2008年東大世界史第3問「交通の歴史」
【問題】
世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。これに関連して、以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。
問(1) アケメネス朝ペルシアでは、王都と地方を結ぶ道路が「王の道」として整備された。そのうち幹線となったのは、サルディスと王都を結ぶものであった。その王都の名称を記しなさい。
問(2) 「すべての道はローマに通じる」とは名高い格言である。これらの舗装された道は軍道として造られたものであるが、その最初の街道はすでに前四世紀末に敷設されている。このローマとカプアを結ぶ最古の街道の名称を記しなさい。
問(3) 中世ヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、キリスト教徒の旅が見られるようになった。ローマやイェルサレムと並んで、イベリア半島西北部にあり聖地と見なされた利はどこか。その都市の名称を記しなさい。
問(4) 中国産の絹が古くから西方で珍重されたことから、それを運ぶ道は一般にシルクロードとよばれる。この道を経由した隊商交易で、六~八世紀ころに活躍したイラン系商人は何とよばれているか。その名称を記しなさい。
問(5) シルクロードと並ぶ「海の道」は、唐代から中国の産品を西に運んだ。絹と並ぶ主要産品の一つは、それに因む「海の道」の別名にも使われている。この主要産品の名称を記しなさい。
問(6) モンゴル帝国では駅伝制度が整備され、ユーラシア大陸の東西を人間や物品がひんぱんに往来した。とくに中国征服後はすべての地域で駅伝制が完備した。この駅伝制の名称(a)と、公用で旅行する者が携帯した証明書の名称(b)を、冒頭に(a)・(b)を付して記しなさい。
問(7) アメリカ合衆国における大陸横断鉄道の建設は、移民を労働者として利用しながら進められた。それは西部開拓を促しただけではなく、合衆国の政治的・経済的な統一をもたらすことになった。この鉄道建設が遅れる要因となった出来事の名称を記しなさい。
問(8) オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト二世は、各地のムスリム(イスラ-ム教徒)の歓心を買うために、巡礼者鉄道(ヒジャーズ鉄道)を建設したが、ムスリム巡礼の最終目的地はどこであったか。その地名を記しなさい。
問(9) 一九一一年の辛亥革命は、清朝が外国からの借款を得て、ある交通網を整備しようとしたことへの反発をきっかけとして生じた。この交通網をめぐる清朝の政策の名称を記しなさい。
問(10) 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興とともに高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。
【考え方】
問(1) アッシリアは「アッシリアのくびき」といわれるように武力で統治したために、反乱で滅亡した。それに対して、アケメネス朝ペルシアは、キュロス二世(在位前五五九~五三〇年)がバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したように、異民族の自治を認める寛容策をとった。王の道の一部がアッシリア時代のものと推定できるように、アケメネス朝がアッシリアの中央集権体制を継承しながらも長期政権を維持できたのは、この寛容策による。大国を維持するのに必要なものを、アケメネス朝は教えてくれる。
メソポタミア・シリア・エジプト・小アジアを支配する大帝国を築いたダレイオス一世(在位前五五二~前四八六年)は、地方に非世襲のサトラップ(州知事)を置き、そのもとに異民族の自治を認めて、サトラップ監視のために「王の目」「王の耳」を置いた。こうして地方政治を安定させた。それとともに、ヒトとモノと情報を運ぶ王の道を敷設して中央集権体制を実現した。もっとも有名な道は、大帝国の王都スーサと、小アジア西部の都市サルディスを結ぶ、およそ二、五〇〇キロメートルのもので、一一一の駅舎が設けられていた。歴史の父ヘロドトスのペルシア戦争記『歴史』によれば、この道程を七日間で移動できたという。さらに諸民族が朝貢のために訪れたペルセポリスにも通じていた。ペルセポリスの遺跡には、諸民族の朝貢の様子を描いたレリーフが見られる。
