兵部大輔持綱

六角持綱(生年未詳-一四四五)満綱の長男。四郎右兵衛尉、兵部大輔、従四位上、近江守護。法号は西蓮寺殿瑞岳宗勝。常善寺過去帳では、法号西蓮寺前兵部宗勝。
 父満綱が在京したため、早くから近江守護の政務を任され、『花営三代記』応永二十八年(一四二一)二月十八日条と翌二十九年(一四二二)九月十八日条に、将軍義持の伊勢神宮御参宮で、持綱が草津での御昼休を沙汰したことが記されている。また同記応永三十一年(一四二四)十二月二十七日条の貢馬の記事で、貢馬注文の写しに「六、佐々木左京大夫入道跡、今は六角四郎兵衛持綱進上」とある。そのため、この時期の文書の宛所である佐々木四郎右兵衛も持綱と見られる。永享五年(一四三三)山門騒動が始まると、京都にいた父満綱が近江に下向し、満綱・持綱父子は京極持高とともに「山門領押使」となり(『師郷記』永享六年八月十九日条、『満済准后日記』永享六年八月二十三日条)、近江国内の山門領を没収した(『満済准后日記』永享六年九月十二日条)。六角氏は足利義教政権下で着実に守護権力を強化させることができたのである。
 永享十二年(一四四〇)正月三日には、父満綱が大和越智維通追討に出陣中だったため、持綱が椀飯を勤めた(『建内記』永享十二年正月三日条)。椀飯は鎌倉幕府以来、有力御家人が将軍に饗善を献じる年頭の儀礼であり、佐々木氏は毎年正月三日に椀飯を勤める嘉例となっていた。室町期には六角氏と京極氏が隔年で勤仕していた。
 嘉吉の乱(一四四一年)の直後に嘉吉の土一揆が近江から起こった。実は六角氏が土一揆の黒幕であった。当時京都の金融界を山徒系の土倉や酒屋で占められていた。彼らが破綻すれば、山門も経済的打撃を受ける。六角氏はそれを目論んだのである。しかし徳政一揆は六角氏の手を離れ、瞬く間に畿内全域に広がり、六角氏も幕府も徳政令を発布。しかし山門衆徒の反撃にあって、京都六角邸を焼き払われ、父満綱は近江に没落した。
 この直後から、六角氏の内紛が始まった。文安元年(一四四四)七月六角氏被官が、近江守護六角持綱(四郎、兵部大輔)の無道を訴え、持綱の弟時綱(五郎、民部少輔)を奉じて一揆を起こした(『康富記』文安元年七月一日条)。その結果、文安二年(一四四五)正月満綱・持綱父子は自殺した(『師郷記』文安二年正月十三日条)。これを文安の乱という。
 このとき管領畠山持国による幕府は傍観の立場をとり続けた。「恐怖政治」義教政権下で山門領を押領して勢力をつけた六角氏の弱体化を、幕府が目論んだのである。しかし後任の管領細川勝元は積極的に介入して、同年四月には持綱の末弟久頼(相国寺僧周恩)を還俗させ(『師郷記』文安二年四月二十三日条)、さらに翌三年(一四四六)二月には元服させて(『師郷記』文安三年二月二十九日条)、同年八月治罰の御教書を与えて時綱を討たせた(『師郷記』文安三年八月八日条)。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック