大本所義堯
六角義堯(一五五一-一五八二)義秀の子。足利義輝実子(続群書類従本伊勢系図)。亀千代(『お湯殿の上の日記』『親俊日記』)。本名実頼(『山中文書』)。系図では実名義頼、官職は右京大夫(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)、あるいは左京大夫(続群書類従本伊勢系図)。和田山城主(『江源武鑑』)。六角承禎(義賢)からは「大本所」(『坂内文書』)と呼ばれた。
沙々貴神社所蔵佐々木系図では、義堯に相当する義頼について、始め若狭武田義統の養子となり、のち帰家したと伝える。しかし若狭武田氏の養子になったという事実は確認できない。この系譜伝承は、朝倉孝景(正妻若狭武田氏)の養子になった朝倉義景の事跡を混同したものと考えられる。この系譜伝承の錯誤で朝倉義景が六角氏綱の子息ではなく、六角義久の子息であったことが分かる。義堯については、むしろ続群書類従本伊勢系図の伊勢貞孝の項で、十三代将軍足利義輝の実子で「足利左京」と名乗ったと伝えている。
義秀の子息亀千代も七月二十七日に幕府に出仕した(『親俊日記』)。これは亀千代の母が義輝の姉だったからだろう。さらに『お湯殿の上の日記』同年十一月二十七日条に、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。髪置は二歳で行うものであり、亀千代の生年を天文二十年と推定することができる。
永禄十一年(一五六八)九月十日織田信長は上洛軍を起こすが、十一日愛智川の戦いで和田山城(城主は義堯か)の六角軍に敗北して帰国したため、承禎父子支援のため近江坂本に出張していた三好三人衆石成友通も帰京している(『言継卿記』)。それを見て信長は、十二日再び近江に出張した(『言継卿記』)。信長軍は今度は前線和田山城・本城観音寺城との正面衝突を避け、後方の承禎・義治父子の箕作城を直接攻略し、承禎父子は激戦のすえ甲賀に逃走している(『信長公記』)。もともと六角氏では、義秀と承禎・義治父子が対立し、義秀は信長と結んでいた。信長妹と浅井長政の婚姻をまとめたのも六角氏であり、信長の美濃稲葉山城攻略では、援軍を派遣していたのである。義秀(江州殿)は足利義昭を観音寺城に迎えると、二十二日信長とともに上洛軍を起こし(『お湯殿の上の日記』)、二十六日入京している。
しかし義堯の父義秀が没したことで近江情勢は激変した。元亀元年(一五七〇)四月六角承禎と申し合わせた浅井長政が、信長方から離反している(『言継卿記』)。五月九日承禎軍が近江に出張すると、浅井長政も挙兵した。それに対して信長軍二万が出陣している。長政離反の理由は様々言われているが、当時の記録を読む限り、承禎の説得による。この事件を『言継卿記』は「大儀の至り」と記しているが、実際に信長にとって最悪の年になった。
五月十二日承禎が拘束されたという情報が流れるが、実は和平交渉が始められていたのである。しかし十九日和平交渉は決裂して、信長は美濃に帰国した。二十二日には承禎軍二万が再び甲賀郡石部城に出勢している。信長軍と同じ二万の軍勢だ。これだけの軍事力があれば、承禎も強気なはずである。
このような情勢の中、六月四日木浜合戦があり、江州衆の進藤・永原と織田軍の佐久間・柴田が、六角承禎・義治父子を破った。さらに六月十九日信長は近江修理大夫に援軍を要請している(『士林證文』三:近江修理大夫宛織田信長書状)。この近江修理大夫は、義秀の近親者であろう。これに先立って同月十日近江修理大夫は承禎父子を拘束している。実はこれも拘束ではなく、接触だったと考えられる。以後、六角氏は浅井・朝倉軍と行動をともにするからである。
