四つ目結紋の歴史
佐々木氏の紋というと四つ目結紋と考えられていますが、実はもともとは三つ星でした。そのため源平合戦で活躍した佐々木兄弟の子孫のなかで、四つ目結紋を使用したのは長男の定綱流であり、盛綱流は三つ星、義清流は輪違いを使用していました。四つ目結紋が佐々木氏の代表紋になったのは、定綱の子孫が佐々木氏の主流になったことと、江戸時代に歌舞伎などで佐々木盛綱・高綱兄弟の役が四目結紋の衣装を着けて登場していたからでしょう。
沙々貴神社所蔵佐々木系図や六角佐々木氏系図略によれば、四つ目結紋は定綱の子息信綱のときに、菊・桐紋とともに後鳥羽院より給付されたと伝わります。菊・桐紋に関しては、佐々木定綱が後鳥羽天皇の六位蔵人に補任されて元服奉行も勤めていることから、後鳥羽天皇より賜った御服(袍)の文様であったと考えられます。菊・桐紋を賜ったという系譜伝承は、定綱が蔵人であったことを隠喩したものでしょう。しかし四つ目結紋は後鳥羽院由縁のものではありません。
定綱は後鳥羽院の蔵人であるとともに、摂関家九条家の家礼でした。九条家の祖九条兼実は源頼朝と結ぶことで摂政・関白の地位を獲得し、朝幕間で権力を掌握しました。その子孫が九条・二条・一条ら九条流摂関家であり、摂家将軍藤原頼経・頼嗣父子です。その九条兼実の日記『玉葉』では、佐々木定綱が九条家奉仕の殿上人(家礼)として活躍していたことが見えます。また定綱の四男信綱は、九条兼実の孫九条道家が左近衛大将(左近衛府の長官)補任のとき、左近衛将監(左近衛府の三等官)に推挙されて以降、九条道家に奉仕し、道家の娘竴子の御産祈料として絹三万五千疋を献じた功績で近江守を受領しています。このとき誕生したのが四条天皇です。さらに信綱の三男泰綱は、道家の子息摂家将軍頼経の側近でした。このように定綱流と九条家の関係は深く、道家が子息一条実経に譲った所領の中に、佐々木女房から伝来した摂津国富島荘・美濃国古橋荘・越前国河和田新荘・同国東郷荘ら佐々木領が含まれていました。
佐々木氏との関係から、九条家の有紋冠の文様が四目結紋であることに注目できます。五摂家の冠の文様は、近衛流は四つ俵菱紋で、九条流が四つ目結紋でした。さらに近衛流のうち近衛家は俵菱の中に一つ引両、鷹司家は俵菱の中に割り二つ引両で、九条流のうち九条家は七つ割り四つ目結紋、二条家が四つ目結紋、一条家が四つ菱紋でした(鈴木敬三『有職故実図典』吉川弘文館、1995年)。九条流の四つ目結紋は、九条家では真ん中の穴が大きく、二条家では小さく、一条家では穴がなくなるというように変化していきます。
九条家の家礼であった定綱以来の佐々木氏は、四つ目結紋の冠を被って朝廷に出仕していたのです。四つ目結紋は後鳥羽院由縁ではなく、九条家由縁の紋だったのです。後鳥羽院より四つ目結紋を賜ったという系譜伝承は、後鳥羽院のとき九条家の家礼として殿上人であったことを隠喩していたのです。本紋四つ目結紋は冠、副紋菊・桐は袍というように、定綱が蔵人として朝廷に出仕していたときの衣冠の文様から生まれたものだったのです。家紋の文様やそれにまつわる伝承も歴史資料になることが分かります。
このことから、四つ目結紋は隅立てが正しいことも分かります。上杉本洛中洛外図など絵画に見られる四つ目結紋は、隅立てです。現在の沙々貴神社の神紋が平四つ目結紋であるのは、江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたからと考えられます。六角氏が隅立て四つ目結紋、有力庶子家の京極氏は平四つ目結紋を使用していたのです。
沙々貴神社所蔵佐々木系図や六角佐々木氏系図略によれば、四つ目結紋は定綱の子息信綱のときに、菊・桐紋とともに後鳥羽院より給付されたと伝わります。菊・桐紋に関しては、佐々木定綱が後鳥羽天皇の六位蔵人に補任されて元服奉行も勤めていることから、後鳥羽天皇より賜った御服(袍)の文様であったと考えられます。菊・桐紋を賜ったという系譜伝承は、定綱が蔵人であったことを隠喩したものでしょう。しかし四つ目結紋は後鳥羽院由縁のものではありません。
定綱は後鳥羽院の蔵人であるとともに、摂関家九条家の家礼でした。九条家の祖九条兼実は源頼朝と結ぶことで摂政・関白の地位を獲得し、朝幕間で権力を掌握しました。その子孫が九条・二条・一条ら九条流摂関家であり、摂家将軍藤原頼経・頼嗣父子です。その九条兼実の日記『玉葉』では、佐々木定綱が九条家奉仕の殿上人(家礼)として活躍していたことが見えます。また定綱の四男信綱は、九条兼実の孫九条道家が左近衛大将(左近衛府の長官)補任のとき、左近衛将監(左近衛府の三等官)に推挙されて以降、九条道家に奉仕し、道家の娘竴子の御産祈料として絹三万五千疋を献じた功績で近江守を受領しています。このとき誕生したのが四条天皇です。さらに信綱の三男泰綱は、道家の子息摂家将軍頼経の側近でした。このように定綱流と九条家の関係は深く、道家が子息一条実経に譲った所領の中に、佐々木女房から伝来した摂津国富島荘・美濃国古橋荘・越前国河和田新荘・同国東郷荘ら佐々木領が含まれていました。
佐々木氏との関係から、九条家の有紋冠の文様が四目結紋であることに注目できます。五摂家の冠の文様は、近衛流は四つ俵菱紋で、九条流が四つ目結紋でした。さらに近衛流のうち近衛家は俵菱の中に一つ引両、鷹司家は俵菱の中に割り二つ引両で、九条流のうち九条家は七つ割り四つ目結紋、二条家が四つ目結紋、一条家が四つ菱紋でした(鈴木敬三『有職故実図典』吉川弘文館、1995年)。九条流の四つ目結紋は、九条家では真ん中の穴が大きく、二条家では小さく、一条家では穴がなくなるというように変化していきます。
九条家の家礼であった定綱以来の佐々木氏は、四つ目結紋の冠を被って朝廷に出仕していたのです。四つ目結紋は後鳥羽院由縁ではなく、九条家由縁の紋だったのです。後鳥羽院より四つ目結紋を賜ったという系譜伝承は、後鳥羽院のとき九条家の家礼として殿上人であったことを隠喩していたのです。本紋四つ目結紋は冠、副紋菊・桐は袍というように、定綱が蔵人として朝廷に出仕していたときの衣冠の文様から生まれたものだったのです。家紋の文様やそれにまつわる伝承も歴史資料になることが分かります。
このことから、四つ目結紋は隅立てが正しいことも分かります。上杉本洛中洛外図など絵画に見られる四つ目結紋は、隅立てです。現在の沙々貴神社の神紋が平四つ目結紋であるのは、江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたからと考えられます。六角氏が隅立て四つ目結紋、有力庶子家の京極氏は平四つ目結紋を使用していたのです。
この記事へのコメント
先日墓参りにいったところ、なんと「丸に隅立四つ目結い紋」を発見しました。
佐々木氏の流れであることを誇りにします。沖中というのが佐々木氏の流れであると認識してもいいのでしょうか?
丸に隅立四目結紋は広く普及している紋であり、この紋章だけでは佐々木一族とはいえません。また佐々木一族のなかに沖中氏を見つけることができません。実は少弐氏をはじめ、佐々木氏以外でも四目結紋を使用している一族があります。もっと詳しい情報はありませんか?
