宰相義秀(徳川公)
六角義秀(一五三二-一五六九)義久の長男。母は後奈良院典侍。幼名亀寿、本名公能。足利義晴養子。修理大夫、参議。『お湯殿の上の日記』に六角氏の幼名亀寿が頻出する。それは、天文十四年(一五四五)十二月五日典侍が亀寿元服の御礼に音物を進上しているように、亀寿の母が後奈良院典侍だからだ。
『お湯殿の上の日記』は、天皇常住の常御殿のお湯殿の間で、天皇近侍の女官典侍が記した当番日記である。その内容は天皇の動静が主で、恒例・臨時の行事、任官・叙位・下賜・進献、および将軍以下の参内の様子も記している。また女官の動静も記され、お湯の当番、異動・新任なども記された。ときには天皇自らも戯れに記すこともあった。亀寿の母はそのような典侍の一人であった。このことで六角氏嫡流が公家化していたことが分かる。
この亀寿が、天文三年(一五三四)の『江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」とある義久の子息であろう。『お湯殿の上の日記』では亀寿は「かめ」「かめこ」「かめしゆ」と呼ばれている。初出の記事は六角氏が本願寺と和睦した天文二年(一五三三)であり、最後の記事は足利義晴が近江国穴太で没した天文十九年(一五五〇)である。六角氏の京都での活動時期と重なる。亀寿の記事の多くは進物の記事で、近江瓜・硯蓋・蜜柑・柿・饅頭・ところてん・鮨・蛤・野菜・萱・下草・真木・花などを進上している。また亀寿の鞍馬山参詣の記事も多く、そのたびに御土産を内侍所に進上していた。亀寿は天文十四年(一五四五)十二月五日に元服するが、そののちも内侍所の女官からは親しみをこめて「かめ」「かめこ」と呼ばれている。
亀寿が元服以前に公家様の実名「公能」を名乗っていたことは、『証如上人日記』天文十年(一五四一)十月五日条に「佐々木四郎公能」が登場することで分かる。しかし元服後に武家様の「義秀」と名乗ったようで、天文十九年(一五五〇)五月に描かれた土佐光茂『犬追物図』に「大屋形義秀卿」と記されている。また、この『犬追物図』で、定頼の子息義賢が義秀の後見になっていることが確認できる。病床についた父定頼に替わって陣代になったのである。しかし、このとき足利義晴・義輝父子は近江国穴太に亡命していた。
天文十八年(一五四九)三好長慶と対立した足利義晴・義輝父子は近江に逃亡した。義晴は鉄砲に備えた城壁や水堀をもつ中尾城を東山に築いたが、亡命先の近江穴太で天文十九年(一五五〇)五月四日没した(『万松院殿穴太記』)。その直後の義晴の葬儀で、義秀は剃髪して徳川と名乗っている(『万松院殿穴太記』)。義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は内侍所に収められているが(群書類従本『万松院殿穴太記』奥書)、これは義秀が進上したものだろう。
天文十九年(一五五〇)七月将軍足利義輝・細川晴元が北白川に出兵したが、このとき日本で初めて鉄砲が実戦で使用されている(『言継卿記』天文十九年七月十四日条)。将軍義輝の命で、義秀が中国人長子孔を招いて近江国友村で鉄砲を製造させていたのである(『白陽館年譜』『国友鉄砲由緒書』)。六角氏の保護を得た国友村は、こののち和泉堺・紀伊根来とともに鉄砲の三大生産地となっている。
天文二十年(一五五一)六角氏は足利義輝と三好長慶の和議を斡旋した。翌二十一年(一五五二)定頼が没するが、和平交渉は進められ、義輝は帰京を果たしている。義秀の子息亀千代も七月二十七日に幕府に出仕した(『親俊日記』)。これは亀千代の母が義輝の姉だったからだろう。さらに『お湯殿の上の日記』同年十一月二七日条に、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。髪置は二歳で行うものであり、亀千代の生年を天文二十年と推定することができる。
しかし再び三好長慶と対立した足利義輝は、天文二十二年(一五五三)七月近江に逃れた。その直後の八月東山霊山城で籠城戦があったが、近江幕府軍は三好軍に敗れた(『厳助往年記』)。このとき負傷した宰相氏寿が剃髪後の義秀と考えられる。以後、義秀は病床にあることが多くなったのだろう、葛川明王院に良薬を求めている(『葛川明王院文書』三十六巻:閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状)。