六月二十八日の姉川の戦いでは、六角・浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した。織田方は大勝利と宣伝するものの、以後も朝倉義景が竹生島に参詣するなど(『宝厳寺文書』)、北近江では浅井・朝倉氏が自由に行動しているところを見ると、むしろ六角・浅井・朝倉方の勝利であったと推定できる。織田方の資料は割引いて読む必要がある。これも信長が得意であった情報戦のひとつであろう。
九月二十日朝倉軍・近江高島衆・一揆衆が織田方の宇佐山城を攻略した。信長の弟信治・森可成が討死している。六角軍の先鋒は逢坂山を越えて山科に進駐し、信長は苦境に立たされた。
信長は天皇を動かすことで和睦するのが精一杯だった。まず11月承禎・義治父子と和睦し、さらに一二月朝倉義景と和睦した。このとき信長方であった山岡対馬守に対して、たとえ国主が旧領主に還付したとしても、自分が給付した領地高は保証すると述べている(記録御用所本『古文書』山岡:元亀元年十二月十五日付織田信長朱印状)。この信長朱印状で、国主である近江修理大夫も、12月の和睦だったことが分かる。
六角氏は以後も国主として自立しており、元亀二年(一五七一)九月信長によって焼打ちされた比叡山を、翌三年(一五七二)叔父義郷(氏郷)が近江蒲生郡に比叡山を再興している(『朽木文書』『延暦寺由緒』)。現在の長命寺はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。
ところで元亀三年(一五七二)十月一日夜前、義堯の許に訪れた者があり、そのことについて義堯は夜中に使者池田景雄(孫二郎)を承禎父子の許に派遣して相談している(『山中文書』十月二日付山中大和守宛六角承禎書状)。義堯の花押と義治(承禎の子息)の花押が近似しているため、両者を同一人物とする見方もあるが、この文書によって同一人物でないことは明らかである。また相談内容については書面に記せないとしながらも、①三河方面のこと、②三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、③出座のことである。このうち三河のことは、同月出陣する甲斐武田信玄の三河進軍のことだろう。そうであれば、たしかに極秘情報である。出座は義堯自身の身の振り方のことだろう。決断を迫られていたのである。また使者池田景雄(孫二郎)は、『信長公記』で織田方と記されている人物である。このとき義堯が織田方であったことが分かる。義堯は、信長と和睦していた国主近江修理大夫と同一人物だろう。『江源武鑑』で義秀の没年を永禄年間ではなく天正十年(一五八二)にしているのも、義秀・義堯の二代にわたって修理大夫に任官しているからと考えられる。
元亀四年(一五七三)二月足利義昭が二条城普請を始めると、足利義昭の相伴衆仁木義政が将軍奉公衆・甲賀衆・伊賀衆らと近江で挙兵した。三月信長は足利義昭に和談を申し入れるが、義昭は拒絶した。朝倉義景は佐々木左馬頭(左佐馬)の要害に援軍を出すことを約束している(『尊経閣文庫』年未詳三月十八日付多胡宗右衛門尉宛朝倉義景書状)。この佐々木左馬頭は仁木義政と同一人物と考えられる。四月信長は二条城を囲むものの、正親町天皇の調停で足利義昭と和睦した。信長は兄信広を使者に立て義昭に御礼を述べている。ところが同月武田信玄が急死したことで、信長包囲網が崩壊した。それでも足利義昭は積極的に行動し、七月宇治真木島に移り挙兵している。しかし十二日に二条城に立て籠もっていた一色藤長が開城し、十八日には真木島城の足利義昭も子息(のちの大覚寺門跡義尋)を人質に出して退城した。これが実質上の室町幕府滅亡といわれる事件である。
同年の天正元年(一五七三)八月信長と六角氏の対立が表面化するが、朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡し、九月六角氏は信長と和睦した。このとき六角義治は愛智郡鯰江城を退城している。
しかし天正二年(一五七四)義堯は甲斐武田勝頼と越後上杉謙信を結び付けるのに成功し(『木村文書』『黒川文書』)、天正三年(一五七五)信長が石山本願寺の攻撃を開始すると、義堯も旗色を明らかにして(『本善寺文書』)、六角・武田・上杉同盟をもとに信長包囲網を築いた(『上杉文書』『河田文書』)。
さらに天正五年(一五七五)義堯は吉川元春を介して毛利輝元を味方につけ(『吉川文書』)、足利義昭を備後鞆に下向させるのに成功した。このとき近江甲賀郡で活動していた承禎は、義堯のことを「大本所」と呼んでいる(『坂内文書』)。義堯は嫡子義康を近江に残し、細川昭賢・若狭武田信景とともに備後に下向。鞆幕府では書札礼から足利義昭につぐ格式で、細川氏よりも上位であったことが分かる(『吉川文書』『小早川文書』)。義堯は、伊勢北畠具親・越前朝倉宮増丸(義景の遺児)・加賀一向一揆とも連絡を取っている(『坂内文書』『吉川文書』)。
天正六年(一五七八)正月、義堯は阿波・淡路勢を率いて堺に着岸し、多武峰衆徒にも挙兵を促した(『談山神社文書』)。このときの使者は河内畠山氏旧臣遊佐弾正左衛門であり、畠山氏旧臣も統合していた。二月、信長の甥信澄を養子にして近江高島郡を領していた浅井氏旧臣磯野員昌が突然出奔し、播磨三木の別所長治も背いた。しかし三月に上杉謙信が急死し、信長包囲網に穴が生じている。それでも十月荒木村重が挙兵しており、義堯の軍事行動の影響力が分かる。しかし、これ以後の義堯の行動を資料で跡づけることはできない。
資料がない理由としては、信長との和睦が考えられる。天正六年(一五七八)十一月の毛利水軍敗退、天正七年(一五七九)飛騨国司姉小路宣綱の摂津での戦死、天正八年三月正親町天皇の斡旋による本願寺と信長の和睦が関係していると考えられる。義堯は本願寺と共同戦線を取っていたため、本願寺と信長の和睦のとき、義堯も和睦したと考えられる。また但馬浅間城主佐々木氏の子孫に伝わる佐々木家系図(個人蔵)では、六角義秀の子息近江守義高が織田方の但馬侵攻のとき降伏したとも伝えている。同家は山名氏奉行人佐々木近江入道(『山科家礼記』文明九年十月二十七日条)の子孫と考えられるが、義高に関する記述には注目すべきだろう。『天王寺屋会記』天正八年(一五八〇)二月二十二日条に「佐々木殿」が記されているが、もしかしたら義堯のことかもしれない。
沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、義堯に同定できる義頼が没したのは天正十年(一五八二)六月である。ちょうど明智光秀の乱のときである。義堯が明智光秀の乱でとった行動が判明すれば、明智光秀の乱の謎も解明できるのかもしれない。しかし、残念ながら今のところ資料がない。
分かることは天正十八年(一五九〇)小田原の陣での茶会に、江州六角殿と真木島昭光(足利義昭近臣)が秀吉に招かれていることだ(『天王寺屋会記』)。この六角殿は、義昭近臣を伴っていることから義堯本人あるいは子息と考えられる。
沙々貴神社所蔵佐々木系図では、義堯に相当する義頼について、始め若狭武田義統の養子となり、のち帰家したと伝える。しかし若狭武田氏の養子になったという事実は確認できない。この系譜伝承は、朝倉孝景(正妻若狭武田氏)の養子になった朝倉義景の事跡を混同したものと考えられる。この系譜伝承の錯誤で朝倉義景が六角氏綱の子息ではなく、六角義久の子息であったことが分かる。義堯については、むしろ続群書類従本伊勢系図の伊勢貞孝の項で、十三代将軍足利義輝の実子で「足利左京」と名乗ったと伝えている。
