壱岐大夫判官泰綱

佐々木泰綱(一二一三-一二七六)佐々木信綱の三男。母北条義時娘。三郎、佐々木判官三郎、近江三郎兵衛尉、近江三郎左衛門尉、検非違使、叙留、近江大夫判官、従五位上、壱岐守、壱岐大夫判官(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。
 父信綱が近江守護在職中にすでに左兵衛尉、左衛門尉を歴任し、嘉禎二年(一二三六)九月五日父信綱が評定衆を辞職して遁世すると、その年十一月二十二日には検非違使に補任された(二十三歳)。さらに叙爵(従五位下に叙位)されても検非違使にとどまることは叙留といい大変名誉なこととされたが、泰綱は翌嘉禎三年(一二三七)正月二十九日叙留されて大夫判官となった(二十四歳)。さらに同年四月二十三日四条天皇の清水行幸があり、翌日二十四日行幸賞で従五位上に加級された。このように行幸以前に叙爵されて、行幸行事賞で従五位上に加級されることを、佐々木氏の吉例という(『検非違使補任』建長五年源泰清の項)。しかも同年十二月二十五日には壱岐守を兼国した。
 この泰綱の昇進は、家督を継承して一年間の出来事であり、家督の継承と同時に従五位上に叙位されたのと同じである。以後、六角氏の嫡子は二十代前半に検非違使の宣旨を蒙り、翌年に叙爵されて同年のうちに行幸賞で従五位上に加級されるのが、佐々木氏の吉例になる。沙々貴神社所蔵佐々木系図では「永補任」の例と呼ばれている。一般には行幸賞で従五位下に叙爵されるのだから、まさに吉例といえよう。しかもこの吉例は、佐々木氏の中でも六角氏に限られていた。
 二十代前半に検非違使に補任されるのは異例で、院北面でも二十代後半での補任であった。鎌倉御家人としてみれば、さらに異例で、二十代前半での叙爵や従五位上への加級は、北条嫡流、京都下りの吏僚系御家人中原・大江氏についで速く、三善氏・二階堂氏よりも速い。これは佐々木氏が御家人であると同時に京武者だったためだろう。叙爵されることは貴族の仲間入りを意味し、有力御家人でもなかなか叙爵されることなく、晩年にようやくと六位兵衛尉・衛門尉に補任された。
 外様御家人では、二十代での叙爵は足利氏・安達氏・佐々木氏に限られ、二十代前半での従五位上加級は佐々木氏のみであった。佐々木氏が補任される国司も関東御分国ではなく、検非違使の賞であり、京武者という性格が強かったといえる。
 また泰綱は将軍藤原頼経の側近で、頼経の父九条道家の日記『玉蘂』嘉禎三年(一二三七)二月七日条に「将軍鍾愛也」とある。泰綱も、父信綱同様、九条家を根拠に昇進していたことが分かる。
 この将軍頼経の政所別当は足利義氏と大江泰秀であったが(出羽中条文書・筑後田代文書)、沙々貴神社所蔵佐々木系図や六角佐々木氏系図略によれば、泰綱の嫡子頼綱の母は足利氏である。将軍鍾愛の泰綱は、この時期に将軍政所別当足利義氏の娘を娶ったと考えられる。
 延応元年(一二四〇)二月十四日幕府は武蔵国小机郷鳥山などの荒野を開発して水田にするよう、泰綱に命じている(『吾妻鏡』)。泰綱が地頭だったのだろう。佐々木氏の東国における所領のひとつが、この記事で確認できる。
 仁治三年(一二四二)三月父信綱が没したが、このときの遺産相続は、母が本妻川崎為重の娘である長男重綱と次男高信には薄く、母が正妻北条義時の娘であった三男泰綱と四男氏信には厚いものであった。長男重綱は相続当時には出家して慈浄と名乗っていたため相続分は無く、次男高信は高島郡田中郷のみ、三男泰綱は近江守護職・南近江・川崎荘・京都六角東洞院の館を獲得、四男氏信は北近江の所領と京都京極高辻の館を獲得した。
 そのため、翌年の寛元元年(一二四三)長兄重綱が泰綱を幕府に訴えた。泰綱が守護の権威により近江国内の諸庄を押領して貞永式目に背いているため、泰綱の所領を没収するようにという内容である。泰綱も歎状を提出した。幕府の判決は佐々木氏の旧功の賞地を泰綱に相伝させるが、父信綱が生前に近江守護の権威をもって強請した寺社領の下司職など二十一か所は本主に還付させた。しかし重綱が得たのも坂田郡大原庄のみであった(『吾妻鏡』寛元元年十一月一日条)。