また、別家から養子を迎えたある大山氏の家紋は、「笹」であった。反対に「さつまの姓氏」(高城書房)著者の川崎氏の家紋は、「丸に隅立て四つ目」ですが、これは先祖が佐々木氏の流れの小島氏から婿養子で入ってきたためと言う。
このように、薩摩藩では養子入りした場合に、実家の家紋を使う場合があるそうです。
また、養子の実家の家紋の一部を取り入れる例が江戸期にもありました。島津本家から養子を迎えた家臣の家紋のデザインに十字紋が入っている場合があります。
島津氏の家臣で渋谷流入来院23代目重矩は、甥の島津綱貴より「唐草十文字」を賜り、渋谷氏伝来の家紋から同紋に変更した話です。なお、重矩は島津光久の16男、入来院氏の15代目、16代目、20代目、21代目も島津氏からの養子で、重矩の養子で24代目定勝も島津継豊の4男です。
丸に四目結が一般的なのですか。レベルの低い質問で申し訳ないのですが、四目結とは隅立て四つ目のことでしょうか?。四つ目菱という武田菱のような紋も四目結と紋の辞典に出ておりますので、混乱しておりまして。
【公家ずき!様】
返事がたいへん遅れ申し訳ございませんでした。武家が地下になることはよくあることで、京都の地名を家名にすることもあります。地下には、幕府に仕えなかった旧家が多いです。六角、朝倉、織田、豊臣、細川などもありますね。
【薬屋瓶様】
北陸には本当に多くの佐々木氏が分布しています。三田村氏が北陸に分布していることは前々から存じておりますが、尾形氏も関係者なのかもしれませんね。また何か情報がありましたら、ご教示下さい。
最近、取引先の担当氏が同姓の「尾形」と言う人になりました。おや遠い親戚かなと思い、家紋はと聞きますと、全然違っていました。この人の出身は東北で、「尾形」の姓は山形、宮城に比較的いるようです。昔「尾形」しこ名を替えて「天ノ山」と言う相撲取りがいて、この人も東北の方の出身でした。東北の「尾形」は別系統の様です。
九州行橋の方にも「尾形」が集中している様ですが、この家紋は知りません。九州は「緒方」「緒形」が多いので、これの系統かもしれません。
ところで、この取引先の「尾形」氏との会話を横で聴いていた、その方の上司が変な顔をしているのです。「どうしましたか。」と聴くと、家紋が私と同じ「丸に隅立て四つ目」との事でした。名前は「橋本」とおっしゃいます。
どうも橋本氏は、由緒正しそうです。徳川の旗本の子孫の様です。ちょっとインターネットで調べると、元は小田原北条氏の家臣で、佐々木氏の末裔の様です。
同じ四つ目結紋を使用している方と出会うと、わたしも嬉しく思います。尾形氏について何か分かるといいですね。また情報がありましたら、お知らせ下さい。
滋賀県在住であれば、朽木氏には参勤交代する旗本「交替寄合」の家系がありますので、その一族かもしれませんね。
※名門の子孫は必ずしも近世大名になったわけではなく、また分家が大名になるということもありました。名家の子孫で帰農した者も多いので、庄屋・名主のなかに名門の直系もいるものですよ。
別人です。年齢が25歳ほど異なりますし、滋賀県の方ではないです。
因みに「晃」氏は、滋賀県人では無かった筈です。彼は、確か当時、京都の花園大学に通っていて、滋賀県迄バイトに来ていたと思います。(大津市、安曇川町)。生まれは福知山と聞いた様な気がします。
話変わります。越前の三田村氏の家紋は丸に隅立て四つ目でした。三田村氏の先祖は滋賀の浅井郡の三田と言う事ですが(三田村氏館跡が有るのですね。)、そこの三田村氏も同じ家紋なのでしょうか。後に浅井氏の家臣として織田信長に滅ぼされますが、以前は京極の家臣。京極は平四つ目、六角は隅立て四つ目とすると、六角の傍系が京極の家臣になってたと解釈出来るのでしょうか。
丸に隅立て四目結紋は、広く佐々木関係者の紋です。佐々木一族では、自分の家紋が分からないときは「丸に隅立て」にするので、「丸に隅立て」なら六角氏傍流というわけではありません。ですから、家紋では何も語れません。北陸の三田村氏は、浅井郡の三田村氏の一族と考えられます。各家の資料がなければ、私もここまでしか語れません。
そう言えば、話変わりますが、武生市は以前府中と呼ばれていたのは良く父達の話で聞いていましたが、確か織田信長の家来の佐々成政は、柴田勝家支配下で府中城主だったと思います。佐々氏は佐々木氏の分流だった筈。子孫に佐々宗淳(介三郎:水戸黄門の家来の佐々木介三郎のモデル)や、警察出身の佐々淳行氏等綿々と血脈が続いていますね。
うちの家紋は四つ目結いではないのですが、姓が佐々木で家紋が丸に九枚笹です。
竹中半兵衛の家紋が丸に九枚笹で、佐々木氏流の黒田官兵衛がその家紋を受け継いだ説を聞いた事があります。
うちの家系と近江源氏とは繋がりはあると思いますか?
わかりましたらぜひ教えてください。
佐々木十二紋:四目結、三目結、鶴菱、三星、連銭、三鱗、輪違、薔薇、蝶、檜扇、両矢筈、笹竜胆
十二添紋:藤巴、九星、酢漿、沢瀉、花輪違、釘抜、蛇目、鷹羽、柏葉、井形、蔦、二本扇
このように多くの紋がありますので、四目結紋ではなくても気にしないでください。むしろ、貴家の歴史を物語る資料として大事にして下さい。ただし、竹中半兵衛のことは結び付けないでください。
どんな身分にしろ先祖は敬わなければならないですね。
ありがとうございました。
竹中氏が九枚笹を使用したのは、名字にちなんでのことで、貴家も佐々木にちなんでのことかもしれません。
どのような理由で笹紋を使用したのか調べるのも楽しいでしょう。
佐々木姓で笹紋は一般的ではないのでますますどういう由来なのかが気になります。
初歩的な質問かもしれませんが名字(氏)は誰でも自由につけれるものだったんでしょうか?
笹紋は名字由来と思われます。竹中氏の九枚笹のほか、梶原氏の梶紋、大庭氏の大文字紋も名字由来です。賜紋の可能性もありますので、貴家の由緒を調べてください。
また結果ご報告します☆★
真剣に家系を調べたいのであれば、まず戸籍でできる限り古くまで溯ること。そして菩提寺を見つけて、過去帳からさらに溯ることです。また士族であれば、何藩に仕えていたか分かれば、分限帳で先祖を調べることができます。
本家の方の文章は下記のとおりです。
「淨源寺所蔵の系譜並に昭和六年二月四日北越新報の記事によれば、我が先祖は宇田源氏の庶流江州佐々木氏の出なりと、或は佐々木高綱と云い或は盛綱なりとするも口碑なるが如し。・・・」以下、長文のため省略します。
本当なのか亡き父の墓前に報告したいと思います。ぜひ先生のお力をお貸しください。よろしくお願いいたします。
佐々木氏を称している橋本氏には、小田原北条氏の旧臣で、江戸幕府旗本に転身し、のち紀伊徳川家の付属となった橋本彦兵衛正利の子孫があります。家紋は四つ目結、蛇の目、左巴です。ただし、佐々木氏のどこから分かれたのかは不明です。
ほかに佐々木流橋本氏は存じ上げません。名字と家紋から先祖を探すのは難しいと考えてください。各家の文書や過去帳、口頭伝承をていねいに読んでください。
丸に隅立て四つ目結は、佐々木氏というだけで用いられるか紋ですから、それだけでは高綱流か盛綱流かは判断できません。
ただし、越後は佐々木盛綱が守護を勤め、その後も越後守護となった北条氏の守護代になり、承久の乱では信実が北陸道副将になっていますから、盛綱流と考えるのが自然です。
やはり、先生のおっしゃるように盛綱流ですよね。もしよろしければ本家の残した文章をお送りしますので見ていただくことは可能でしょうか?