弘治三年(一五五七)四月十七日六角氏養女が本願寺顕如に嫁いでいる。これは細川晴元養女(三条公頼娘)を六角氏養女として嫁がせたものだ。これで六角氏と本願寺の同盟関係は強化された。
永禄元年(一五五八)六角義賢が足利義輝と三好長慶の和議を斡旋して、義輝は帰京した。和平を実現した義賢は隠居して承禎と名乗っている。さらに翌二年(一五五九)義輝は朝廷に義秀の父義久の贈官を求めている。織田信長・上杉謙信が上洛して義輝に謁見したのも、この年である。
ところが永禄六年(一五六三)承禎の長男義治(右衛門尉義弼)が六角氏宿老後藤但馬守を謀殺するという後藤騒動(観音寺騒動)を起こした。さらに六角氏が身動きできない隙を突いて、永禄八年(一五六五)三好義継・松永久秀が足利義輝を謀殺した。
六角氏は義輝の弟覚慶を近江に保護し、越後上杉・尾張織田・河内畠山などに連絡をして反三好勢力を結集すると同時に、丹波・丹後の国人と結んで松永久秀の実弟長頼(内藤備前守・蓬雲軒宗勝)を破り丹波を三好方から奪った。さらに浅井長政と織田信長妹の婚礼をまとめている。そして覚慶を還俗させた。足利義秋(のち義昭)である。
永禄九年(一五六六)承禎の子息義治が三好方と通じたため、義秋は若狭武田・越前朝倉の許に移っている。このとき義秀の叔父仁木義政(佐々木左馬頭)と六角氏被官山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が、足利義昭に同行した。足利義秋は、関白二条晴良の加冠で公家式の元服式を挙げている。これで四位に叙され、三好氏に擁立されていた十四代将軍足利義栄の位階従五位下を超えたことになる。さらに義昭と改名した。
六角氏では、永禄十年(一五六七)六角氏近臣団が六角氏式目を承禎・義治父子に承認させた。しかし六角氏の分裂は決定的だった。
永禄十年織田信長の美濃稲葉山城攻めで、六角氏は援軍を派遣している。さらに永禄十一年(一五六八)織田信長が足利義昭を美濃立政寺に迎えて上洛軍を起こすと、義秀は信長に同調し、三好氏に通じる承禎・義治は抵抗した。しかも承禎父子の抵抗は激しく、一般に言われているような信長の圧勝ではなかった。
当時の記録『言継卿記』によれば、九月十日信長は近江愛智郡に出張した。それに対抗して三好三人衆石成友通も近江坂本まで出張している。十一日には近江愛智川で合戦があり、双方に被害が出た。信長は美濃に帰国、三好軍も帰京している。しかし三好軍の帰京を見計らって、信長は十二日再び近江に出張した。六角氏の前線和田山城と本城観音寺城を避けて、直接承禎父子の籠もる箕作城を集中的に攻め、承禎父子は激戦のすえ甲賀に敗走している。信長は圧倒的な軍事力で勝ったのではなく、情報と奇策で勝利したといえる。
九月二十六日義秀と信長が入京した。『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条では「江州殿・上総」と、義秀に「殿」と敬称を付して信長より上位に記している。このことは六角氏の家格の高さを示している。ただし義秀は病床にあり、義秀本人が入京したかどうかは不明である。
ところが(年未詳)五月十一日付織田信長書状(『和田文書』)で、信長は義秀遠行の報に言語を絶するとともに、承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めている。浅井長政がまだ信長陣営にいた永禄十二年(一五六九)頃、義秀が没したと推定できる。 このときの信長書状の使者は、六角氏被官の沢田兵部少輔である。実名は年未詳八月二十九日付籾井名主百姓中宛沢田秀忠書状(思文閣所蔵文書)で「秀忠」と確認でき、義秀が家臣に一字書出を給付していたことが分かる。
『お湯殿の上の日記』は、天皇常住の常御殿のお湯殿の間で、天皇近侍の女官典侍が記した当番日記である。その内容は天皇の動静が主で、恒例・臨時の行事、任官・叙位・下賜・進献、および将軍以下の参内の様子も記している。また女官の動静も記され、お湯の当番、異動・新任なども記された。ときには天皇自らも戯れに記すこともあった。亀寿の母はそのような典侍の一人であった。このことで六角氏嫡流が公家化していたことが分かる。
