常盤恵冠者為俊
平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条では「四位陪従家定」とある。
『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治二年(一〇八八)の『白河上皇高野御幸記』(寛治二年高野行幸記)では「童子平千手丸」と童名で見えており、童形で院北面であったことが確認できる。このとき藤原盛重や橘頼里らは実名(成人名)で見える。
『中右記』寛治四年(一〇九〇)四月九日条では「左兵衛少尉平為俊」とある。実名(成人名)を名乗るのは一般的には元服と同時であるが、平安中期以降には皇子女の親王宣下、上級貴族の童昇殿、女性の宮仕え、叙爵などが改名の契機となっていた。公的身分に就くためには名簿を公的機関に提出しなければならないため、たとえ元服以前であっても公的身分標識として実名が不可欠になったのである。藤原頼長の場合も童殿上を契機に実名を名乗っている。為俊の場合も、左兵衛少尉補任とともに実名が必要とされたのだろう。
ここで初官として、権官ではなく正員の左兵衛少尉に補任されていることにも注目できる。一般に衛門尉・兵衛尉とある場合は権少尉である。それにもかかわらず、元服前後の少年が初官として正員の左兵衛少尉に直任されている。これも、やはり白河院の鍾愛によるものだろう。実は舞童に選定された童たちが左兵衛府で舞の教習をうけるということが行われており(『三代実録』元慶六年三月二七日条、『伏見宮御記録』代々御賀記・女御賀例)、為俊は左兵衛少尉に補任されることで、左兵衛府で実践的に行儀見習いを受けていたと考えられる。
さらに、『為房卿記』寛治六年(一〇九二)正月二十五日には左兵衛尉為俊が「院辺追捕賞と称して」検非違使に補任された記事がある。記主藤原為房は為俊の検非違使補任を「他府希代例云々」と記して驚いている。これは、検非違使は衛門尉が兼任するのが通例であるためだ。しかし、驚いた理由はそれだけではないだろう。『官職秘鈔』では兵衛尉で検非違使を兼任した例として源斉頼とともに為俊を挙げている。元服前後の少年が、前九年合戦のときの出羽守源斉頼と同じく、兵衛尉から検非違使に補任されたのである。斉頼は、禁中に籠もる犯人を捕進して使宣旨を蒙ったため(『百錬抄』『扶桑略記』)、それを前例に為俊も「院辺追捕賞と称して」使宣旨を蒙ったのである。ところが、為俊に「院辺追捕賞」が実体をともなったものか不明である。
実は、『中右記』寛治六年四月十八日条に「左兵衛尉平為俊、為検非違使、是千手丸也」とある。元服前の童が任官した場合は、公的には実名で呼ばれても私的には幼名で呼ばれ、藤原頼長も童殿上を契機に実名を名乗ったが、その後も父藤原忠実は幼名で呼び続けている。為俊も白河院からは幼名で呼ばれていたのだろう。それに対して記主藤原宗忠がことさら「是千手丸也」と私的な幼名で呼んだのは、実態が童であるにもかかわらず、白河院の鍾愛という私的理由で検非違使に補任されたことを好ましく思っていなかったからと考えられる。童が左兵衛少尉に直任し、しかも二年後には検非違使という重職に補任されたのである。宗忠でなくても驚く。
しかし為俊は左衛門尉に遷任されることなく、左兵衛少尉のまま検非違使を兼官した。このことでも、彼が武者として期待されていたわけではないことが分かる。白河院は、為俊を行幸の花とするために検非違使に補任しただけであろう。そうであれば、警固を任とする左衛門尉に遷任させる必要はない。『尊卑分脈』宇多源氏流では「常恵冠者」、また佐々木系図では「常盤恵冠者」と称されたと伝えているが、この冠者名でも為俊が花ある人物であったことが分かる。
その後も検非違使に在職していたことは確認でき(『中右記』寛治七年八月二十日条・寛治八年三月八日条・嘉保三年七月十日条)、康和二年(一一〇〇)正月五日には従五位下に叙爵されて(『殿暦』)、宿官として下総介に補任された(『魚魯愚抄』巻七)。宿官とは、蔵人・式部丞・民部丞・検非違使などが従五位下に叙爵されたとき、適当な官職がないときに仮に補任される官職のことである。このとき為俊は叙爵されたのである。叙爵されれば五位の陪従として行幸には参列できる。武者ではない者が検非違使である必要はない。
