盛綱流佐々木氏
盛綱流佐々木氏では、承久の乱で北陸道の副将となった信実の子孫加地氏が、越後国加地荘を本拠として越後守護職を世襲した北条得宗家を支援するとともに、備前守護職を世襲しました。盛綱流佐々木氏は北越地方で大きく発展し越後・出羽地方の一大勢力になるとともに、備前守護職を基盤にして備前国児島を中心に瀬戸内海でも一大勢力にもなったのです。
備前守護は信実の次男実秀(大友二郎・加地二郎左兵衛尉・左衛門尉)、孫実綱(加地太郎左衛門尉)によって継承されました。実綱の子息長綱(加地源太左衛門尉・筑前守)は、嘉元の乱(1305)で重傷を負ったのでしょう、北条宗方は5月4日に滅亡したが、その直後の13日に没しています。嘉元の乱では、六角氏を除く佐々木一族が北条得宗側として活躍し、多くの犠牲者を出しました。
そののち時綱(太郎左衛門尉)・時秀(二郎左衛門尉・備前守)が守護を継承。鎌倉末期に備前守護として見える加地二郎左衛門尉(『光明寺残篇』)は、時秀のことでしょう。この時秀の母は、六波羅評定衆狩野周防守為成(甲斐三郎左衛門尉)の娘です(沙々貴神社所蔵佐々木氏系図)。狩野氏は、為佐(肥後守・大宰少弐・評定衆・引付衆)が宮騒動で評定衆を辞したという経歴をもっており、その孫為成は幕府中枢からはずれて六波羅評定衆に列していました。佐々木加地氏は西国の備前守護家として、六波羅評定衆と姻戚関係を結んでいたことが分かります。
備前国の有力武士児島・和田・飽浦・田井氏らは、この備前守護家佐々木加地氏の庶流です。和田範長や児島高徳(小島備後三郎)、飽浦信胤(佐々木三郎左衛門尉)、田井信高(佐々木田井新左衛門尉)もその一族です。
また信実の三男信重(右衛門尉)は、六角宗信が供奉した弘安九年(一二八六)の春日行幸に、大舎人寮の允代として供奉しています。『勘仲記』の記事では「佐々木信重」とあり、源姓ではなく佐々木姓で記されていることは注目できます。下級官人には源平藤橘の貴姓の者は補任されないという了解があり、藤原であれば藤井、橘ならば立花と改姓した上で補任されました。佐々木氏の場合ならば、この信重の例のように源から佐々木に改姓した上で補任されたのです。この佐々木姓は佐々貴山公を意味します。東寺文書で、佐々貴山公の分流が「佐々貴」と称していることが確認できます。信重はのちに右衛門尉に至っています。佐々木氏の中には、武家ではなく宮廷人として下級官人からの叩き上げで六衛府の尉に至った者がいたのです。ただし信重の子息資実(東郷左衛門尉)は、祖父信実の養子となって源姓に復姓しています。
信実の七男氏綱(加地七郎左衛門尉)は鎌倉にあって有力御家人に列して、その子息経綱(左衛門尉)は評定衆京極氏信(対馬判官・近江守)の娘を娶っています。経綱の子息宗経と甥宗綱(三郎景綱の子息)は大宰権少弐に補任されています。加地佐々木氏氏綱流が鎌倉にあって有力御家人に列して大宰少弐を世襲し、元寇で九州御家人を統率していた鎮西奉行少弐氏と官職の上では並んでいたことが分かります。
盛綱が領していた伊予国内の所領は、信実の八男信朝(八郎左衛門尉)が継承しました。信朝も『吾妻鏡』によく登場し、子孫朝房が伊予国弥津郷地頭となっています(沙々貴神社本)。
ところで加地荘のうち中条は、加地氏の娘婿になった三浦和田氏(中条氏)に継承されていますが、その荘園絵図は現存しており、とても有名です。歴史教科書にも載っているほどです。
備前守護は信実の次男実秀(大友二郎・加地二郎左兵衛尉・左衛門尉)、孫実綱(加地太郎左衛門尉)によって継承されました。実綱の子息長綱(加地源太左衛門尉・筑前守)は、嘉元の乱(1305)で重傷を負ったのでしょう、北条宗方は5月4日に滅亡したが、その直後の13日に没しています。嘉元の乱では、六角氏を除く佐々木一族が北条得宗側として活躍し、多くの犠牲者を出しました。