この亀寿が、天文三年(一五三四)の『江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」とある義久の子息であろう。『お湯殿の上の日記』では亀寿は「かめ」「かめこ」「かめしゆ」と呼ばれている。初出の記事は六角氏が本願寺と和睦した天文二年(一五三三)であり、最後の記事は足利義晴が近江国穴太で没した天文十九年(一五五〇)である。六角氏の京都での活動時期と重なる。亀寿の記事の多くは進物の記事で、近江瓜・硯蓋・蜜柑・柿・饅頭・ところてん・鮨・蛤・野菜・萱・下草・真木・花などを進上している。また亀寿の鞍馬山参詣の記事も多く、そのたびに御土産を内侍所に進上していた。亀寿は天文十四年(一五四五)十二月五日に元服するが、そののちも内侍所の女官からは親しみをこめて「かめ」「かめこ」と呼ばれている。
亀寿が元服以前に公家様の実名「公能」を名乗っていたことは、『証如上人日記』天文十年(一五四一)十月五日条に「佐々木四郎公能」が登場することで分かる。しかし元服後に武家様の「義秀」と名乗ったようで、天文十九年(一五五〇)五月に描かれた土佐光茂『犬追物図』に「大屋形義秀卿」と記されている。また、この『犬追物図』で、定頼の子息義賢が義秀の後見になっていることが確認できる。病床についた父定頼に替わって陣代になったのである。しかし、このとき足利義晴・義輝父子は近江国穴太に亡命していた。
天文十八年(一五四九)三好長慶と対立した足利義晴・義輝父子は近江に逃亡した。義晴は鉄砲に備えた城壁や水堀をもつ中尾城を東山に築いたが、亡命先の近江穴太で天文十九年(一五五〇)五月四日没した(『万松院殿穴太記』)。その直後の義晴の葬儀で、義秀は剃髪して徳川と名乗っている(『万松院殿穴太記』)。義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は内侍所に収められているが(群書類従本『万松院殿穴太記』奥書)、これは義秀が進上したものだろう。
天文十九年(一五五〇)七月将軍足利義輝・細川晴元が北白川に出兵したが、このとき日本で初めて鉄砲が実戦で使用されている(『言継卿記』天文十九年七月十四日条)。将軍義輝の命で、義秀が中国人長子孔を招いて近江国友村で鉄砲を製造させていたのである(『白陽館年譜』『国友鉄砲由緒書』)。六角氏の保護を得た国友村は、こののち和泉堺・紀伊根来とともに鉄砲の三大生産地となっている。
天文二十年(一五五一)六角氏は足利義輝と三好長慶の和議を斡旋した。翌二十一年(一五五二)定頼が没するが、和平交渉は進められ、義輝は帰京を果たしている。義秀の子息亀千代も七月二十七日に幕府に出仕した(『親俊日記』)。これは亀千代の母が義輝の姉だったからだろう。さらに『お湯殿の上の日記』同年十一月二七日条に、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。髪置は二歳で行うものであり、亀千代の生年を天文二十年と推定することができる。
しかし再び三好長慶と対立した足利義輝は、天文二十二年(一五五三)七月近江に逃れた。その直後の八月東山霊山城で籠城戦があったが、近江幕府軍は三好軍に敗れた(『厳助往年記』)。このとき負傷した宰相氏寿が剃髪後の義秀と考えられる。以後、義秀は病床にあることが多くなったのだろう、葛川明王院に良薬を求めている(『葛川明王院文書』三十六巻:閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状)。
弘治三年(一五五七)四月十七日六角氏養女が本願寺顕如に嫁いでいる。これは細川晴元養女(三条公頼娘)を六角氏養女として嫁がせたものだ。これで六角氏と本願寺の同盟関係は強化された。
永禄元年(一五五八)六角義賢が足利義輝と三好長慶の和議を斡旋して、義輝は帰京した。和平を実現した義賢は隠居して承禎と名乗っている。さらに翌二年(一五五九)義輝は朝廷に義秀の父義久の贈官を求めている。織田信長・上杉謙信が上洛して義輝に謁見したのも、この年である。
ところが永禄六年(一五六三)承禎の長男義治(右衛門尉義弼)が六角氏宿老後藤但馬守を謀殺するという後藤騒動(観音寺騒動)を起こした。さらに六角氏が身動きできない隙を突いて、永禄八年(一五六五)三好義継・松永久秀が足利義輝を謀殺した。
