山城守広綱
佐々木広綱(生年未詳-一二二一)定綱の長男。小太郎。左兵衛尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、山城守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。広綱の諱字から、母は宇都宮朝綱の娘(定綱の本妻)で、大江広元が烏帽子親あるいは舅であったと推定できる。源平合戦で活躍した叔父経高・盛綱より早く任官し、建久二年(一一九一)当時すでに左兵衛尉に補任されていた。
建久二年(一一九一)比叡山の抗争では隠岐に流されたが、後白河院の仏事による恩赦で建久四年(一一九三)に帰京し、左衛門尉に昇進し、父定綱についで近江・隠岐・出雲・石見・長門守護職に補任された。『吾妻鏡』正治二年(一二〇〇)四月八日に広綱の飛脚の記事があり、このとき広綱が在京し、幕府に飛脚で京都情勢を伝達していたことが分かる。『吾妻鏡』には父定綱の飛脚の記事もあり、在京御家人であった佐々木氏が、京都情勢を鎌倉に伝える役割を果たしていたことが分かる。
建仁三年(一二〇三)十月八日源実朝の元服式で、広綱(左衛門尉)は千葉常秀(平次兵衛尉)とともに鎧剱馬の役を勤めた。広綱が有力御家人の仲間入りをしていたことが分かる。
また同年五月延暦寺西塔釈迦堂衆が学徒と対立し、八月には対立が発展して堂衆が城郭を構えたため、十一月父定綱や叔父経高・盛綱ら官軍が堂衆を追討したが、翌元久元年(一二〇四)正月に堂衆の残党が蜂起したため、定綱が勅を奉じて追討した。しかしその残党が再び近江国内で群集したため、七月二十二日京都守護平賀朝雅と広綱に院宣が下り、延暦寺堂衆を追討している(『明月記』『華頂要略』)。
元久二年(一二〇五)閏七月十九日北条時政と後妻牧氏が、将軍源実朝の廃立と娘婿平賀朝雅の擁立を企図したとして、北条時政は伊豆に引退した(牧氏の乱)。広綱は幕命を受けて、叔父佐々木盛綱、従兄弟佐々木高重(経高の子)、五条有範、後藤基清らとともに平賀朝雅を追討した(『吾妻鏡』)。広綱はこのときの功績で、平賀朝雅の六角東洞院邸を受領している。
建暦二年(一二一二)三月二十日広綱は大内惟義らとともに京都在番の功労として、新たに一村の地頭職を給付された。このときの奉行は大江広元であった(『吾妻鏡』)。ただし、この地頭職がどこの土地かは不明である。
建保元年(一二一三)五月の和田義盛の乱では、叔父佐々木義清が幕府軍として大倉を守備したが、京都に在番していた広綱(左衛門尉)には、五月三日付で京畿に逃亡した和田義盛の残党を追討するよう北条義時・大江広元の連書状が発給されている(『吾妻鏡』)。
建保四年(一二一六)二月五日京都東寺に盗賊が入ったため、九日盗賊追捕の宣旨が下され、二十九日に盗賊は藤原秀能・秀康らに逮捕された。四月二十八日広綱は盗賊を鎌倉に送致し、六月十四日盗賊は陸奥の孤島に配流された(『吾妻鏡』建保四年六月十四日条)。広綱はこの功績で、閏六月二六日検非違使に補任されている(『尊卑分脈』)。
建保六年(一二一八)九月二十一日延暦寺衆徒が日吉・祇園・北野の神輿を奉じて強訴しようとしたため、広綱は後藤基清・加藤光員らとともに入京を防いでいる(『吾妻鏡』)。さらに同年十月十五日順徳天皇の日吉行幸に広綱も供奉したが、たまたま山徒従童が専当法師を刃傷して逃走するという事件が発生し、広綱が従童を射留めた。このときの恩賞として、同月二十一日広綱は検非違使在職のまま五位に叙爵されて(叙留)、大夫判官になった(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。将軍実朝もこれを賞して、近江国松伏別府(馬淵庄)を給付している(『吾妻鏡』建保六年十一月五日条)。
承久三年(一二二一)四月十六日には山城守に補任された。これは幕府による推挙ではなく、後鳥羽院の意思によるものであった。さらに広綱は、後藤基清・五条有範・大江能範らとともに後鳥羽院西面に列した(『吾妻鏡』承久三年七月二日条)。このようにして広綱は後鳥羽院の軍事力の中心になり、5月北条義時追討の院宣が下る。承久の乱である。
承久の乱では、広綱父子をはじめ、久時(弟定重の長男鏡右衛門尉)、経高(叔父中務入道経蓮)・高重(太郎判官)父子、盛季(叔父盛綱の次男左衛門尉)など、西日本に本拠を持つ佐々木一族の多くが京方となった。さらに院近臣の佐々木野中納言有雅(資賢のひ孫)が京方の中心人物のひとりであった。広綱は京方の先鋒として京都守護伊賀光季(北条義時の舅)を追討したが、光季の次男光綱が広綱の娘婿であったため、『承久記』ではこの場面を情感豊かに描いている。広綱はこの功績で、伊賀光季の旧邸高辻京極邸を給付されている。
一方、広綱の四弟信綱は北条義時の娘婿であり幕府の東海道軍に参加、越後国検断の信実(盛綱の長男)も越後守護北条朝時とともに北陸道の大将になっている。六月十四日信綱は宇治川で先陣を駆けた。六月十六日叔父経高は自決し、生け捕られた広綱は七月二日死罪となった。さらに同月十六日仁和寺小童であった広綱の末子勢多伽丸が、信綱によって斬首された(『吾妻鏡』)。『承久記』は最後の場面である勢多伽丸の処刑で涙を誘うため、刑を執行した信綱を冷酷に描いているが、信綱自らが執行しなければ佐々木氏は生き残れなかっただろう。佐々木氏の乱といってもいいほど多くの佐々木一族が京方であり、京方の主力軍だったからだ。
この承久の乱を契機に、源平合戦で活躍した佐々木兄弟の子孫のうち、定綱流佐々木氏の信綱の子孫(六角・京極氏)、盛綱流佐々木氏の信実の子孫(加地氏)、義清流佐々木氏(隠岐・塩冶氏)が守護家・評定衆として幕府内で地位を上昇・固定させていくことになる。
建久二年(一一九一)比叡山の抗争では隠岐に流されたが、後白河院の仏事による恩赦で建久四年(一一九三)に帰京し、左衛門尉に昇進し、父定綱についで近江・隠岐・出雲・石見・長門守護職に補任された。『吾妻鏡』正治二年(一二〇〇)四月八日に広綱の飛脚の記事があり、このとき広綱が在京し、幕府に飛脚で京都情勢を伝達していたことが分かる。『吾妻鏡』には父定綱の飛脚の記事もあり、在京御家人であった佐々木氏が、京都情勢を鎌倉に伝える役割を果たしていたことが分かる。
建仁三年(一二〇三)十月八日源実朝の元服式で、広綱(左衛門尉)は千葉常秀(平次兵衛尉)とともに鎧剱馬の役を勤めた。広綱が有力御家人の仲間入りをしていたことが分かる。
また同年五月延暦寺西塔釈迦堂衆が学徒と対立し、八月には対立が発展して堂衆が城郭を構えたため、十一月父定綱や叔父経高・盛綱ら官軍が堂衆を追討したが、翌元久元年(一二〇四)正月に堂衆の残党が蜂起したため、定綱が勅を奉じて追討した。しかしその残党が再び近江国内で群集したため、七月二十二日京都守護平賀朝雅と広綱に院宣が下り、延暦寺堂衆を追討している(『明月記』『華頂要略』)。
元久二年(一二〇五)閏七月十九日北条時政と後妻牧氏が、将軍源実朝の廃立と娘婿平賀朝雅の擁立を企図したとして、北条時政は伊豆に引退した(牧氏の乱)。広綱は幕命を受けて、叔父佐々木盛綱、従兄弟佐々木高重(経高の子)、五条有範、後藤基清らとともに平賀朝雅を追討した(『吾妻鏡』)。広綱はこのときの功績で、平賀朝雅の六角東洞院邸を受領している。
建暦二年(一二一二)三月二十日広綱は大内惟義らとともに京都在番の功労として、新たに一村の地頭職を給付された。このときの奉行は大江広元であった(『吾妻鏡』)。ただし、この地頭職がどこの土地かは不明である。
建保元年(一二一三)五月の和田義盛の乱では、叔父佐々木義清が幕府軍として大倉を守備したが、京都に在番していた広綱(左衛門尉)には、五月三日付で京畿に逃亡した和田義盛の残党を追討するよう北条義時・大江広元の連書状が発給されている(『吾妻鏡』)。
