左京大夫満高
六角満高(一三六五-一四一六)氏頼の子。母藤原氏。実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系図)。正妻は足利基氏娘(『足利治乱記』)。法号は大慈院宝山崇寿。
貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂されたが(『師守記』貞治四年四月十日条・十一日条)、六角氏頼の実子として育てられたようだ。嫡母は氏頼の室藤原氏である(迎陽記)。氏頼が母したとき幼少だったため、氏頼の猶子高経(のち京極高詮)が近江守護を預かった。しかし永和三年(一三七七)九月高経は六角氏被官から非道を訴えられて、六角氏を除籍された。そのため満高が近江守護になっが、まだ判始の十五歳に満たなかったため政務を勤めることはできなかった(『花営三代記』永和三年九月二十五日条)。そこで将軍義満自ら満高を後見したとも伝えられている(『足利治乱記』)。
永和四年(一三七八)二月九日足利義満の若宮八幡社参に供奉し、御調度の役を命じられた。ただし亀寿がまだ幼かったため、佐々木信濃三郎左衛門尉が代わって御調度役を勤めている(『花営三代記』永和四年二月九日条)。
永和五年(一三七九)二月二十七日足利義満は京極高秀と土岐頼康追討を命じられた(『後愚昧記』永和五年二月二十七日条)。三月六日満高(亀寿)は京極高秀追討の御教書を受け、翌七日には犬上郡甲良荘に京極高秀を攻めている。高秀は美濃土岐頼康のもとに逃亡した。
永徳二年(一三八二)二月二十一日付斯波義将施行状(臨川寺文書)では宛所が「佐々木四郎」となっており、このときまでに元服していたことが分かる。同年五月七日満高は父氏頼の十三回忌に大慈院を義堂周信に付した。六月七日に大慈院で法会を修しようとしたが、七日が足利義詮の忌日であったため義堂周信が参会できなかったため、前日の六月六日に氏頼の菩提のために供養している(『空華日工集』)。この大慈院が、満高の法号になる菩提所である。
嘉慶二年(一三八八)五月二十日付斯波義将施行状(『祇園社記』御神領部四)、同年八月三十日付斯波義将施行状(臨川寺文書)では「佐々木大夫判官」となっており、このときまでに検非違使に補任され、しかも五位に叙爵されていたことが分かる。佐々木氏の吉例にもとづいて順調に昇進していたことが分かる。
明徳二年(一九九一)十二月山名氏清らによる明徳の乱で、満高は今川泰範・赤松顕則ととに東寺に陣を張り、久我縄手から攻め入っている(『明徳記』)。軍事活動も見られるようになった。
明徳三年(一三九二)八月二十八日の相国寺供養では、満高は山内義綱とともに後陣髄兵の三番として、唐紅鎧(白覆輪)、紅直垂(唐織物・四目結・吹寄)、太刀綱切刀金、黒鴾毛、白鞍、上帯引、貫熊皮という出立ちで注目された(相国寺供養記)。唐紅鎧は、もともと源氏将軍家の装いであり、将軍実弟の特権といえるだろう。
明徳四年(一三九三)八月四日付斯波義将書状(尊経閣文庫)で、宛所は「佐々木備中守」となっている。このときまでに備中守に補任していたのだろう。備中守は頼綱以来六角氏の世襲官途であり、以後満高は「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれた。『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条には「佐々木左京大夫入道跡」とあるように、満高は左京大夫にも任官していた。沙々貴神社所蔵佐々木系図などで左京大夫とすることと一致するとともに、『足利治乱記』で鎌倉足利基氏の娘婿とする六角右京大夫が満高のことである。しかし「備中守」が佐々木六角氏の世襲官途だったためだろう、「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれ続けた。
応永六年(一三九九)十月大内義弘による応永の乱でも、満高は和泉堺に出陣している(『応永記』)。このとき京極氏では高詮の弟満秀(五郎左衛門尉)、土岐氏でも土岐康政も挙兵している。京極高詮が急遽近江に帰国したため、満秀は土岐康政と合力しようと美濃に向かうが、途中の垂井で土一揆に遮られ、没落して行方知れずになっている。近江で土一揆がひとつの勢力として成長していたことが分かる。
