備中守頼綱
佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)泰綱の次男。母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。
建長二年(一二五〇)十二月三日北条時頼邸で元服して「三郎頼綱」と名乗った。このとき九歳であった(『吾妻鏡』)。翌建長三年(一二五一)十一月十三日将軍藤原頼嗣に供奉している(『吾妻鏡』)。正嘉元年(一二五七)十二月二十九日には「壱岐三郎左衛門尉」と見え(『吾妻鏡』)、このときまでに左衛門尉に任官していたことが分かる。
文永四年(一二六七)琵琶湖の綱人と長命寺僧が綱庭の境界を争ったとき、頼綱は訴状のみで判断することはせず、前例を知る者に現場を臨検させた上で決裁をしている。このときの文永四年十月十日付長命寺僧宛頼綱書状では「左衛門尉」と署名している。しかし長命寺の寺田を安堵した建治二年(一二七六)九月三十日付長命寺衆徒宛書状では「備中守」と署名している(長命寺文書)。このときまでに備中守に補任されていたことが分かる。こののち六角氏は、備中大夫判官を世襲官途とした。
建治三年(一二七七)十二月二日北条時宗の嫡子貞時の元服式では、叔父京極氏信とともに重役を果たし(『建治三年記』十二月二日条)、同年十二月六波羅評定衆に列している(『建治三年記』十二月二十七日条)。
また頼綱のときまでに六角氏の近江守護権力の整備が進み、近江国内に郡守護代を設置している。このことは、守護使不入の地である竹生島宝巌寺領に守護代が徴税したことに関する、弘安七年十二月二十二日付および弘安八年二月二十四日付佐々木備中前司宛発給された六波羅御教書、(弘安八年)四月二十二日付前備中守頼綱書状(竹生島宝巌寺文書)で確認できる。拠点を京都に移した佐々木六角氏は、守護代を設置するなど着々と守護支配権を強めていたことが分かる。
弟長綱も左兵衛尉・左衛門尉・検非違使・壱岐守を歴任、六波羅評定衆に加わり(『勘仲記』弘安九年五月九日条の流鏑馬の記事で「四番佐々木壱岐四郎左衛門尉」が登場)、兄弟で六波羅評定衆に列した。長綱は同じく六波羅評定衆の波多野義重の孫娘を娶っている(続群書類従本波多野系図)。義重は極楽寺流北条重時の娘婿で、道元の永平寺建立を援助したので有名だ。
頼綱の閨閥を知ることで、彼の政治的立場が分かる。妻妾には、二階堂行章娘、細川氏、畠山氏、後伏見院女房らがいた。①二階堂氏は政所執事・評定衆・引付衆に補任される吏僚系御家人であり、信綱の娘が引付頭人行方に嫁いで以降、、重縁の関係にあった。頼綱の長男頼明の妻も二階堂行清の娘であった。②細川氏は足利氏庶流であり、『吾妻鏡』建長二年(一二五〇)三月一日条に細川宮内丞という人物を確認できる。頼綱妾は宮内丞の娘だろうか。母足利氏に仕えていた女性と考えられる。③畠山氏も足利義純が畠山重忠の跡を継承したことに始まる源姓畠山氏であり、嘉禎三年(一二三七)以降活動が見られる畠山三郎の娘と考えられる。やはり頼綱の母足利氏に仕えていた女性ではないだろうか。④後伏見院女房は最晩年の妻妾だが、父泰綱が亀山院女房を妻としたように、六角氏は公家と深く強く結び付いていた。六角氏に限らず、六波羅評定衆には吏僚系御家人や外様御家人が多く、六波羅府では探題と評定衆の対立を内包していた。そのため評定衆・奉行人どうし、あるいは公家と私的に結び付く者もいた。頼綱もそのひとりであった。
