上杉謙信と六角義堯
上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は十三代将軍義輝には心服していたが、その実弟義昭に対しては異なっていたようだ。しかし義堯が協力を要請したことで、それまでの態度を一転させて反信長陣営に加わった。謙信が義堯に全幅の信頼を寄せていたことが分かる。続群書類従本伊勢系図別本(巻百四十一)の伊勢貞孝の項にあるように、足利義輝の男子が六角氏の養子になっていた可能性も否定できない。
まず最初に、謙信の奉行人河田長親の子孫河田文子氏(福島県福島市)に伝えられた義堯書状(18)を見てみよう。この義堯書状は、義堯と上杉氏の初期の交渉を伺わせる。
其以後不得便風候間、無音非本意候、其地雖為変化、誠ニ堅固
之由、無比類儀、於義堯大慶候、連々如申、向後弥御入魂頼入
候、内意之趣、大兵少道院江申越候、当表様体、松田左兵衛尉
為上使被相越候条、不及申候、恐々謹言、
七月廿三日 義堯(花押)
河田豊前守殿
進之候
『新潟県史 資料編』では「里見義堯書状」とするが、花押は六角義堯のものである。宛所は直接相手に宛てた直状(じきじょう)ではなく、相手の家臣の名前を書いて主人に披露を請う形の付状(つけじょう)となっている。これは最も厚礼のものである。しかも宛名「河田豊前守殿」には、脇付「進之候」が付けられている。交渉当初の書状と考えられる。
この義堯書状の花押は、前述の木村文書や黒川文書のものとは異なり、書止めが跳ねる。これに対して、天正三年(一五七五)四月の義堯書状の花押の書き止めは跳ねない(本善寺文書)。また翌四年十月に備後に下向した時のものも跳ねない(吉川文書)。さらに天正五年(一五七七)末に足利義昭上洛の先鋒として軍事行動を起こし、翌六年(一五七八)正月七日に和泉堺に着津したときも、花押の書き止めは跳ねない(談山神社文書)。このことから書き止めが跳ねる花押は、少なくとも天正三年(一五七五)四月から同六年(一五七八)正月かけての時期のものではない。この義堯書状は天正三年(一五七五)四月以前/あるいは天正六年(一五七八)正月以後のものである。前者であれば木村文書の義堯書状に「東北この通り」とあるように、義堯が上杉謙信(弾正少弼入道)と綿密に連絡を取りあっていた期間のものであり、後者であれば天正七年(一五七九)以降に御館の乱で上杉景虎(三郎)に勝利した上杉景勝(弾正少弼)に宛てたものである。
ところで義堯書状の宛所河田豊前守は、上杉謙信の奏者河田長親である。河田長親(豊前守)は山吉豊守・直江景綱(実綱)らとともに謙信の執政であったが、永禄十二年(一五六九)からは越中経営に当たり、天正六年(一五七八)に謙信が没すると出家して「禅忠」と名乗っている。景勝時代は直江兼続を執政首脳とし、景勝(もと上田城主)の譜代直臣団である上田衆が景勝政権の中枢を占めた(19)。長親は「魚津地仕置之事」を報告するに当たっても、春日山城将黒金景信(上田衆)に景勝への披露を依頼しているほどである(20)。このように長親が執政の地位にあったのは永禄十二年(一五六九)までであり、元亀・天正年間には越中経営に当たり、天正九年(一五八一)に没した。
これらのことを考えると、義堯書状は、河田豊前守が執政を勤めた謙信時代のものである可能性が高い。厚例であることからも、交渉初期のものと考えられる。やはり天正三年四月以前のものであろう。
実は河田長親は近江出身で六角氏旧臣であった。河田氏は近江野洲郡川田郷を本拠とする土豪で近江守山なども領し、六角氏や管領細川氏の使者となっていたが、さらに薬師寺別当領近江豊浦荘代官ともなっていた(21)。長親はこの近江河田氏の出身であり(22)、永禄二年(一五五九)に上洛した上杉謙信(当時は長尾輝虎)に請われてその家臣となった。そのため義堯と長親は旧知であった可能性が高く、義堯書状で「それ以後便風を得ず候の間、無音本意にあらず候」とあるのは、長親の近江在国以来のことだと考えられる。