義秀の子息亀千代も七月二十七日に幕府に出仕した(『親俊日記』)。これは亀千代の母が義輝の姉だったからだろう。さらに『お湯殿の上の日記』同年十一月二十七日条に、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。髪置は二歳で行うものであり、亀千代の生年を天文二十年と推定することができる。
永禄十一年(一五六八)九月十日織田信長は上洛軍を起こすが、十一日愛智川の戦いで和田山城(城主は義堯か)の六角軍に敗北して帰国したため、承禎父子支援のため近江坂本に出張していた三好三人衆石成友通も帰京している(『言継卿記』)。それを見て信長は、十二日再び近江に出張した(『言継卿記』)。信長軍は今度は前線和田山城・本城観音寺城との正面衝突を避け、後方の承禎・義治父子の箕作城を直接攻略し、承禎父子は激戦のすえ甲賀に逃走している(『信長公記』)。もともと六角氏では、義秀と承禎・義治父子が対立し、義秀は信長と結んでいた。信長妹と浅井長政の婚姻をまとめたのも六角氏であり、信長の美濃稲葉山城攻略では、援軍を派遣していたのである。義秀(江州殿)は足利義昭を観音寺城に迎えると、二十二日信長とともに上洛軍を起こし(『お湯殿の上の日記』)、二十六日入京している。
しかし義堯の父義秀が没したことで近江情勢は激変した。元亀元年(一五七〇)四月六角承禎と申し合わせた浅井長政が、信長方から離反している(『言継卿記』)。五月九日承禎軍が近江に出張すると、浅井長政も挙兵した。それに対して信長軍二万が出陣している。長政離反の理由は様々言われているが、当時の記録を読む限り、承禎の説得による。この事件を『言継卿記』は「大儀の至り」と記しているが、実際に信長にとって最悪の年になった。
五月十二日承禎が拘束されたという情報が流れるが、実は和平交渉が始められていたのである。しかし十九日和平交渉は決裂して、信長は美濃に帰国した。二十二日には承禎軍二万が再び甲賀郡石部城に出勢している。信長軍と同じ二万の軍勢だ。これだけの軍事力があれば、承禎も強気なはずである。
このような情勢の中、六月四日木浜合戦があり、江州衆の進藤・永原と織田軍の佐久間・柴田が、六角承禎・義治父子を破った。さらに六月十九日信長は近江修理大夫に援軍を要請している(『士林證文』三:近江修理大夫宛織田信長書状)。この近江修理大夫は、義秀の近親者であろう。これに先立って同月十日近江修理大夫は承禎父子を拘束している。実はこれも拘束ではなく、接触だったと考えられる。以後、六角氏は浅井・朝倉軍と行動をともにするからである。
六月二十八日の姉川の戦いでは、六角・浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した。織田方は大勝利と宣伝するものの、以後も朝倉義景が竹生島に参詣するなど(『宝厳寺文書』)、北近江では浅井・朝倉氏が自由に行動しているところを見ると、むしろ六角・浅井・朝倉方の勝利であったと推定できる。織田方の資料は割引いて読む必要がある。これも信長が得意であった情報戦のひとつであろう。
九月二十日朝倉軍・近江高島衆・一揆衆が織田方の宇佐山城を攻略した。信長の弟信治・森可成が討死している。六角軍の先鋒は逢坂山を越えて山科に進駐し、信長は苦境に立たされた。
信長は天皇を動かすことで和睦するのが精一杯だった。まず11月承禎・義治父子と和睦し、さらに一二月朝倉義景と和睦した。このとき信長方であった山岡対馬守に対して、たとえ国主が旧領主に還付したとしても、自分が給付した領地高は保証すると述べている(記録御用所本『古文書』山岡:元亀元年十二月十五日付織田信長朱印状)。この信長朱印状で、国主である近江修理大夫も、12月の和睦だったことが分かる。