それでは、お送りください。今後はメールで連絡願います。メールは、トップページのブログ紹介欄から送ることができます。
私の父方の姓は「森」、母方の姓も実は「森」で、森姓同士で結婚しました。母方の家紋は丸に橘なのですが、父方の家紋が「丸に隅立て四つ目結」です。父の両親は若くして亡くなったので、私はルーツを全く知りません。自分で調べては見るのですが、「丸に隅立て四つ目結」で森姓が出てこないので、何か分かることがあれば教えていただきたいのです。出身は多分、広島の福山だろうと思います。
よろしくお願いします。
佐々木六角氏の中に森氏が2流あります。①六角氏頼の弟光綱の子孫の森氏です。②六角満綱の子息高久(高昌)の子孫鯰江氏の森高次は、毛利氏に許されて「毛利」と名乗っています。佐伯藩主になった毛利氏です。どちら四つ目結紋を使用する可能性はあります。
六角氏は全国に所領を有していましたし、愛媛県岩城島長法寺は、森光綱の子光丸(梵海徹周)の創建と伝えられます。さらに天正年間には六角義堯が、足利義昭とともに備後鞆浦に下向し、森高次もこのとき毛利氏を名乗りました。備後地方に佐々木流の森氏がいて不思議ではありません。
今まで全然分からなかった私のルーツが分かって、すごく安心し、そして嬉しくなりました。これからも私なりにまた勉強していきます。
本当にありがとうございました。
福島住みの朽木(くちき)といいます。
私の家系は、父によると
滋賀県の朽木氏がなんやかんやで
こっちに逃げてきた、
その生き残りらしいのですが・・・。
家紋が丸に九枚笹なんです!
朽木氏の家紋って四目菱ですよね?
丸に九枚笹って竹中氏だし…。
これって何か訳があるのでしょうか??
学生なので拙い文で申し訳ないのですが、
なにか分かることがあったら
ぜひ教えて下さい!!
では、失礼いたしました。
岐阜の馬渕です。家紋は隅立て四つ目です。
父が夏休みの宿題?で作った家系図によると先祖が元亀二年九月二日に馬淵三郎清常が織田信長に仕えるとなっていますが。そのような人はいたのでしょうか。誰かご存知にかた教えてください。よろしくお願いします。
岐阜の馬渕様 菩提寺はどこでしょう?
岐阜市の瑞甲山(ずいこうさん)乙津寺(おっしんじ)です。墓地には鏡島城主「石河駿河守光清」の墓を左右に江戸時代の馬渕家の墓が多く並んでいるのですが直接繋がりがあるかは不明です。
弘法大師、宇多天皇ゆかりの真言宗のお寺ですね。現在妙心寺派ですが、四つ目にも種類があります。正式な家紋は何でしょう? 円空、連歌師宗祇についても調べています。
ひょっとしたら乙津寺がその出目を解明してくれるかもしれません。円空が何処であれ程多くの仏像の種類を知り得たか? 何故このお寺に宗祇の連歌が残されているのか?。
昨日乙津寺行って参りました。本堂正面に掲げられています四国巡礼の名簿を拝見させていただきjますと、多くの佐々木ゆかりのお名前を見いだす事ができました。また福井小浜常高寺にある常高院の宝篋印塔を囲むようにゆかりの尼達の御墓が四方に並んでいますが、馬淵様の御墓群も鏡島城主「石河駿河守光清」の墓の左右に並んでいました。私は石河駿河守光清との深いゆかりを感じました。家紋も丸に隅立て四つ目結であるもとがわかりました。叉並んでいました古い五輪塔も、室町期から戦国期のものではと推測しています。
【四方様】佐々木一族に四方氏があるというのは初耳です。京都には鋳工に四方安平があったようですね。丹波に「四方由利殿」があり、丹波志に「由利氏、上佐々木村、小野原とも言ふ」とありますが、関係は分かりません。丹波・丹後地方には、古代の佐々木山公時代から関係があり、佐々木神社もあります。詳しい口伝を教えてください。
【朽木様】佐々木一族がササキにかけて笹紋を使用することはありました。その事例になると思います。
【まぶちゃん様】馬淵氏は佐々木一族の名族で、美濃にも多く分布しました。まぶちゃんの家は六角氏没落後に、尾張徳川家の家老石河氏に仕えたと考えられます。
以前、父方が「丸に隅立て四つ目結」で福山だと申しましたが、先日除籍されている戸籍をわかる限り取り寄せてみたところ、嘉永2年生まれのご先祖様の本籍が岡山市二日市町となっており、その方のお父様が、「森 嘉太郎」までしかわかりませんでした。
岡山市でも佐々木六角氏流という事は考えられるのでしょうか。
岡山県だと美作津山藩主森家が思い浮かびますが、岡山市だと美作津山藩という可能性は低いですね。佐々木氏の一族佐々木加地氏が鎌倉期に備前守護、室町期に備後守護代を勤めていますので、岡山にも佐々木氏の一族は多いですよ。岡山時代の菩提寺が見つかると、手がかりも発見できると思いますので、地道に調査してください。
これからも数少ない親類等にも話を聞いたりして、地道に調査していきます。
私は高知県佐川町の大山家の出身です。
先祖は、以前神道であったものを数百年前に天台宗に改宗しているそうですが、大山家の先祖まつりは数百年間継続していると思われます。
墓石より、江戸時代の年号がかなり前からあります。近隣の大山家も全て「四つ目結紋」です。
しかし、一族のご先祖様は安徳天皇の縁の者であったと聞いています。我が家のほか同姓の近所の方の家にも平家の刀などが伝わっています。平家の呪いなどと言われ、30年ほど前に太夫(たゆう)さんが持っていってしまいましたので今は家にはありません。
近所のおじさんから子供の頃、高知市の朝倉神社に先祖の過去帳があると聞いています。
このブログを見るまでは、私は勝手に、名字は先祖が大山祇神社の神主だったのではないかと考えていました。
私の出身の大山家も、鹿児島の大山家と同様に佐々木家の系統なのでしょうか?
四つ目結紋を家紋にしていることから、鎌倉初期の土佐守護佐々木経高との関係も考えられます。経高は源頼朝没後の正治2年(1200)7月淡路・阿波・土佐の兵を率いて上洛し、さらに承久の乱では京方だった人物です。その子孫が土佐藩出身の佐々木高行です。経高の紋は三つ鱗ですが、子孫の多くは四つ目結を使用しました。この経高流佐々木氏も関係しているのではないでしょうか。
神職であったのであれば、一般の家より先祖をたどりやすいのですから、過去帳などで地道に調査されるといいでしょう。薩摩の大山氏は関係ないと思われます。
一族は高齢となっていますので、これを知らせればさぞ喜ぶと思います。
当家に伝来のものは平家の女人の小刀でした。
酒飲みの土佐人の中で、なぜか私の一族には下戸遺伝子を持つ者が出ます。近年知ったのですが、下戸遺伝子は百済人の遺伝的特徴とのことで、1千年以上前の渡来人の血脈がこんな土佐の田舎にあることが不思議に思われてなりません。
大山祇神社の神職と予想した根拠としては、他の家系は現在も神道で、私の出身の佐川町加茂地区(旧加茂村が佐川町と日高村に分割)内の西には、立派な大山祇神社が朽ちて廃れた状態であります。神職はなく既に数百年は経っていると思われます。
地区内の者でさえ存在を知らぬ者が多く、いつどのような理由で捨ててしまったのか謎です。
地区内には海津見神社、六所神社、加茂神社などがあり、地区の住民はこれらの神社の氏子です。
高知から松山へ抜ける沿道で越知町にも近く、越智一族が安徳天皇をお守りしていたとも聞いています。先祖と考えられる越智一族の新居氏について調べてみようと思います。
家紋についても、一族は氏族ですので、佐々木氏との関係も考えられるのが興味深いですね。
大変参考になりました。ありがとうございました。
その一族は石田方が敗れた後に近江高宮~加賀~山形楯岡に流れ着いて帰農しております。近江高宮氏がはじまりとつたえておりますが高宮の領地に住んでいたので高宮氏を名乗ったのかとも考えます。
しかし一族から出た最上徳内(高宮元吉)の墓からは州浜紋が確認されています。近江佐々木氏は分家は四つ目結紋以外に州浜紋を使用している家があるとのことですが、楯岡高宮氏が佐々木一族の可能性はあるのでしょうか?