頼綱の娘の嫁ぎ先を見ても、同様の傾向にある。一人は問注所執事の太田時連で、問注所執事三善康信の直系である。もう一人は花山院流藤原氏の参議中山家親である。やはり、吏僚系御家人や公家との間に閨閥を築いている。
幕府は六波羅評定衆と寺社勢力が衝突したとき、それが六波羅探題の命を受けての公務でも、彼らを庇護しなかった。長井頼重も興福寺の強訴によって土佐に配流されている(『勘仲記』弘安五年十二月六日条、『一代要記』弘安五年十二月十四日条など)。そのため六波羅府では、おのずと探題と評定衆は対立した。
その対立は霜月騒動(一二八五年)で表面化する。長男頼明は左衛門尉・検非違使・近江守を歴任したが、霜月騒動で外戚二階堂行景とともに安達泰盛に与して廃嫡されたと考えられ、翌年の弘安九年(一二八六)三月次男宗信(備中三郎左衛門尉)が二十歳で春日行幸に供奉した(『勘仲記』弘安九年三月二十七日条)。しかし宗信は、正応五年(一二九二)十一月二十四日にわずか二十六歳で早世している。そのため六角氏家督は安定せず、頼綱の三男成綱・四男宗綱と継承された。
徳治二年(一三〇七)十二月頼綱が神崎郡柿御園より小脇郷にいたる新川(用水路)を開いたことで、興福寺領鯰江庄民と争い、頼綱は興福寺衆徒と対立した。興福寺衆徒は神木を奉じて強訴したため(『興福寺三綱補任』)、翌年にあたる延慶元年(一三〇八)七月興福寺の訴えによって頼綱(「□□木備中入道」)は尾張に配流された(『興福寺略年代記』延慶元年六月晦日条、『武家年代記裏書』延慶元年七月八日条)。そして延慶三年(一三一〇)十二月二十四日に没している。享年は六十九歳であり、法号は寂光寺殿崇西である。
そののち正和四年(一三一五)正月宗綱も没した。おそらく宗綱が病床にあった前年の正和三年(一三一四)頼綱の末子時信がわずか九歳で元服し、六角氏の家督が移譲されている。この時信のとき六角氏は再び在京御家人の重鎮になり、六角氏の危機を脱したといえる。
建長二年(一二五〇)十二月三日北条時頼邸で元服して「三郎頼綱」と名乗った。このとき九歳であった(『吾妻鏡』)。翌建長三年(一二五一)十一月十三日将軍藤原頼嗣に供奉している(『吾妻鏡』)。正嘉元年(一二五七)十二月二十九日には「壱岐三郎左衛門尉」と見え(『吾妻鏡』)、このときまでに左衛門尉に任官していたことが分かる。
文永四年(一二六七)琵琶湖の綱人と長命寺僧が綱庭の境界を争ったとき、頼綱は訴状のみで判断することはせず、前例を知る者に現場を臨検させた上で決裁をしている。このときの文永四年十月十日付長命寺僧宛頼綱書状では「左衛門尉」と署名している。しかし長命寺の寺田を安堵した建治二年(一二七六)九月三十日付長命寺衆徒宛書状では「備中守」と署名している(長命寺文書)。このときまでに備中守に補任されていたことが分かる。こののち六角氏は、備中大夫判官を世襲官途とした。
建治三年(一二七七)十二月二日北条時宗の嫡子貞時の元服式では、叔父京極氏信とともに重役を果たし(『建治三年記』十二月二日条)、同年十二月六波羅評定衆に列している(『建治三年記』十二月二十七日条)。
また頼綱のときまでに六角氏の近江守護権力の整備が進み、近江国内に郡守護代を設置している。このことは、守護使不入の地である竹生島宝巌寺領に守護代が徴税したことに関する、弘安七年十二月二十二日付および弘安八年二月二十四日付佐々木備中前司宛発給された六波羅御教書、(弘安八年)四月二十二日付前備中守頼綱書状(竹生島宝巌寺文書)で確認できる。拠点を京都に移した佐々木六角氏は、守護代を設置するなど着々と守護支配権を強めていたことが分かる。