同じく白河院の寵童として知られる藤原盛重は、為俊より早く寛治二年(一〇八八)にはすでに実名(成人名)で呼ばれていたが(『白河上皇高野御幸記』)、その盛重の検非違使在職が確認できるのが康和四年(一一〇二)四月二十五日(『中右記』)以降であることを考えると、その二年前の康和二年(一一〇〇)に叙爵されていた為俊の昇進は速い。為俊に対する白河院の鍾愛ぶりと、為俊の出自の高さが分かる。小舎人(殿上童)であった可能性が高い。嘉承三年(一一〇八)正月二十四日には、検非違使の功績で駿河守に補任された(『中右記』)。天永二年(一一一一)十月十七日には任国から馬十疋・牛十頭を献上しており、駿河守に在職していたことが確認できる(『殿暦』)。しかし重任は叶わなかった。白河院は一日も早い帰京を願っていたのだろう。そのため為俊は二度と国司に補任されることはなかった。
『中右記』大治四年(一一二九)閏七月二十五日条にも駿河守として見えるが、このときは前駿河守であったと考えられる。この記事は、白河院没後もひきつづき平忠盛・為俊らが鳥羽院並びに女院北面に列したというものであり、忠盛に続けて為俊が記され、依然として北面の有力者であったことが分かる。
ところで『尊卑分脈』『続群書類従』をはじめとする佐々木系図で、為俊は源季定に改名したとされるが、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ゝゝ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。陪従とは賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀や行幸で、神楽の管弦・舞・歌などに従事する四位・五位の地下である。そのため位階は四位であっても殿上人に続けて四位陪従として記されている。しかし実は平忠盛も源家定もすでに昇殿を許されている。忠盛は長承元年(一一三二)三月十三日に(『中右記』)、家定は長承三年(一一三四)四月九日に(『長秋記』)それぞれ昇殿を許されているのである。そのため、この記事の「陪従」は院北面(下北面)を意味していたと考えられる。賀茂行幸で忠盛とともに舞人を勤めた四位陪従家定は、白河院没後に忠盛とともに鳥羽院北面に列した為俊の改名後の姿だろう。これで、これまで為俊の晩年が不明であった理由が分かる。改名していたのである。諸系図では「季定」と見えるが、実際には「家定」と名乗っていたことも分かる。草書体が似ていたために誤って伝えられたのであろう。やはり為俊は武者ではなく陪従として期待されていたのである。
実は、この時期もうひとり「家定」と名乗った人物がいる。それは村上源氏右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅である。信雅ははじめ「家定」と名乗り、寛治七年(一〇九三)三月六日には昇殿を許されて殿上人に列し、左馬権頭、右近衛少将、加賀介を経て陸奥守に補任され(『中右記』『長秋記』)、天承元年(一一三一)八月九日まで「家定」と名乗っていたことが確認でき(『長秋記』)、長承三年(一一三四)三月十九日に皇后宮亮に補任されたときには「信雅」と名乗っていた(『中右記』『長秋記』)。翌四月九日に昇殿を許された院北面家定とは明らかに別人である。
さらに『長秋記』保延元年(一一三五)四月二十一日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある。この記事をそのまま読めば、院北面家定が村上源氏に列していたことになる。『尊卑分脈』村上源氏流で、六条右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅の子に季定が記されて、「実者顕房公子云々」とあるのはこのためだろう。さらに信雅の子息近江中将成雅の記事に「或季定子也云々」とある。実際に『長秋記』の記事で、為俊が改名後に村上源氏の養子になっていたことが分かる。また家主季房に続けて家定が記されており、家定は季房の養子として村上源氏に列したことも分かる。
私がこのような結論に至ったのは、『尊卑分脈』村上源氏流で、右大臣顕房の子息信雅に注目していたからである。信雅の子息成雅が「或季定子也云々」と記され、さらに信雅の子息に季定があって「実者顕房公子云々」と記されている。ここで二つの作業仮説を立てた。ひとつは、季定(本為俊)が村上源氏の養子になり、さらに村上源氏の公達成雅を養子にしたとういう作業仮説である。もうひとつが、村上源氏信雅(本家定)と季定(本為俊)が混同されて、信雅の子息成雅に季定の子息と誤り伝える系譜伝承が生まれたという作業仮説である。混同される要因としては、季定が同名「家定」を名乗っていたということが考えられる。この作業仮説をもとに当時の記録を読み、村上源氏信雅とは別人の四位陪従家定を見つけることができた。そして為俊の改名後の実名は「季定」ではなく、「家定」であったと結論づけたのである。さらに『長秋記』保延元年(一一三五)四月二十一日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある記事を見つけ、為俊が改名後に村上源氏に列していたことを明らかにした。ただし今後も研究を続けていく必要があるだろう。
為俊には、右兵衛尉為兼という弟がいたことが当時の記録で分かる(『中右記』寛治七年十月三日条・康和五年四月十七日条)。寛治七年(一〇九三)三月の『白河上皇春日社御幸記』で「為利弟也」との割注が付される小舎人童「袈裟牛丸」は為兼の前身であろう。同年三月に袈裟牛丸と呼ばれ、十月には右兵衛尉為兼として登場するため、兄為俊と同様、元服前後に兵衛尉に任官したことが分かる。白河院の取り計らいであろう。弟為兼も院殿上童であった。この為兼は、為俊(家定)の弟行定と同一人物と考えられる。この行定の子孫が、近江佐々木荘下司として現地管理に当たった源行真である(『源行真申詞記』)。その一族である山崎氏は、平為兼と源行定が同一人物であることを裏付けるように、「佐々木末流平氏」と称している(『山崎家譜』)。
『平家物語』長門本では為俊を三浦氏とし、続群書類従本三浦系図では為俊を三浦義明の祖父為次の弟とする。しかし三浦義明が生まれた寛治六年(一〇九二)には、為俊もまだ元服まもない少年であり、兄弟ほどの年齢差しかない。しかも為俊には、弟右兵衛尉為兼までいる。この為俊・為兼兄弟を三浦義明の大叔父とするには年代が合わない。 また『尊卑分脈』藤原氏良門流では藤原章俊の養子としているが、管見の限り藤原氏を称した形跡はない。『尊卑分脈』宇多源氏流にあるように、為俊は宇多源氏流であろう。
『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治二年(一〇八八)の『白河上皇高野御幸記』(寛治二年高野行幸記)では「童子平千手丸」と童名で見えており、童形で院北面であったことが確認できる。このとき藤原盛重や橘頼里らは実名(成人名)で見える。
『中右記』寛治四年(一〇九〇)四月九日条では「左兵衛少尉平為俊」とある。実名(成人名)を名乗るのは一般的には元服と同時であるが、平安中期以降には皇子女の親王宣下、上級貴族の童昇殿、女性の宮仕え、叙爵などが改名の契機となっていた。公的身分に就くためには名簿を公的機関に提出しなければならないため、たとえ元服以前であっても公的身分標識として実名が不可欠になったのである。藤原頼長の場合も童殿上を契機に実名を名乗っている。為俊の場合も、左兵衛少尉補任とともに実名が必要とされたのだろう。
ここで初官として、権官ではなく正員の左兵衛少尉に補任されていることにも注目できる。一般に衛門尉・兵衛尉とある場合は権少尉である。それにもかかわらず、元服前後の少年が初官として正員の左兵衛少尉に直任されている。これも、やはり白河院の鍾愛によるものだろう。実は舞童に選定された童たちが左兵衛府で舞の教習をうけるということが行われており(『三代実録』元慶六年三月二七日条、『伏見宮御記録』代々御賀記・女御賀例)、為俊は左兵衛少尉に補任されることで、左兵衛府で実践的に行儀見習いを受けていたと考えられる。
さらに、『為房卿記』寛治六年(一〇九二)正月二十五日には左兵衛尉為俊が「院辺追捕賞と称して」検非違使に補任された記事がある。記主藤原為房は為俊の検非違使補任を「他府希代例云々」と記して驚いている。これは、検非違使は衛門尉が兼任するのが通例であるためだ。しかし、驚いた理由はそれだけではないだろう。『官職秘鈔』では兵衛尉で検非違使を兼任した例として源斉頼とともに為俊を挙げている。元服前後の少年が、前九年合戦のときの出羽守源斉頼と同じく、兵衛尉から検非違使に補任されたのである。斉頼は、禁中に籠もる犯人を捕進して使宣旨を蒙ったため(『百錬抄』『扶桑略記』)、それを前例に為俊も「院辺追捕賞と称して」使宣旨を蒙ったのである。ところが、為俊に「院辺追捕賞」が実体をともなったものか不明である。
実は、『中右記』寛治六年四月十八日条に「左兵衛尉平為俊、為検非違使、是千手丸也」とある。元服前の童が任官した場合は、公的には実名で呼ばれても私的には幼名で呼ばれ、藤原頼長も童殿上を契機に実名を名乗ったが、その後も父藤原忠実は幼名で呼び続けている。為俊も白河院からは幼名で呼ばれていたのだろう。それに対して記主藤原宗忠がことさら「是千手丸也」と私的な幼名で呼んだのは、実態が童であるにもかかわらず、白河院の鍾愛という私的理由で検非違使に補任されたことを好ましく思っていなかったからと考えられる。童が左兵衛少尉に直任し、しかも二年後には検非違使という重職に補任されたのである。宗忠でなくても驚く。
しかし為俊は左衛門尉に遷任されることなく、左兵衛少尉のまま検非違使を兼官した。このことでも、彼が武者として期待されていたわけではないことが分かる。白河院は、為俊を行幸の花とするために検非違使に補任しただけであろう。そうであれば、警固を任とする左衛門尉に遷任させる必要はない。『尊卑分脈』宇多源氏流では「常恵冠者」、また佐々木系図では「常盤恵冠者」と称されたと伝えているが、この冠者名でも為俊が花ある人物であったことが分かる。
その後も検非違使に在職していたことは確認でき(『中右記』寛治七年八月二十日条・寛治八年三月八日条・嘉保三年七月十日条)、康和二年(一一〇〇)正月五日には従五位下に叙爵されて(『殿暦』)、宿官として下総介に補任された(『魚魯愚抄』巻七)。宿官とは、蔵人・式部丞・民部丞・検非違使などが従五位下に叙爵されたとき、適当な官職がないときに仮に補任される官職のことである。このとき為俊は叙爵されたのである。叙爵されれば五位の陪従として行幸には参列できる。武者ではない者が検非違使である必要はない。
同じく白河院の寵童として知られる藤原盛重は、為俊より早く寛治二年(一〇八八)にはすでに実名(成人名)で呼ばれていたが(『白河上皇高野御幸記』)、その盛重の検非違使在職が確認できるのが康和四年(一一〇二)四月二十五日(『中右記』)以降であることを考えると、その二年前の康和二年(一一〇〇)に叙爵されていた為俊の昇進は速い。為俊に対する白河院の鍾愛ぶりと、為俊の出自の高さが分かる。小舎人(殿上童)であった可能性が高い。嘉承三年(一一〇八)正月二十四日には、検非違使の功績で駿河守に補任された(『中右記』)。天永二年(一一一一)十月十七日には任国から馬十疋・牛十頭を献上しており、駿河守に在職していたことが確認できる(『殿暦』)。しかし重任は叶わなかった。白河院は一日も早い帰京を願っていたのだろう。そのため為俊は二度と国司に補任されることはなかった。
『中右記』大治四年(一一二九)閏七月二十五日条にも駿河守として見えるが、このときは前駿河守であったと考えられる。この記事は、白河院没後もひきつづき平忠盛・為俊らが鳥羽院並びに女院北面に列したというものであり、忠盛に続けて為俊が記され、依然として北面の有力者であったことが分かる。
ところで『尊卑分脈』『続群書類従』をはじめとする佐々木系図で、為俊は源季定に改名したとされるが、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ゝゝ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。陪従とは賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀や行幸で、神楽の管弦・舞・歌などに従事する四位・五位の地下である。そのため位階は四位であっても殿上人に続けて四位陪従として記されている。しかし実は平忠盛も源家定もすでに昇殿を許されている。忠盛は長承元年(一一三二)三月十三日に(『中右記』)、家定は長承三年(一一三四)四月九日に(『長秋記』)それぞれ昇殿を許されているのである。そのため、この記事の「陪従」は院北面(下北面)を意味していたと考えられる。賀茂行幸で忠盛とともに舞人を勤めた四位陪従家定は、白河院没後に忠盛とともに鳥羽院北面に列した為俊の改名後の姿だろう。これで、これまで為俊の晩年が不明であった理由が分かる。改名していたのである。諸系図では「季定」と見えるが、実際には「家定」と名乗っていたことも分かる。草書体が似ていたために誤って伝えられたのであろう。やはり為俊は武者ではなく陪従として期待されていたのである。