六角氏は以後も国主として自立しており、元亀二年(一五七一)九月信長によって焼打ちされた比叡山を、翌三年(一五七二)叔父義郷(氏郷)が近江蒲生郡に比叡山を再興している(『朽木文書』『延暦寺由緒』)。現在の長命寺はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。
ところで元亀三年(一五七二)十月一日夜前、義堯の許に訪れた者があり、そのことについて義堯は夜中に使者池田景雄(孫二郎)を承禎父子の許に派遣して相談している(『山中文書』十月二日付山中大和守宛六角承禎書状)。義堯の花押と義治(承禎の子息)の花押が近似しているため、両者を同一人物とする見方もあるが、この文書によって同一人物でないことは明らかである。また相談内容については書面に記せないとしながらも、①三河方面のこと、②三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、③出座のことである。このうち三河のことは、同月出陣する甲斐武田信玄の三河進軍のことだろう。そうであれば、たしかに極秘情報である。出座は義堯自身の身の振り方のことだろう。決断を迫られていたのである。また使者池田景雄(孫二郎)は、『信長公記』で織田方と記されている人物である。このとき義堯が織田方であったことが分かる。義堯は、信長と和睦していた国主近江修理大夫と同一人物だろう。『江源武鑑』で義秀の没年を永禄年間ではなく天正十年(一五八二)にしているのも、義秀・義堯の二代にわたって修理大夫に任官しているからと考えられる。
元亀四年(一五七三)二月足利義昭が二条城普請を始めると、足利義昭の相伴衆仁木義政が将軍奉公衆・甲賀衆・伊賀衆らと近江で挙兵した。三月信長は足利義昭に和談を申し入れるが、義昭は拒絶した。朝倉義景は佐々木左馬頭(左佐馬)の要害に援軍を出すことを約束している(『尊経閣文庫』年未詳三月十八日付多胡宗右衛門尉宛朝倉義景書状)。この佐々木左馬頭は仁木義政と同一人物と考えられる。四月信長は二条城を囲むものの、正親町天皇の調停で足利義昭と和睦した。信長は兄信広を使者に立て義昭に御礼を述べている。ところが同月武田信玄が急死したことで、信長包囲網が崩壊した。それでも足利義昭は積極的に行動し、七月宇治真木島に移り挙兵している。しかし十二日に二条城に立て籠もっていた一色藤長が開城し、十八日には真木島城の足利義昭も子息(のちの大覚寺門跡義尋)を人質に出して退城した。これが実質上の室町幕府滅亡といわれる事件である。
同年の天正元年(一五七三)八月信長と六角氏の対立が表面化するが、朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡し、九月六角氏は信長と和睦した。このとき六角義治は愛智郡鯰江城を退城している。
しかし天正二年(一五七四)義堯は甲斐武田勝頼と越後上杉謙信を結び付けるのに成功し(『木村文書』『黒川文書』)、天正三年(一五七五)信長が石山本願寺の攻撃を開始すると、義堯も旗色を明らかにして(『本善寺文書』)、六角・武田・上杉同盟をもとに信長包囲網を築いた(『上杉文書』『河田文書』)。
さらに天正五年(一五七五)義堯は吉川元春を介して毛利輝元を味方につけ(『吉川文書』)、足利義昭を備後鞆に下向させるのに成功した。このとき近江甲賀郡で活動していた承禎は、義堯のことを「大本所」と呼んでいる(『坂内文書』)。義堯は嫡子義康を近江に残し、細川昭賢・若狭武田信景とともに備後に下向。鞆幕府では書札礼から足利義昭につぐ格式で、細川氏よりも上位であったことが分かる(『吉川文書』『小早川文書』)。義堯は、伊勢北畠具親・越前朝倉宮増丸(義景の遺児)・加賀一向一揆とも連絡を取っている(『坂内文書』『吉川文書』)。
