2002年東大前期・国語第四問「解釈学・系譜学・考古学」
永井均『転校生とブラック・ジャック』
の中の「解釈学・系譜学・考古学」より出典。
【問題文】
幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた青い鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提のもとで展開していくことだろう。それは彼らにとって間違いなく幸福なことだ。自分の生を最初から肯定できるということこそが、すべての真の幸福の根拠だからだ。だからわれわれは、そういう物語を、つまり『青い鳥』を、いつも追い求めている。だが、この物語は、同時に、それとは別のことも教えてくれる。つまり、──その鳥は本当にもともと青かったのだろうか? それは歴史の偽造なのではないか? 彼らはいま、鳥がもともと青かったという前提のもとで生きている。過去のさまざまな思い出、現在のさまざまな出来事は、その観点のもとで理解されるだろう。そして逆に、その理解が、鳥がもともと青かったという事実のもつ真の意味を、つまり真の幸福とは何であるかを、いっそう明確に定義することになるだろう。このとき、彼らは解釈学的な生を生きているのである。
青い鳥と共にすごした楽しい幼児期の記憶は、確かな実在性をもつ。なぜなら、それが現在の彼らの生を成り立たせているからだ。たとえ、何らかの別の視点からはそれが虚構だといえるとしても、彼ら自身にとっては、彼ら自身を成り立たせている当のものであるその記憶が虚構のものであるはずはない。それが虚構であるなら、自分自身の生、そのものが、つまり自分自身が虚構ということになるからだ。解釈学的探求は自分の人生を成り立たせているといま信じられているものの探求である。だから、もし彼らに自己解釈の変更が起こるとしても、それは常に記憶の変更と一体化している。アここでは、記憶が誤っていることは、ことの本質からして、ありえないからだ。
だが他の視点から見れば、記憶は後から作られたものであり、その記憶に基づく彼らの人生も虚構でありうる。鳥がほんとうはもともと青くはなかったかもしれない。そして、もともと青くはなかったというまさにその事実こそが、彼らの人生に、彼らに気づかれない形で、実はもっとも決定的な影響を与えているのかもしれない。もともと青かったという記憶自体が、そして、そう信じ込んで生きる彼らの生それ自体が、ほんとうは青くなかったというその事実によって作り出されたものなのかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作にすぎないかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。系譜学は、現在の生を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去を明らかにしようとする。
時間経過というものを素朴なかたちで表象すると、いま鳥がたしかに青いとして、もともと青かったか、ある時点で青く変わったか、どちらかしかないことになるだろう。それ以外にどんな可能性があるだろうか? しかし解釈学と系譜学の対立が問題になるような場面では、そういう素朴な見方はもはや成り立たない。もともと青かったのでもなければ、ある時点で青くなったのでもなく、ある時点でもともと青かったということになったという視点を導入することが、系譜学的視点の導入なのである。それは、鳥がいつから青くなったかを探求することでも、いつから青く見えるようになったかを探求することでも、ない。そういう探求はすべて、解釈学的思考の枠内にあるからだ。それに対して系譜学は、いつから、どのようにして、鳥がもともと青かったということになったのか、を問う。それは、これまで区別されていなかった実在と解釈も間に楔を打ち込み、解釈の成り立ちそのものを問うのであり、記憶の内容として残ってはいないが、おのれを内容としては残さなかったその記憶を成り立たせた当のものであるような、そういう過去を問うのだ。だからそれは、現在の自己を自明の前提として過去を問うのではなく、現在の自己そのものを疑い、その成り立ちを問うのであり、イいまそう問う自己そのものを疑うゆえに、それを問うのである。
だが、「ある時点でもともと青かったということになった」という表現には、本来共存不可能なはずの二つの時間系列が強引に共存させられている。「もともと青かった」と信じている者は「ある時点で……になった」と信じる者ではありえず、「ある時点で……になった」と信じる者は、もはや「もともと青かった」と信じるものではない。だから、「ある時点でもともと青かったということになった」と信じるものの意識は、解釈学的意識と系譜学的認識の間に引き裂かれている。統合が可能だとすれば、それはウ系譜学的認識の解釈学化によってしかなされない。系譜学的探索が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、そのとき系譜学は解釈学に転じる。青くない鳥とともにすごしたチルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶は、確かな実在性をもつにいたる。
それなら、けっして解釈学に転じないような、過去への視線はありえないのだろうか? 他人たちがただ私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた、現在のためにだけ存在しているのではない。過去は、本来、われわれがそこから何かを学ぶために存在していたのではないはずだ。それは、現在との関係ぬきに、それ自体として、存在したはずではないか? 過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史といった概念に頼らざるをえないが、ほんとうはそういう概念こそが、過去の過去性を殺しているのではないか? だから、記憶されない過去、歴史とならない過去が、考えられねばならない。このとき、考古学的な視点が必要となるのである。
そのとき、鳥がもともと青かったか、ある時点で青く変わったか、という単純な時系列が拒否されるだけではなく、どの時点でもともと青かったことにされたか、という複合的時間系列もまた、拒否されねばならない。いま存在している視点がいつどのような事情のもとで作られたかという観点から過去を見る視線そのものが、つまり、エ過去がいま存在している視点との関係のなかで問題にされることそのものが、否定されねばならない。
そうなればもはや、鳥はある時点でもともと青かったことにされたとはいえ、ほんとうはもともと青くはなかった、などとはいえない。もともとというなら、鳥は青くも青くなくもなかった。そんな観点はもともとなかったのだ。そういうことを問題にする観点そのものがなかった。だがもはや、それがある時点で作られたという意味での過去が問題なのではない。ただそんな観点がなかったことだけが問題なのだ。ほんとうは幸福であったか不孝であったか(あるいは中間であったか)といった問題視点そのものがなかった。彼らはそんな生を生きてはいなかった。鳥はいたが色が意識されたことは一度もなく、したがって当時は色はなかったというべきなのである。
【内容要約】
幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた青い鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提で展開していくだろう。このとき、彼らは解釈学的に生きているといえる。解釈学的探求は、自分の人生を成り立たせていると信じられているものを探求するものである。ここでは、記憶が誤っているということはありえない。
だが他の視点から見れば、記憶は後から作られたものであり、その記憶に基づく彼らの人生も虚構であると見ることもできる。鳥がもともと青かったと信じている彼らの人生そのものが、実は本当は青くなかったという事実によって作られたものかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作に過ぎないかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。
系譜学的視点とは、「もともと青かったということになった」という視点を導入することである。それは、実在と解釈を区別して解釈の成り立ちそのものを問うことであり、現在の自己そのものを疑い、現在の自己の成り立ちを問うものである。
だが、系譜学的探求が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、そのとき系譜学は解釈学に転じる。青くない鳥とともに過ごしたチルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶が、今度は確かな実在性を持つことになる。
それなら、けっして解釈学に転じない視線はありえないのだろうか。他人が私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた現在のためにだけ存在しているのではない。過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史に頼らざるを得ないが、本当はそれこそが過去の過去性を殺しているのではないだろうか。記憶されない過去、歴史とならない過去が考えられなければならない。このとき考古学的な視点が必要になる。
現在の視点がいつどのような事情のもとで作られたのかと問う、そういう観点から過去を見る視線も否定する必要がある。現在の視点との関係の中で過去が問題にされることそのものを否定しなければならない。鳥はいたが、鳥の色が意識されたことは一度もなかったといえるだけである。
【解答例】
(一)現在の自己を成り立たせている記憶が虚構であれば、自分自身が虚構であるという論理矛盾に行き着いてしまうから。
(二)現在の視点を疑う自分も、やはり現在の視点から出発点にしているからこそ、その成り立ちを問う必要があるということ。
(三)系譜学的探求が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、系譜学もやはり解釈学に転じてしまうということ。
(四)現在の視点がいつどのように作られたのかと問うことがすでに現在の視点であり、やはり否定する必要があるということ。
【解答のコツ】
(一)傍線部アは段落の最後の文であるから、段落の内容をまとめればいい。とくに段落最初の文とは呼応した関係にあることに注目できれば、自動的に答えを導き出せる。ます二つ目の文は「なぜなら」であるから、理由を述べた文であることは明らかだ。さらにそれに続く三つ目の文が「たとえ」で始まり、四つ目の文が「からだ」で終わることから、その部分がその理由を詳しく述べて強調している個所であることが分かる。最初の文と傍線部ウは呼応しているのだから、そこが傍線部ウの理由でもある。あとは自分の言葉でまとめればいい。
(二)傍線部イは回りくどい表現となっているが、段落最後の文であり、段落の内容のまとめであることは間違いない。そのため段落の内容をまとめれば、標準的な点がつく。しかし傍線部イを含む文の中では、筆者の感情が段階的に高揚していることに気づけば、「いまそう問う自己そのものを疑うがゆえに」をどう言い換えるかが重要であることが分かるはずだ。これに相当する言い換えの文はないので、自分の言葉で言い換える必要がある。設問の中で、もっとも難問である。
(三)接続詞もなく続いている文は、言い換えの文と考えていい。この場合もそうであり、傍線部ウの次の文に注目するといい。
(四)傍線部エの直前に「つまり」とあるのだから、傍線部エ「過去が存在している視点との関係の中で問題にされることそのもの」は、「いま存在している視点がいつどのような事情のもとで作られたいう観点から過去を見る視点そのもの」の言い換えである。つまり系譜学的視点そのものが「否定されねばならない」のである。筆者は解釈学的視点だけではなく、系譜学的視点もありのままの過去を見ていないと主張しているのである。
