近江守信綱

佐々木信綱(一一八一-一二四二)定綱の四男。母は新田義重娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。本妻は川崎為重娘(『尊卑分脈』)。正妻は北条義時の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。左近衛将監、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、従五位上(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。沙々貴神社所蔵佐々木系図では左衛門佐とするが、検非違使叙留を左衛門佐任官と誤り伝えたものであろう。
 正治二年(一二〇〇)十月後鳥羽院が近江柏原庄地頭弥三郎為永の討伐を宣下したものの、柏原為永は逐電、翌建仁元年(一二〇一)五月九日信綱が誅伐した(『吾妻鏡』)。賞与として柏原為永の館と領地が信綱に給付された。この柏原館が、こののち信綱の四男氏信に始まる京極氏の本拠となった。
 建仁三年(一二〇三)九月比企能員の娘婿であった舅川崎為重(中山五郎)が比企能員の乱で滅亡すると(『吾妻鏡』)、信綱は舅川崎為重の本領武蔵国川崎荘を継承し、さらに北条義時の娘と再婚した。信綱は東国豪族級御家人になったのである。
 建暦元年(一二一一)九条道家の推挙で左近衛将監に直任した。摂関家九条家との結び付きは父定綱以来である。兄広綱が後鳥羽院を根拠に家格を上昇させたのに対して、信綱は九条家を根拠に家格を上昇させていくことになる。
 建保四年(一二一六)三月後鳥羽院と将軍源実朝の舅であった坊門信清が没すると、三月二十六日信綱は足立八郎元春とともに東使として京都に派遣された(『吾妻鏡』)。信綱が東使を勤める有力御家人であり、しかも朝幕間の交渉を期待されていたことが分かる。これは、信綱が九条殿家礼であったためであろう。
 承久三年(一二二一)四月十六日右衛門尉に補任された。これは信綱の軍事力も後鳥羽院に期待されていたということだろう。しかし翌5月に始まる承久の乱では、信綱・重綱父子は東国御家人として北条泰時・時房軍に合流、宇治川の戦いでは先陣を駆けた(『吾妻鏡』『承久記』)。信綱が九条殿家礼であり、当時の鎌倉殿が九条頼経であることを考えれば、信綱が鎌倉方であったのは当然といえよう。承久の乱の功績によって、信綱は近江国佐々木豊浦庄・和邇庄・堅田庄・栗太北郡などの領地を得た。このうち佐々木豊浦庄は、文暦二年(一二三五)七月七日尾張長岡庄と替えている(『吾妻鏡』)。また信綱は、承久の乱で処罰された兄広綱に替わって近江守護に補任された。在京御家人と東国御家人に分離した佐々木氏が、再び信綱のもとに一本化されたことになる。
 貞応元年(一二二二)十月十六日信綱は左衛門尉に転じ、嘉禄二年(一二二六)正月八日信綱は鎌倉殿九条頼経の将軍宣下と叙位奏請のための東使を命じられ、十一日に鎌倉を発った(『吾妻鏡』)。二十三日に上洛している(『明月記』)。二十四日に一条亭、二十五日に西亭に参候して馬を献じ、二十六日関白近衛家実に謁して、将軍宣旨のことを申請した。このとき頼経の源氏改姓の可否が問題になっている。正月二十九日頼経の源氏改姓は許されなかったが、将軍宣下はあり、また正五位下右近衛少将に補任された(『明月記』)。信綱は春日社に参詣して、二月十三日には鎌倉に帰参している。十四日信綱は御所に召されて、御剱を給付された。
 頼経の将軍就任を契機に信綱の昇進があり、翌年の嘉禄三年(一二二七)十一月十一日に検非違使を兼任し、さらに安貞二年(一二二八)十二月二十六日には従五位下に叙爵され大夫判官になった。
 寛喜三年(一二三一)正月二十九日後堀河院中宮藤原竴子(九条道家娘)の御産御祈として三万五千疋を寄進した功で、近江守を受領した(『関東評定伝』『明月記』)。このとき誕生したのが四条天皇である。近江守護と近江守を兼ねた信綱は、実質上の近江太守となった。貞永元年(一二三二)正月三十日に従五位上に加級された。これら一連の昇進は九条家との結び付きの強さを示している。
 幕府内での地位も上昇し、天福二年(一二三四)正月九日幕府評定衆に列したが、同年七月二十六日には出家して、本仏、経仏、さらに虚仮仏と名乗った。さらに嘉禎二年(一二三六)九月五日評定衆を辞職している(『吾妻鏡』)。
 仁治元年(一二四〇)十月信綱は北条政子の菩提を弔うため、和泉国八田郷地頭の得分のうち毎月米一石を永代高野山金剛三昧院に寄進した。忌日の十一日に一昼夜の念仏のための仏供燈油と供養僧四八人の僧供料に充て、余ったときは蓮華三昧院の寺用に充てることを幕府に申請している。蓮華三昧院は叔父佐々木高綱が建立した寺であり、父祖および叔父の菩提を弔うためであった(高野山金剛三昧院文書)。こののち信綱は蓮華三昧院に住して仏道を専修している。
 信綱の娘はいずれも豪族級東国御家人に嫁いでいる。評定衆土屋宗光の子息光時、評定衆二階堂行方、評定衆長井泰秀、千葉氏惣領の千葉胤綱である。このうち長井泰秀は大江広元の孫で、足利義氏とともに将軍九条頼経の政所別当に就任している。
 仁治三年(一二四二)三月六日高野山蓮華三昧院で信綱は没した。享年は六十二歳であり、法号は天源寺殿春山公である。また御霊社は老蘇鎌宮であり、第一座が鎌神、第二座が御霊であるという(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。
 しかし信綱後の相続問題に北条氏が介入し、佐々木氏が分断された。第一段階は、北条氏に気がねした信綱が、本妻川崎氏の子息重綱・高信を冷遇し、正妻北条氏の子息泰綱・氏信を厚遇したというものだ。長男重綱は承久の乱で功績があったものの廃嫡されたため遁世、次男高信は近江高島郡田中郷のみを与えられた。これに対して三男泰綱は佐々木氏惣領職と近江守護職・南近江・川崎荘・京都六角東洞院館、四男氏信は北近江・京都東京極高辻館を得た。ここで、佐々木氏が六角流と京極流に分断された。
 相続問題の第二段階は、長男重綱が三男泰綱を訴えて近江坂田郡大原荘を獲得したというものだ。北条氏は訴訟を果実に、頼朝以来の将軍側近で、九条殿家礼でもあった佐々木氏の勢力を削ぐのに成功した。こうして信綱流佐々木氏は、長男重綱流の大原氏、次男高信流の高島七頭、三男泰綱流の六角氏、四男氏信流の京極氏に分かれた。

この記事へのコメント

2008年01月28日 18:11
四兄弟がそれぞれ相続した領土の割合は、何対何だったのでしょうか?。0.5×0.5×5×4くらいかなあ。
junjun
2008年10月05日 13:46
母方の祖母が佐々木信綱から続く家だと聞き、恥ずかしいことに、それまで名前すら知らなかったので少し勉強してみようと思って、このブログにたどり着きました。こんなに詳しく書いてあるなんて、嬉しいです。
弾正少弼
2020年09月13日 18:45
【大田渋子郷の伝領:仮説】
秩父平氏である稲毛重成が大田渋子郷(現在の川崎市宮前区)を領有していた。源平合戦当初、重成は平家方であった。畠山重忠ら秩父一族と共に源頼朝に降伏後(1180年10月)、大田渋子郷は、頼朝の異母弟、阿野全成(注1)に伝領された。2代将軍源頼家により、阿野全成が誅殺された後、大田渋子郷は、2代執権北条義時の娘婿である、佐々木信綱に伝領され(注2)、更に、信綱から、嫡子佐々木氏信(京極氏始祖)に伝領された。氏信の妻は、阿野全成の縁者である。
(注1)阿野全成は1180年11月19日に大田渋子郷内の威光寺の院主となった。威光寺は、鎌倉幕府が開かれた時、鎌倉の地より鬼門の方向にあたり、幕府(源氏)の祈祷寺として重要視された。また、多摩丘陵の要害の地としても重要な位置を占めていた。
(注2)大田渋子郷は佐々木宗綱(氏信の子)から、娘、妙円に伝領されたことが、「佐々木文書、尼妙円申状案」から判明する。
【補足説明】
