近江守氏綱
六角氏綱(一四九二-一五一八)高頼の長男。母足利成氏娘(実は近衛政家娘か)。亀寿、四郎、近江守、従四位上。法号は雲光寺殿日山宗佐。
永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏綱が近衛家の縁者だったと推定できる。さらに『重編応仁記』などで先天的に身体に障害があったとする記述が誤りだと分かる。著名な学者が書いたからといって正しいわけではない。実証歴史学では当時の資料を重視すべきだろう。
永正二年(一五〇五)将軍義澄の参内では細川政元が北門を、氏綱は唐門を警固した(『二水記』)。同年、北近江で京極材宗(政経の子)と京極高清(中務少輔)が抗争すると、材宗(治部少輔義宗)を支援した(『御内書案』)。翌永正三年(一五〇六)細川政元の養子澄之(実父九条政基)と澄元(実父阿波細川氏)が対立すると、政元の依頼で上京した。しかし細川氏の内紛が激化し、永正四年(一五〇七)には政元が澄之派の香西元長らに殺害され、澄元も近江甲賀山中氏を頼り逃亡した。氏綱は澄之・澄元両派から頼りにされ、将軍義澄からは澄之を助けるよう命じられた。ところが氏綱は突然帰国して京都は混乱している(『宣胤卿記』)。
このような京都の混乱のなか、前将軍義稙(義尹)は大内義興に擁立され、翌五年(一五〇八)に入京。足利義稙が将軍に再任された。将軍再任はこれが最初で最後のことである。
足利義澄は近江に逃れたものの、永正八年(一五一一)将軍義稙は氏綱に忠節を尽くすよう求め、氏綱も助行の太刀と栗毛の馬・銭三千疋を献上した(『御内書案』:五月三日付足利義稙御内書)。そして同年八月十四日前将軍義澄は失意のうち享年三十二歳で近江岡山城に没している。
氏綱は内政では、永源寺に段銭を課すことを禁止し、さらに永源寺に修理料を寄進して永源寺の復興に努めるなど(永源寺文書)、応仁・文明の乱、それに続く長享・延徳の乱で荒廃した近江の復興に努めている。また国内に所領を持つの幕府奉公衆の被官化も氏綱のときに進み、朽木材秀から鱈3尾を贈られている(朽木文書:十月十六日付朽木弥五郎宛六角氏綱礼状)。
その一方で、『実隆公記』永正九年(一五一二)正月二十三日条に「源氏愚本今日遣佐々木四郎源氏綱許、奥書加之」とあるように、氏綱には文化的教養もあった。文武両道の武将であった。
しかし永正十三年(一五一六)頃からは病床にあり、氏綱直状(永源寺文書:永正十三年九月二十六日付永源寺侍衣禅師宛六角氏綱安堵状)に添えて、相国寺僧であった弟江月斎承亀が陣代として副状(永源寺文書:永正十三年九月二十六日永源寺侍衣禅師宛江月斎承亀副状)を発給するようになった。永正十五年(一五一八)四月氏綱の病がいよいよ重くなると承亀は還俗して定頼と名乗っている(京都片岡元徳氏文書:四月二十二日付多賀長童子宛六角定頼礼状)。同年七月九日氏綱は享年二七歳で没した。
近江守護は氏綱の父高頼が一時的に預かり、後継者には氏綱の嫡子四郎(隆頼・義久)が立てられ、定頼が引き続き陣代となった。そして永正十六年(一五一九)には、十二月二十八日付足利義稙御内書が佐々木四郎宛に発給され(『御内書案』)、四郎が正式に近江守護に補任されている。
永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏綱が近衛家の縁者だったと推定できる。さらに『重編応仁記』などで先天的に身体に障害があったとする記述が誤りだと分かる。著名な学者が書いたからといって正しいわけではない。実証歴史学では当時の資料を重視すべきだろう。
永正二年(一五〇五)将軍義澄の参内では細川政元が北門を、氏綱は唐門を警固した(『二水記』)。同年、北近江で京極材宗(政経の子)と京極高清(中務少輔)が抗争すると、材宗(治部少輔義宗)を支援した(『御内書案』)。翌永正三年(一五〇六)細川政元の養子澄之(実父九条政基)と澄元(実父阿波細川氏)が対立すると、政元の依頼で上京した。しかし細川氏の内紛が激化し、永正四年(一五〇七)には政元が澄之派の香西元長らに殺害され、澄元も近江甲賀山中氏を頼り逃亡した。氏綱は澄之・澄元両派から頼りにされ、将軍義澄からは澄之を助けるよう命じられた。ところが氏綱は突然帰国して京都は混乱している(『宣胤卿記』)。