ダレイオス一世といえば新都ペルセポリスを造営したと覚えている人も多いだろうが、ペルセポリスは新年祭や朝貢など儀式用の都市で、ペルセポリスという名もペルシアの都を意味するギリシア語で、アケメネス朝での呼称ではない。行政の中心はスーサであり、正解の王都はスーサである。
問(2) アケメネス朝ペルシアの公道は「王の道」と呼ばれたが、最初のローマ街道であるアッピア街道は「女王の道」と呼ばれた。アッピア街道は、サムニウム戦争(前三四二~前二九〇年)が断続的に続いていた紀元前三一二年に、ケンソル(監察官)アッピウスの要請で南イタリアに敷設された。以後、征服地が拡大するにつれてアッピア街道も延長されている。このように、アッピア街道はもともと軍隊の迅速な移動のために建設されたものであり、そのために石で舗装されていた。それが結果的には商用にも役立ったのである。
ローマ人は法律と土木工事に優れ、とくに巨大な石を組み立てたガール水道橋(南フランス)、競技場であるコロッセウムは有名である。ローマ街道は、ローマから放射線状に伸び、各地へ軍隊を迅速に派遣して中央集権を維持した。ローマ街道には一ローママイル(約一・五キロメートル)ごとにマイルストーンが置かれ、ローマとの距離だけではなく、近隣の主要都市への距離も記され、商業活動でも大いに役立った。「すべての道はローマに通ず」と言われたように、ローマの文化はこのローマ街道によって各地に伝えられた。
問(3) エルサレム、ローマとならぶキリスト教三大聖地のひとつに、サンチャゴ・デ・コンポステラがある。十字軍のひとつレコンキスタ(再征服運動)の最中に、十二使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン名サンチャゴ)の墓所が発見されたからである。正解は、サンチャゴ・デ・コンポステラである。
イベリア半島では、七一一年にアタナシウス派ゲルマン国家の西ゴート王国がイスラーム国家のウマイヤ朝によって滅亡したが、七一八年に西ゴートの貴族ペラヨがアウストゥリアスにキリスト教徒を結集して、コバドンガの戦いでイスラーム勢力を撃退した。戦いそのものは小規模だったが、イスラーム軍を最初に破った戦いであり、これがレコンキスタの始まりである。つづいて七三二年には同じくアタナシウス派ゲルマン国家フランク王国の宮宰カール=マルテル(六八六~七四一年)が、トゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝軍を破った。このような時期に、羊飼いによって聖ヤコブの墓が奇跡的に発見されたため、アウストゥリアス王アルフォンソ二世(七九一~八四二年)により聖堂が建設され、聖ヤコブはイベリア半島の守護聖人に祭り上げられた。
レコンキスタは、聖地エルサレムの回復を目指したエルサレム十字軍、北ヨーロッパおよびバルト海に遠征した北方十字軍とともには、十字軍と認定された。以後、サンチャゴ・デ・コンポステラはエルサレムやローマにつぐ主要な巡礼地になり、まわりには都市が発達した。巡礼の道は十字軍が進んだ道でもあり、今日では観光客の訪れる歴史街道となっている。
問(4)アラル海、ヒンドゥーク山脈、パミール高原、天山山脈に囲まれた広大な盆地は、ギリシア語でソグド人の土地という意味でソグディアナと呼ばれた。このシルクロードのちょうど中間地点に当たるソグディアナは、パミール高原に発するアム川や、天山山脈に発するシル川にはさまれ、比較的大規模なオアシスが多く、ペルシア系オアシス灌漑農耕民族のソグド人が居住し、アケメネス朝の頃から農牧生活をしながら隊商交易を営み始めた。正解はソグド人である。
ソグディアナがギリシア語であるように、アレクサンドロス大王の東方遠征でその支配下に入り、続けてギリシア人国家バクトリアに属し、その後も大月氏・クシャーン朝・ササン朝・エフタル・突厥に支配された。エフタルやウイグルなど騎馬民族は、彼らの隊商交易を保護することで大きな利益を得ていた。彼らの活動範囲は中国・インド・ビザンツ帝国に及び、中国の絹を西方に伝えたため、オアシスの道はシルクロード(絹の道)と呼ばれるようになった。ソグド人は唐では「胡人」と呼ばれ、ゾロアスター教も唐に伝えられて祆教と呼ばれた。安史の乱で知られる安禄山やその部下史思明もソグド人であり、語学に堪能であったという。ソグド語は七世紀以降中央アジアの商用共通語となり、アラム文字から発達したソグド文字はウイグル文字・モンゴル文字・満州文字のもとになった。このことでも、彼らの活動範囲が広かったことが分かる。