 この裁判に関する『鯰江庄下司相論由来』(春日神社文書)がある。東大寺領鯰江庄下司紀氏で相続問題が起こり、紀家政と建部入道西蓮が争った。預所僧良兼が西蓮の希望を入れたため、不満を持った紀家政は下司職を守護信綱の子息泰綱に譲ると言い出した。これに対して西蓮も泰綱に下司職を譲ると言った。これは、両者ともに守護信綱を味方にしようとしたためだろう。嘉禄二年(一二二六)二月信綱が藤原頼経将軍宣下の報告のため春日大社に代参したときに預所僧良兼と会談し、泰綱を鯰江庄下司にする契約を結んだ。しかし庄官百姓が反抗して訴状を提出したため、東大寺は預所を交替し、泰綱の下司も停めて、庄民を下司にした。そのため泰綱は鯰江庄に妨害を加え、再び預所の周旋で泰綱が下司職を獲得した。これが守護の権威をもって強請したということだろう。この文書によって、佐々木氏が庄官の争論に介入しながら寺社領を押領していたことを知ることができる。
 しかし寛仁四年(一二四六)名越光時の乱(宮騒動)で将軍藤原頼経と名越流北条氏が失脚、宝治元年(一二四七)五月四日の宝治合戦で三浦氏が滅亡した。このとき泰綱・氏信兄弟は北条方に転身して三浦氏被官長尾景茂を討伐している。実はこのとき佐々木氏も動揺し、泰綱は長男経泰(左近衛将監)を廃嫡している。そして次男頼綱が建長二年(一二五〇)執権北条時頼邸でわずか九歳で元服した。足利氏でも、名越朝時の娘腹の長男家氏・次男義顕を廃嫡され、北条時頼の妹腹の頼氏を家督としている。両氏ともに嫡子の廃嫡で危機を乗り越えたといえる。このとき廃嫡された経泰の孫が夢窓疎石だ。
 建長四年(一二五二)三月将軍宗尊親王の鎌倉下向では、三月十九日近江蒲生郡鏡宿で饗応した。翌年の建長五年(一二五三)四月十八日将軍宗尊親王邸での蹴鞠では鞠衆に列し、泰綱が将軍側近であったことが分かる(『吾妻鏡』)。
 こののち泰綱は京都に拠点を移して西国守護として六波羅評定衆となり(『尊卑文脈』)、また亀山院女房大弐局を妻にしている(『尊卑分脈』)。泰綱の娘の嫁ぎ先も、六波羅評定衆海東惟忠(大江広元孫)である(『尊卑分脈』)。以後、佐々木六角氏は在京御家人の中心になった。それに対して弟氏信は北条氏に追従し、引付衆・評定衆を歴任して幕府の有力者になった。ここに佐々木氏は、再び近江守護家(六角氏)と関東御家人(京極氏)に分裂した。
 弘長三年(一二六三)十一月二十二日北条時頼が没すると、泰綱も出家して生西と名乗った。このことでも佐々木六角氏が北条得宗家と親密であったことは分かる。ただし法名は佐々木六角氏の京都志向を象徴していよう。
 第1回の元寇である文永の役で、建治元年(一二七五)九月七日幕府は元使を竜口で斬り、決戦することを決めた。同月十四日幕府は泰綱に近江国中の祈祷社寺に異国降伏の祈祷を命じている(胡宮神社文書:建治元年九月十四日付佐々木壱岐入道綱宛幕府御教書、および十月七日付敏満寺衆徒宛馬淵公綱施行状)。守護代馬淵公綱が施行状を発給しているが、このときすでに病床にあったのだろう、翌年の建治二年(一二七六)五月十七日に没した。享年は六十四歳、法号は西光寺殿生西である。

この記事へのコメント

山本
2017年01月15日 08:27
系図学校でお世話になっている山本です。大河ドラマ「おんな城主 直虎」が始まっておりますが、井伊直政を養子にし、後に、井伊家の筆頭家老となった松下清景は六角氏庶流の松下氏でしょうか?なお、武蔵国川崎庄の代官小杉氏(武蔵小杉という地名で残っている)は六角氏庶流の松下氏の子孫と聞いていますが、根拠資料や伝承などはありますか?

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