建保四年(一二一六)二月五日京都東寺に盗賊が入ったため、九日盗賊追捕の宣旨が下され、二十九日に盗賊は藤原秀能・秀康らに逮捕された。四月二十八日広綱は盗賊を鎌倉に送致し、六月十四日盗賊は陸奥の孤島に配流された(『吾妻鏡』建保四年六月十四日条)。広綱はこの功績で、閏六月二六日検非違使に補任されている(『尊卑分脈』)。
建保六年(一二一八)九月二十一日延暦寺衆徒が日吉・祇園・北野の神輿を奉じて強訴しようとしたため、広綱は後藤基清・加藤光員らとともに入京を防いでいる(『吾妻鏡』)。さらに同年十月十五日順徳天皇の日吉行幸に広綱も供奉したが、たまたま山徒従童が専当法師を刃傷して逃走するという事件が発生し、広綱が従童を射留めた。このときの恩賞として、同月二十一日広綱は検非違使在職のまま五位に叙爵されて(叙留)、大夫判官になった(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。将軍実朝もこれを賞して、近江国松伏別府(馬淵庄)を給付している(『吾妻鏡』建保六年十一月五日条)。
承久三年(一二二一)四月十六日には山城守に補任された。これは幕府による推挙ではなく、後鳥羽院の意思によるものであった。さらに広綱は、後藤基清・五条有範・大江能範らとともに後鳥羽院西面に列した(『吾妻鏡』承久三年七月二日条)。このようにして広綱は後鳥羽院の軍事力の中心になり、5月北条義時追討の院宣が下る。承久の乱である。
承久の乱では、広綱父子をはじめ、久時(弟定重の長男鏡右衛門尉)、経高(叔父中務入道経蓮)・高重(太郎判官)父子、盛季(叔父盛綱の次男左衛門尉)など、西日本に本拠を持つ佐々木一族の多くが京方となった。さらに院近臣の佐々木野中納言有雅(資賢のひ孫)が京方の中心人物のひとりであった。広綱は京方の先鋒として京都守護伊賀光季(北条義時の舅)を追討したが、光季の次男光綱が広綱の娘婿であったため、『承久記』ではこの場面を情感豊かに描いている。広綱はこの功績で、伊賀光季の旧邸高辻京極邸を給付されている。
一方、広綱の四弟信綱は北条義時の娘婿であり幕府の東海道軍に参加、越後国検断の信実(盛綱の長男)も越後守護北条朝時とともに北陸道の大将になっている。六月十四日信綱は宇治川で先陣を駆けた。六月十六日叔父経高は自決し、生け捕られた広綱は七月二日死罪となった。さらに同月十六日仁和寺小童であった広綱の末子勢多伽丸が、信綱によって斬首された(『吾妻鏡』)。『承久記』は最後の場面である勢多伽丸の処刑で涙を誘うため、刑を執行した信綱を冷酷に描いているが、信綱自らが執行しなければ佐々木氏は生き残れなかっただろう。佐々木氏の乱といってもいいほど多くの佐々木一族が京方であり、京方の主力軍だったからだ。
この承久の乱を契機に、源平合戦で活躍した佐々木兄弟の子孫のうち、定綱流佐々木氏の信綱の子孫(六角・京極氏)、盛綱流佐々木氏の信実の子孫(加地氏)、義清流佐々木氏(隠岐・塩冶氏)が守護家・評定衆として幕府内で地位を上昇・固定させていくことになる。
この記事へのコメント
なお、鹿児島の墓地には「隅立て四つ目」、「平四つ目」の家紋をよく見かける。佐々木氏と九州とのつながりに注目するのもいいかもしれない。
九州に佐々木一族が多く分布することは存じ上げています。とくに大山氏や野村氏のことは『続群書類従』佐々木系図にも記されていますので、承知しております。平田氏については今後の研究になるかと存じます。情報提供ありがとうございました。
地頭として視察した際に、不作、疫病であった隠岐の地であっために、近江国より神様を勧請して始めたといわれる「武良祭風流」という陰陽道にちなんだお祭りがあります。お祭りの始祖が定綱かどうか知りたいです。
定綱のあと、隠岐守護職についたのが異母弟義清である理由が知りたいです。
どうぞよろしくお願いいたします。