『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』予約受付

佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)が、いよいよ10月刊行されます。わたくし著者に先行予約していただいた方には、送料無料で、刊行しだいお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。
【内容】
歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として正当な評価を受けてこなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえるという斬新な手法で、資料としての可能性を示す。さらに、系図に作為や錯誤が生み出された背景まで探求し、常識にとらわれず資料を読むことで、室町・戦国期における佐々木六角氏の果たした役割の大きさを明らかにする。 前著『佐々木六角氏の系譜』で確立した著者独自の視点から、佐々木六角氏を縦軸として室町・戦国期の諸勢力の動向を論じる。挿入系図多数。

◆定価:3,990円(税5%込)
◆初版年月:2007年10月刊行予定
◆判型:四六判 350頁

【もくじ】
はじめに
序論 歴史学方法論
1章 沢田源内と佐々木氏郷
2章 六角義実の研究
  1 六角四郎
  2 義久という人物
  3 義久の出家
  4 義久の贈官
  5 系譜伝承における錯誤と史実
3章 六角義秀の研究
  1 『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
  2 元服後の六角亀寿
  3 義秀に関する文書
  4 江州殿と信長の上洛
  5 元亀争乱
  6 足利義昭政権と元亀争乱
4章 六角義堯の研究
  1 六角義堯と近江武士
  2 武田勝頼と六角義堯
  3 上杉謙信と六角義堯
  4 毛利氏と六角義堯
  5 六角義堯の軍事行動
5章 六角義郷の研究
  1 義郷の母織田氏
  2 義郷と武衛義康
  3 豊臣秀次の与力大名左衛門督殿
おわりに―歴史哲学へとつづく終章
参考文献/佐々木系図/あとがき

この記事へのコメント

西條陽一
2007年10月14日 23:29
佐々木先生、ご無沙汰をしています。『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』の刊行おめでとうございます。11月11日の勉強会には出席出来ないかもしれませんので注文いたしますのでお送りください。よろしくお願い致します。
佐々木寿
2007年10月14日 23:58
『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』の刊行おめでとうございます。
佐々木哲
2007年10月15日 00:13
コメントありがとうございます。

『系譜伝承論』は、戦国期六角氏の系譜問題を真正面から取り上げた歴史学研究の意欲作であるとともに、実は発想の転換の方法を紹介する哲学書でもあります。楽しんでください。

ご注文は、まずメールで申し込んでいただければ、折り返し振替口座をお知らせいたします。希望冊数分の代金を郵便振替講座に振り込んで頂ければ、それで予約完了です。出来上がり次第、発送いたします。
栗田
2007年10月25日 04:54
六角氏は義郷の次男が継いで現在も健在であります。氏郷の系統は姓が変わっております。
佐々木哲
2007年10月25日 10:24
コメントありがとうございます。

義郷の子孫という系譜伝承は、実は珍しくはありません。もっとも著名なのは、氏郷の養子の子孫で、朝廷の滝口武士に列した六角家です。朝廷から六角氏の子孫と認められたようです。

もしよろしかったら、詳しい情報をお知らせください。
栗田
2007年11月01日 11:10
六角佐々木嫡流家所蔵の文書によりますと、義秀の嫡男は、実子で長男の義郷となっており、義堯、義康なる人物ではありません。文書には、母の出、母の法名、義実義秀義郷の墓所も書かれていますが、義郷の官位、役職は義康とは全く違っています。義郷が観音寺城主のとき秀次事件によって所領を奪われ近江から全く別の地に移っているので義堯義康の動きとも合いません。また義郷は本来の佐々木神社の御神体、先祖代々の守り佛と共に近江を離れているので六角佐々木氏の嫡男であるのは明らかです。移住先には佐々木大明神の御神体のある祠、菩提寺、墓所、位牌堂には木像もあります。                 氏郷については義郷の長男で同一人物ではありません。兵部少輔、佐兵衛尉、母は岐阜中納言の養女、変名後、江州に戻りその後金沢に行ったとなっています。六角佐々木氏嫡流家は氏郷の次弟義周が継ぎ、その地で四百年が経ち今に至っております。
佐々木哲
2007年11月01日 13:53
報告ありがとうございます。

報告いただいた系図では義郷と義康の事績が異なるということですが、六角義郷と六角義康は同一人物ですので、事績は同一になります。実際に、沙沙貴神社所蔵佐々木系図や『六角佐々木氏系図略』で確認できる事績は資料と一致しています。

また義郷には当初、実子がいませんでしたので、弟秀綱が継ぎました。

ただし晩年に実子氏郷が生まれ、資料によれば京都に住み、丸亀藩主京極家や相国寺僧らと交流がありました。京都で没しており、その家系は養子によって伝えられ、天皇警固の滝口六角家と、医者の六角家があります。

子孫が確認できる滝口六角家でも、系図や肖像画などを伝えていますので、系図や位牌・木像があるだけでは、嫡流とはいえないのです。子孫という家にはよくあるものなのです。さらに家臣が主人の位牌をつくり持つこともよくあり、家臣の子孫がいつのまにか主人の子孫と誤り伝えられることも多いのです。