満高は、嫡子満綱の正妻に足利義満の娘を迎え(『系図纂要』足利系図)、義満政権期はまさに満高の絶頂期であった。ところが義満の没後、将軍義持は父義満の政治を否定、義満の「鹿苑院太上天皇」の尊号を朝廷に返上し、勘合貿易も中止した。そして義持と満高も対立する。
応永十七年(一四一〇)十二月満高・満綱父子は、足利義持に飛騨国司姉小路院尹綱追討を命じられたが拒絶した。資料では確認できないが、満高は一時的にせよ飛騨守護に補任されていたのだろう。満高が拒否したため、替わって京極高光が飛騨国司追討を命じられた。満高は義持の命令に背いたため近江守護を剥奪され、替わって義持の側近青木持通(武蔵守)が近江守護に補任された(青木文書)。しかし青木持通の守護補任に関する資料は青木文書1通のみで、ごく短期間の在職だったと思われる。半年後には満高は近江守護に復帰している。鎌倉以来、六角氏による守護権力が近江国の隅々まで浸透し、在地勢力が六角氏以外の守護就任を受け入れなかったのだろう。この事件で、かえって六角氏の実力が分かる。 幕府も六角氏の実力を認めざるを得なかったのである。
六角氏は荘園を横領し続けるなど独立志向が強く、独裁的傾向にあった義満・義教と結んだため、将軍独裁権を抑えて守護連合政権を目指そうとする勢力とは対立した。鎌倉足利氏との閨閥も、そのような六角氏の傾向に拍車をかけたと考えられる。
満高は応永二十三年(一四一六)十一月十七日に没した。このとき上杉禅秀の乱のただ中であった。義持の弟義嗣は上杉禅秀に同意したとして幽閉されて自害したが、満高が没して間もなくこの事件が起きたことは、満高が義持・義嗣兄弟の仲立ちをしていたことを示していよう。
貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂されたが(『師守記』貞治四年四月十日条・十一日条)、六角氏頼の実子として育てられたようだ。嫡母は氏頼の室藤原氏である(迎陽記)。氏頼が母したとき幼少だったため、氏頼の猶子高経(のち京極高詮)が近江守護を預かった。しかし永和三年(一三七七)九月高経は六角氏被官から非道を訴えられて、六角氏を除籍された。そのため満高が近江守護になっが、まだ判始の十五歳に満たなかったため政務を勤めることはできなかった(『花営三代記』永和三年九月二十五日条)。そこで将軍義満自ら満高を後見したとも伝えられている(『足利治乱記』)。
永和四年(一三七八)二月九日足利義満の若宮八幡社参に供奉し、御調度の役を命じられた。ただし亀寿がまだ幼かったため、佐々木信濃三郎左衛門尉が代わって御調度役を勤めている(『花営三代記』永和四年二月九日条)。
永和五年(一三七九)二月二十七日足利義満は京極高秀と土岐頼康追討を命じられた(『後愚昧記』永和五年二月二十七日条)。三月六日満高(亀寿)は京極高秀追討の御教書を受け、翌七日には犬上郡甲良荘に京極高秀を攻めている。高秀は美濃土岐頼康のもとに逃亡した。
永徳二年(一三八二)二月二十一日付斯波義将施行状(臨川寺文書)では宛所が「佐々木四郎」となっており、このときまでに元服していたことが分かる。同年五月七日満高は父氏頼の十三回忌に大慈院を義堂周信に付した。六月七日に大慈院で法会を修しようとしたが、七日が足利義詮の忌日であったため義堂周信が参会できなかったため、前日の六月六日に氏頼の菩提のために供養している(『空華日工集』)。この大慈院が、満高の法号になる菩提所である。
嘉慶二年(一三八八)五月二十日付斯波義将施行状(『祇園社記』御神領部四)、同年八月三十日付斯波義将施行状(臨川寺文書)では「佐々木大夫判官」となっており、このときまでに検非違使に補任され、しかも五位に叙爵されていたことが分かる。佐々木氏の吉例にもとづいて順調に昇進していたことが分かる。
明徳二年(一九九一)十二月山名氏清らによる明徳の乱で、満高は今川泰範・赤松顕則ととに東寺に陣を張り、久我縄手から攻め入っている(『明徳記』)。軍事活動も見られるようになった。