【問題文】
幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた青い鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提のもとで展開していくことだろう。それは彼らにとって間違いなく幸福なことだ。自分の生を最初から肯定できるということこそが、すべての真の幸福の根拠だからだ。だからわれわれは、そういう物語を、つまり『青い鳥』を、いつも追い求めている。だが、この物語は、同時に、それとは別のことも教えてくれる。つまり、──その鳥は本当にもともと青かったのだろうか? それは歴史の偽造なのではないか? 彼らはいま、鳥がもともと青かったという前提のもとで生きている。過去のさまざまな思い出、現在のさまざまな出来事は、その観点のもとで理解されるだろう。そして逆に、その理解が、鳥がもともと青かったという事実のもつ真の意味を、つまり真の幸福とは何であるかを、いっそう明確に定義することになるだろう。このとき、彼らは解釈学的な生を生きているのである。
青い鳥と共にすごした楽しい幼児期の記憶は、確かな実在性をもつ。なぜなら、それが現在の彼らの生を成り立たせているからだ。たとえ、何らかの別の視点からはそれが虚構だといえるとしても、彼ら自身にとっては、彼ら自身を成り立たせている当のものであるその記憶が虚構のものであるはずはない。それが虚構であるなら、自分自身の生、そのものが、つまり自分自身が虚構ということになるからだ。解釈学的探求は自分の人生を成り立たせているといま信じられているものの探求である。だから、もし彼らに自己解釈の変更が起こるとしても、それは常に記憶の変更と一体化している。アここでは、記憶が誤っていることは、ことの本質からして、ありえないからだ。
だが他の視点から見れば、記憶は後から作られたものであり、その記憶に基づく彼らの人生も虚構でありうる。鳥がほんとうはもともと青くはなかったかもしれない。そして、もともと青くはなかったというまさにその事実こそが、彼らの人生に、彼らに気づかれない形で、実はもっとも決定的な影響を与えているのかもしれない。もともと青かったという記憶自体が、そして、そう信じ込んで生きる彼らの生それ自体が、ほんとうは青くなかったというその事実によって作り出されたものなのかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作にすぎないかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。系譜学は、現在の生を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去を明らかにしようとする。
時間経過というものを素朴なかたちで表象すると、いま鳥がたしかに青いとして、もともと青かったか、ある時点で青く変わったか、どちらかしかないことになるだろう。それ以外にどんな可能性があるだろうか? しかし解釈学と系譜学の対立が問題になるような場面では、そういう素朴な見方はもはや成り立たない。もともと青かったのでもなければ、ある時点で青くなったのでもなく、ある時点でもともと青かったということになったという視点を導入することが、系譜学的視点の導入なのである。それは、鳥がいつから青くなったかを探求することでも、いつから青く見えるようになったかを探求することでも、ない。そういう探求はすべて、解釈学的思考の枠内にあるからだ。それに対して系譜学は、いつから、どのようにして、鳥がもともと青かったということになったのか、を問う。それは、これまで区別されていなかった実在と解釈も間に楔を打ち込み、解釈の成り立ちそのものを問うのであり、記憶の内容として残ってはいないが、おのれを内容としては残さなかったその記憶を成り立たせた当のものであるような、そういう過去を問うのだ。だからそれは、現在の自己を自明の前提として過去を問うのではなく、現在の自己そのものを疑い、その成り立ちを問うのであり、イいまそう問う自己そのものを疑うゆえに、それを問うのである。
だが、「ある時点でもともと青かったということになった」という表現には、本来共存不可能なはずの二つの時間系列が強引に共存させられている。「もともと青かった」と信じている者は「ある時点で……になった」と信じる者ではありえず、「ある時点で……になった」と信じる者は、もはや「もともと青かった」と信じるものではない。だから、「ある時点でもともと青かったということになった」と信じるものの意識は、解釈学的意識と系譜学的認識の間に引き裂かれている。統合が可能だとすれば、それはウ系譜学的認識の解釈学化によってしかなされない。系譜学的探索が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、そのとき系譜学は解釈学に転じる。青くない鳥とともにすごしたチルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶は、確かな実在性をもつにいたる。
それなら、けっして解釈学に転じないような、過去への視線はありえないのだろうか? 他人たちがただ私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた、現在のためにだけ存在しているのではない。過去は、本来、われわれがそこから何かを学ぶために存在していたのではないはずだ。それは、現在との関係ぬきに、それ自体として、存在したはずではないか? 過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史といった概念に頼らざるをえないが、ほんとうはそういう概念こそが、過去の過去性を殺しているのではないか? だから、記憶されない過去、歴史とならない過去が、考えられねばならない。このとき、考古学的な視点が必要となるのである。
