六角・朝倉同盟を示す朝倉教景書状の紹介
天文元年(一五三二)十二月に六角氏と朝倉氏の間で密約。天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫『古今消息案』)にくわしく記されていないが、「末代迄」という文言から重要な内容とわかる。翌年に義景が誕生したことになっているが、『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」には義景が六角氏綱の子という異説が記されている。関係があるだろう。
就今度御帰国之儀、従六角殿孝景へ被遣候御状之写、并拙者へ
之御書、末代迄之儀候条、進之間、於度々御高名御面目之至候
委細一乗寺へ申候間、定而可有御伝達候、恐々謹言、
十二月廿五日 教景(花押)
斎藤五郎左衛門尉殿
御宿所
(ウハ書)
(表) 斎藤五郎左衛門尉殿
御宿所 教景
(裏) 天文元年 太郎左衛門尉
就今度御帰国之儀、従六角殿孝景へ被遣候御状之写、并拙者へ
之御書、末代迄之儀候条、進之間、於度々御高名御面目之至候
委細一乗寺へ申候間、定而可有御伝達候、恐々謹言、
十二月廿五日 教景(花押)
斎藤五郎左衛門尉殿
御宿所
(ウハ書)
(表) 斎藤五郎左衛門尉殿
御宿所 教景
(裏) 天文元年 太郎左衛門尉
この記事へのコメント
また天文年間以降であれば、六角氏を通して幕府・朝廷・寺社との交渉をすすめることができました。実際に河端民部少輔が幕府・朝倉間の交渉に大きく関わり、朝倉義景の官位が左衛門督のいたり、また一向一揆との和睦、比叡山との同盟を結ぶことに成功しています。
朝倉義景養子説であれば、朝倉氏の滅亡を簡単に説明できます。
また信長と対立すると、義景自ら花押を六角氏様に変えていますので、六角氏の出身であることを強く自負していたことが分かります。
義景の周囲に仁木義政・山内・九里・河端・杉若など六角氏関係者がいることも、義景養子説の裏づけになるでしょう。
六角氏研究を進めると、いろいろな発見ができて面白いです。