2004年東大前期・世界史第1問「銀が歴史を変えた」
一九八五年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。一九九七年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は一六、一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。一九世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。一九世紀に西欧諸国が金本位制に移行する中で、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、一九三〇年代に、中国が最終的に銀貨の流通を禁止するまで続いた。
以上を念頭に置きながら、一六-一八世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、一六行以内とし、下記の八つの語句を必ず一回は用いた上で、その語句の部分に下線を付せ。なお( )内の語句は記入しなくてもよい。
グーツヘルシャフト(農場領主制)、 一条鞭法、 価格革命、
綿織物、 日本銀、 東インド会杜、 ポトシ、
アントウェルペン(アントワープ)
【解き方】
世界経済の一体化は、実は一六~一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。そこで、一六~一八世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れをまとめる問題だ。使用するキーワードは、「グーツヘルシャフト」「一条鞭法」「価格革命」「綿織物」「日本銀」「東インド会杜」「ポトシ」「アントウェルペン」だ。
キーワードを年代順に並べ替えると、「日本銀」「ポトシ」「一条鞭法」「価格革命」「アントウェルペン」「グーツヘルシャフト」「東インド会社」「綿織物」だ。これで、どのように記述していけばいいのか、方針が立つはずだ。
まず、ポトシ銀山以前の有力な銀産出地は、日本と南ドイツのアウグスブルクだ。そこで、キーワード「日本銀」を使用する。
一六世紀に東洋に進出したポルトガルは、日中間の中継貿易を通じて、日本銀を代価として中国から陶磁器や絹などを購入した。
つぎに、「ポトシ」銀山だ。
新大陸に進出して一五四五年ポトシなどの銀山を開発したスペインは、この銀をアカプルコからマニラに運び中国物産と交換した。商品経済の発達する中国では銀が主要な貨幣であり、日本銀を輪入していた中国は、さらにメキシコ銀の大量の流入を見て、一六世紀半ばには地銀(土地税)と丁銀(人頭税)を一括納入する一条鞭法が施行された。銀の流入は以後も続き、税法は一八世紀地丁銀に代わった。
つぎに、目をヨーロッパに転じる。使用するキーワードは「価格革命」「アントウェルペン」「グーツヘルシャフト」だ。
ヨーロッパでは、アメリカ大陸産の銀が大量に流入したことで、物価が二~三倍に上昇した。これを価格革命といい、大西洋岸の西欧諸国の経済は発展し、アントウェルペンは国際金融の中心となった。これで、それまでヨーロッパ屈指の銀山アウグスブルクを支配していたフッガー家の没落は決定的になった。しかし、東欧では西欧向け穀物生産のために農業特化がすすみ、グーツヘルシャフトが拡大した。
つぎに、「東インド会社」だ。これで、スペインにかわってオランダが国際金融の中心になったことを見る。
アントウェルペンにはカルヴァン派の信者が多かったため、あたらしくフランドル地方の領主になったカトリックの保護者フェリペ二世と対立し、オランダ独立戦争で破壊された。一七世紀にはスペインからの独立を達成したオランダが、東インド会社を設立して東南アジアや中国との交易で優位を築き、オランダの首都アムステルダムが国際金融の中心となった。
最後に、「綿織物」だ。これで、イギリスが国際市場の中心になったことを記述する。
しかし一八世紀になるとアジアからの輸入品の主流が、ヨーロッパでの流行を反映して香辛料から綿にかわった。これで、綿の原産地であるインドを植民地にしていたイギリスが圧倒的に優位に立ち、国際金融の中心はロンドンに移った。
イギリスは銀を代価として中国から茶などを購入し、インドからは綿織物を購入した。しかし、一八世紀後半に大西洋の三角貿易で獲得した富を基盤にイギリスで産業単命が起こると、綿織物の自給が可能になるとともに、労働者階級のあいだでの喫茶が流行したことで、中国茶の需要が高まった。ところがイギリスは銀の流出を防ぐために、インドや東南アジアのプランテーションで栽培したアヘンを中国に輸出した。さらに東インド会社の営業が停止されて、自由主義貿易が実現されると、もはやアヘンの流れをとめることができず、イギリスと清朝はアヘン戦争へと突入していくことになった。
【解答例】
一六世紀ポルトガルは、日本銀を代価に中国から陶磁器や絹などを購入した。しかしポトシ銀山を開発したスペインは、メキシコ銀で中国物産を購入した。この銀の大量流入で、中国の税法がかわり、地銀と丁銀を一括納入する一条鞭法、地丁銀へと移行した。ヨーロッパでも、銀の大量流入で物価が高騰する価格革命があり、南ドイツの銀山アウグスブルクが没落して、大西洋岸の産業が発展し、アントウェルペンが国際金融の中心となり、東欧はグーツヘルシャフトで農業に特化した。カルヴァン派が多かったアントウェルペンは、フェリペ二世に破壊されたが、独立を達成したオランダは>東インド会社を設立して、アジア貿易で優位を築き、アムステルダムが国際金融の中心となった。しかし一八世紀になるとアジアからの輸入品の主流が、ヨーロッパでの流行を反映して香辛料から綿織物にかわった。これで、綿の原産地であるインドを植民地にしていたイギリスが圧倒的に優位に立ち、国際金融の中心はロンドンに移った。しかし労働者階級にも喫茶が流行すると、銀のかわりにアヘンを中国に輸出するようになり、アヘン戦争へと突入した。