実は、この時期もうひとり「家定」と名乗った人物がいる。それは村上源氏右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅である。信雅ははじめ「家定」と名乗り、寛治七年(一〇九三)三月六日には昇殿を許されて殿上人に列し、左馬権頭、右近衛少将、加賀介を経て陸奥守に補任され(『中右記』『長秋記』)、天承元年(一一三一)八月九日まで「家定」と名乗っていたことが確認でき(『長秋記』)、長承三年(一一三四)三月十九日に皇后宮亮に補任されたときには「信雅」と名乗っていた(『中右記』『長秋記』)。翌四月九日に昇殿を許された院北面家定とは明らかに別人である。
さらに『長秋記』保延元年(一一三五)四月二十一日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある。この記事をそのまま読めば、院北面家定が村上源氏に列していたことになる。『尊卑分脈』村上源氏流で、六条右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅の子に季定が記されて、「実者顕房公子云々」とあるのはこのためだろう。さらに信雅の子息近江中将成雅の記事に「或季定子也云々」とある。実際に『長秋記』の記事で、為俊が改名後に村上源氏の養子になっていたことが分かる。また家主季房に続けて家定が記されており、家定は季房の養子として村上源氏に列したことも分かる。
私がこのような結論に至ったのは、『尊卑分脈』村上源氏流で、右大臣顕房の子息信雅に注目していたからである。信雅の子息成雅が「或季定子也云々」と記され、さらに信雅の子息に季定があって「実者顕房公子云々」と記されている。ここで二つの作業仮説を立てた。ひとつは、季定(本為俊)が村上源氏の養子になり、さらに村上源氏の公達成雅を養子にしたとういう作業仮説である。もうひとつが、村上源氏信雅(本家定)と季定(本為俊)が混同されて、信雅の子息成雅に季定の子息と誤り伝える系譜伝承が生まれたという作業仮説である。混同される要因としては、季定が同名「家定」を名乗っていたということが考えられる。この作業仮説をもとに当時の記録を読み、村上源氏信雅とは別人の四位陪従家定を見つけることができた。そして為俊の改名後の実名は「季定」ではなく、「家定」であったと結論づけたのである。さらに『長秋記』保延元年(一一三五)四月二十一日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある記事を見つけ、為俊が改名後に村上源氏に列していたことを明らかにした。ただし今後も研究を続けていく必要があるだろう。
為俊には、右兵衛尉為兼という弟がいたことが当時の記録で分かる(『中右記』寛治七年十月三日条・康和五年四月十七日条)。寛治七年(一〇九三)三月の『白河上皇春日社御幸記』で「為利弟也」との割注が付される小舎人童「袈裟牛丸」は為兼の前身であろう。同年三月に袈裟牛丸と呼ばれ、十月には右兵衛尉為兼として登場するため、兄為俊と同様、元服前後に兵衛尉に任官したことが分かる。白河院の取り計らいであろう。弟為兼も院殿上童であった。この為兼は、為俊(家定)の弟行定と同一人物と考えられる。この行定の子孫が、近江佐々木荘下司として現地管理に当たった源行真である(『源行真申詞記』)。その一族である山崎氏は、平為兼と源行定が同一人物であることを裏付けるように、「佐々木末流平氏」と称している(『山崎家譜』)。
『平家物語』長門本では為俊を三浦氏とし、続群書類従本三浦系図では為俊を三浦義明の祖父為次の弟とする。しかし三浦義明が生まれた寛治六年(一〇九二)には、為俊もまだ元服まもない少年であり、兄弟ほどの年齢差しかない。しかも為俊には、弟右兵衛尉為兼までいる。この為俊・為兼兄弟を三浦義明の大叔父とするには年代が合わない。 また『尊卑分脈』藤原氏良門流では藤原章俊の養子としているが、管見の限り藤原氏を称した形跡はない。『尊卑分脈』宇多源氏流にあるように、為俊は宇多源氏流であろう。
