大学基準と予備校基準・東大世界史編
歴史学は、実は暗記の学問ではなく思考の学問だ。だから、教科書程度の知識があれば、あとは思考力と論理力で解けるという問題が、いい問題だ。ここが、大学基準と予備校基準の大きな違いになってくる。
とくに世界史の第1問の論述問題は、同じ出来事でも、見方を変えるだけで歴史像が大きく変わることを意図している問題だ。そのために、世界史では馴染みのキーワードが用意されている。いずれも馴染みのキーワードだが、そのなかのいくつかを入れ替えるだけでも、出来上がった歴史像はまったく異なる。受験生は気にしていないだろうが、キーワードを入れ替えることで、視点が変わっているのだ。視点が変われば、歴史像が大きく変わる。この歴史の視点を変えるという作業を、入試会場で受験生にやらせているのである。だから、キーワードを並べながら、こういう見方もあるんだなと楽しみながら解答できたら、大正解だ。
東大はそれを意図しているから、キーワードは教科書範囲で学ぶ馴染みのものばかりにしている。しかも、それらのキーワードを時代順に並べるだけで、教科書には書かれていない歴史像が見えてくる仕掛けになっている。あとは、キーワードを順接でつなげるのか逆説でつなげるのかを間違わなければ大丈夫だ。キーワードは、このように受験生を導くものであって、けっして受験生を困らせるものではない。
しかもキーワードのほとんどは、過去の東大入試でもよく使われているものが多い。過去の入試問題を見れば、そのことがよくわかるはずだ。それでも毎年ちがう問題をつくることができるのは、ひとつの出来事がさまざまな筋書きの交差点になっているということを示している。同一の出来事でも、異なる視点から見れば、異なる姿をみせる。そこが歴史学の面白いところであり、東大入試の面白いところでもある。
第2問で出される資料問題は、歴史資料や図表が出題されるが、それも歴史の見方を学ぶためのものだ。これが、第2問で論述試験が復活した理由だろう。
歴史学はけっして暗記の学問ではなく、発想の学問である。歴史という学問が目指しているものは、これまで正しいと思われていた歴史常識を疑うということだ。今でも歴史という学問があるのは、歴史学のなかでつねに歴史学の常識が疑われてきたということを示している。
しかも常識を疑うにはデータの力が必要だ。入試問題であれば歴史資料のことだ。資料には自分の想像を超えた内容が記されている。それを理解する力を試したいのだ。
そこで、第1問で出題されるような内容を、きちんとデータからも読み取れるのかを試す図表問題が出題されることがある。この類の問題では、キーワードのかわりに図表を使用していると考えればいい。
さらに、もう一歩段階を進めて、常識を疑わざるを得ない内容の資料をワザと出題することもある。その内容を理解できれば、自然と歴史の常識を疑うことができるというものだ。それが、歴史学における発想力だ。 たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につけながら、常識のおかしなところを指摘するのだ。そのような力のある学生がほしいのだ。
ただし、新しい発想が出てこなかったら仕方ない。赤本・青本のように、知っている知識で説明しよう。論述問題では、何も書かないのが一番もったいない。
その一方で、東大世界史の第3問は、一問一答形式の問題である。しかし、必ずひとつのテーマで貫かれているので、単なる一問一答形式の問題ではなく、連想力を問う問題になっている。やはり、出来事をつなげる力が問われているのだ。
これら一問一答で問われている知識は、高校の教科書範囲のものがほとんどだが、ときには山川の用語集の①レベル(教科書ひとつレベル)の難問や、地理・政経など世界史以外の科目の教科書範囲まで出題される。それは、現実の出来事が教科ごとに分類されて存在しているのではなく、教科の壁を越えて相互に関連しながら存在しているからだ。だから、東大二次試験の社会科目には、政治経済・倫理社会など公民科目はない。地歴科目で政治・経済・思想の知識を問うことができるのだ。これは教養試験だと割り切ればいい。
最後に、東大は模範解答を超える解答をもとめている。これは、どの教科でもいえることだ。大学が用意した模範解答よりも優れた解答があれば、また最初から採点しなおすほどだ。それまでして優秀な学生をほしがる。もし楽しみながら東大入試の問題を解くことができたら、きっと君の解答は模範解答を超えていることだろう。この記事を読んでいる受験生が、楽しみながら問題を解くことができるよう祈る。
