式部卿敦実親王

敦実親王(八九三-九六七)宇多天皇の第八皇子。一品式部卿。一条宮、八条宮。母贈皇太后藤原胤子(内大臣藤原高藤娘)。醍醐天皇(諱敦仁)の同母弟である。音曲を名手として有名であり、延喜七年(九〇七)十一月二十二日の自らの元服式でも(『日本紀略』)、拝舞したと伝えられている(『西宮記』『扶桑略記』)。このとき三品に叙され、のち一品式部卿に補任された。翌延喜八年(九〇八)には山城守藤原忠房の作曲した『延喜楽』に舞をつけ(『礼源抄』)、宇多上皇が子供の相撲を見物したときも、山城守藤原忠房が作曲した『胡蝶』に舞をつけている(『礼源抄』『古今著聞集』)。
 敦実親王は平安貴族らしく恋の歌物語にも登場する。『大和物語』によれば、兄醍醐天皇崩御後、女御藤原能子の許に通ったが悲恋に終わったという。能子は、敦実親王の母方の伯父勧修寺流右大臣藤原定方の娘である。能子の「白山に」の歌が『後撰集』に「式部卿敦実の親王忍びて通ふ所はべりけるを、後々絶え絶えになりはべりければ、妹の前斎宮のみこのもとより、このごろはいかにぞとありければ、その返事に、女」の詞書で入集しているように(巻八冬・四七〇)、能子と敦実親王は一時期恋愛関係にあったことは事実だろう。
 しかし敦実親王は醍醐の同母弟であり、有力な皇位継承権者として、左大臣藤原時平の娘婿になっていた。そのため皇族の長老としての逸話も伝わっている。『古事談』巻四ノ三の「貞盛、将門の謀叛を予言しける事」には、次のような逸話が記されている。仁和寺式部卿宮(敦実親王)の御許に将門が参入した。郎等五・六人を連れていたという。つづいて貞盛が参入してきたため、将門と貞盛は門ですれ違った。このとき貞盛は郎等を連れていなかった。そこで貞盛は御前に参って「今日郎等を連れていなかったことが、残念です。もし郎等を連れていれば、今日殺していたことでしょう。この将門は天下に大事を引き出すことになる者です」と申し上げたというものだ。
 このような逸話が伝わるということは、それだけ敦実親王が朝廷の重鎮であったことを示している。一品親王は、王氏長者ともいうべき地位にあり、王氏を統率して朝廷に仕え、叙爵推薦(氏爵)などを行った。平氏はもと王氏であり、この逸話は敦実が王氏長老ともいうべき地位にいたことをよく表象している。
 天暦二年(九四八)十一月七日には輦車を許されている(『本朝世紀』『日本紀略』『貞信公記抄』)。しかし天暦四年(九五〇)二月三日出家して覚真と名乗り、父宇多が開いた仁和寺に居住した。それでも出家後の天暦九年十二月二十日には、旧のように輦車を許されている(『北山抄』『西宮記』)。いかに敦実親王が朝廷で重きをなしていたかが分かる。
 仁和寺は、寛平二年(八九〇)十一月二十三日の太政官符(『類聚十二代格』巻二)によって、光孝天皇陵の領域内に、同天皇の霊を回向するために、宇多天皇の御願で創立されたことが分かる。宇多天皇は延喜四年(九〇四)に行幸したとき、入御するための御室を寺内に造営した。この宇多天皇の「南御室」は本寺より南西にあり(『御室相承記』・「仁和寺文書」)、敦実親王に付せられた。南御室は一代限りで終ったものの、御室の名はこの門跡を継承した親王に対する呼び名として後世まで残った。
 応和元年三月六日仁和寺で法会を設けたが、左大臣藤原実頼ら参会者は多数いたと伝えられている(『日本紀略』)。敦実親王の人柄が伝わるエピソードである。入道親王は康保四年(九六七)三月二日に享年七十五歳で没している(『日本紀略』『大鏡裏書』)。
 敦実親王には、蝉丸が雑色として仕えていたことも有名だ。蝉丸は親王が弾く琵琶を聞き覚えていて、蝉丸自身も琵琶を巧みに弾きこなした。醍醐源氏の博雅三位は音楽の道を極めたいと願っていたため、逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の上手だという噂を聞きつけて、彼の奏でる琵琶の音色を聞きたいと思った。博雅は蝉丸の琵琶を聞きたいと蝉丸の庵に通い始め、物陰で蝉丸が琵琶を弾くのを待った。そして三年後、蝉丸が琵琶を弾き、「今宵、風雅を解する人が訪ねて来たらどんなに嬉しいか。共に語り明かしたいものだ」という蝉丸の言葉を聞き、博雅は思わず声をかけた。そして蝉丸は敦実親王が愛した2曲を奏でた。このとき博雅は琵琶を持っていなかったので、楽譜を暗譜し、大喜びで暁方に帰ったという(『今昔物語』二十四巻二十三話)。このような逸話があるほど、敦実親王は音曲の伝説的な名手であった。
 敦実親王には、藤原時平の娘とのあいだに左京大夫寛信・大僧正寛朝(法務大僧正、東寺一長者)・一条左大臣雅信・六条左大臣重信・大僧正雅慶(法務大僧正、東寺一長者)らの男子がいた。敦実親王は音曲の名手であったため、その子孫である宇多源氏雅信流(綾小路流)と重信流(桂流)も、それぞれ音曲の家となった。

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