義堯の内意を伝えた使者は、大館藤安(兵部少輔)である。六角義堯の使者大館藤安は室町幕府奉公衆大館氏の出身で、十三代将軍足利義輝の奏者として活躍した。実名藤安の片諱字「藤」は義輝(初名義藤)から給付されたものである。足利義晴・義輝の御供衆大館晴光は藤安の兄だが、足利義栄の十四代将軍就任に際して松永久秀に協力したために足利義昭政権では失脚した。それに対して弟藤安は、義昭政権でも北陸方面の奏者として活躍しており、とくに義堯や承禎の奏者を勤めるなど六角氏との関係が深い。義昭備後下向に同行した一行の中に藤安の名が見えないのは、義堯とともに備後に下向したためとも考えられる。
足利義昭の使者松田左兵衛尉は室町幕府奉行人松田氏の一族で、(年未詳)七月二十三日付上杉弾正少弼宛足利義昭御内書(23)や同日付同宛一色昭国書状(24)でも上使としてその名が見えており、主に北陸方面の上使になっていた。義堯書状と月日は同じであるため関連があるかもしれないが、宛所が異なる。宛所に注目すれば、義堯書状と同じく河田豊前守宛の七月七日付足利義昭御内書(25)が義堯書状と関連しているだろう。この松田左兵衛尉も、足利義昭備後下向に同行した一行の中にその名が見えない。しかしこのときには義昭の上使として上杉氏に派遣されており、義昭の側近にいたことが分かる。
義堯書状の内容は、①義堯と河田長親の間での連絡がしばらく途絶えていたこと、②上杉氏が堅固であることを喜ぶとともに協力を要請していること、③「内意之趣」とあるように義堯と上杉氏の間で秘密裏に話が進められていることである。
【注】
(18)七月廿三日付河田長親宛六角義堯書状(河田文書)。『新潟県史』資料編中世5、三七四一号。
(19)藤木久志「家臣団の編成」(『上杉氏の研究』吉川弘文館、一九八四年)。
(20)天正七年十二月二十六日付黒金兵部少輔宛河田禅忠書状(河田文書)。『越佐史料』五巻七二四頁。
(21)『経尋記』大永元年九月四日条。『大日本史料』大永元年九月四日条(九編之十三、二三一-四頁)。また天理大学所蔵『大館記』所収の『披露事記録 天文八年』六月二十三日条に「河田弥太郎宿事」が見え、政所執事伊勢氏の敷地内に宿所を間借りしていた河田氏が、空き家を求めていたことが分かる。空き家は無事見つかり、河田弥太郎と幕府奉行人諏訪神左衛門尉(晴長)に伝えられた。京都に宿所を求めていた事実は、河田氏が六角氏や細川氏の使者であったことを傍証していよう。また『永禄七年諸役人附』には、御末之男の一人として河田与左衛門尉の名が見えるが、一族と考えられる。
(22)広井進「河田長親と中世の長岡」長岡市立科学博物館研究報告三〇号、一九九五年三月。
(23)『歴代古案』七巻一号・足利義昭御内書。『大日本古文書』上杉家文書一一二一号。『新潟県史』資料編3中世、九四六号。
(24)『歴代古案』八巻六八号・一色昭国書状:『大日本古文書』上杉家文書六七七号。『新潟県史』資料編3中世、七六〇号。
(25)『歴代古案』七巻六号・足利義昭御内書。『越佐史料』四巻六〇八-九頁。『新潟県史』資料編5中世、三七三五号。
まず最初に、謙信の奉行人河田長親の子孫河田文子氏(福島県福島市)に伝えられた義堯書状(18)を見てみよう。この義堯書状は、義堯と上杉氏の初期の交渉を伺わせる。
其以後不得便風候間、無音非本意候、其地雖為変化、誠ニ堅固
之由、無比類儀、於義堯大慶候、連々如申、向後弥御入魂頼入
候、内意之趣、大兵少道院江申越候、当表様体、松田左兵衛尉
為上使被相越候条、不及申候、恐々謹言、
七月廿三日 義堯(花押)
河田豊前守殿
進之候
