2003年東大前期・日本史第4問「米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代!」
次の文章は民俗学者柳田国男が一九五四年に著したものである。これを読んで下記の設問A~Cに答えなさい。
一八七八年(明治一一年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明治時代には農民はハレの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい。(中略)こんどの戦争中、山村の人々は(1)米の配給に驚いた。当局とすれば、日常米を食わぬ村だと知っていても、制度ともなれば配給から除外出来るものではない。そうした人々は,戦争になって、いままでよりよけいに米を食べるようになったのである。(中略)それにしても大勢は明治以後、米以外には食わぬ人々が増加し、外米の輸入を余儀なくさせる状勢であった。こうした食糧事情に伴って、(2)砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなど、明治年代の食生活の風俗は目まぐるしいほど変化に富んだものであった。
設問
A 下線部(1)「米の配給」はどのような背景の下で何のために作られた制度か、二行以内で説明しなさい。
B 下線部(2)のような食生活の変容をもたらした要因は何か、二行以内で説明しなさい。
C 明治時代の農村の人々はなぜ都市の人々ほど米を食べていなかったのか、三行以内で説明しなさい。
【解き方】
この問題も、解きながら自分の常識を疑っていくというものだ。楽しみながら問題を解くことができる。資料となっている民俗学者柳田国男の文によれば、米が本格的に日本人の主食になったのは明治以降であり、全国で一律に米食になったのは戦時中だという。日本人は弥生時代からずうっと米食民族だったという常識を見事にやぶってくれる。資料を読みながら、その常識を疑わなければ、トンチンカンな解答をしてしまうだろう。
江戸時代の農村部では、江戸や大坂・京都など消費都市とは異なり、米以外の主食物を手に入れることができた。地方ではそれぞれの土地で生産されたものを食べることが多く、多くの郷土食が生まれた。江戸時代に米を食べていたのは、食物を買わなければならなかった武士や町人・漁民だった。農民にとって米は貨幣であり、食べるなんてもったいないことはしなかった。
それに対して都市部では米を食べていた。米を生産していない人びとが、米を購入して食べていたのだ。江戸時代の農民が米を作りながら米を食べていなかったということを知ると、かわいそうだと思ってしまう。しかし、そのような見方は常識に縛られた見方に過ぎなかったのかもしれない。さらに明治以後は、砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなどで食生活は大きく変わったが、米はそれら砂糖や洋食によく合った。このような中で米食が増え、外米が輸入されるほどだった。
農村部でも徴兵制度で兵士になったものや都会に出たものが米食の慣習を農村に持ち帰り、米の使用量は増加した。それでも、非日常的なハレの日以外にはまだ米を食っていなかった。相変わらず、日常はそれぞれの土地にあったものを食べていたのだ。それが戦時中、全国一律に実施された配給制度によって、普段は米を食べない村にも米が配給されることになった。戦時中に米食が増えたというのは本当に意外だ。
戦時中に実施された一連の計画経済のなかで、食糧確保のために米の増産政策が発表され、さらに食糧管理法が公布された。米はすべて生産者から直接政府に納入され、小作地の場合も小作農が直接政府に供出し、小作料は供出の代金から地主に支払うことにした。二重価格制で直接生産者にのみ増産奨励金を交付するかたちにしたのだ。これは地主の支配力を弱める政策であり、戦後の農地改革につながった。これはまさに農村復興政策といえよう。また、これと並行して米の配給通帳制が実施された。
こうして食糧管理法によって自作農・小作農が優遇されるとともに、米への転作がすすめられた。食糧管理法による米作保護は、戦後の食糧危機の中で継続された。このように、日本の本格的な米食は、戦中・戦後の計画経済の中ですすめられたといっていい。
【解答例】
A 日中戦争の長期化で物資が不足したため、政府は計画経済化をすすめ、米など必需品を配給制にして軍に優先的にまわした。
B 明治時代に資本主義が発展して米需要が高まり、また地租減税によって農村でも米生産意欲が刺激されて、米の生産高が急伸した。
C 弥生時代以来、米を主食にしてきたという常識は誤りで、江戸時代でも農村部では米以外の雑穀を主食にしていた。とくに飢饉による被害を最小限に抑えるには土地に適した作物をつくる必要があった。
一八七八年(明治一一年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明治時代には農民はハレの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい。(中略)こんどの戦争中、山村の人々は(1)米の配給に驚いた。当局とすれば、日常米を食わぬ村だと知っていても、制度ともなれば配給から除外出来るものではない。そうした人々は,戦争になって、いままでよりよけいに米を食べるようになったのである。(中略)それにしても大勢は明治以後、米以外には食わぬ人々が増加し、外米の輸入を余儀なくさせる状勢であった。こうした食糧事情に伴って、(2)砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなど、明治年代の食生活の風俗は目まぐるしいほど変化に富んだものであった。
