左大臣源雅信

源雅信(九二〇-九九三)敦実親王の三男。母藤原時平娘。一条左大臣・鷹司左大臣。朝廷の重鎮として、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条らの皇太子時代に、その東宮傅(皇太子傅)となった。また安和の変(九六九年)で醍醐の皇子左大臣源高明が失脚した後も、雅信は源氏として執政の地位を維持し続けた。貞元二年(九七七)四月二十四日には右大臣に補任され、さらに貞元三年(九七八)十月二日に左大臣に補任されて、一条左大臣/あるいは鷹司左大臣と称された。公卿源氏の中でも、皇子ではなく皇孫で大臣に補任されたのは、実は雅信が最初であった。
 実は雅信がまだ年少の時、平時望が占い「雅信は必ず従一位左大臣に至るだろう。そのとき縁があったならば、私の子孫を登用してください」と言った。雅信はその言葉を忘れず、左大臣になると、時望の孫惟仲を登用している(『江談抄』第二)。惟仲は中納言・大宰権帥に進み、一条朝の九卿のひとりとなっている。
 さらに正暦二年(九九一)九月七日に弟重信が右大臣に補任されており、源氏で始めて兄弟で左・右大臣を占めた。雅信が没する三日前の正暦四年(九九三)七月二十六日までの二年間雅信・重信兄弟で左・右大臣を占めている。以後の宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏ら公卿源氏の活躍の基盤を築いたといえる。
 雅信は父敦実親王と同じく音曲の名手でもあり、花山天皇の頃には「神楽歌」「催馬楽」の補正選定をした。また漢詩に旋律をつけた朗詠を始め、『源家根本朗詠七首』は雅信自身が定めたとされる。綾小路流の祖である。
 弟重信は高明の娘婿であったため、安和の変(九六九年)では高明に連座して一時的に失脚した。しかし後に政界復帰を果たし、兄雅信の後任として正暦四年(九九三)八月二十八日から長徳元年(九九五)五月八日まで左大臣になった。重信も音曲を好み、桂流の祖となっている。
 雅信・重信兄弟が左大臣を占めていた間、藤原兼家(東三条殿・法興院摂政)は左大臣を経ることなく摂政・太政大臣になり、兼家の弟為光も左大臣を経ることなく太政大臣になった。さらに兼家の子息たち道隆(中関白)と道兼(粟田関白)は内大臣のまま摂政・関白になっている。藤原氏にとっては太政大臣になることよりも、左大臣になることの方が難しい時代であった。
 そのような雅信・重信兄弟でも生前には、源氏太政大臣補任の壁を打ち破ることができなかった。雅信は没後に正一位太政大臣を贈られ、重信も没後に正一位を贈られた。
 雅信・重信兄弟の後任の左大臣が、摂関政治の全盛期を築いた藤原道長(御堂関白)であり、しかも雅信の娘源倫子がその藤原道長の正妻(北政所)であった。
 源倫子は、上東門院彰子(一条天皇中宮)・宇治関白頼通・大二条関白教通・妍子(三条天皇中宮)・威子(後一条天皇中宮)・嬉子(後朱雀天皇后)を生み、後一条・後朱雀・後冷泉ら天皇三代の外祖母となって、夫道長とともに摂関政治の全盛期を築き、外祖母として従一位に叙された。道長は雅信の娘倫子の婿となったことで、公卿源氏と対立するのではなく、むしろ公卿源氏雅信が朝廷内で築いた地盤を継承することができた。そのため『大鏡』では雅信・重信兄弟の逸話も多く伝えられている。上東門院彰子の女房紫式部が『源氏物語』を書いたのも、そのような公卿源氏の存在のためであろう。実は紫式部ともっとも仲の良かった女房仲間である大納言や小少将は、雅信の孫であり、彰子の従姉妹であった。
 また道長は、高明の娘明子(盛明親王養女)を次妻として、その間に右大臣頼宗(中御門・持明院流の祖)、権大納言能信(白河院外戚)、右馬頭顕信(のち出家)、権大納言長家(御子左流の祖)、寛子(小一条院女御)、尊子(村上源氏右大臣師房の妻)などを儲けた。
 このように道長は公卿源氏を排斥するのではなく、むしろその地盤を継承したことで藤原氏の全盛期を築くことができた。道長の女性運は良く、倫子と結婚したときも、道長を毛嫌いした父雅信を説得したのは母穆子であった。そのような女性運によって公卿源氏の地盤を継承することで成功したといえる。権大納言であった道長が、長兄道隆の子息内大臣伊周を越えて内覧・摂政の地位を獲得したのも、姉東三条院詮子(一条天皇母)が道長を強く推したからである。
 雅信の娘は倫子のほかに、右近衛大将藤原道綱(道長の異母兄)の妻、致平親王(村上天皇皇子)の妻などがいる。道綱は、本人よりも母親(藤原倫寧の娘)が有名である。藤原兼家が、自分を訪れなくなった寂しさを綴った『蜻蛉日記』の作者である。道綱と雅信娘のあいだに参議藤原兼経(宰相中将)が生まれている。また致平親王の子左中将源成信は、外祖父である雅信の猶子となっていたが、長保二年(一〇〇〇)に堀河関白兼通の孫左少将藤原重家(左大臣顕光の子)とともに出家した。
 雅信の子息には、まず光孝源氏流右大弁源公忠の娘を母とする源大納言時中(佐々木野・綾小路・庭田家の祖)がいる。また勧修寺流中納言藤原朝忠の娘穆子を母とする左少弁時通と少将時叙(出家・法名寂源・大原勝林院本願上人)、少納言時方(五辻・慈光寺家の祖)がいる。倫子の母は、この藤原穆子である。さらに南家流大納言藤原元方の娘を母にする参議扶義(佐々木家の祖)と式部丞通義がいる。僧籍に入った男子には大僧正済信(法務大僧正・東寺一長者)がいる。
 このうち公卿になったのは長男時中(源大納言)と四男扶義(源宰相)である。時中は、『尊卑分脈』で「水神霊小翁を捕えた」人物と記されている。一寸法師伝説である。扶義は蔵人頭・左中弁(頭中弁)を経て参議兼左大弁に至り(『公卿補任』)、一条天皇の九卿のひとりになっている(『続本朝往生伝』)。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック