左兵衛佐義郷

六角義郷(生年未詳-一五八二)義秀の子、あるいは弟。左兵衛佐。沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木系図略などの諸系図や、『江源武鑑』『佐々木軍記』など編纂物では、義秀の子息とする。しかし朽木文書で「中左兵衛佐氏郷」と署名していることから、『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月十二日条で、亀寿(義秀)とともに音物を進上した「中」と同一人物と推定できる。そうであれば義秀の弟だろう。
 永禄十一年(一五六八)九月義秀は足利義昭を観音寺城に迎え、二十二日織田信長とともに上洛軍を起こして(『お湯殿の上の日記』)、二十六日入京した。しかし、まもなく義秀が没したことで近江情勢は激変した。
 足利義昭は決して傀儡政権ではなく、将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」と述べられている。高島七頭など奉公衆を直属軍として組織し、さらに織田信長を取り組んだのである。翌永禄十二年(一五六九)正月三好三人衆が京都六条本圀寺を宿所にしていた足利義昭を襲撃したとき、奉公衆が撃退した。通常戦闘では十分な軍事力であった。さらに義昭は固有の権限に基づいて戦国大名に対する和平工作を開始しているが、将軍が畿内政権の実権を握り強制力を備えれば、全国におよぶ惣無事令に発展しうる。しかし朝倉義景は上洛命令を拒否した。ここに元亀争乱が始まった。元亀争乱は、足利義昭・織田信長ら中央集権派と、朝倉・浅井ら地方分権派の対立であった。
 元亀元年(一五七〇)四月には六角承禎と申し合わせた浅井長政が、織田信長方から離反している(言継卿記)。同年五月九日承禎軍が近江に出張すると、浅井長政も挙兵した。それに対して信長軍2万が出陣している。五月十二日承禎が拘束されたという情報が流れるが、実はそれは和平交渉であった。しかし五月十九日交渉は決裂し、信長は美濃に帰国している。五月二十二日には承禎軍二万が再び甲賀郡石部城に出勢した。
 このような情勢の中、同年六月四日木浜合戦(野洲川合戦)があり、進藤・永原ら江州衆と佐久間信盛・柴田勝家が、六角承禎・義治軍を破った(『言継卿記』)。この記事で、江州殿がまだ信長軍と行動をともにしていたことが分かる。さらに六月十九日には信長は近江修理大夫に援軍を要請している(『士林證文』三:近江修理大夫宛織田信長書状)。この近江修理大夫は、義秀の近親者だろう。これに先立って同月十日近江修理大夫が承禎父子を拘束している(同書状)。実はこれは拘束ではなく、接触だったと考えられる。以後、六角氏は浅井・朝倉軍と行動をともにするからである。
 同年六月二十八日の姉川の戦いでは、六角・浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突している。織田方は大勝利と宣伝するものの、以後も朝倉義景が竹生島に参詣するなど(『竹生島宝厳寺文書』)、北近江では浅井・朝倉氏が自由に行動したように、六角・浅井・朝倉方の勝利であった。織田方の資料は割引いて読む必要がある。
 本願寺も六角・浅井・朝倉連合軍に参加し、九月門徒に蜂起命令を出した。このとき顕如は、足利義昭が信長と一味となって本願寺と義絶したとして、加賀四郡中の将軍御料所の公用分を留め置くよう命じている(勧修寺文書:證念書状)。やはり元亀の争乱は、足利義昭・織田信長と反信長連合の対立であった。
 九月二十日朝倉軍・近江高島衆・一揆衆が織田方の宇佐山城を攻略し、信長の弟信治・森可成が討死している。六角軍の先鋒は逢坂山を越えて山科に進駐し、信長は苦境に立たされた。
 こののちも近江では六角・浅井・朝倉・本願寺・比叡山の連合軍は、近江志賀で信長軍と対峙している。志賀の陣である。この志賀の陣では、六角・浅井・朝倉連合軍は足利義昭による和平交渉を徹底的に拒否した。『江源武鑑』が正しく伝えているように、元亀の争乱は足利義昭・織田信長と反信長連合の対立であり、六角・浅井・朝倉連合軍が足利義昭による和平交渉を拒否するのは当然であった。
 信長は天皇を動かすことで、ようやくと和睦することができた。まず十一月に承禎・義治父子と和睦している。さらに十二月朝倉義景と和睦した。このとき信長方であった山岡対馬守に対して、たとえ国主が旧領主に還付したとしても、自分が給付した領地高は保証すると述べている(『織田信長文書の研究』:記録御用所本『古文書』山岡:元亀元年十二月十五日付織田信長朱印状)。この信長朱印状で、国主も十二月の和睦であったことが分かる。
 六角氏は以後も国主として自立しており、元亀二年(一五七一)九月信長によって焼打ちされた比叡山を、翌三年(一五七二)義郷が近江蒲生郡に再興している(『朽木文書』『延暦寺由緒』)。現在の長命寺はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。このことで、六角氏が国主としての実体をもっていたことが分かる。
 こののちの義郷の動向は不明だが、『天王寺屋会記』天正八年(一五八〇)二月二十二日条に「佐々木殿」が見える。佐々木殿は、天王寺屋宗達から三好政康に渡っていた国行の脇差を所持していた。『天王寺屋会記』で「殿」と敬称で呼ばれたのは佐久間信盛父子・明智光秀など限られた人物で、羽柴秀吉は「殿」の敬称では呼ばれなかった。佐々木殿は織田政権で格式の高い人物と分かる。さらに『信長公記』天正十年正月一日条に、信長が馬廻衆・甲賀衆に、安土城内の江雲御殿(六角定頼菩提所)を拝観させた記事がある。安土城内に移築された後も、信長は江雲御殿と呼び続け、しかも家臣に拝観させるなど佐々木六角氏に配慮していた。このように近江に在国していた佐々木殿が、義郷であった可能性はある。そのため諸系図や編纂物では、義郷を義秀の子息と記すのだろう。

この記事へのコメント

のりよし
2005年08月20日 00:11
佐々木家系図によると、義秀の子、義郷は天正五年生まれ、元和九年47歳で卒去(1577~1623)
になっています。
佐々木哲
2005年08月20日 01:01
おそらく、それは義郷ではなく義康のことです。一般に系譜伝承では義郷と義康を混同して伝えています。系図の記述はそのまま正しいのではなく、多くの作為と錯誤を含んでいますので、丁寧に史料と突き合わせながら分析していく必要があるのです。
夢見る仙人
2005年11月06日 13:17
佐々木哲先生御机下
義郷は果たして義秀の子息か弟かはっきりわからないのでしょうか。またいつごろまで生存していたのでしょうか。義郷の子度の詳細はどうなっているのでしょうか。臨終の地とはどこなのでしょうか。菩提寺はあるのでしょうか。多分滋賀県内の愛知郡内の寺の可能性はどうでしょうか。京都というとまた、それだけの地位ががなければ難しいと思われますが。現在の段階でどの程度のことがわかっているのでしょうか。
佐々木哲
2005年11月06日 15:56
コメントありがとうございます。一般に系図で「義郷」と記されている人物の実名は、義康でです。
左兵衛佐義郷は、元亀年間に信長によって焼き討ちされた比叡山を再興した人物であり、系図上の「義郷」とは別人です。文書では「中左兵衛佐氏郷」として登場します。「中」と称していることから、義秀(亀寿)の弟中と同一人物と考えられます。
岩永正人
2009年04月23日 20:27
本阿弥行状記を読んでいましたら、「天正年中江州百萬石佐々木義郷公 歌をよみ祝して昔の松に似寄候を植たまひしとぞ。此御家今は郷士の様に御相続。甚だ此義郷公義者にて、石田がざんにて御家断絶、残念なる事成。」とありましたのでご連絡しました。
佐々木哲
2009年05月06日 11:20
本阿弥光甫(1601~1682※筑波大学日本美術シソーラスデータベース)が記した光悦の伝記『本阿弥行状記』に、義郷の記事があるとのこと連絡頂きありがとうございます。

光甫は義郷(義康か)と同世代ではないので、義郷の実在を示す記録とはいえず、伝記にとどまりますが、六角氏の子孫が郷士となっていたことを示す資料と評価できるでしょう。とくに光甫は信楽土を使用した空中信楽を制作した人物ですので、近江の事情には明るかったと思います。

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