天正六年(一五七八)正月、義堯は阿波・淡路勢を率いて堺に着岸し、多武峰衆徒にも挙兵を促した(『談山神社文書』)。このときの使者は河内畠山氏旧臣遊佐弾正左衛門であり、畠山氏旧臣も統合していた。二月、信長の甥信澄を養子にして近江高島郡を領していた浅井氏旧臣磯野員昌が突然出奔し、播磨三木の別所長治も背いた。しかし三月に上杉謙信が急死し、信長包囲網に穴が生じている。それでも十月荒木村重が挙兵しており、義堯の軍事行動の影響力が分かる。しかし、これ以後の義堯の行動を資料で跡づけることはできない。
資料がない理由としては、信長との和睦が考えられる。天正六年(一五七八)十一月の毛利水軍敗退、天正七年(一五七九)飛騨国司姉小路宣綱の摂津での戦死、天正八年三月正親町天皇の斡旋による本願寺と信長の和睦が関係していると考えられる。義堯は本願寺と共同戦線を取っていたため、本願寺と信長の和睦のとき、義堯も和睦したと考えられる。また但馬浅間城主佐々木氏の子孫に伝わる佐々木家系図(個人蔵)では、六角義秀の子息近江守義高が織田方の但馬侵攻のとき降伏したとも伝えている。同家は山名氏奉行人佐々木近江入道(『山科家礼記』文明九年十月二十七日条)の子孫と考えられるが、義高に関する記述には注目すべきだろう。『天王寺屋会記』天正八年(一五八〇)二月二十二日条に「佐々木殿」が記されているが、もしかしたら義堯のことかもしれない。
沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、義堯に同定できる義頼が没したのは天正十年(一五八二)六月である。ちょうど明智光秀の乱のときである。義堯が明智光秀の乱でとった行動が判明すれば、明智光秀の乱の謎も解明できるのかもしれない。しかし、残念ながら今のところ資料がない。
分かることは天正十八年(一五九〇)小田原の陣での茶会に、江州六角殿と真木島昭光(足利義昭近臣)が秀吉に招かれていることだ(『天王寺屋会記』)。この六角殿は、義昭近臣を伴っていることから義堯本人あるいは子息と考えられる。
この記事へのコメント
本能寺の変後、一人の殿が岐阜城を占領したが、いづれの味方か明らかにしなかったとある。「日本年報上」
この一人の殿が利尭であることは利尭が岐阜城下崇福寺に禁制を与えているからもわかる。「崇福寺文書」
利尭は義尭の一字を拝領したと思われますが、信忠の旗本でありながら、三法師を守りもせずに岐阜城を占領している。これは義尭との指示或いは連携ではないのでしょうか?ここから六角氏と光秀の関係を紐解けませんか?
①光秀に関して、近江生国説がありますが、「秀」の字が義秀の諱字かどうかは不明です。諱字と判断できる資料はありません。
②斎藤利堯についても、義堯の諱字と推測できる資料がありません。
諱字を拝領した場合は、実名の上の字に使用するのが一般的ですので、諱字と考えるのは困難です。諱字のことには深入りしないで、仮説を資料でひとつひとつ確認しながら研究してください。本能寺の変での、六角氏の行動に注目するのはとても面白いことだと思いますので、がんばってください。
「為去夏廻礼、今度遮而御使書珍重候、抑就、御入洛之儀、東北士卒可披遂忠勤粧、尤専要候、以下略」との内容です。
東北つまり、武田・上杉は義昭上洛のために同盟して信長に対抗していたことが、毛利から島津にも伝えられていたことが判明しました。
残念ながら、六角義尭氏のことは一行・一字も記載がありませんでした。
研究を進めるには対立仮説が必要なので、私は別人という仮説を立ています。
ところで天正6年は、六角義堯が阿波・淡路の兵を率いて軍事行動を起こしていますので、鞆幕府にいないはずです。記載がなくても当然でしょう。それに六角義堯書状には、義昭に関する文言があまりないので、鞆幕府の内部の人間というよりも、鞆幕府を外から支えていたといえます。
もう六角義堯についてはもう十分認識されていますので、論文に記されていないからといって一喜一憂しないでくださいね。