それにしても、氏郷の弟義周という人物は初めて聞きますので、よろしければ、詳しくご教示願えますか?
2007年11月04日 13:36
佐々木先生、長らくご無沙汰をしておりました。益々ご活躍のご様子大慶に存じます。この度は『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』の上梓誠におめでとうございます。遅ればせながら先ほどメールで予約注文いたしましたので、ご確認をお願いいたします。
 小生は細々とですが、水野氏史研究を続けております。最近『系圖纂要』から水野氏の資料を収集しました。この系譜には今まで知らなかった情報が沢山記載されておりとても興味を覚えました。
しかしながら浅学のため、この系譜の成り立ちの背景や、信頼性に対する評価などよく判っておりません。
 佐々木先生の今度の御著書で系圖についてもっと勉強したいと思っておりますが、先生はこの系譜については、どの様にご評価なさっておられるのでしょうか。ご教示いただけたら幸いに存じます。
佐々木哲
2007年11月04日 21:08
拙著を予約して頂き、ありがとうございます。メールを受け取りましたので、折り返し、郵便振替口座をお知らせいたします。

『系図纂要』は『尊卑分脈』と同様、研究者の使用頻度の高い系図集です。とくに、一つひとつの系図に多くの異説が取り上げられており、それらが仮説を立てるのに役立つことがあります。もちろん、それらは仮説として利用できるということであり、そのままで利用することはできません。そこは注意してください。使用するときには、『系図纂要』に掲載されていたことを明言して、それを資料によって裏付けて行くという方法で使用してください。それができれば、とてもいい系図集だと思います。
2007年11月05日 07:08
佐々木先生、お忙しいところ早々とご教示下さいましてありがとうございました。いつもながらの簡潔明瞭な内容でとても参考になりました。これから編輯していく水野氏系圖作りの指針とさせていただきます。深謝いたします。
佐々木哲
2007年11月07日 12:49
予約ありがとうございます。『系譜伝承論』の発行は11月中旬になるかと存じます。もうしばらくお待ちください。
栗田
2007年11月11日 10:44
こちらにあるのは、江戸初期に建てらた義郷公の墓とその後の一族の墓所であります。墓石には源光院殿興山崇岩大居士側面は本国近江前観音寺城前城主とあります。この墓は藩にも認められたもので家臣が勝手に作ったものではありません。佐々木氏はこの藩の下で郷士となり代々この墓を守ってまいりました。文書につきましては代々佐々木惣領が書き繋いできたもので鎌倉期のものと思われます。この中で義実が義久と名乗った記録も出家した記録もありません。母関東公方左馬頭氏政女 足利将軍義輝後見人 弘治十年十一月二十二日逝去 四十八歳 弟義昌 左馬頭住八幡山城 義昌嫡子 川端左近大輔輝綱となっています。 義秀は幼名飛竜丸 母将軍義晴公女 天正十年五月二四日卒三八歳 弟義頼 従四位侍従後右京大夫 女子足利義輝公御室養子 女子長命寺尼上人 義秀の子供に義堯という人物や養子はおりません。
栗田
2007年11月11日 11:31
義郷は義秀長男 右兵衛督 天正五年一月三日生 幼名竜武丸 母平信長女 松樹院 元和九年七月九日卒 文禄四年七月十五日秀次公逆心、 その臣下の讒言により所領を奪われ、墓のある土地まで落ち延びたようです。これ以降表舞台には出ていないので義康という人物とは全く別人であります。年齢も官位官職もまったく違います。従四位にはなっていません。
 義郷には六人の男子がおります。
長男氏郷 母秀信公女 実は京極女 京都四条住む 米二十俵合力さる その後変名し、江州に戻りその後金沢に加列千二百石とあります。変名後の姓名は此処には書きません。次男義周 右馬丞 母多羅尾彦七入道道賀女 三男義行 六郎左衛門尉 母同 四男盛安 五男信彌 六男利綱 となっています。嫡男の次男は現在まで、他は二世代目までわかっております。
 佐々木さんのことは田中政三さんの著書の中で紹介されていましたので存じておりました。義郷の子孫の義嘉という方と記憶していますがどの系統でしょうかお教えください。
佐々木哲
2007年11月12日 12:34
コメントありがとうございます。

まず貴家系図の記述は江源武鑑と共通し、資料と一致しないものがあります。

まず、義実を義久と記した系譜はありません。貴家の系図に記されていなくとも不思議ではありません。しかし資料で確認できるのは、義実ではなく義久です。義実が義久であることが気づかれなかったので、いままで実在が否定されていたのです。

義堯は、系譜などでは義頼(実頼)と記されています。義秀が信長の上洛直後に没すると、義堯が大本所と呼ばれています。義堯が義秀の後継者であることは間違いありません。

また、六角佐々木氏系図略では義郷の実名を義康と明記しています。歴史資料でも、義郷は豊臣義康として登場します。

さらに氏郷は、京極氏家臣某覚書抜粋によれば、京都に住み、京都で没しています。その後継者は丸亀藩主京極高豊の子息です。

歴史研究では、当時の資料と系図では、当時の資料が尊重されます。わたしの研究が認められ始め、著書を公刊できるのも、当時の資料を尊重しているからです。

わたしは自分の家の家系にはあまり興味がありません。プロフィールに書いたとおりです。
佐々木哲
2007年11月18日 02:08
追伸です。

氏郷の変名以前の記述については、『京極氏家臣某覚書抜萃』の内容と一致するところがあり、興味があります。同文書によれば、氏郷の妻が京極氏であり、京極氏から合力銀二十枚を毎年送られています。多少の錯誤がありますが、興味あります。ただし、前述のとおり、氏郷は変名することなく、元禄初年に京都で没しています。

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