ちなみに最上徳内は蝦夷探検、大奥お広敷番(伊賀出身者の仕事)を歴任しました。自分はもしかして最上徳内は隠密かとも考え調べております。もし六角氏や高宮氏と甲賀との関係においてご存じのことがあればご教示ください。
よろしくお願いいたします。
沙沙貴神社所蔵佐々木系図には、六角氏頼の庶子に高宮信高が記され、また地方誌によれば上杉禅秀の乱の功績で高宮地頭職を得たようで、その子孫は高宮三河守を名乗ります。『見聞諸家紋』では、高宮氏の家紋を「丸に三つ遠雁」としていますが、高宮神社の神紋が「丸に二つ遠雁」であり、信高入部以前の高宮氏の家紋を継承したものと考えられます。高宮は江南と江北の境に当たり、六角氏と京極氏の争奪の土地であり、『江北記』には「高宮(京衆次)」とあって京極氏に属していたことが分かります。さらにのちには『浅井三代記』に高宮勝頼(三河守)・勝義父子など高宮氏が登場します。その一族は美濃高須城主の客分となり、関が原の戦いでは西軍に属しているようです。また京極氏に使えた者もあり、京極分限帳に「高宮掃部助、六百石高宮助左衛門」とあります。
貴家の家伝の通りとすると、浅井氏に使えた高宮三河守の子孫で、関が原で没落したことになります。ご自身でも地方誌で調べられると良いでしょう。
自分の一族に最上徳内さんがいるおかげか、家系図や紋は専門家が自分たちの全く知らないことまで調べあげてくださって本で読むことができましたが、家伝は祖母からお姫様をつれてきた?というよくわからないことしか聞いておりませんでした。
しかし石田方についていたという敵の出自出身であったなら江戸時代徳内が大奥の警備(伊賀衆組頭下大奥添番)に任じられたのが不思議です。
また関ヶ原の当時、近江から加賀金沢へ行った六角氏がいましたので六角氏に仕えていた可能性もあるのでは・・と素人ながら色々と推測して楽しんでおります。
7月の連休に彦根の高宮へ行く予定です。そこで教えていただいた資料を探してみたいと思います。本当にありがとうございました。
江戸時代には京都と日本海は海運でつながっており、帰農・帰商した近江武士が出羽に赴くことは不思議ではありません。当家も大坂から出羽に移り、新田開発をしています。
甲賀・伊賀に興味をもたれているようですが、彼らは郡惣一揆・国総一揆を結ぶ中小武士です。室町将軍家の二度にわたる六角氏征伐のとき、甲賀武士は六角氏を支えて全国に名が知られることになります。六角氏との関係は深いです。ただ本来は中小武士であり、ゲリラ戦を得意としていましたが、後世に作られた忍者のイメージと実態はかけ離れているとお考えください。忍者から調べていくとかえって遠回りになると思います。
口伝は、言い伝えられたとおりに筆記しておくと良いでしょう。面白い史実が隠れていることがありますから。
記念館では高宮宗忠..定利..太右衛門とどうも三河守の系統ではなく北殿の方でしょうか。。(これは正しいかわかりませんが。)
最上徳内の娘婿の書いた「家大人小傅」(高宮家、水戸彰考館蔵書)では「其先稱素濱五郎兵衛。世領近江国高宮郷。衣章環内為東海三島之象。名曰素濱蓋呼其氏矣。今用此章者。鼻祖干此慶長末前田氏弁能加越三国。因輿之爭。遂奔出羽国。改氏高宮居村山郡高宮邑。七世後曰高宮太右衛門・・」しかし最上家に伝わる「系圖」では「本氏高宮其先出近江州佐々木族、源三秀義有五子 五郎義清生俊綱 至四世五郎左衛門安利始稱高宮 蓋地名也 其孫新八郎定利戦死郷渡川 實慶長五年關原役也 有二幼子 一喜平治二次之助改氏素濱 又是江州地名 子孫爲家紋 長奥羽州間・・」と書かれていました。
自分でわかったことは一族は元々は高宮に住んでいて素濱姓(これは州浜紋に関係?)であり、出自が佐々木一族となんらかの関わりがあるのかなということでしょうか?
自分は全くの素人ですがこの資料からもしご存じのことがあればご教示ください。
また金沢では高宮氏は前田家に仕えていたのでしょうか。皆川新作氏の「最上徳内と関係のある人物」の<本多利明との関係>の中には「利明は文化六年五月加賀候へ仕へ合力米二十人扶持を給されて晩年の生活を保障されたが、文化四年徳内の履歴書に「本国加賀、生国出羽」とある所から察すると、これは徳内の斡旋に依ったものであろうと思われる。徳内の大本家高宮太右衛門は金沢より楯岡に移住したのである」とあり徳内の先生であった本多利明に職を斡旋した事実は出羽の高宮家が前田家になんらかの関わりがあったことがわかりました。
多賀氏ということであれば、加賀藩給帳に多賀数馬(五千石)・多賀典膳(二千七百石)・多賀監物(四百石)などがあります。ただし家紋はトンボ菊です。また金沢には高宮金屋という鋳物師がいたようです。
ところで『源平盛衰記』に「州浜判官高能」があり、一族が石見にあったようですが、藤原氏を名乗っています(姓氏家系大辞典)。最上徳内の伝記に「素浜」氏とあるのは、家紋が州浜紋であることに由来するでしょう。
ちなみに徳内は幕府からの拝領屋敷が市ヶ谷「甲良屋敷裏」でした..なんだか多賀氏と縁がありますね。
ちなみに楯岡の高宮家は保寿丸という家伝薬があり徳内もその製作を手伝っていたようですが、富山の薬が甲賀地方の製薬と関係があるのだとしたら、やはり自分たちの先祖は近江高宮で製薬を家業にしていた中小武士(姫を略奪するような仕事をしていた忍者さん?)の子孫と考えた方がよいかもしれませんね(笑)
高氏といえば、高師直のように高階氏の略称であることが一般的ですが、もともと高宮が多賀宮(多賀社)を意味しており、多賀氏の唐風の一字姓と推定しました。これだけでも大きな発見ですよ。研究者としては、今はこれ以上のことを言えません。