六角氏は義輝の弟覚慶を近江に保護し、越後上杉・尾張織田・河内畠山などに連絡をして反三好勢力を結集すると同時に、丹波・丹後の国人と結んで松永久秀の実弟長頼(内藤備前守・蓬雲軒宗勝)を破り丹波を三好方から奪った。さらに浅井長政と織田信長妹の婚礼をまとめている。そして覚慶を還俗させた。足利義秋(のち義昭)である。
永禄九年(一五六六)承禎の子息義治が三好方と通じたため、義秋は若狭武田・越前朝倉の許に移っている。このとき義秀の叔父仁木義政(佐々木左馬頭)と六角氏被官山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が、足利義昭に同行した。足利義秋は、関白二条晴良の加冠で公家式の元服式を挙げている。これで四位に叙され、三好氏に擁立されていた十四代将軍足利義栄の位階従五位下を超えたことになる。さらに義昭と改名した。
六角氏では、永禄十年(一五六七)六角氏近臣団が六角氏式目を承禎・義治父子に承認させた。しかし六角氏の分裂は決定的だった。
永禄十年織田信長の美濃稲葉山城攻めで、六角氏は援軍を派遣している。さらに永禄十一年(一五六八)織田信長が足利義昭を美濃立政寺に迎えて上洛軍を起こすと、義秀は信長に同調し、三好氏に通じる承禎・義治は抵抗した。しかも承禎父子の抵抗は激しく、一般に言われているような信長の圧勝ではなかった。
当時の記録『言継卿記』によれば、九月十日信長は近江愛智郡に出張した。それに対抗して三好三人衆石成友通も近江坂本まで出張している。十一日には近江愛智川で合戦があり、双方に被害が出た。信長は美濃に帰国、三好軍も帰京している。しかし三好軍の帰京を見計らって、信長は十二日再び近江に出張した。六角氏の前線和田山城と本城観音寺城を避けて、直接承禎父子の籠もる箕作城を集中的に攻め、承禎父子は激戦のすえ甲賀に敗走している。信長は圧倒的な軍事力で勝ったのではなく、情報と奇策で勝利したといえる。
九月二十六日義秀と信長が入京した。『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条では「江州殿・上総」と、義秀に「殿」と敬称を付して信長より上位に記している。このことは六角氏の家格の高さを示している。ただし義秀は病床にあり、義秀本人が入京したかどうかは不明である。
ところが(年未詳)五月十一日付織田信長書状(『和田文書』)で、信長は義秀遠行の報に言語を絶するとともに、承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めている。浅井長政がまだ信長陣営にいた永禄十二年(一五六九)頃、義秀が没したと推定できる。 このときの信長書状の使者は、六角氏被官の沢田兵部少輔である。実名は年未詳八月二十九日付籾井名主百姓中宛沢田秀忠書状(思文閣所蔵文書)で「秀忠」と確認でき、義秀が家臣に一字書出を給付していたことが分かる。
この記事へのコメント
御湯殿の上日記を読んでみようかと思いますが、どうしたらいいのでしょうか?
何と、そこには永禄5年藤孝が承禎と義秀の仲を取り持ったある。その際に藤孝が承禎に与えた歌も掲載。
信長が上洛のおり、承禎の了承を得られずに義秀に面談したとある。信長の息子
源左衛門を人質として観音寺城に入れていたとある。箕作城を落としいれ、さらに観音寺城をも陥れたが、義秀を許したともある。
姉川の合戦時には、義昭は佐々木下野守あてに信長への助勢を求めている。
以上 ご参考までに。
その本の存在は知っておりますが、私はまだ読んだことがございません。
あとは、その記述が『江源武鑑』と類似しているかどうかをチェックしてください。類似していない個所があれば、そこについては独自の資料があるということになります。
別件にて恐縮ですが、「天下統一と朝鮮侵略」藤木久志を入手。
信長と秀吉の統治の基本は一向一揆の寺内町を根切りによる、全国統一政権下における収斂なんですね。
ところで、佐々木氏は一向一揆にどのように対応されたのでしょうか?
近江には一向宗の寺院が25もあり、江北十ヶ寺と言われ、信長の上洛に激しく抵抗したとある。
信長・秀吉という武士による統一政権と一向宗のもとに結団した民との戦いなですね。
閑院流が「公」の字を通字とするのは、閑院流の祖藤原公季の母が皇女だったからですので、義秀が初名に「公」の字を使用したのは、母が典侍だったからという理由でしょう。
これは信玄は信長ではなく、義昭(六角氏)と同盟し、永禄年間今川領に侵攻したのではありませんか?これも仮説ですが。