神奈川県川崎市のおおもとは、武蔵国橘樹郡である。東南部は川崎荘として川崎冠者基家が領有し郡西北部は稲毛荘として同じ秩父平氏の稲毛重成が領有した。川崎冠者基家の孫である渋谷庄司重国の婿となったのが佐々木秀義である。その孫である佐々木信綱が、秩父平氏の没落を機にこれらの地を伝領した。信綱は、比企能員の乱で滅亡した舅(川崎為重、滅亡後北条義時が舅)の本領である武蔵国川崎荘を領有。さらに稲毛重成の旧領である大田渋子郷を領有した。また、信綱は、座間星谷寺に鐘を奉納しており、渋谷氏の旧領を領有したと推測される。これら秩父平氏の旧領は、鎌倉街道、多摩川、東京湾といった交通の要所にあり、鎌倉に近在する重要な拠点である。信綱は東国でも豪族級の御家人となった。信綱の死後、川崎荘を佐々木泰綱(六角氏始祖)が領有し、稲毛荘(大田渋子郷)を佐々木氏信(京極氏始祖)が領有した。信綱の領地は分断されたが、北条氏の介入によると考えられる。
弾正少弼
2020年09月19日 23:26
【小机郷の伝領】
北条泰時(第3代執権)は佐々木信綱の嫡子である佐々木泰綱に「武蔵国小机郷鳥山等」の荒地開発を命じた。泰綱の嫡子に鳥山輔綱がおり、小机郷鳥山の地を領有したと考えられる。更に、小机城は、鳥山氏の居城であった可能性がある。茅ヶ崎城は小机城の支城とされるが、「小田原衆所領役帳」によれば、座間氏が城代を務めていた。座間氏は、相模国座間が発生の地である。実は、茅ヶ崎城の近くに、星谷という地名がある。鳥山氏の祖父、佐々木信綱が鐘を奉納した、相模国座間の星谷寺に由来すると考えられる。
弾正少弼
2020年09月26日 12:20
【太田渋子郷内の城館推定地】
佐々木氏の遠隔地所領太田渋子郷は、新たに地頭職を持った葛山氏が横領した。(1420年)以降、「佐々木文書」から太田渋子郷の姿が見えなくなる。太田渋子郷は稲毛氏⇒阿野氏⇒佐々木氏⇒葛山氏の順に伝領された。葛山氏の本貫地は、駿河国駿東郡である。奇妙な偶然であるが、この葛山氏に、鎌倉・室町期に佐々木家から養子が入ったという系譜伝承がある。また、葛山氏が支配する地域に阿野庄が含まれている。私見であるが、太田渋子郷内の城館推定地は以下の通りである。
① 城館推定地(遺構なし、平村堀ノ内)・・・葛山氏
~根拠~
*関連地名:堀ノ内、馬場、大門、高師(竹芝)
*葛山氏の菩提寺である東泉寺の板碑(1445年~)、
葛山定藤横領狼藉(1420年)、
小田原衆所領役帳の葛山氏(1559年)・・・葛山定藤の後裔か
*東泉寺が鬼門にある
② 城館推定地(遺構なし、土橋村古屋敷)・・・京極氏
~根拠~
*関連地名:古屋敷、土橋、太田前(太田渋子郷の遺称)
*旧家、大久保家の板碑(1331年~)、京極導誉(1296年~1373年)
*鎌倉古道(枡形山城へ向かう)
*鞍掛松、茶筅松・・・源頼朝伝説
弾正少弼
2020年10月21日 20:47
【橘樹郡と京極氏】
川崎市にある影向寺は、発掘調査により、建立時期が7世紀末頃で、橘樹郡の郡寺であったと推定される。平成27年に川崎市初の国史跡に指定された。「中世影向寺雑考」(望月一樹)に以下の記載がある。「影向寺に残されている中世文書2通によると、柏原談義所(近江)の2代目学頭慶舜の法門が1429年に亮俊に伝えられた。亮俊が影向寺の持住であるか不明だが、亮俊を中心に、影向寺が談義所的な学問所としての役割を有していたのではないか。そうであれば、影向寺は中世においても南武蔵で重要な位置を占めたことになる。」柏原談義所は、京極氏からの庇護を受けており、亮俊は、京極氏に近い関係を持つ人物と考えられる。実際、15世紀前半の橘樹郡において京極氏一族が領主や代官として重要な役目を担っていた。「佐々木文書」(佐々木寅介所蔵)によれば、橘樹郡内の太田渋子郷の領家職を京極持高(吉童子)が1420年に所有していた。また、「影向寺縁起副伝」によれば、影向寺の末寺、3寺9院の1つである西明寺(国分尼寺説有り)が、1444年~1449年に有馬から小杉に移住していた豪族達により移転・再建した。このことから、当時の小杉は相当に発展していたと推測される。六角氏領川崎庄小杉代官が、六角氏流でなく、京極氏流の小杉氏であるとの伝承がある。橘樹郡は、侍所頭人を務めた京極氏にとって東国の重要な拠点であり、この伝承を誤伝として捨て去ることはできない。

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