設問
A 下線部(1)「米の配給」はどのような背景の下で何のために作られた制度か、二行以内で説明しなさい。
B 下線部(2)のような食生活の変容をもたらした要因は何か、二行以内で説明しなさい。
C 明治時代の農村の人々はなぜ都市の人々ほど米を食べていなかったのか、三行以内で説明しなさい。
【解き方】
この問題も、解きながら自分の常識を疑っていくというものだ。楽しみながら問題を解くことができる。資料となっている民俗学者柳田国男の文によれば、米が本格的に日本人の主食になったのは明治以降であり、全国で一律に米食になったのは戦時中だという。日本人は弥生時代からずうっと米食民族だったという常識を見事にやぶってくれる。資料を読みながら、その常識を疑わなければ、トンチンカンな解答をしてしまうだろう。
江戸時代の農村部では、江戸や大坂・京都など消費都市とは異なり、米以外の主食物を手に入れることができた。地方ではそれぞれの土地で生産されたものを食べることが多く、多くの郷土食が生まれた。江戸時代に米を食べていたのは、食物を買わなければならなかった武士や町人・漁民だった。農民にとって米は貨幣であり、食べるなんてもったいないことはしなかった。
それに対して都市部では米を食べていた。米を生産していない人びとが、米を購入して食べていたのだ。江戸時代の農民が米を作りながら米を食べていなかったということを知ると、かわいそうだと思ってしまう。しかし、そのような見方は常識に縛られた見方に過ぎなかったのかもしれない。さらに明治以後は、砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなどで食生活は大きく変わったが、米はそれら砂糖や洋食によく合った。このような中で米食が増え、外米が輸入されるほどだった。
農村部でも徴兵制度で兵士になったものや都会に出たものが米食の慣習を農村に持ち帰り、米の使用量は増加した。それでも、非日常的なハレの日以外にはまだ米を食っていなかった。相変わらず、日常はそれぞれの土地にあったものを食べていたのだ。それが戦時中、全国一律に実施された配給制度によって、普段は米を食べない村にも米が配給されることになった。戦時中に米食が増えたというのは本当に意外だ。
戦時中に実施された一連の計画経済のなかで、食糧確保のために米の増産政策が発表され、さらに食糧管理法が公布された。米はすべて生産者から直接政府に納入され、小作地の場合も小作農が直接政府に供出し、小作料は供出の代金から地主に支払うことにした。二重価格制で直接生産者にのみ増産奨励金を交付するかたちにしたのだ。これは地主の支配力を弱める政策であり、戦後の農地改革につながった。これはまさに農村復興政策といえよう。また、これと並行して米の配給通帳制が実施された。
こうして食糧管理法によって自作農・小作農が優遇されるとともに、米への転作がすすめられた。食糧管理法による米作保護は、戦後の食糧危機の中で継続された。このように、日本の本格的な米食は、戦中・戦後の計画経済の中ですすめられたといっていい。
【解答例】
A 日中戦争の長期化で物資が不足したため、政府は計画経済化をすすめ、米など必需品を配給制にして軍に優先的にまわした。
B 明治時代に資本主義が発展して米需要が高まり、また地租減税によって農村でも米生産意欲が刺激されて、米の生産高が急伸した。
C 弥生時代以来、米を主食にしてきたという常識は誤りで、江戸時代でも農村部では米以外の雑穀を主食にしていた。とくに飢饉による被害を最小限に抑えるには土地に適した作物をつくる必要があった。
この記事へのコメント
明治時代では、少数の地主が大多数の小作農を使役する農村構造(寄生地主制)が一般的です。従って農家の多くは零細経営であり、更に生産物はかなりの高率で地主に現物納しなければならない。だから、農家の手元には食用とする米が残らない。
このことは明治時代に生じた原因であり、解答に含める優先順位は高いのではないのでしょうか。
また明治期に農村が大きな打撃を受けるのは、松方財政によるデフレです。このデフレによって地主も含めて農民の多くが没落し、地主を支持基盤とする自由民権運動も一時的に低迷するのです。そして秩父事件がおきます。明治期の農村の貧しさの理由を書くのであれば、松方財政も理由に挙げてください。文字数からいっても、寄生地主制だけでは十分ではありません。もし寄生地主制による説明にこだわるのであれば、松方財政についても触れておいてください。
私も教えるときは、「米が食べられないから可哀そう」というのは、米しか食べたことのない者の言葉と説明しています。
実際、日米修好通商条約で横浜が開港すると、雑穀・生糸がどんどん輸出されてしまい、江戸が物不足になり、五品江戸廻送令が出されるほど、江戸庶民が雑穀好きだったと分かります。米だけではダメなんです。
今でも、うどん・そば・まんじゅう・おやき等がお土産のところが多いのはその名残りですね。
民俗学では米中心ではありませんし、近年は歴史学・社会経済史も米中心ではありません。むしろ山や川、海の民に注目が集まりつつあります。この問題はその傾向を踏まえたものです。