そののち時綱(太郎左衛門尉)・時秀(二郎左衛門尉・備前守)が守護を継承。鎌倉末期に備前守護として見える加地二郎左衛門尉(『光明寺残篇』)は、時秀のことでしょう。この時秀の母は、六波羅評定衆狩野周防守為成(甲斐三郎左衛門尉)の娘です(沙々貴神社所蔵佐々木氏系図)。狩野氏は、為佐(肥後守・大宰少弐・評定衆・引付衆)が宮騒動で評定衆を辞したという経歴をもっており、その孫為成は幕府中枢からはずれて六波羅評定衆に列していました。佐々木加地氏は西国の備前守護家として、六波羅評定衆と姻戚関係を結んでいたことが分かります。
備前国の有力武士児島・和田・飽浦・田井氏らは、この備前守護家佐々木加地氏の庶流です。和田範長や児島高徳(小島備後三郎)、飽浦信胤(佐々木三郎左衛門尉)、田井信高(佐々木田井新左衛門尉)もその一族です。
また信実の三男信重(右衛門尉)は、六角宗信が供奉した弘安九年(一二八六)の春日行幸に、大舎人寮の允代として供奉しています。『勘仲記』の記事では「佐々木信重」とあり、源姓ではなく佐々木姓で記されていることは注目できます。下級官人には源平藤橘の貴姓の者は補任されないという了解があり、藤原であれば藤井、橘ならば立花と改姓した上で補任されました。佐々木氏の場合ならば、この信重の例のように源から佐々木に改姓した上で補任されたのです。この佐々木姓は佐々貴山公を意味します。東寺文書で、佐々貴山公の分流が「佐々貴」と称していることが確認できます。信重はのちに右衛門尉に至っています。佐々木氏の中には、武家ではなく宮廷人として下級官人からの叩き上げで六衛府の尉に至った者がいたのです。ただし信重の子息資実(東郷左衛門尉)は、祖父信実の養子となって源姓に復姓しています。
信実の七男氏綱(加地七郎左衛門尉)は鎌倉にあって有力御家人に列して、その子息経綱(左衛門尉)は評定衆京極氏信(対馬判官・近江守)の娘を娶っています。経綱の子息宗経と甥宗綱(三郎景綱の子息)は大宰権少弐に補任されています。加地佐々木氏氏綱流が鎌倉にあって有力御家人に列して大宰少弐を世襲し、元寇で九州御家人を統率していた鎮西奉行少弐氏と官職の上では並んでいたことが分かります。
盛綱が領していた伊予国内の所領は、信実の八男信朝(八郎左衛門尉)が継承しました。信朝も『吾妻鏡』によく登場し、子孫朝房が伊予国弥津郷地頭となっています(沙々貴神社本)。
ところで加地荘のうち中条は、加地氏の娘婿になった三浦和田氏(中条氏)に継承されていますが、その荘園絵図は現存しており、とても有名です。歴史教科書にも載っているほどです。
この記事へのコメント
活字化されているものがあれば、だれでも気軽に読めますので、皆さんの参考になると思います。
最近では、このように系図を資料として掲載する刊行物が増えており、系図研究法の確立が急がれるとも思っています。
「秀忠━景秀━時基━基氏━秀泰」と続いていました。
私のblogにおきましても、いよいよ備前備中美作の佐々木氏を中心とした「馬屋原氏についての考察」に入ります。
つきましては、引用として、佐々木先生の佐々木氏の研究の記事の掲載をぜひさせて頂きたく、ここに御承諾頂きたくお願い致します。
「blog 佐々木哲学校 佐々木氏の研究より」を表示させて頂きます事は当然でありますが
初代 佐々木盛綱(備前国守護、正元元年卒)
2代 加地信實(寛元元年卒)
3代 磯部秀忠(号磯部、正嘉2年卒)
4代 磯部秀綱(建治元年卒)
5代 磯部景秀(児嶋太郎、建武2年卒)
6代 児嶋高徳(備後守、正平20年卒、行年67)
7代 小島高光(備中守、文中2年卒)
8代 (小島)正綱(永享15年卒)
9代 (小島)正光(寛正元年卒)
10代 (小島)光義(明応元年卒)
11代 (小島)定義(蒲生下郡御所内城主、永正6年卒)
12代 (小島)定直(永禄4年卒)
13代 小島定信(属蒲生氏郷、移伊勢国多気、天正19年卒)
14代 佐々木定政(北畠信雄随士、佐々木介左衛門尉、天正8年卒)
*()は史料から苗字を把握出来ていないので、内挿にて付与したもの。
*御所内城は、現存する地名の近江八幡市御所内町から、観音寺城から南西に約4kmの位置にあったと推定しています。御所内町には中世の館跡とされる御所内遺跡があります。
以上