一向一揆との連携
天正三年(一五七五)四月織田軍が大坂本願寺に向かったことを聞いた六角義堯は、大和国吉野郡飯貝に所在する浄土真宗寺院本善寺に宛て書状を発給し、何か承ることがないか尋ねるとともに、上洛のため軍事行動を起こした武田勝頼軍の動きを今後報告することを約束している(本善寺文書)。
大坂表江織田及行之由、其聞候、御手前彼此為可承、差越本次
候、様躰具示給候者本望候、仍東国之人数至三州相働旨、追々
注進候、自此方使僧差下候条、慥之儀候者可申候、委曲口上仁
申含間、不能詳候、恐々謹言、
卯月廿一日 義堯(花押)
本善寺
進覧之候
この義堯書状にも書いてあるように、天正三年(一五七五)四月に織田軍は一向一揆の本拠である石山本願寺に対する攻撃を開始している(『信長公記』)。また「東国之人数」の三河への発向は、同年五月二十一日の長篠の合戦に至る武田勝頼軍の一連の行動を指していよう(16)。甲斐武田氏の情報は逐次義堯の許にもたらされていた。足利義昭京都追放後の天正年間に結成される反信長陣営は、六角-甲斐武田連合を軸にしている。
そして今、義堯は一向一揆勢力と連絡を取っている。使者として派遣された「本次」は六角氏被官だろうが、いまのところ誰なのか人物を特定できない。
内容は、つぎのようなものである。織田軍が石山本願寺に対して軍事行動を起こしたことを聞いた。何か承ることがあれば、使者を差し下すので使者に具体的に指示してもらえれば本望である。東国の武田軍が三河に発向したので、その動向は逐次報告する。こちらより派遣する使僧が報告するので確かである。詳しことは使者本次が口上で伝える。
黒川文書でみたように、義堯は六角承禎を介して武田勝頼と連絡を取り合っている。義堯は本願寺側に対して、何か自分にできることがないか尋ねるとともに、甲斐武田氏の情報を知らせることを約束している。しかも六角氏側の使僧が報告すると述べており、情報の精確さを保証している。
実際に六角承禎は、武田勝頼の出馬に当たって次男高盛(中務大輔)を派遣している(17)。六角氏の一族が武田軍に同行しており、義堯の許にもたらされた武田軍の情報はたしかに正確である。情報伝達で苦労の多かった当時、確かな情報は何よりも欲しいものであった。
本願寺顕如の正妻は六角氏猶子であり、六角氏は本願寺の外戚である。信長が石山本願寺に対して軍事行動を起こしたことで、義堯も旗色を鮮明にして本願寺側に協力することを伝えた。
さらに後述の上杉文書によって知られるように、義堯は武田勝頼と上杉謙信の和約も企図していた。義堯は着々と信長包囲網を形成していた。
【注】
(16)奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)二三頁。
(17)(天正三年)五月四日付武田玄蕃頭宛六角承禎書状(本堂平四郎氏所蔵文書)。東京都本堂平四郎氏所蔵文書(東京大学史料編纂所影写本)。『増訂織田信長文書の研究』下巻、二八-九頁。
大坂表江織田及行之由、其聞候、御手前彼此為可承、差越本次
候、様躰具示給候者本望候、仍東国之人数至三州相働旨、追々
注進候、自此方使僧差下候条、慥之儀候者可申候、委曲口上仁
申含間、不能詳候、恐々謹言、
卯月廿一日 義堯(花押)
本善寺
進覧之候
この義堯書状にも書いてあるように、天正三年(一五七五)四月に織田軍は一向一揆の本拠である石山本願寺に対する攻撃を開始している(『信長公記』)。また「東国之人数」の三河への発向は、同年五月二十一日の長篠の合戦に至る武田勝頼軍の一連の行動を指していよう(16)。甲斐武田氏の情報は逐次義堯の許にもたらされていた。足利義昭京都追放後の天正年間に結成される反信長陣営は、六角-甲斐武田連合を軸にしている。
そして今、義堯は一向一揆勢力と連絡を取っている。使者として派遣された「本次」は六角氏被官だろうが、いまのところ誰なのか人物を特定できない。
内容は、つぎのようなものである。織田軍が石山本願寺に対して軍事行動を起こしたことを聞いた。何か承ることがあれば、使者を差し下すので使者に具体的に指示してもらえれば本望である。東国の武田軍が三河に発向したので、その動向は逐次報告する。こちらより派遣する使僧が報告するので確かである。詳しことは使者本次が口上で伝える。
黒川文書でみたように、義堯は六角承禎を介して武田勝頼と連絡を取り合っている。義堯は本願寺側に対して、何か自分にできることがないか尋ねるとともに、甲斐武田氏の情報を知らせることを約束している。しかも六角氏側の使僧が報告すると述べており、情報の精確さを保証している。
実際に六角承禎は、武田勝頼の出馬に当たって次男高盛(中務大輔)を派遣している(17)。六角氏の一族が武田軍に同行しており、義堯の許にもたらされた武田軍の情報はたしかに正確である。情報伝達で苦労の多かった当時、確かな情報は何よりも欲しいものであった。
本願寺顕如の正妻は六角氏猶子であり、六角氏は本願寺の外戚である。信長が石山本願寺に対して軍事行動を起こしたことで、義堯も旗色を鮮明にして本願寺側に協力することを伝えた。
さらに後述の上杉文書によって知られるように、義堯は武田勝頼と上杉謙信の和約も企図していた。義堯は着々と信長包囲網を形成していた。
【注】
(16)奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)二三頁。
(17)(天正三年)五月四日付武田玄蕃頭宛六角承禎書状(本堂平四郎氏所蔵文書)。東京都本堂平四郎氏所蔵文書(東京大学史料編纂所影写本)。『増訂織田信長文書の研究』下巻、二八-九頁。
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