明徳三年(一三九二)八月二十八日の相国寺供養では、満高は山内義綱とともに後陣髄兵の三番として、唐紅鎧(白覆輪)、紅直垂(唐織物・四目結・吹寄)、太刀綱切刀金、黒鴾毛、白鞍、上帯引、貫熊皮という出立ちで注目された(相国寺供養記)。唐紅鎧は、もともと源氏将軍家の装いであり、将軍実弟の特権といえるだろう。
明徳四年(一三九三)八月四日付斯波義将書状(尊経閣文庫)で、宛所は「佐々木備中守」となっている。このときまでに備中守に補任していたのだろう。備中守は頼綱以来六角氏の世襲官途であり、以後満高は「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれた。『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条には「佐々木左京大夫入道跡」とあるように、満高は左京大夫にも任官していた。沙々貴神社所蔵佐々木系図などで左京大夫とすることと一致するとともに、『足利治乱記』で鎌倉足利基氏の娘婿とする六角右京大夫が満高のことである。しかし「備中守」が佐々木六角氏の世襲官途だったためだろう、「佐々木備中守」「佐々木備中入道」と呼ばれ続けた。
応永六年(一三九九)十月大内義弘による応永の乱でも、満高は和泉堺に出陣している(『応永記』)。このとき京極氏では高詮の弟満秀(五郎左衛門尉)、土岐氏でも土岐康政も挙兵している。京極高詮が急遽近江に帰国したため、満秀は土岐康政と合力しようと美濃に向かうが、途中の垂井で土一揆に遮られ、没落して行方知れずになっている。近江で土一揆がひとつの勢力として成長していたことが分かる。
満高は、嫡子満綱の正妻に足利義満の娘を迎え(『系図纂要』足利系図)、義満政権期はまさに満高の絶頂期であった。ところが義満の没後、将軍義持は父義満の政治を否定、義満の「鹿苑院太上天皇」の尊号を朝廷に返上し、勘合貿易も中止した。そして義持と満高も対立する。
応永十七年(一四一〇)十二月満高・満綱父子は、足利義持に飛騨国司姉小路院尹綱追討を命じられたが拒絶した。資料では確認できないが、満高は一時的にせよ飛騨守護に補任されていたのだろう。満高が拒否したため、替わって京極高光が飛騨国司追討を命じられた。満高は義持の命令に背いたため近江守護を剥奪され、替わって義持の側近青木持通(武蔵守)が近江守護に補任された(青木文書)。しかし青木持通の守護補任に関する資料は青木文書1通のみで、ごく短期間の在職だったと思われる。半年後には満高は近江守護に復帰している。鎌倉以来、六角氏による守護権力が近江国の隅々まで浸透し、在地勢力が六角氏以外の守護就任を受け入れなかったのだろう。この事件で、かえって六角氏の実力が分かる。 幕府も六角氏の実力を認めざるを得なかったのである。
六角氏は荘園を横領し続けるなど独立志向が強く、独裁的傾向にあった義満・義教と結んだため、将軍独裁権を抑えて守護連合政権を目指そうとする勢力とは対立した。鎌倉足利氏との閨閥も、そのような六角氏の傾向に拍車をかけたと考えられる。
満高は応永二十三年(一四一六)十一月十七日に没した。このとき上杉禅秀の乱のただ中であった。義持の弟義嗣は上杉禅秀に同意したとして幽閉されて自害したが、満高が没して間もなくこの事件が起きたことは、満高が義持・義嗣兄弟の仲立ちをしていたことを示していよう。
この記事へのコメント
六角氏と京極氏はどうのように勤めたのでしょうか?
ここのあたりが世俗書には出てこないのが残念です。
日本外史を見ると、尊氏、義詮時代は京極高氏であり、義満時代に満高が出てくるぐらいです。それ以降は応仁の乱後にようやく出てくるようになる。それも高頼、定頼、義賢、義弼となります。
これらの長い間に根付いた説をひっくり返しましょう。
六角氏は実力者ですが非主流派ですから、三管領四職には含まれていません。それでも氏頼が引付頭人になり、満高も将軍の命令に逆らえるほど実力者でした。戦国期に義久が将軍後見(相公・御内書・上意)になり、定頼が管領(代)に補任されてから主流派になったのです。
理由は家格を上げるためなのでしょうか?
姻戚一同血筋は問題とならないのでしょうか?
娘婿ならば、分かるのですが。