そのとき、鳥がもともと青かったか、ある時点で青く変わったか、という単純な時系列が拒否されるだけではなく、どの時点でもともと青かったことにされたか、という複合的時間系列もまた、拒否されねばならない。いま存在している視点がいつどのような事情のもとで作られたかという観点から過去を見る視線そのものが、つまり、エ過去がいま存在している視点との関係のなかで問題にされることそのものが、否定されねばならない。
そうなればもはや、鳥はある時点でもともと青かったことにされたとはいえ、ほんとうはもともと青くはなかった、などとはいえない。もともとというなら、鳥は青くも青くなくもなかった。そんな観点はもともとなかったのだ。そういうことを問題にする観点そのものがなかった。だがもはや、それがある時点で作られたという意味での過去が問題なのではない。ただそんな観点がなかったことだけが問題なのだ。ほんとうは幸福であったか不孝であったか(あるいは中間であったか)といった問題視点そのものがなかった。彼らはそんな生を生きてはいなかった。鳥はいたが色が意識されたことは一度もなく、したがって当時は色はなかったというべきなのである。
【内容要約】
幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた青い鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提で展開していくだろう。このとき、彼らは解釈学的に生きているといえる。解釈学的探求は、自分の人生を成り立たせていると信じられているものを探求するものである。ここでは、記憶が誤っているということはありえない。
だが他の視点から見れば、記憶は後から作られたものであり、その記憶に基づく彼らの人生も虚構であると見ることもできる。鳥がもともと青かったと信じている彼らの人生そのものが、実は本当は青くなかったという事実によって作られたものかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作に過ぎないかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。
系譜学的視点とは、「もともと青かったということになった」という視点を導入することである。それは、実在と解釈を区別して解釈の成り立ちそのものを問うことであり、現在の自己そのものを疑い、現在の自己の成り立ちを問うものである。
だが、系譜学的探求が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、そのとき系譜学は解釈学に転じる。青くない鳥とともに過ごしたチルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶が、今度は確かな実在性を持つことになる。
それなら、けっして解釈学に転じない視線はありえないのだろうか。他人が私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた現在のためにだけ存在しているのではない。過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史に頼らざるを得ないが、本当はそれこそが過去の過去性を殺しているのではないだろうか。記憶されない過去、歴史とならない過去が考えられなければならない。このとき考古学的な視点が必要になる。
現在の視点がいつどのような事情のもとで作られたのかと問う、そういう観点から過去を見る視線も否定する必要がある。現在の視点との関係の中で過去が問題にされることそのものを否定しなければならない。鳥はいたが、鳥の色が意識されたことは一度もなかったといえるだけである。
【解答例】
(一)現在の自己を成り立たせている記憶が虚構であれば、自分自身が虚構であるという論理矛盾に行き着いてしまうから。
(二)現在の視点を疑う自分も、やはり現在の視点から出発点にしているからこそ、その成り立ちを問う必要があるということ。
(三)系譜学的探求が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、系譜学もやはり解釈学に転じてしまうということ。
(四)現在の視点がいつどのように作られたのかと問うことがすでに現在の視点であり、やはり否定する必要があるということ。
【解答のコツ】
(一)傍線部アは段落の最後の文であるから、段落の内容をまとめればいい。とくに段落最初の文とは呼応した関係にあることに注目できれば、自動的に答えを導き出せる。ます二つ目の文は「なぜなら」であるから、理由を述べた文であることは明らかだ。さらにそれに続く三つ目の文が「たとえ」で始まり、四つ目の文が「からだ」で終わることから、その部分がその理由を詳しく述べて強調している個所であることが分かる。最初の文と傍線部ウは呼応しているのだから、そこが傍線部ウの理由でもある。あとは自分の言葉でまとめればいい。
(二)傍線部イは回りくどい表現となっているが、段落最後の文であり、段落の内容のまとめであることは間違いない。そのため段落の内容をまとめれば、標準的な点がつく。しかし傍線部イを含む文の中では、筆者の感情が段階的に高揚していることに気づけば、「いまそう問う自己そのものを疑うがゆえに」をどう言い換えるかが重要であることが分かるはずだ。これに相当する言い換えの文はないので、自分の言葉で言い換える必要がある。設問の中で、もっとも難問である。
(三)接続詞もなく続いている文は、言い換えの文と考えていい。この場合もそうであり、傍線部ウの次の文に注目するといい。
(四)傍線部エの直前に「つまり」とあるのだから、傍線部エ「過去が存在している視点との関係の中で問題にされることそのもの」は、「いま存在している視点がいつどのような事情のもとで作られたいう観点から過去を見る視点そのもの」の言い換えである。つまり系譜学的視点そのものが「否定されねばならない」のである。筆者は解釈学的視点だけではなく、系譜学的視点もありのままの過去を見ていないと主張しているのである。
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