この記事へのコメント
さて、平為俊改め源季定が養子にしたという近江中将成雅は康治二年(1143)正月に前山城守藤原頼輔と乱闘事件を起こしていますが(『本朝世紀』正月十二日条)、成雅の雑色を捕らえたのは「右衛門権少尉藤公俊」すなわち為俊の養子の公俊でして、為俊(季定)の養子同氏が関わっている事になるわけで非常に面白いですね。
ところで平為俊が「晩年に村上源氏右大臣顕房の養子になり源季定と改名し」たというのはどちらの史料に見える記載でしょうか?よろしかったらご教示願います。では。
為俊が源季定と改名したことは、『尊卑分脈』をはじめ多くの系図に見られます。季定が右大臣顕房の養子であるという仮説(学説)は、『尊卑分脈』村上源氏流の源信雅(顕房の子息)の子息季定の項に「実者顕房公子云々」とあることに注目したのです。『今鏡』をみても顕房に季定という実子がいたことは確認できなかったため、実子と為したことを伝えたものと解釈したのです。信雅の子息成雅の項に「或季定子也」という記事ともセットになっています。養子を養子としてではなく、実子として育てることは当時よく見られたため、このように解釈したのです。現在、当時の資料で裏づけが取れないか調査中です。
私の研究方法が系図を分解し、そこから作業仮説を立て、それを資料に照らし合わせて無矛盾であれば仮説(学説)として採用するというものです。為俊の場合は現在、系図の分析が終わり、資料で確認中です。
出来れば史料の記述とご自身の仮説とは峻別出来るような表現にしていただけると、見る側としては理解しやすいかと存じます。
ところで、史料によって追える平為俊の活動年代と源顕房の没年をふまえると「晩年に村上源氏右大臣顕房の養子になり」というのは厳しい気がするのですが・・・?
『尊卑分脈』宇多源氏流季定の「本追捕使為俊」の記事があり、さらに村上源氏流顕房の子息信雅の子としても「季定」が記されていることにもとづいています。
また「実者顕房子云々」については、顕房没後に由縁を求めたと解釈しています。
ところで仮説の意味をよくご存じないようですので、実証科学における仮説の意味について説明しておきます。実証科学においては、実はどの学説も仮説に過ぎません。同一資料であっても見方によって複数の解釈が生まれ、古い解釈は新しい解釈によって取って代わられます。そのような意味で仮説と言っています。作業仮説という意味ではありません。
そのため私も、記事を書きっぱなしにしているわけではなく、つねに資料にもとづいて修正を続けています。
ところで、平為俊が追捕尉(追捕使尉)だった事は諸史料に散見されるわけですが、『尊卑分脉』宇多源氏流季定の注記の様に追捕使だった事を示す史料はあるのでしょうか?
ついでに、平為俊の叙爵・宿官の下総介任官の記事は『魚魯愚鈔』しか確認してないのですが、『殿暦』にもあるのでしたっけ?
教えて君で恐縮ですがよろしくお願いします・・・。
季定(本名為俊)が追捕使であったことは、佐々木氏の古い系譜伝承を伝えている沙々貴神社本でも伝えています。ただし改名したときは検非違使ではありませんから、検非違使源季貞という人物が出てきても宇多源氏ではなく、文徳源氏です。時期は多少ずれているのですが、混同しやすいです。
検非違使の源季貞は後白河の北面下臈ながら、むしろ平氏の家人としての活動が目立つ人物ですよ、ね。一時期平姓で史料に見えたりもしますが、文徳源氏でしたっけ?
『尊卑分脉』では清和源氏の満正流に載っているようですが?
源季貞は、文徳源氏と清和源氏の二人がいます。文徳源氏季貞は保元・平治の乱当時の人物で、たしか平治の乱で敗れました。清和源氏季貞は平氏政権下の人物です。両者は別人です。
当時の資料を見ると氏姓にこだわりがないのか、単なる誤記なのか氏姓が変わる人物が少なくないですね。経方や為俊はそんな人物だったと私は考えています。
文徳源氏の季貞というのは『尊卑分脉』では季範の子で右衛門尉・刑部丞・ー貞・号松尾衛門、と注記のある人物でしょうか?でもこれだと検非違使の注記がないし…
果たして頭の中が混同しております。
余談ながら『中右記』大治4年閏7月25日条の「女院」は郁芳門院ではなく待賢門院ではないかと思うのですがいかがでしょう?