本佐々木氏は、佐々貴山公(紀氏)、愛智秦氏、建部氏、多賀氏、三上祝氏など近江豪族の複合氏族です。そのようにお考えください。
インターネットで多賀氏を検索していましたら金沢藩士の多賀賢三郎の墓の家紋が「(花)輪違い」でした。たしか「輪違い」は佐々木秀義の5男の系統で使用されている紋という記述もあり金沢の多賀氏が佐々木秀義の5男の系統から出ている自覚があったようですね。
今度は多賀町や金沢へ行って資料をあさってきたいと思います。この度は貴重なご意見をありがとうございました。
多賀氏は中原氏を名乗りますが、崇峻天皇の子孫を名乗ることから、大外記・少外記を世襲職とする朝廷の局務家である中原氏とは別流で、犬上君の子孫が中原氏を名乗ったものと考えられます。その子孫が京極氏の重臣多賀氏です。多賀豊後守高忠は京極氏の庶子といわれています。
藤堂高虎も、この近江中原氏の出身ですが、もともと愛智氏を名乗ったということですから、六角氏頼の弟愛智河直綱に始まる愛智氏と関係があるでしょう。
また愛智郡高宮氏は和邇一族の櫟氏が本氏で、柿本氏とは一族で、天台修験道の祖相応も浅井郡出身ですが櫟氏です。そこに六角氏庶子信高が養子に入りました。この信高も六角流愛智氏であったかもしれません。
六角流愛智氏については、記事「永原氏の系譜」で鳥羽氏(野洲郡砺波荘地頭)として登場しますので、参考にしてください。
永原氏の系譜http://blog.sasakitoru.com/201009/article_2.html
その櫟氏跡を継承したのが、本佐々木氏の一井三郎家職と考えられます。本佐々木氏は紀盛宗・紀盛親など紀氏を外戚としていますから、そこから紀伊御家人という伝承が生まれたのかもしれません。そして、この紀氏が佐々木山公の子孫木村氏であり、源行真の女婿道澄の実家です。
和邇氏族櫟氏に、源行真の曾孫一井家職が養子に入り(北殿)、さらに六角氏庶子(おそらく六角流愛智氏)が養子に入ったと考えられます(南殿)。そのため最上徳内の実家高宮氏が、佐々木氏の本紋三星紋を使用することは自然といえます。
しかし、櫟庄は紀伊ではなく大和にあり、和邇下神社があるように和邇氏族櫟氏・柿本両氏の本貫で、中世には東大寺領でした。この櫟氏は近江を本拠とする和邇氏族であるため、近江にも分布し、浅井郡出身の天台僧相応も本氏は櫟氏でした。そのため高宮の本主櫟氏も、和邇氏族櫟氏と考えられます。
この櫟氏に養子に入ったのが本佐々木氏族の一井氏です。高宮の本主櫟氏を御家人とするのは、一井家職が養子に入ったからでしょう。これが高宮北殿です。さらに六角氏庶子信高が養子に入って、高宮南殿となりました。
本主が地頭職を有力者に譲渡して、自らは代官になるということは、近江だけではなく、越中岡成名でも本主清原氏が地頭職を北条氏に譲渡して自らは代官になっています。
高島七頭についても今後期待しております。
たまたまみつけたのですが多賀高忠(京極氏)の二男多賀宗春の子は本阿弥光悦なんですね(尾形光琳や乾山も高忠の子孫)、光悦や子孫は前田家に仕えているようです。また前述した多賀賢三郎(明治になって起こった最後の敵討ちの被害者)を扱ったサイトでは金沢にいる多賀氏(佐々木系)は尼子氏、豊臣氏、生駒氏に仕えたあと、前田家に仕えたと書いてありましたが本阿弥氏とつながる多賀氏と関係があるのでしょうか・・これから調べたいと思います。
本阿弥光悦の子孫で加賀に移ったものもありましたが、あくまで本阿弥家として行っているので、加賀藩士多賀氏との関係を類推するのは難しいと思います。
いろいろな可能性を考えて、調査してみてください。
中世には武士であった者が、江戸時代には名主・庄屋をつとめる郷士であったことは多くあります。名字・帯刀を許されたのが、このような郷士です。
どちらであったかは明治に士族であったか平民であったかで分かります。平民であれば中世に武士であった郷士です。
突然ごめんなさい。
私の姓は、堀 と申す者です。
家紋は、丸に隅立て四つ目結。
自分の祖先が知りたくて
我流で調べてまいりましたが、
分かることはあまりなく
悩んでいる所存です。
お力をかして頂けますか?
わたしは姓氏研究家でも家紋研究家でもなく、歴史研究者なので、御期待通りに答えることはできないと思いますが、まずは御質問を聞かせてください。
お返事、遅れて申し訳ありません。
自分なりに調べてみたところ
寺村氏という一族がこの紋を使用していたようです。
寺村はどのような活躍をした者なのでしょうか?
分かることを教えて下さい。
たとえば家紋の場合、丸に四つ目結は佐々木氏や佐々木氏家臣には多く見られるので、手がかりになりませんが、変形が特徴的なものであれば、手がかりになることがあります。
まずは自分で判断されずに、情報を教えてください。
すみませんでした…
家の家紋は丸に隅立て四つ目結です。
佐々木氏族の堀氏には二流あって、ひとつは近江佐々木庄下司源行実(行真)の嫡子盛実(守真)の子孫で、盛実―家実(井源太)―家綱(次郎)―長綱(堀弥源太)と続きます。東近江地方では、井と堀は同じ意味で、用水路を意味しています。このことでも佐々木庄下司源行実の一族が水を管理していたことが分かります。
またもう一流は、近江守護佐々木定綱の五男広定の子孫で、広定(馬淵五郎)―成綱(堀部三郎左衛門尉)―氏綱(堀部四郎、母菅原真長女)―時綱(八郎、堀権大夫・越後守)と続きます。こちらは蛇の目や釘抜き紋を使用したようです。氏綱の母が菅原氏であることから、北近江で菅原氏族と名乗る堀氏とも関係があるでしょう。
家紋が丸に隅立て四つ目結というだけでは、どちらとも判断できませんし、他流の者が四つ目結紋を下賜されたとも、縁あって丸に四つ目結紋を使用したとも考えられます。
ありがとうございました!
