近江守氏信

京極氏信(1220-1295)佐々木信綱の4男。母は北条義時娘。左衛門尉・検非違使・対馬守。文永2年(1265)引付衆に列し、翌3年(1266)11月には朝幕間の交渉役である東使を勤め、12月に評定衆に列した。建治元年(1276)4月、弘安5年(1282)7月にも東使を勤めている。翌弘安6年(1283)10月には父信綱と同様、近江守に補任された。また氏信は鎌倉桐谷に住んだため「桐谷の尉」と呼ばれた。
 このように氏信が庶子でありながら、鎌倉幕府要職を歴任できたのは、氏信が北条得宗家に密着して得宗被官に近い活動をしたからだ。たとえば寛元3年(1245)7月執権北条経時の妹檜皮姫が5代将軍藤原頼嗣に嫁いで輿入れしたとき、氏信は小野沢時仲(得宗被官)・尾藤景氏(同)・下河辺宗光(御家人)らと檜皮姫の輿に扈従している。このとき氏信はその筆頭であった(吾妻鏡)。
 宝治元年(1247)の宝治合戦でも、6月1日氏信は執権北条時頼の使者として三浦泰村邸に赴き、同月5日泰村滅亡後に兄泰綱とともに時頼の命を受けて、三浦氏被官長尾景茂の追討に向かっている。
 さらに建長4年(1252)氏信は、皇族将軍宗尊親王を迎えることを奏請しているが、このとき将軍藤原頼嗣の父前将軍頼経の陰謀を暴いたのが氏信であった(保暦年間記)。氏信は北条氏が企図した摂家将軍廃立と皇族将軍擁立に積極的に加担していた。
 氏信の正妻は将軍家女房右衛門督局であった。彼女は武家祇候の公卿阿野実遠の娘であり、実遠は母が阿野全成(頼朝弟)の娘だったため、阿野家を称していた。氏信が将軍家女房を娶ったことは、氏信自身が皇族将軍宗尊親王の側近だったからである。
 氏信には佐々木加地経綱(佐々木加地庶流)妻、吉良満氏(足利庶流)妻、上田佐時(大江庶流)妻、武石宗胤(千葉庶流)妻、皇族将軍久明親王家女房がいた。娘が将軍家女房になっていたことは、得宗家が擁立した皇族将軍家との結び付きが強かったことを示している。また有力御家人の庶子家にも嫁いでいるが、いずれも庶流でありながら有力御家人になった家柄であり、氏信と同じ境遇の者であった。氏信の娘の婚家のうち、吉良氏や上田氏は霜月騒動(1285)で没落しているが、氏信の長男頼氏は安達泰盛追討の賞で豊後守になっているように、得宗家との結び付きは強く、得宗被官に近い立場だったことが確認できる。そのことは、娘のひとりが、こののち得宗家が擁立した皇族将軍家久明親王家女房になっていることでも理解できる。
 このように氏信は鎌倉を活動拠点にしていたが、大庭御厨を関東での本拠地にしていた。大庭景親が頼朝の挙兵に対抗して滅亡したため、大庭氏と縁戚関係にあった佐々木氏が大庭御厨を継承していたのだろう。

この記事へのコメント

Hiko
2007年06月20日 12:58
少し質問があるのですが、
氏信の母について川崎尼(川崎為重女)
とする系図も在りますが、佐々木泰綱同腹で間違いないとお考えでしょうか?
佐々木哲
2007年06月20日 20:14
『尊卑分脈』では佐々木泰綱の母を川崎五郎為重の娘としています。しかし、これは泰綱が武蔵国川崎荘を継承したためでしょう。泰綱の母川崎尼は、川崎為重の娘ではなく、川崎荘を本領とした信綱の妻ということで北条義時の娘を指していると考えられます。

 川崎為重(五郎)は比企能員の乱で滅亡しており、それが重綱が廃嫡になった理由と考えられます。泰綱・氏信はともに所領の大半を相続しており、ともに母は北条義時の娘と考えていいでしょう。

 しかし、これはあくまで私の意見ですので、あとはご自分で判断してください。
鎌倉幕府
2008年01月23日 14:30
桐谷は「きりがや」と読むのでしょうか?、それとも「きりたに」と読むのでしょうか?。冷泉為相も子孫が藤谷を二通りの読み方をしているので、読むとき戸惑っています。なかには「とうこく」と説明してあるものまであります。

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