以上を念頭に置きながら、一六-一八世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、一六行以内とし、下記の八つの語句を必ず一回は用いた上で、その語句の部分に下線を付せ。なお( )内の語句は記入しなくてもよい。
グーツヘルシャフト(農場領主制)、 一条鞭法、 価格革命、
綿織物、 日本銀、 東インド会杜、 ポトシ、
アントウェルペン(アントワープ)
【解き方】
世界経済の一体化は、実は一六~一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。そこで、一六~一八世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れをまとめる問題だ。使用するキーワードは、「グーツヘルシャフト」「一条鞭法」「価格革命」「綿織物」「日本銀」「東インド会杜」「ポトシ」「アントウェルペン」だ。
キーワードを年代順に並べ替えると、「日本銀」「ポトシ」「一条鞭法」「価格革命」「アントウェルペン」「グーツヘルシャフト」「東インド会社」「綿織物」だ。これで、どのように記述していけばいいのか、方針が立つはずだ。
まず、ポトシ銀山以前の有力な銀産出地は、日本と南ドイツのアウグスブルクだ。そこで、キーワード「日本銀」を使用する。
一六世紀に東洋に進出したポルトガルは、日中間の中継貿易を通じて、日本銀を代価として中国から陶磁器や絹などを購入した。
つぎに、「ポトシ」銀山だ。
新大陸に進出して一五四五年ポトシなどの銀山を開発したスペインは、この銀をアカプルコからマニラに運び中国物産と交換した。商品経済の発達する中国では銀が主要な貨幣であり、日本銀を輪入していた中国は、さらにメキシコ銀の大量の流入を見て、一六世紀半ばには地銀(土地税)と丁銀(人頭税)を一括納入する一条鞭法が施行された。銀の流入は以後も続き、税法は一八世紀地丁銀に代わった。
つぎに、目をヨーロッパに転じる。使用するキーワードは「価格革命」「アントウェルペン」「グーツヘルシャフト」だ。
ヨーロッパでは、アメリカ大陸産の銀が大量に流入したことで、物価が二~三倍に上昇した。これを価格革命といい、大西洋岸の西欧諸国の経済は発展し、アントウェルペンは国際金融の中心となった。これで、それまでヨーロッパ屈指の銀山アウグスブルクを支配していたフッガー家の没落は決定的になった。しかし、東欧では西欧向け穀物生産のために農業特化がすすみ、グーツヘルシャフトが拡大した。
つぎに、「東インド会社」だ。これで、スペインにかわってオランダが国際金融の中心になったことを見る。
アントウェルペンにはカルヴァン派の信者が多かったため、あたらしくフランドル地方の領主になったカトリックの保護者フェリペ二世と対立し、オランダ独立戦争で破壊された。一七世紀にはスペインからの独立を達成したオランダが、東インド会社を設立して東南アジアや中国との交易で優位を築き、オランダの首都アムステルダムが国際金融の中心となった。
最後に、「綿織物」だ。これで、イギリスが国際市場の中心になったことを記述する。
しかし一八世紀になるとアジアからの輸入品の主流が、ヨーロッパでの流行を反映して香辛料から綿にかわった。これで、綿の原産地であるインドを植民地にしていたイギリスが圧倒的に優位に立ち、国際金融の中心はロンドンに移った。
イギリスは銀を代価として中国から茶などを購入し、インドからは綿織物を購入した。しかし、一八世紀後半に大西洋の三角貿易で獲得した富を基盤にイギリスで産業単命が起こると、綿織物の自給が可能になるとともに、労働者階級のあいだでの喫茶が流行したことで、中国茶の需要が高まった。ところがイギリスは銀の流出を防ぐために、インドや東南アジアのプランテーションで栽培したアヘンを中国に輸出した。さらに東インド会社の営業が停止されて、自由主義貿易が実現されると、もはやアヘンの流れをとめることができず、イギリスと清朝はアヘン戦争へと突入していくことになった。
【解答例】
一六世紀ポルトガルは、日本銀を代価に中国から陶磁器や絹などを購入した。しかしポトシ銀山を開発したスペインは、メキシコ銀で中国物産を購入した。この銀の大量流入で、中国の税法がかわり、地銀と丁銀を一括納入する一条鞭法、地丁銀へと移行した。ヨーロッパでも、銀の大量流入で物価が高騰する価格革命があり、南ドイツの銀山アウグスブルクが没落して、大西洋岸の産業が発展し、アントウェルペンが国際金融の中心となり、東欧はグーツヘルシャフトで農業に特化した。カルヴァン派が多かったアントウェルペンは、フェリペ二世に破壊されたが、独立を達成したオランダは>東インド会社を設立して、アジア貿易で優位を築き、アムステルダムが国際金融の中心となった。しかし一八世紀になるとアジアからの輸入品の主流が、ヨーロッパでの流行を反映して香辛料から綿織物にかわった。これで、綿の原産地であるインドを植民地にしていたイギリスが圧倒的に優位に立ち、国際金融の中心はロンドンに移った。しかし労働者階級にも喫茶が流行すると、銀のかわりにアヘンを中国に輸出するようになり、アヘン戦争へと突入した。
この記事へのコメント
まず、この問題の主題は銀による世界の一体化であるはず。文の終わりがアヘン戦争では締まらないのでは?抑も19世紀の出来事で要求に沿っていないと思います。
さらにインドが綿花の産地に甘んじるのは1813年以降であり、18世紀時点ではむしろ綿織物の輸出国です。
加えて、北米とカリブ海の記述が皆無で、アフリカさえ記述がありません。
主題は銀の与えた影響という漠然としたものではなく、銀による世界の一体化ではないですか?