誠に感謝しております。
私も祖母の代に堀は水に関係していると聞いておりました。
また、なにか機会があれば
お聞きしたいと思います。
返事が遅れ申し訳ございません。仕事が忙しく調べ物ができない状態でした。
松下氏に関する書籍ですが、冨永公文『松下加兵衛と豊臣秀吉』がいいでしょう。一般の方ですが、まじめに松下氏を調査されています。amazonでも購入できるはずです。
また、松下氏が関係した都道府県史や市町村史など地方志を調べるのもいいでしょう。
ところで京極流松下氏の子孫については、佐々木六角氏領の武蔵川崎荘代官として、武蔵小杉に居住して小杉氏を名乗っています。これが松下には佐々木六角氏流が残った理由かもしれません。
僕もいろいろ研究しています。
名称こだわらず、純粋に形だけを見ていると、既存の説明とは異なる意味が見えています。
佐々木氏の四つ目結紋、京都八坂神社の瓜紋の意味が新たに分かってきました。
今、そのことを論考をまとめているところです。
楽しみにしていてください。
本日、天候が良かったので、我が家に保管されていた裃を出して風にあてました。裃に付いていた紋を調べていてこちらにたどり着きました。私の実家の母が祖母から預かっていたものを私が引き継ぎ保管していたものです。
空色の鮫小紋の麻?のような素材です。前に二つ、後ろ背中に一つ、袴の腰部分に紋が染め抜かれています。(袴の着方が不明なので、紋は前に付いている?)かなり古いものですが、祖母の実家は会津です。確か船石という性だったと思います。この紋を調べていて驚いたのは、実は父の実家の本家も会津なのですが、元々は滋賀県蒲生郡出身だということがわかってます。蒲生氏郷の家臣だったそうです。今は別の名前なのですが平井性だったことを滋賀の図書館の方が調べてくれました。紋は丸に違い鷹の羽です。要するに父方も遠い昔は滋賀に縁があり、母方の祖母は会津でやはり滋賀に縁のある家紋を持つ家の出身であり、父と母は偶然にも縁のある家紋同士で出逢い結婚しているのです。よく考えると父母があまり仲がいいとはいえなかったのは、昔の因縁がありそうです。図書館の方が調べてくれた郷土資料にそのような一文がありました。
それでも私たちに命がつながっていることは、多くの偶然の積み重ねでもありますから感謝しかありません。今日は遠きいにしえでこの裃を着られたであろうご先祖に思いを馳せていました。突然のコメントを失礼しました。
袴の家紋は、袴の後ろに付けるはずです。いまでも大学の卒業式で、袴の後ろの上部に家紋をつけた女子学生をかけ見ると思います。
六角氏の旧臣で会津100万石の大大名になった蒲生氏郷を頼って、多くの近江人が会津に移っていますので、会津でしたら家系を追いやすいですね。
しかも対立関係にあった家系のご両親が結婚されて、あなたが生まれたことで、両家系の因縁は解けたのではないでしょうか。
私の父方の家系は六角氏の子孫で、一度会津に寄食した後に出羽に転出したようです。きっと何かの縁でしょう。素晴らしいコメントありがとうございました。
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それから370年以上後になっての鳥羽伏見の戦いでの資料にも実家の名が出てきます。戦いで手負いとなり、京都近江屋で坂本龍馬暗殺の際に外で見張りをしていた土肥仲蔵と共に自刀、和歌山の念興寺の墓に並び弔われているようです。(同じく実家の資料から。)直接のご先祖ではないかもしれませんが、若い時から京都が好きで、金戒光明寺を訪ねた時は不思議な感覚に襲われました。後で知ったことですが、京都守護職になった松平容保率いる会津藩の本陣だったと知りました。
私にとって京都、滋賀は思い入れのある特別な土地です。長々と個人的なことを書かせていただき失礼いたしました。これも先祖のご縁とお許しください。(歴史に疎く、色々間違いや勘違いがあるかもしれません、そのあたりもご容赦ください。)
できますれば、実家に伝わっている系譜伝承を大切にお守りください。それがご先祖の供養と今後の歴史研究の資料になります。
とくに東日本大震災の影響で各家に伝わる資料が失われることが危惧されています。
今後ともご実家の歴史を探究されることを望みますとともに、また何か発見がありましたらご報告ください。
また、今回のお返事で、なお一層自身にわだかまっていた「おり」のようなものが解けて涙と一緒に流れていったような気がしました。
「顕彰するため。家名を残すため。」なるほどそのように考えるのですね。よくわかりました。安部井姓はそうして現在に至ることができたことを感謝しないといけないですね。
こちらのサイトに導いて下さった先祖の歴史である資料を、大切に子どもたちに伝えていきます。多くの資料が震災で流されたかもしれないとなれば、尚のこと守っていこうと思います。
なんだか今度は使命感を感じてメラメラし始めました。また、こうした学術研究のお陰で癒される魂があることも理解させていただきました。私の勝手な解釈による間違いを正して下さってありがとうございます!
今後の佐々木様のご健闘をお祈り申し上げます。
此方へコメントを寄せて居らっしゃる方々の
姓とは違い、
一風、変わった姓を持って居る者です。
「櫻場」と申します。
私の母方の父の姓です。
彼は群馬県で生まれ育ちました。
30年以上も前にその私の祖父も他界しておりますが、
遠い昔、祖母から見せて頂いた喪服に付いていた
家紋が「丸に隅立て四目」でした。
又、此の家紋は此方の地方で、
櫻場を名乗る一系の家紋だそうです。
「丸に隅立て四つ目」は、
この地方、そして此の姓との関係を、
御説明願えましたら幸いです。
今現在、残念な事ではありますが、
私達の家族は私達の家系、
先祖を尊ぶ人間は誰も居りません。
彼から孫に当たる私は、今アメリカに住んでいて、
何かと調べる手立てを限られてしまい、
此の様に internet にて佐々木様の、
ご意見、ご見解、頂けます事感謝して居ります。
宜しくお願い申し上げます。
この桜庭氏は、源頼朝の奥州平定で活躍した佐々木三郎盛綱の子孫あるいは一族と考えられます。盛綱は上野にも所領を持ち、磯野氏が出ています。新田義貞の越後守護代佐々木忠枝は、この磯野氏の子孫と考えられます。陸奥桜庭を名字の地とした佐々木一族が、南北朝の内乱で上野に再移住した可能性はあります。
群馬県の桜場氏は、この陸奥桜庭氏の一族ではないでしょうか。四つ目結紋を使用していることは不思議ではありません。
昨日、佐々木様よりご指導頂きました櫻場系譜に、とても感激いたしました。
何故、この姓に拘るのかと言うのは、
私は祖父の姓「櫻場」を名乗っているのです。
そして、とても此の姓の響きと並びに、
旧字でなくてはいけないと言った祖父が教えてくれた漢字が幼い頃より好きでした。
櫻庭は、佐々木三郎盛綱の子孫或いは一族と、
佐々木様が仰っていらっしゃいましたので、
色々と興味を抱き、拙いながら私なり調べてみました。
とあるサイトにて、
佐々木秀義の三男とする盛綱の墓所として、
群馬県安中市と岡山県倉敷市に盛綱と思われる墓が残っているとの事でした。
佐々木様のご意見伺いたく思います。
又、文中には吾妻鏡と言う物にも触れていました。
群馬県にはこの吾妻鏡の、
「あずま」「あづま」の読みでは無く、
「あがつま」と読みますが、吾妻を使用する地名や渓谷、路線名まで有ります。
其れ等も色々な面での繋がりが有るのでしょうか?