このような京都の混乱のなか、前将軍義稙(義尹)は大内義興に擁立され、翌五年(一五〇八)に入京。足利義稙が将軍に再任された。将軍再任はこれが最初で最後のことである。
足利義澄は近江に逃れたものの、永正八年(一五一一)将軍義稙は氏綱に忠節を尽くすよう求め、氏綱も助行の太刀と栗毛の馬・銭三千疋を献上した(『御内書案』:五月三日付足利義稙御内書)。そして同年八月十四日前将軍義澄は失意のうち享年三十二歳で近江岡山城に没している。
氏綱は内政では、永源寺に段銭を課すことを禁止し、さらに永源寺に修理料を寄進して永源寺の復興に努めるなど(永源寺文書)、応仁・文明の乱、それに続く長享・延徳の乱で荒廃した近江の復興に努めている。また国内に所領を持つの幕府奉公衆の被官化も氏綱のときに進み、朽木材秀から鱈3尾を贈られている(朽木文書:十月十六日付朽木弥五郎宛六角氏綱礼状)。
その一方で、『実隆公記』永正九年(一五一二)正月二十三日条に「源氏愚本今日遣佐々木四郎源氏綱許、奥書加之」とあるように、氏綱には文化的教養もあった。文武両道の武将であった。
しかし永正十三年(一五一六)頃からは病床にあり、氏綱直状(永源寺文書:永正十三年九月二十六日付永源寺侍衣禅師宛六角氏綱安堵状)に添えて、相国寺僧であった弟江月斎承亀が陣代として副状(永源寺文書:永正十三年九月二十六日永源寺侍衣禅師宛江月斎承亀副状)を発給するようになった。永正十五年(一五一八)四月氏綱の病がいよいよ重くなると承亀は還俗して定頼と名乗っている(京都片岡元徳氏文書:四月二十二日付多賀長童子宛六角定頼礼状)。同年七月九日氏綱は享年二七歳で没した。
近江守護は氏綱の父高頼が一時的に預かり、後継者には氏綱の嫡子四郎(隆頼・義久)が立てられ、定頼が引き続き陣代となった。そして永正十六年(一五一九)には、十二月二十八日付足利義稙御内書が佐々木四郎宛に発給され(『御内書案』)、四郎が正式に近江守護に補任されている。
この記事へのコメント
新編武蔵風土記稿によると、重長の父、重頼は、佐々木近江守氏綱の二男、伊賀守義重の子と書かれています。氏綱を調べて先生のブログに巡り逢いました。
氏綱の二男に義重が居たという記述はネットで調べる限りどこにも有りませんが、義重は実在したのでしょうか?
南条家(現、谷岡家)の家紋は隅立て四つ目ですし、大溝藩6代藩主、分部光命は、谷岡家の娘(父光忠の側室?)が母親で、谷岡家で生まれています。近江との関わりは深いようですが。
越前南条郡は北国街道が通り、近江伊香郡と隣接する交通の要所です。近江側の余呉荘はやはり北陸に通じる要所で、戦国期には能登畠山氏が領有し、その代官であった東蔵は浅井氏に仕えています。この浅井氏に関しても、久政が六角氏綱の子息という伝承があります(六角佐々木氏系図略)。
朝倉氏家臣で南条郡と関わりのある富田長繁も、隠岐佐々木氏の一族の可能性があり、塩冶高貞の子孫を名乗る伯耆南条氏も越前南条郡を名字の地と称しています。
現在、氏綱の子息に義重は確認できず、仁木伊賀守義政との関係を推測できますが、六角氏と北条氏の関係は不明です。むしろ六角氏は北条氏の仇敵越後長尾氏(上杉氏)との関係が親密です。
北条氏綱の室が近衛氏であり、仁木義政が近衛家領甲賀郡信楽荘地頭仁木氏を継承し近衛氏と親密であることから、天正年間に足利義昭・六角義堯が甲相越三和を働きかけたときに、六角氏が使者を派遣した可能性はあります。
また北条氏領のうち相模高座郡長尾郷と武蔵川崎荘(代官小杉氏)が六角氏旧領であり、その関係で佐々木氏族が北条氏の許にいたとも考えられます。
いずれにしても推測の域は出ません。平氏とも佐々木氏とも名乗る点では、伯耆南条氏との親近性も考えられますので、注意深く調査することが望まれます。