『新潟県史 資料編』では「里見義堯書状」とするが、花押は六角義堯のものである。宛所は直接相手に宛てた直状(じきじょう)ではなく、相手の家臣の名前を書いて主人に披露を請う形の付状(つけじょう)となっている。これは最も厚礼のものである。しかも宛名「河田豊前守殿」には、脇付「進之候」が付けられている。交渉当初の書状と考えられる。
この義堯書状の花押は、前述の木村文書や黒川文書のものとは異なり、書止めが跳ねる。これに対して、天正三年(一五七五)四月の義堯書状の花押の書き止めは跳ねない(本善寺文書)。また翌四年十月に備後に下向した時のものも跳ねない(吉川文書)。さらに天正五年(一五七七)末に足利義昭上洛の先鋒として軍事行動を起こし、翌六年(一五七八)正月七日に和泉堺に着津したときも、花押の書き止めは跳ねない(談山神社文書)。このことから書き止めが跳ねる花押は、少なくとも天正三年(一五七五)四月から同六年(一五七八)正月かけての時期のものではない。この義堯書状は天正三年(一五七五)四月以前/あるいは天正六年(一五七八)正月以後のものである。前者であれば木村文書の義堯書状に「東北この通り」とあるように、義堯が上杉謙信(弾正少弼入道)と綿密に連絡を取りあっていた期間のものであり、後者であれば天正七年(一五七九)以降に御館の乱で上杉景虎(三郎)に勝利した上杉景勝(弾正少弼)に宛てたものである。
ところで義堯書状の宛所河田豊前守は、上杉謙信の奏者河田長親である。河田長親(豊前守)は山吉豊守・直江景綱(実綱)らとともに謙信の執政であったが、永禄十二年(一五六九)からは越中経営に当たり、天正六年(一五七八)に謙信が没すると出家して「禅忠」と名乗っている。景勝時代は直江兼続を執政首脳とし、景勝(もと上田城主)の譜代直臣団である上田衆が景勝政権の中枢を占めた(19)。長親は「魚津地仕置之事」を報告するに当たっても、春日山城将黒金景信(上田衆)に景勝への披露を依頼しているほどである(20)。このように長親が執政の地位にあったのは永禄十二年(一五六九)までであり、元亀・天正年間には越中経営に当たり、天正九年(一五八一)に没した。
これらのことを考えると、義堯書状は、河田豊前守が執政を勤めた謙信時代のものである可能性が高い。厚例であることからも、交渉初期のものと考えられる。やはり天正三年四月以前のものであろう。
実は河田長親は近江出身で六角氏旧臣であった。河田氏は近江野洲郡川田郷を本拠とする土豪で近江守山なども領し、六角氏や管領細川氏の使者となっていたが、さらに薬師寺別当領近江豊浦荘代官ともなっていた(21)。長親はこの近江河田氏の出身であり(22)、永禄二年(一五五九)に上洛した上杉謙信(当時は長尾輝虎)に請われてその家臣となった。そのため義堯と長親は旧知であった可能性が高く、義堯書状で「それ以後便風を得ず候の間、無音本意にあらず候」とあるのは、長親の近江在国以来のことだと考えられる。
義堯の内意を伝えた使者は、大館藤安(兵部少輔)である。六角義堯の使者大館藤安は室町幕府奉公衆大館氏の出身で、十三代将軍足利義輝の奏者として活躍した。実名藤安の片諱字「藤」は義輝(初名義藤)から給付されたものである。足利義晴・義輝の御供衆大館晴光は藤安の兄だが、足利義栄の十四代将軍就任に際して松永久秀に協力したために足利義昭政権では失脚した。それに対して弟藤安は、義昭政権でも北陸方面の奏者として活躍しており、とくに義堯や承禎の奏者を勤めるなど六角氏との関係が深い。義昭備後下向に同行した一行の中に藤安の名が見えないのは、義堯とともに備後に下向したためとも考えられる。