とくに世界史の第1問の論述問題は、同じ出来事でも、見方を変えるだけで歴史像が大きく変わることを意図している問題だ。そのために、世界史では馴染みのキーワードが用意されている。いずれも馴染みのキーワードだが、そのなかのいくつかを入れ替えるだけでも、出来上がった歴史像はまったく異なる。受験生は気にしていないだろうが、キーワードを入れ替えることで、視点が変わっているのだ。視点が変われば、歴史像が大きく変わる。この歴史の視点を変えるという作業を、入試会場で受験生にやらせているのである。だから、キーワードを並べながら、こういう見方もあるんだなと楽しみながら解答できたら、大正解だ。
東大はそれを意図しているから、キーワードは教科書範囲で学ぶ馴染みのものばかりにしている。しかも、それらのキーワードを時代順に並べるだけで、教科書には書かれていない歴史像が見えてくる仕掛けになっている。あとは、キーワードを順接でつなげるのか逆説でつなげるのかを間違わなければ大丈夫だ。キーワードは、このように受験生を導くものであって、けっして受験生を困らせるものではない。
しかもキーワードのほとんどは、過去の東大入試でもよく使われているものが多い。過去の入試問題を見れば、そのことがよくわかるはずだ。それでも毎年ちがう問題をつくることができるのは、ひとつの出来事がさまざまな筋書きの交差点になっているということを示している。同一の出来事でも、異なる視点から見れば、異なる姿をみせる。そこが歴史学の面白いところであり、東大入試の面白いところでもある。
第2問で出される資料問題は、歴史資料や図表が出題されるが、それも歴史の見方を学ぶためのものだ。これが、第2問で論述試験が復活した理由だろう。
歴史学はけっして暗記の学問ではなく、発想の学問である。歴史という学問が目指しているものは、これまで正しいと思われていた歴史常識を疑うということだ。今でも歴史という学問があるのは、歴史学のなかでつねに歴史学の常識が疑われてきたということを示している。
しかも常識を疑うにはデータの力が必要だ。入試問題であれば歴史資料のことだ。資料には自分の想像を超えた内容が記されている。それを理解する力を試したいのだ。
そこで、第1問で出題されるような内容を、きちんとデータからも読み取れるのかを試す図表問題が出題されることがある。この類の問題では、キーワードのかわりに図表を使用していると考えればいい。
さらに、もう一歩段階を進めて、常識を疑わざるを得ない内容の資料をワザと出題することもある。その内容を理解できれば、自然と歴史の常識を疑うことができるというものだ。それが、歴史学における発想力だ。 たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につけながら、常識のおかしなところを指摘するのだ。そのような力のある学生がほしいのだ。
ただし、新しい発想が出てこなかったら仕方ない。赤本・青本のように、知っている知識で説明しよう。論述問題では、何も書かないのが一番もったいない。
その一方で、東大世界史の第3問は、一問一答形式の問題である。しかし、必ずひとつのテーマで貫かれているので、単なる一問一答形式の問題ではなく、連想力を問う問題になっている。やはり、出来事をつなげる力が問われているのだ。
これら一問一答で問われている知識は、高校の教科書範囲のものがほとんどだが、ときには山川の用語集の①レベル(教科書ひとつレベル)の難問や、地理・政経など世界史以外の科目の教科書範囲まで出題される。それは、現実の出来事が教科ごとに分類されて存在しているのではなく、教科の壁を越えて相互に関連しながら存在しているからだ。だから、東大二次試験の社会科目には、政治経済・倫理社会など公民科目はない。地歴科目で政治・経済・思想の知識を問うことができるのだ。これは教養試験だと割り切ればいい。
最後に、東大は模範解答を超える解答をもとめている。これは、どの教科でもいえることだ。大学が用意した模範解答よりも優れた解答があれば、また最初から採点しなおすほどだ。それまでして優秀な学生をほしがる。もし楽しみながら東大入試の問題を解くことができたら、きっと君の解答は模範解答を超えていることだろう。この記事を読んでいる受験生が、楽しみながら問題を解くことができるよう祈る。
この記事へのコメント