは、義堯からの命と解釈するのはいかがなものでしょうか。そうだとすると、「義によりて」というのは、どのような状況が考えられるでしょうか。たとえば、義堯は年長者である承禎父子に逆に説得されて、信長に離反した・・とか。
よろしくお願いいたします。
佐々木哲
2009年10月23日 00:32
竹中正和様

わたしは、口頭伝承には尾ひれをつけずに伝えていただきたいと思っています。貴家に「当家の始祖は繖山の城主佐々木氏の家臣となり、数代に渉って仕えた。永禄年間、主六角義秀より、義によりて浅井氏に助勢の旨下命を受け、手勢を率いて加わり、姉川の合戦にて討ち死にした。(以下略)」と伝わっているのでしたら、そのまま改変することなく伝えてください。

義実・義秀・義郷については、それに相当する人物がいたというところまでは確認できましたが、没年についてもまだ確定できていないのが実情です。もしかしたら義秀は天正10年に没しているのかもしれません。今後の研究でどのように学説ができていくのかわかりませんので、貴家に伝わるままに伝えてください。

わかっていることは義秀が存命していたにせよ、次代の人物が当主になっていたにせよ、姉川の戦いでは六角氏は朝倉・浅井方です。織田方ではありません。浅井氏に擁立されていたといった方が正確かもしれません。現段階では、近江修理大夫については人物を特定できていません。

近江修理大夫宛織田信長書状(士林証文)は、奥野高広著『織田信長文書の研究』上巻(吉川弘文館)に掲載されています。参考にしてください。
竹中雅一
2009年10月23日 21:32
佐々木先生 再度のご教示ありがとうございます。
ご多用中申しわけありませんが、もう少し質問させてください。

先祖の遺した書面には、当家の始祖は元、近江源氏の流れの中にあって、数代に渉って作事奉行竹中勘兵衛として佐々木氏に仕え築城や布施の溜池等を指揮、また同じ頃に、書き役として佐々木氏に仕えた書の大家の建部傳内(1522~1590)と同じ木流(現在の滋賀県東近江市五個荘木流町)に住んだと記されています。
そして、永禄年間、義秀の命で姉川の合戦にて討ち死にし、繖山落城後は北之庄(後の宮荘)に居を移したと記されています。
蛇足ですが、同地の住居は明治初期まで存続して他県へ移転しましたが、そのとき多くの武具や文書があったということです。その文書に出会えないのが残念なのですが・・。

これらの記載内容と年代関係に矛盾はないと考えておりますが、この書面を次の世代に伝えるにあたっての佐々木先生からのアドバイスがありましたらお教えいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
佐々木哲
2009年10月24日 01:27
そのままにお伝えください。

学説は必ず変っていくものですから、学説に左右されることなく、貴家の伝承を尾ひれをつけることなく、お伝えください。そのことで、将来かえって歴史研究に大いに役立つことがあるかもしれません。良い口頭伝承とは、時勢の学説に影響されることなく、昔から伝えられている通りに伝えたものです。

現に義実・義秀・義郷が評価されつつあります。自信を持って子孫に伝えてください。

もしよろしかったら、口頭伝承をまとめた資料を郵送願えないでしょうか。メールにて連絡いただければ、連絡先をお知らせ致します。
三雲
2010年02月05日 08:31
はじめまして。質問が重複するのですが、以前にも質問されれいる「義景が六角氏からの養子である」という説について同じく疑問を抱いたので質問させていただきたいです。当時、朝倉氏は三好氏・浅井氏・足利義昭と、ことごとく六角家と敵対した勢力と誼を通じているのに何故、直接の領土を隣接するわけでもない六角氏と結ぶ為に、養嗣子を迎える必然性があったのでしょうか?また「朝倉孝景に実子がなかった」というのは何に基づいた情報なのでしょうか?御教授願います。
佐々木哲
2010年02月05日 09:37
朝倉氏について誤解されています。

まず①足利義尚・義稙2代の将軍による六角氏征伐のとき、六角・土岐・朝倉氏による大名一揆が成立しており、それがその後も継続します。そのため土岐氏が斎藤氏に追放されると、六角氏も朝倉氏も土岐氏を保護しています。②朝倉氏と浅井氏の同盟関係については、朝倉氏は最初は浅井亮政を牽制したうえで従属させるというものです。③加賀の一向一揆と対立していた朝倉氏にとって、本願寺と同盟関係を結んでいた六角氏との提携は重要です。④朝倉孝景夫妻にとって義景は晩年の子です。これに対して松原信之氏は、義景の実母について孝景正妻武田氏の一族の女性という仮説を立てましたが、あくまで憶測であり証拠はありません。⑤朝倉義景誕生の前年に六角氏と朝倉氏の間で密約がありました(朝倉宗滴書状)。以上です。
三雲
2010年02月06日 12:15
お返事ありがとうございます。周囲の外交情勢はそれぞれ主観が入りますし、時勢によって変化するものですから、置きますが、とりあえず「孝景に子がいなかった」というのが仮説であるというのがわかったので理解しました。晩年(といっても40前後の子ですよね)だから養嗣子の可能性があり、周囲の情勢や六角氏と何らかの密約を行った形跡があるので、六角氏からの養子なのではないか?という仮説なんですね。こういうことでよろしいでしょうか?
佐々木哲
2010年02月07日 02:09
仮説をどのような意味で使用されているのか知りませんが、義景が孝景の晩年の子であるということは以前から問題視されています。ご存じないのでしょうか?

また、①天文元年に六角氏と朝倉氏の間に密約が交わされたことを示す朝倉宗滴書状があり、②佐々木左馬頭とも呼ばれる仁木義政が朝倉義景の後継者として振舞い(朝倉義景邸御成記)、③元亀年間に義景が六角氏様の花押を用いていることなどから、義景養子説は仮説として有力でしょう。それに対して、孝景正妻の一族が義景実母という松原説を支持する資料はなく、仮説とはいえないと思います。

さらに元亀の争乱では、六角氏と朝倉氏は協力関係にあります。何を根拠に六角氏が朝倉・浅井と対立したと考えていらっしゃるのか分かりません。朝倉氏が最初に挙兵したのは足利義昭・織田信長連合に対してであり、浅井氏が挙兵したのは六角承禎の勧誘によります。さらに国主近江修理大夫も途中から朝倉・浅井に同意しています。よく他の記事を読んでいただきたいと思います。

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