近江守久頼

六角久頼(生年未詳-一四五六)満綱の末子。母は足利直冬娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。始め相国寺僧周恩。四郎、近江守、従四位上、近江守護。法号は詳光寺殿融山周恩。
 文安元年(一四四四)七月六角氏被官が、近江守護六角持綱(四郎、兵部大輔)の無道を訴え、持綱の弟時綱(五郎、民部少輔)を奉じて一揆を起こした(『康富記』文安元年七月一日条)。そして文安二年(一四四五)正月満綱・持綱父子は自殺した(『東寺執行日記』『師郷記』)。文安の乱である。管領細川勝元は時綱の近江守護補任を認めず、同年四月時綱の末弟周恩を還俗させて久頼(四郎)と名乗らせた(『師郷記』文安二年四月二十三日条)。翌文安三年(一四四六)二月久頼は元服(『師郷記』文安三年二月二十九日条)。三月時綱・久頼兄弟の対立が深まり、二十二日夜時綱派の被官によって久頼の京都邸が夜討にあった(『師郷記』文安三年三月二十三日条)。文安三年(一四四六)八月時綱治罰を命じる将軍御教書が久頼に発給され(『師郷記』文安三年八月八日条)、久頼が京極持清の協力を得て近江に進発したところ、時綱は飯高山で自殺した(『師郷記』文安三年九月五日条)。このとき時綱を奉じた被官十余人が時綱に殉じている(同日条)。時綱の法号は、円満寺殿義空勝公大禅定門(常善寺過去帳では円満寺前民部常勝)である。
 久頼は足利義政の信任も厚く、享徳四年(一四五五)正月八日義政の上臈佐子局(大館常誉娘)の産所役を命じられ、六角万里小路の六角邸に産所を準備したが、佐子局は郷の大館常誉邸で産気づき無事に姫君を出産したため、急遽大館邸に産所を移して産所役を勤めている(『斎藤基恒日記』『康富記』)。
 久頼(近江守)は六角氏による領国支配の復活を目指すとともに、諸国に分布する所領の回復を目指し、関東管領上杉憲忠には相模長尾郷の回復を求めている(上杉文書:年未詳十二月十一日上杉憲忠宛近江守久頼書状)。長尾郷は鎌倉に隣接しており、六角氏の関東の拠点のひとつと考えられるが、このとき梁田中務丞に押領されていたのである。
 しかし久頼の努力むなしく、六角氏の内紛は終息しなかった。当時京極氏では京極持清が侍所頭人となり、多賀高忠が所司代を勤めて全盛期を迎えていた。嘉吉の土一揆(一四四一年)で幕府徳政令を発布したのも侍所頭人持清であった。しかも管領細川勝元の母は持清の妹であり、当時の幕政は細川・京極政権といえた。これが応仁・文明の乱での東幕府である。幕政を掌握していた持清は、こんどは近江支配を目指して六角氏の内政に介入したのである。
 京極持清の内政干渉に耐えられなくなった久頼は、康正二年(一四五六)十月二日に憤死(自決)している。その跡は久頼の遺児亀寿が継承するが、長禄二年(一四五八)五月十四日亀寿は近江守護職を剥奪され、文安の乱で敗死した時綱(五郎)の遺児政堯(四郎)が京極持清の支援で近江守護職に補任された(『尋尊大僧正記』長禄二年六月八日条)。ところが同四年(一四六〇)七月十八日政堯が重臣伊庭氏を殺害するという事件を起こしたため、同月二十八日幕府は政堯を追放した(『碧山日録』長禄四年七月十八日条・二十八日条)。亀寿は再び近江守護に補任された(『碧山日録』長禄四年七月二十九日条)。『碧山日録』の記主は佐々木鞍知氏の出身であり、亀寿に同情的であった。このような近江守護職をめぐる六角氏の混乱によって、六角氏まさに危機に瀕した。やがて応仁・文明の乱が起こる。

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