ところで、私は文徳源氏季貞が検非違使とは言っていませんよ。私は宇多源氏季定(本追捕使為俊)と文徳源氏季貞は別人だと言ったつもりです。つまり宇多源氏季定(本追捕使為俊)、文徳源氏季貞、清和源氏季貞と3人の源季定(季貞)が時期を少しずつずらしながらいたことになるのです。
>検非違使源季貞という人物が出てきても宇多源氏ではなく、文徳源氏です
というのを勘違いしたようです。失礼しました。
「女院」の方は最近出た『新横須賀市史』でも郁芳門院となっており、「?」と思っていたのでうかがってみた次第です。安心いたしました。
そういう意味で言っているのを、早とちりなされて、検非違使でなければならないと思ってしまわれたのでしょう。私の書き方が不注意でしたので、気になさらないで下さい。
それにしても、早とちりなのか揚げ足取りなのか分からない質問のされ方をしますね(笑)
ただ、自分の知らない記述がたくさんあるので興味深く拝見し、質問させていただいている次第です。
時に『尊卑分脉』の為俊の注記は「童形で北面に祗候した初例」としか書いてないわけですが、本文中の「童形のまま左兵衛尉に補任」「童形で検非違使補任」というのはどのような史料に基づいた記述でしょうか?
童形のままの人物が官職を得る、というのは寡聞にしてほかの事例を知らないのですが、「童形」についての佐々木様の定義と併せてご教示いただければ幸いです。
資料に「童より」「童形」と記してあれば、いくら信じられなくても、まずは受け止めなければなりません。また信じられないことだったからこそ、『中右記』記主藤原宗忠は為俊らを好ましく思っていなかったのでしょう。
いろいろと質問してくださるおかげで、自分の説明不足な箇所が分かり参考になります。記事にした後も、分かりづらい表現を修正したり、参考文献に書いてあったことでも自分で確認してないものは削除してますので、その際の参考にしています。
しかし興味があるのでしたらご自分で調べてみてはどうでしょうか?もっと面白くなりますよ。
平為俊と童形に関しては、為俊は寛治二年二月の『白河上皇高野御幸記』では「童子平千手丸」と童名で見えますが、『中右記』寛治四年四月九日条に「左兵衛少尉平為俊」と為俊の名で官職を帯びて見えています。管見の限りでは以降の史料では全て「為俊」の名で見えている事からこの間に元服し左兵衛少尉に任官したものと愚考します。一言付言しておくならばこれは「童名でない実名を名乗り」「官職を帯びている」事は既に元服を遂げている人物の徴証である、との前提に基づいています。
故に『中右記』寛治六年四月十八日条の「是千手丸也」は為俊がなお童形で童名を名乗ったまま検非違使左兵衛尉となっていた事を意味するわけではなく、「検非違使の左兵衛尉平為俊などと言っているが、何の事はない。かつての寵童千手丸めだ。」との侮蔑を込めた宗忠の記述と理解しています。
まぁ平為俊についての一般的な理解そのままなわけですが。
当方も平為俊については密かに思うところがあり、自分の中で問題点を明確化するいいチャンスだと思ったので、執拗に(苦笑)質問させていただいた次第です。ご迷惑をおかけしています事をお詫び申し上げます。
今日7月15日にも書き直しましたが、今後も訂正していきます。ブログのいいところは公開討論をしながら、内容を深めていくことだと思っております。学説はつねに仮説であり続けますので、今後も質問してください。
試みに『中右記』の同日条を見てみますと「清原清友」が掃部小(ママ)属に任じられていますので『長秋記』の「某丸」=清原清友という事になりましょう。
そうしますと『長秋記』の「某丸」が童名としてのそれなのか、ちょっと判断がつきかねるところですね。
というのは「某丸」が、特に童(だけ)を指したものであるならば、清友は当日乃至は卑近な時期まで童であった事になるでしょうが、北条時政が九条兼実に当初「北条丸」と呼ばれた如く、成人と童の区別無く記主が名を知らなかった(知る気もなかった?)人物に対する(若干蔑称めいた)呼称の可能性もあるのではないでしょうか?