足利義昭の使者松田左兵衛尉は室町幕府奉行人松田氏の一族で、(年未詳)七月二十三日付上杉弾正少弼宛足利義昭御内書(23)や同日付同宛一色昭国書状(24)でも上使としてその名が見えており、主に北陸方面の上使になっていた。義堯書状と月日は同じであるため関連があるかもしれないが、宛所が異なる。宛所に注目すれば、義堯書状と同じく河田豊前守宛の七月七日付足利義昭御内書(25)が義堯書状と関連しているだろう。この松田左兵衛尉も、足利義昭備後下向に同行した一行の中にその名が見えない。しかしこのときには義昭の上使として上杉氏に派遣されており、義昭の側近にいたことが分かる。
義堯書状の内容は、①義堯と河田長親の間での連絡がしばらく途絶えていたこと、②上杉氏が堅固であることを喜ぶとともに協力を要請していること、③「内意之趣」とあるように義堯と上杉氏の間で秘密裏に話が進められていることである。
【注】
(18)七月廿三日付河田長親宛六角義堯書状(河田文書)。『新潟県史』資料編中世5、三七四一号。
(19)藤木久志「家臣団の編成」(『上杉氏の研究』吉川弘文館、一九八四年)。
(20)天正七年十二月二十六日付黒金兵部少輔宛河田禅忠書状(河田文書)。『越佐史料』五巻七二四頁。
(21)『経尋記』大永元年九月四日条。『大日本史料』大永元年九月四日条(九編之十三、二三一-四頁)。また天理大学所蔵『大館記』所収の『披露事記録 天文八年』六月二十三日条に「河田弥太郎宿事」が見え、政所執事伊勢氏の敷地内に宿所を間借りしていた河田氏が、空き家を求めていたことが分かる。空き家は無事見つかり、河田弥太郎と幕府奉行人諏訪神左衛門尉(晴長)に伝えられた。京都に宿所を求めていた事実は、河田氏が六角氏や細川氏の使者であったことを傍証していよう。また『永禄七年諸役人附』には、御末之男の一人として河田与左衛門尉の名が見えるが、一族と考えられる。
(22)広井進「河田長親と中世の長岡」長岡市立科学博物館研究報告三〇号、一九九五年三月。
(23)『歴代古案』七巻一号・足利義昭御内書。『大日本古文書』上杉家文書一一二一号。『新潟県史』資料編3中世、九四六号。
(24)『歴代古案』八巻六八号・一色昭国書状:『大日本古文書』上杉家文書六七七号。『新潟県史』資料編3中世、七六〇号。
(25)『歴代古案』七巻六号・足利義昭御内書。『越佐史料』四巻六〇八-九頁。『新潟県史』資料編5中世、三七三五号。
この記事へのコメント
武田氏研究会第14号栗原氏「越後御舘の乱と上野国沼田地域ー沼田在番衆河田重親の動向を中心にー」から。
「重親は長親跡慕い越後江来る」とあります。豊前守長親(始岩鶴丸、九郎左衛門)は永禄二年九月七日輝虎上洛中比叡山日吉山王権現御社参時岩鶴丸御覧有テ越後エ移ル、天正元年越中松倉之庄金山之城主、天正九年三月死去とあります。
ほうき守重親は沼田城支配において、重要な立場を占めています。
永禄九年沼田城在番衆として
同十二年越相同盟締結沼田三人衆交渉
元亀以降は在番衆筆頭として
天正六年御舘の乱では、景虎方
天正七年武田方
天正十八年徳川仕う
文禄二年死去とあります。
これをみますと、河田長親と重親は上杉家において、それぞれ重要な立場にいることがわかります。
六角氏は越中に長親と上野に重親という交渉相手を持っていたことになります。特に上野国沼田を支配する重親と何らかの交渉を持っていませんか?天正七年に武田方となるのは六角家からの働きかけではありませんか?
面白い仮説だと思います。ただし、河田重親と六角氏の交渉を示す資料を、わたしは見つけていません。資料がないかぎり、あくまで作業仮説です。資料を見つけることが急務になります。
そのため、河田重親が御館の乱以後に武田氏に接近したことを、六角氏との関係で論じることも、作業仮説として面白いと評価できるだけです。資料を見つけなければなりません。
『大館記』所収の『披露事記録』「河田弥太郎宿事」について
時代は40年程下った天正年間に四国は讃岐、管領細川氏の守護代香川氏の家老に河田弥太郎の名が散見。
同一人物とは考え難いが、河田長親よりも讃岐の河田氏の資料と考えられませんか?