中務丞経高
佐々木経高(?-1221)秀義の次男。母宇都宮宗綱娘。佐々木次郎。中務丞。中務入道経蓮。父秀義とともに東下。相模渋谷荘司重国の娘婿になる。治承4年(1180)源頼朝の挙兵で、佐々木兄弟は堤信遠を討伐しましたが、このとき経高が堤邸に放った矢が源氏挙兵の一番矢になりました。石橋山合戦でも活躍。以後も頼朝の側近として活躍し、寿永2年(1183)12月22日には源頼朝の命をうけて弟高綱とともに御前で上総介広常を刺殺しました。
文治元年(1185)の守護・地頭設置で、淡路・阿波・土佐守護に補任、京都の警固に当たりました。『吾妻鏡』建久5年(1194)8月8日条に「佐々木中務丞経高」と見え、このときまでに中務丞に任官していたことが分かります。このとき北条義時(北条小四郎)も畠山重忠(畠山次郎)・梶原景時(梶原平三)も任官していません。経高の任官が早かったのは、経高が在京御家人だったからでしょう。建久6年(1195)3月の東大寺供養および4月の源頼朝上洛では、定綱・経高・盛綱・義清兄弟が供奉しました。
このように佐々木兄弟は頼朝の側近であったため、建久10年(1199)1月源頼朝が没すると、その直後の3月22日弟盛綱が領地を没収されました。さらに翌年正治2年(1200)7月経高も淡路・阿波・土佐の兵を率いて京都で騒乱を起こしたという罪で、淡路・阿波・土佐3国の守護職を収公されました。経高の動きの真相は不明ですが、頼朝の死去にともない何かしらの動きがあったことは確かでしょう。しかし建仁元年(1201)越後国城氏の乱で盛綱が鎮圧に当り復権。経高も淡路・阿波・土佐3国の守護に復帰。再び京都警固の任に当たりました。建仁3年(1203)後鳥羽院の院宣を奉じて延暦寺堂衆を追討。子息高重(太郎)も左衛門尉・検非違使に任官し、経高出家後には3国守護を継承しました。
承久3年(1221)の承久の乱では、経高(中務入道経蓮)・高重(太郎判官)父子は京方に参加、経高は院中にあって参謀となり、京方の中心人物となりましたが敗北。戦後6月16日鷲尾に隠れていたところ、北条泰時は使者を派遣して、関東へ助命嘆願するから相構えて命を捨てないよう説得しようとしましたが、経高は自殺の勧める使者と思い自殺。しかしまだ息あったため、使者は輿に乗せて六波羅に搬送。泰時は経高に対面して、経高が自殺することは本意ではないことを述べ、それに対して経高も両眼を見開いて快く笑ったところで、言葉を発することなく息絶えました。
子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、貞応元年(1222)5月6日に,石田(現和歌山県西牟婁郡上富田町岩田)付近で熊野本宮の社僧・岩田法眼行盛(熊野別当家庶流)らによって殺害され,首が六波羅探題に届けられました(「承久三年四年日次記」貞応元年5月10日条)。しかし子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。
文治元年(1185)の守護・地頭設置で、淡路・阿波・土佐守護に補任、京都の警固に当たりました。『吾妻鏡』建久5年(1194)8月8日条に「佐々木中務丞経高」と見え、このときまでに中務丞に任官していたことが分かります。このとき北条義時(北条小四郎)も畠山重忠(畠山次郎)・梶原景時(梶原平三)も任官していません。経高の任官が早かったのは、経高が在京御家人だったからでしょう。建久6年(1195)3月の東大寺供養および4月の源頼朝上洛では、定綱・経高・盛綱・義清兄弟が供奉しました。
このように佐々木兄弟は頼朝の側近であったため、建久10年(1199)1月源頼朝が没すると、その直後の3月22日弟盛綱が領地を没収されました。さらに翌年正治2年(1200)7月経高も淡路・阿波・土佐の兵を率いて京都で騒乱を起こしたという罪で、淡路・阿波・土佐3国の守護職を収公されました。経高の動きの真相は不明ですが、頼朝の死去にともない何かしらの動きがあったことは確かでしょう。しかし建仁元年(1201)越後国城氏の乱で盛綱が鎮圧に当り復権。経高も淡路・阿波・土佐3国の守護に復帰。再び京都警固の任に当たりました。建仁3年(1203)後鳥羽院の院宣を奉じて延暦寺堂衆を追討。子息高重(太郎)も左衛門尉・検非違使に任官し、経高出家後には3国守護を継承しました。
承久3年(1221)の承久の乱では、経高(中務入道経蓮)・高重(太郎判官)父子は京方に参加、経高は院中にあって参謀となり、京方の中心人物となりましたが敗北。戦後6月16日鷲尾に隠れていたところ、北条泰時は使者を派遣して、関東へ助命嘆願するから相構えて命を捨てないよう説得しようとしましたが、経高は自殺の勧める使者と思い自殺。しかしまだ息あったため、使者は輿に乗せて六波羅に搬送。泰時は経高に対面して、経高が自殺することは本意ではないことを述べ、それに対して経高も両眼を見開いて快く笑ったところで、言葉を発することなく息絶えました。
子息高重は戦いに敗れて、猷子渋谷四郎とともに紀州の熊野方面に逃走しましたが、貞応元年(1222)5月6日に,石田(現和歌山県西牟婁郡上富田町岩田)付近で熊野本宮の社僧・岩田法眼行盛(熊野別当家庶流)らによって殺害され,首が六波羅探題に届けられました(「承久三年四年日次記」貞応元年5月10日条)。しかし子孫は北条泰時の言葉とおり赦免され、高重の子高兼(左衛門尉)・孫高清(左衛門尉)と続きました。
この記事へのコメント
高重に関して情報を寄せます。高重は自殺していません。
「佐々木左衛門尉源高重」は戦いに敗れて猷子の渋野(渋谷)四郎とともに紀州の熊野方面に闘争している最中の貞応元年(1222)5月6日に,石田(現和歌山県西牟婁郡上富田町岩田)付近で熊野本宮の社僧・法眼行盛(熊野別当家庶流の石田家の一員)らによって殺害され,首が六波羅探題に届けられています。
以上は拙僧もある地方史誌で論文化しましたが,典拠は『大日本史料』五編所収の「承久三年四年日次記」貞応元年5月10日条です。
5行目 「闘争」→「逃走」
8行目 「法眼行盛」→「岩田法眼行盛」
なお,「石田」は「いしだ」と読まず「いわた」と読んでください。
六角氏の系譜が専門の私は、どうしても鎌倉期が手薄になります。今後もご指導願います。
取り敢えず「経高」に関連してあなたの記述にもとづいて訂正された部分に注を入れたいのですが、その典拠となった史料の名前がわかりません。もしわかっていたらお教え下さい。