他方検索の結果、佐々木様のこちらのサイトに出会えた事。
又、此方より沢山の事を学べる機会が得られた事に、感謝しております。
佐々木様に心より御礼申し上げ、
佐々木一族の傘下に属していると思われる、
私の持つ家紋、「四つ目結紋」の歴史的背景を、
正確に大切に守って行きたいと思い知らされました。
これからも宜しくご指導の程お願い申し上げます。
また吾妻は、奈良時代に関東から九州に派遣されていた防人が、東に向かって「我が妻」と歌ったのが始まりです。関東の人びとは大和政権に対して最後まで抵抗した勇敢な毛人(えみし)の子孫のため、大王(天皇)の直属とされ、天皇の親衛隊となり、防人として九州に派遣されることもありました。そのため語源では「あがづま」が正しく、現代仮名遣いでは「あずま」と表記されています。
上野(群馬)は上毛野国、下野(栃木)は下毛野国といって毛人の国という意味です。埼玉県稲荷山古墳に葬られた豪族ヲワケ臣も、大王の親衛隊長であることを誇りとし、鉄剣に代々大王の杖刀人首であった系譜を刻んでいます。北関東は毛人の子孫の国です。
これを機にご先祖のこと・歴史のことを学ばれるといいと思います。また不明なことがありましたら、ご質問ください。
此方で多々学べます事、本当に感謝致して居ります。
墓所に付きましてのご説明、理解出来ました。
又、北関東人は尊い上毛の子孫であったとは、
鳥肌が立つ程、ご説明に感動致しました。
これを機に...と、佐々木様が仰って下さいましたので、
家紋に寄せた興味だけで終わらせるのでは無く、
これより、もう少し詳しく我家の系譜歴史を調べたいと思って居ります。
出来れば、家系図を作成してみたいとも、思って居りますので、
この先又、困惑してしまう事があると思いますが、
その折は、宜しくご指導ご鞭撻の程、お願い申し上げます。
さくら
四つ目結紋も同じで、太平記以来、佐々木というと四つ目結紋と思われているので、もともとは四つ目結紋ではなかった庶流まで、佐々木というだけで四つ目結紋を使用するようになりました。そのため、四つ目結紋も何の手がかりにはなりません。
九州に渡った佐々木氏も様々なので、ひとくくりに論じることはできません。
『北波多村史』は手許にないので、ページ数を書かれているだけでは、何の記述があるのか、私には分かりません。もう少し詳しく情報をいただけるでしょうか。
ただし、調査依頼ということであれば、あらためて調査依頼を願います。
私は、波多三河守の家臣『松浦古事記』巻之中十四の佐々木近江守橘稠太 稗田村 200石の末裔と思われる者です。現在は鹿島市に住んでおります。
『北波多村史』平成23年3月31日発行通史編Ⅰの内容は、佐々木氏屋敷跡の説明として、
①『松浦要略記』には波多家用人として「佐々木近江守 稗田村居住、此人近江国日野の産也、日野氏とす、尤も佐々木の余流なる由」中略(『村資』九二三頁)。
②『唐津拾風土記』には「佐々木美濃助屋敷跡」として「稗田村に在り、安藝坂と云うも同所也」(『村資』七五六頁)
中略
③『松浦昔鑑』には「稗田村佐々木主馬と申人落人となり居住したる由、其所に今佐々木と字有り」と記し、こちらには「落人」の屋敷地として扱っている。
「要は、すでに江戸の後期の段階で、それほどに曖昧な情報しかなかったことを物語っており、佐々木氏なる領主層の動向自体も今のところ判然としない」。といったことです。
つづく
今年4月に中学に上がる息子と、秀吉に滅ぼされた松浦党の首領?波多氏の岸岳城(佐賀県)に登ってきました。その入口にある稗田村の八幡神宮の近くに佐々木という地名がありました。役場の方に聞くと、最近、『北波多村史』が出たというので、買い求め広げてみたら、佐々木屋敷跡というのもあったので驚きました。岸岳落城後、浪人していたのを唐津の寺澤氏に庄屋として拾われたらしく、私の家も、その末裔のようです。
安永年間(1772~1780)に、私の祖先、佐々木重義が肥前鍋島家の支藩の一つ、鹿島藩の八代鍋島直宣の時に唐津より鹿島藩にきました。
要は、この前のところで、なぜ、祖先が波多氏のところにいたのかの、九州に渡った佐々木氏「ひとくくりのところ」がどのように調べるのかがわかりません。古文書にアクセスもできませんし、読めるわけでもありません。特に歴史に詳しいわけではありません。皆さん同じと思いますが、少しでもルーツのようなものが繋がればと思います。 九州に渡った佐々木氏の様々なところ、可能性、をお教えいただければ幸いです。唐津の相知あたりに佐々木姓が多いと聞いています。家紋が私と同じ平四目なのかも時間があれば私自身も訪ねて行き調査したいとおもっています。分かりしたらご報告するつもりです。
よろしく、お願い致します。
さらに南北朝時代には地頭は北朝の守護や国大将、あるいは南朝の大将に従い各地に転戦しています。佐々木氏が全国に広がる第二段階です。
肥前であれば、鍋島氏が隠岐佐々木氏の子孫で、隠岐守護佐々木豊前守宗清の子信濃守秀清に始まる佐々木信濃家の子孫経秀が、肥前国小城郡主千葉氏を頼り、下向したことに始まると伝えられています。
波多氏家臣の佐々木氏もこのような動きの中で肥前に下向したのでしょう。もともと日野氏とありますので、近江国蒲生郡日野邑を名字の地とする一族だったのかもしれませんが、二百石と小身の人物について、上から結びつけるのは不可能です。落人となれば尚更、上から結びつけることはできません。系図作成はあくまで下からさかのぼるのが確実な方法です。上から結び付けては、自分の勝手な推測で結びつけることになります。
まずは波多氏に関する本を読むといいでしょう。
色々、時間のある限り情報収集して、息子に伝えたいと思います。
もし家に資料が残っていれば、読めなくても大切に保存してください。とても重要な歴史資料です。また菩提寺に過去帳があれば、江戸期の系図が作れるはずです。さらに波多氏について調査すれば、そこから室町時代の佐々木氏の動向が分かるかもしれません。松浦党については多くの研究があるので、参考になるでしょう。
わたしも松浦党と佐々木氏の関係について調査しようと思います。何か結果が出ましたらブログで発表しましょう。
『相知町史』に、概説として「天正十五年草野氏が滅んだので、波多参河守に仕えていた。」いうことで、「草野氏」との関わりがあるようです。また、「町切佐々木氏の祖先は、左京守が波多氏没落後浪人して町切に居住したといわれているが、佐々木近江が左京守と同一人でないにしても近江(守)の一門であったことは間違いないであろう。」とありました。相知の佐々木さんのある家にお聞きしたところは、家紋は、丸に隅たて四つ目結いということです。私の家は平四つ目なので、ちょっと違うのか、どうか。「左京守」は、今の愛知県あたりから来たと記録にあるようですが、古老にまた、再訪問するとお願いしてます。また、時間のある時に調べてみます。私のご先祖探しのようで恐縮です。
すいません。
相知の佐々木さんは「本家」と「分家」があり、「本家」は現在福岡の方におられるそうです。「佐々木左京守高貞」の墓が現在残っており、佐々木さん一族の墓地56基ほどもあるとのこと。
夏のお盆すぎに佐々木さんたちは集まって寄り合いをされるそうです。大切にご先祖供養されています。
本家のある方が、40年前の昭和48年、82歳で冊子にされた『佐々木本家家譜並びに関連記録』というものを分家に渡されたそうで、写真に撮らせていただきました。
それによるとですが、「左京守高貞は三洲岡崎より来り佐賀県相知町久保山の背後にある岸嶽城を築いた波多三河守源親の臣で鎌倉御家人で波多三河守の同族であり其後大庄屋となりしが何代目か記録なき為なるも国禁の鶴を撃ち大庄屋の身分であった為大きな問題となったとの言伝えあり」だそうです。
言い伝えです・・。佐賀県の佐々木さんを電話ソフトから調べたら圧倒的に唐津市に佐々木さんが多く、2007年で登録が183件あります。しかも、浜玉56件。鹿島市は3件。伊万里市26件、鳥栖市67件、西松浦21件、武雄市5件、多久市4件、嬉野市3件、杵島郡9、東松浦2件 ちなみに、鳥栖の近く福岡の久留米で105件、太宰府には35件、唐津に近い福岡の糸島郡で24件。近隣の県とか、もう少し正確に調べられたら何か面白いかもしれません。唐津市浜玉のある佐々木さんの家紋は、相知と同じく丸に隅たて四目でした。私の家の平四目ではありませんでした。謎は深まるばかり・・
また、投稿させていただきましたら、もう少し時間をかけて調べたいと思います。