弟長綱も左兵衛尉・左衛門尉・検非違使・壱岐守を歴任、六波羅評定衆に加わり(『勘仲記』弘安九年五月九日条の流鏑馬の記事で「四番佐々木壱岐四郎左衛門尉」が登場)、兄弟で六波羅評定衆に列した。長綱は同じく六波羅評定衆の波多野義重の孫娘を娶っている(続群書類従本波多野系図)。義重は極楽寺流北条重時の娘婿で、道元の永平寺建立を援助したので有名だ。
頼綱の閨閥を知ることで、彼の政治的立場が分かる。妻妾には、二階堂行章娘、細川氏、畠山氏、後伏見院女房らがいた。①二階堂氏は政所執事・評定衆・引付衆に補任される吏僚系御家人であり、信綱の娘が引付頭人行方に嫁いで以降、、重縁の関係にあった。頼綱の長男頼明の妻も二階堂行清の娘であった。②細川氏は足利氏庶流であり、『吾妻鏡』建長二年(一二五〇)三月一日条に細川宮内丞という人物を確認できる。頼綱妾は宮内丞の娘だろうか。母足利氏に仕えていた女性と考えられる。③畠山氏も足利義純が畠山重忠の跡を継承したことに始まる源姓畠山氏であり、嘉禎三年(一二三七)以降活動が見られる畠山三郎の娘と考えられる。やはり頼綱の母足利氏に仕えていた女性ではないだろうか。④後伏見院女房は最晩年の妻妾だが、父泰綱が亀山院女房を妻としたように、六角氏は公家と深く強く結び付いていた。六角氏に限らず、六波羅評定衆には吏僚系御家人や外様御家人が多く、六波羅府では探題と評定衆の対立を内包していた。そのため評定衆・奉行人どうし、あるいは公家と私的に結び付く者もいた。頼綱もそのひとりであった。
頼綱の娘の嫁ぎ先を見ても、同様の傾向にある。一人は問注所執事の太田時連で、問注所執事三善康信の直系である。もう一人は花山院流藤原氏の参議中山家親である。やはり、吏僚系御家人や公家との間に閨閥を築いている。
幕府は六波羅評定衆と寺社勢力が衝突したとき、それが六波羅探題の命を受けての公務でも、彼らを庇護しなかった。長井頼重も興福寺の強訴によって土佐に配流されている(『勘仲記』弘安五年十二月六日条、『一代要記』弘安五年十二月十四日条など)。そのため六波羅府では、おのずと探題と評定衆は対立した。
その対立は霜月騒動(一二八五年)で表面化する。長男頼明は左衛門尉・検非違使・近江守を歴任したが、霜月騒動で外戚二階堂行景とともに安達泰盛に与して廃嫡されたと考えられ、翌年の弘安九年(一二八六)三月次男宗信(備中三郎左衛門尉)が二十歳で春日行幸に供奉した(『勘仲記』弘安九年三月二十七日条)。しかし宗信は、正応五年(一二九二)十一月二十四日にわずか二十六歳で早世している。そのため六角氏家督は安定せず、頼綱の三男成綱・四男宗綱と継承された。
徳治二年(一三〇七)十二月頼綱が神崎郡柿御園より小脇郷にいたる新川(用水路)を開いたことで、興福寺領鯰江庄民と争い、頼綱は興福寺衆徒と対立した。興福寺衆徒は神木を奉じて強訴したため(『興福寺三綱補任』)、翌年にあたる延慶元年(一三〇八)七月興福寺の訴えによって頼綱(「□□木備中入道」)は尾張に配流された(『興福寺略年代記』延慶元年六月晦日条、『武家年代記裏書』延慶元年七月八日条)。そして延慶三年(一三一〇)十二月二十四日に没している。享年は六十九歳であり、法号は寂光寺殿崇西である。
そののち正和四年(一三一五)正月宗綱も没した。おそらく宗綱が病床にあった前年の正和三年(一三一四)頼綱の末子時信がわずか九歳で元服し、六角氏の家督が移譲されている。この時信のとき六角氏は再び在京御家人の重鎮になり、六角氏の危機を脱したといえる。
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