平為俊の弟の為兼については、先に挙げた米谷氏が寛治七年三月の「白河上皇春日社御幸記」で「為利弟也」との割注が付される「小舎人童」の「袈裟牛丸」をその前身とされています(『中右記』寛治七年三月二十日条には為俊に続いて名前のみ見えています)。これは佐々木様があげておられる『中右記』同年十月三日条の「同(平為俊)舎弟右兵衛尉為兼」との記述とセットにしての理解ですね。…密かに「弟は二人いたのかもよ?」という懸念も無くはありませんが(笑)。
さて、袈裟牛丸=為兼とすると、為兼は『中右記』寛治七年七月十六日条からこの日の除目で右兵衛尉に補任された事が分かるので、三月から七月の間に童名を捨て、任官したものとなりましょうか。
このような抜擢は白河院の意向によるものでしょう。あるいは彼もまた院の寵童だったのかも知れませんね。
もちろんご指摘のとおり蔑称ともとれますが、清原氏は東国武士ではありませんので、北条時政を例に挙げるのはちゅっと無理があるかなと思われます(笑)。ただ寵童に対する蔑称ともとれますね。『中右記』寛治6年4月18日条で記主藤原宗忠は、為俊の検非違使補任のとき「是千手丸也」と記しているぐらいですから。
しかし鎌倉・室町期「佐々木氏の嘉例」があり、嫡子は元服して直ちに兵衛尉に初官として任官し、まもなく左衛門尉に転任、20歳前後に検非違使を兼ねて叙留、その直後に行幸賞で従五位上に加級されるという「佐々木氏の嘉例」ができるのです。しかも佐々木氏の幼名は千手丸です。そのため私は元服と同時に任官という仮説を立てます。
また袈裟牛丸為兼ですが、私もセットに考えて寵童だったと見ています。たしかに弟2人の可能性もありますね(笑)。
でも、いつも様々な可能性を指摘頂きありがとうございます。
今まで何故佐々木様が平為俊と宇多源氏の季定とを同一人としようとしているのか分かりかねていたのですが、漸く理解出来ました。
…理解した上で敢えてお訊きするのですが、平為俊と源季定を同一人とするのはかなり厳しくありませんか?
私の正直な気持ちは、季定に改名していなくても為俊のままで十分だと思っています。しかし否定できない以上、季定改名について今後も研究していく必要があるでしょう。
ただし先日お話したように、文徳源氏流右衛門尉源季貞や清和源氏満政流検非違使源季貞は別人です。
否定できない以上、仮説として立てておく必要はあると思います。
その前に、佐々木様がかなりの部分で依拠しておられる「沙々貴神社所蔵佐々木系図」というのは刊本等になっておるのでしょうか?行き掛かり上、見ておきたいと思いますのでご教示願います。
季定の系譜伝承に関しては、文徳源氏(坂戸源氏)季貞・清和源氏満政流季貞との混同もあるでしょうから慎重に扱う必要があるでしょうね。また村上源氏説は『尊卑分脈』のみが根拠ですから、薄いものです。ですから、扱いは紹介に留まっています。ただ、この時期佐々木氏が源氏に復したのは『源行真申詞記』(平安遺文)によって確実です。そのため為俊一族の源氏改姓は事実と見られます。
沙々貴神社所蔵佐々木系図は、沙々貴神社で販売されています。
資料を読むときもまっさらな頭で読んでいるのではなく、どなたも意識的/あるいは無意識的に作業仮説を立てて読んでいます。
私の場合は作業仮説は作業仮説と割り切っていますので、資料によって作業仮説が否定されれば素直に認めることで、自説を練り上げています。
「某丸」の例に時政を引いたのは確かに乱暴でしたかね。とりあえず替わりに『中右記』永長元年八月二十日条の「右兵衛尉某丸」や康和四年閏五月二十五日条の「將監某丸」をあげておきます。
以前史料中の「某丸」表記を「(若干蔑称めいた)呼称」としたのは、「知っているか否かに関わらず、記主にとっては実名を記す価値の無い人物」という程のつもりだったのですが、ご指摘の通り蔑称という語を用いたのは失敗だったと思います。
『長秋記』には、ほかにも「某丸」についての記事があり、大治4年11月7日条に「今度平野行事ノ某丸依所労今度不勤仕」とあります。こちらはあきれての記事です。