着実に調査が進んでいますね。感心しています。ただ気になるのは家紋にこだわりすぎているということです。四つ目結の紋であれば、隅立て四つ目結紋も平四つ目結紋も大した違いは有りません。本家が隅立てであれば、分家が平で、本家が平であれば、分家が隅立てという具合です。
また、丸がついても分家を意味します。飾りが少ないほど本家に近く、装飾が多いほど分家になります。
しかも四つ目結紋は本来は鎌倉期の定綱・信綱の系統が使用していたものですが、太平記で六角・京極の紋として頻繁に登場していたために、佐々木というと四つ目結紋と思われ、本来は四つ目結紋ではなかった佐々木一族まで、四つ目結紋を使用するようになりました。
さらに江戸時代に佐々木盛綱・高綱兄弟を演じた歌舞伎役者が大きな四つ目結紋を付けたために、さらに佐々木一族のものは好んで四つ目結紋を使用するようになったのです。
だから四つ目結紋が隅立てか平かはそれほど気にしないでください。迷宮に迷い込みます。
父の出身は青森の津軽にあり、農家です。
結婚して和田になり、家紋をみてみると、石田と同じ「丸に角立つ四ツ目」で驚きました。
また、先日職場の石田さんのお父様にお会いした時、家紋の話になりました。そのとき、私の家系も元をたどれば石田三成の子孫であり、遠い親戚かもしれないというように聞きました。
気になりましたので投稿させていただきました。
何かご存知であれば教えていただきたいです。
よろしくお願いいたします。
むしろ私には、石田氏の家紋に四つ目結紋が使用されているのが新しい発見です。詳しいことを聞かせてくださると幸いです。
石田氏のことは別にしても、丸に隅立て四つ目は佐々木氏族以外にも多数使われている気がします。丸に隅立て四つ目の鈴木氏、青山氏、清水氏などありえないだろうと思うような苗字でもかなり見かけます。
また、ウィキペディアによると、石田三成の一族は北面武士であった下毛野氏の一族、三浦一族である石田為久の末裔、あるいは京極氏に属する荘園の代官であった土豪など、出自には諸説あるとのこと。京極氏に属する荘園の代官であった土豪説なら、佐々木京極氏から分け与えられた可能性もあるのでは? あるいは佐々木氏一族との婚姻関係から丸に隅立て四つ目に家紋を変更したのでは?と憶測で考えてしまいました。
よろしくお願いいたします。
青森
旗本浅井氏の紋では五七桐、十六弁八重裏菊、杏葉菊、井桁、柏(抱き柏・三つ柏)、轡(丸に十字)、根笹、七宝に花菱、横木瓜も見られます。
また宇多源氏佐々木流を名乗る浅井氏もあり、九曜紋、違い釘抜き(違い井桁)、左三つ巴、揚羽蝶、鶴丸、剣花菱を使用しています。
さらに橘姓田中流浅井氏は井桁、六本骨扇、橘紋、右三つ巴、笹竜胆などを使用しています。
このように浅井氏といっても様々な家紋を利用しています。しかも、これらは旗本になった浅井氏の家紋ですから、もっと多くの家紋があるでしょう。
四つ目紋は佐々木氏族だからという理由で使用したのか、あるいは佐々木氏から給付されたものかもしれません。近江出身者にはふさわしい家紋です。大事にしてください。
今は、福岡県に在住ですが、2代前が、広島にたくさん土地を持っていたとゆう話を聞きました。
私は、今の代の長女で結婚し、旧姓になってしまいますが、佐々木で丸に隅立四目結紋が家紋です。地元では珍しい家紋だと言われてます。
昔、過去帳を持っていたお寺が空襲により、家系図は消えてしまいましたが、住職さんが、
「出がいい」
「先祖は天皇に仕えていた」
「佐々木小次郎のお城にも仕えていた(仕えていたのか、身近だったのかはわかりません)」
等と言われていましたが、その方も亡くなり
そんな話を祖父から聞いた父が興味を持った頃には、もう何もわからなかったらしいです。うちの父は自分で家系図を作ろうとしたみたいですが、6代前までしか分からなかったみたいです。
私も大変興味を持ち色々調べていたところ哲先生のブログに出会い何かわかればと、書き込みをした次第です。
空襲により、過去帳などがない場合どうやって先祖を辿っていけばいいのでしょうか。
よかったら、お知恵を貸していただけたら嬉しく思います。
広島ということであれば、隠岐・出雲守護で中国地方に広く分布した義清流佐々木氏、戦国期に中国地方で覇を唱えた佐々木京極流尼子氏、あるいは足利義昭の備後鞆への移座に同行した近江守護佐々木六角氏の一族と考えられます。備前守護佐々木加地氏の子孫の可能性もあります。
義清流佐々木氏は一般的に輪違い紋を使用しましたが、なかには佐々木氏ということで四目結紋を使用するものもあり、盛綱流佐々木氏も一般的には三星紋ですが、やはり四目結紋を使用することがありました。このように丸に四目結紋だと、家系を特定することはできないのです。
過去帳が残っているのであれば、過去帳をもとに刑を調査してください。それがもっともよい方法です。
また安徳天皇に仕えていたという記事が過去帳等にあるのならば、鎌倉幕府の開創に活躍した佐々木定綱・経高・盛綱・高綱・義清など佐々木兄弟の子孫ではなく、平氏に仕えた本佐々木氏の系統ということになります。古代佐々貴山公の子孫ということです。しかし、安徳天皇という伝承は何かの誤りかもしれません。とにかく過去帳を見てください。
菩提寺の過去帳などで何かわかりましたら、また情報を知らせください。
福岡県に在住の田代と申します。
田代家の家系図を作成しようと思い、色々
調べていて、このブログを拝見しました。
そこでお願いなのですが、疑問点について
お答えいただけないでしょうか。
田代家の祖先は、言い伝えでは南部藩士の
田代安藝といい、閉伊一族で四目結紋です
安藝娘は、櫻庭安房光安妻との記載が、南
部藩参考諸家系図には記載されています。
家は、1712年頃に断絶となり、その後の
資料は見つかっておりません。
現在の田代家は、墓を調査したところ
判別できるもので1750年代のものがあり
家紋は、違い釘抜紋です。
1830年頃には、南部藩の御給人だった
との文献資料は存在します。
以上のように、家紋の違いによって家系
を否定することがあるでしょうか。
又、家断絶後に家紋を変えることがあるで
しょうか。
今の田代家は、度重なる津波で昔の資料が
が流失して、調べることができまん。
お忙しいとは存じますが推測で構いません
のでよろしくお願いいたします。
返事が遅れましたが、閉伊源氏は源為朝の男子が佐々木高綱の養子になり佐々木十郎行光と名乗ったことに始まるとされています。
その閉伊源氏に田代氏が見られますので、その子孫と推測できます。閉伊源氏の家紋は四つ目結紋ですが、釘抜きは四つ目結紋の変形ですから、貴家もおそらく閉伊源氏の子孫と考えていいでしょう。
私は高校時代に陸上部だったのですが、同期に成沢氏がいました。彼の家には、佐々木高綱の子孫という系図が伝えられていたそうです。先祖の出身は甲信地方だったはずです。現在交流はないため、詳細は分かりません。
太田亮『姓氏家系大辞典』では最上氏流成沢氏の記載はあるものの、佐々木流成沢氏の記載がないので、判明すると面白いですね。
お忙しいなかご丁寧にご返信いただき
ありがとうございます。
閉伊氏一族の田代氏が先祖であるとの
言い伝えがあり、家系図をしようと現
在の田代家との繋がりを示す文献資料
等を調べましたが残念ながら1700年代
に数10年空白があり、嫡流・支流等の
いずれに該当するかは不明の状況です。
繋がりを示す資料等を時間をかけて調
査したいと思います。
ありがとうございました。
幼少の頃から名古屋の方ですか?と聞かれることが多く自分のルーツに興味を持ちました。
今は武雄市になってしまった杵島郡の黒髪神社近くが
本籍で、家の敷地に川が流れていて、ある日
その川が氾濫して蔵ごと流れてしまった、
祖父が次男だった為に、東京へ上京しましたが
その際家を建てるのに、自分の山の木を切り出して
東京へ運べばいいと話していた、というのを
聞いたことがあり、高校生の頃に祖母に現在その山は?と聞いたところ、管理しきれず、国のものと
なってしまったようです。
江戸時代に大庄屋の家系であったらしいところまでは
自分でたどり着きました。が、現在平民です。
本来本家に家系図もあると聞いたことがありますが、
祖父が若くして亡くなり縁が切れてしまいました。
家紋が丸に隅立て四つ目です。
平井氏族の生き残りなのか、それよりもっと前なのか、一度は長崎となってしまった佐賀県だけに
難しいです。
関西に親戚は居らず、しかしながら
織田家に犬山鉄斎、佐賀に名護屋城と
かなり名古屋との関わりがあるようですが、
佐々木氏とどう関係があるのかお教え頂けると
幸いです。
よろしくお願いいたします。