しかしイスラーム勢力が台頭した七~八世紀には、東西交易で栄えたソグディアナの中心都市サマルカンド(康国)もイスラーム化し、さらにトルコ系ウイグルク人南下によってトルコ化が進み、ソグディアナを含む中央アジア一帯はトルキスタンと呼ばれるようになった。
問(5) シルクロードは中国に通じる交易路の代名詞になっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶ。すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港から出発してインドと通商を行っており、さらにエジプトを征服したローマ帝国でも、ギリシア系エジプト人によって、季節風貿易が行われて、南インドのサータヴァーハナ朝と交易し、さらに絹を求めて中国にまで達した。五賢帝のひとりマルクス=アウレリウス=アントニヌス(大秦国王安敦、一二一~一八〇年)の使者と名乗る使節団が後漢の日南郡(現在のヴェトナム)に達したことは有名である。
陸のシルクロードはローマ帝国とササン朝など東西の大帝国の直接対決でしばしば中断されたが、海のシルクロードは中断されることがなかった。陸のシルクロードがソグド人の隊商交易で栄えたのに対して、海のシルクロードではアラブ人が交易の担い手になって広州に居留地を築き、中国の唐・宋など各王朝は市舶司を置いている。軍事国家としては弱体であった宋は、金によって都開封を陥落された靖康の変(一一二六~二七年)で南遷して以後の南宋の方がむしろ活気に溢れた。これは、海のシルクロードで早稲種の占城米(チャンパー米)が輸入されて大穀倉地帯を築くことができ、さらに茶の栽培で飲茶の習慣が生まれ、景徳鎮に代表される茶器(陶磁器)が製作されて手工業が栄え、経済的に繁栄したからである。こうして海のシルクロードは陶磁器の道になった。
南宋を倒した元も交易を推進したが、明は倭寇対策として海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めなかった。しかし靖難の役(一三九九~一四〇二年)で即位した永楽帝(在位一四〇二~二四年)は、朝貢貿易を朝廷による貿易独占と解釈し、鄭和(一三七一~一四三四年頃)の南海大遠征隊を派遣した。大遠征隊は海のシルクロードを西方に向かい、一部は東アフリカに達した。東アフリカにはイスラーム商人によって海港都市が建設され、現地の言葉にアラビア語の単語が導入されたスワヒリ語が東アフリカの共通語になった。その東アフリカの海港都市マリンディー・モンバサ・ザンジバル・キルワなどでも中国の陶磁器が取引され、南方のモノモタパ王国のジンバブエ遺跡からも中国の陶磁器が出土している。海のシルクロードはやはり陶磁器の道であった。
一六世紀には喜望峰経由でポルトガルが東方貿易に進出した。それまで東方貿易はエジプトのマムルーク朝と結んだヴェネツィアによって独占されていたが、インド西岸のディウ沖の海戦で、ヴェネツィアの支援を受けたマムルーク朝軍をポルトガルが破ると、東方貿易でのイスラーム商人の役割は急速に低下した。以後、西ヨーロッパ諸国が東インド会社を設立して東方貿易に乗り出し、ヨーロッパは博物学の時代を迎える。そのなかでも中国の白磁は憧れの的であり、ポーランド王を兼ねたザクセン選帝侯アウグスト二世(強健王、一六七〇~一七三三年)は錬金術師ベドガー(一六八二~一七一九年)に白磁の研究を命じて、今日のマイセンの基礎を築いている。
問(6) チンギス・ハン(在位一二〇六~二七年)没後、一二二九年のクリルタイ(族長会議)で、オゴタイ(在位一二二九~四一年)が大ハンに推戴された。オゴタイは、モンゴル帝国のほぼ中央にあたるカラコルムに中国風の宮殿をつくり遷都すると、耶律楚材(一一九〇~一二四四年)を重用して行政機構を整備し、また征服地の戸口調査をして新しい税制を制定した。さらに幹線道路を張り巡らした駅伝制を整備して、一日行程ごとに駅(站)を設け、使者や軍人には食料や駅馬を提供した。これが、正解(a)の站赤(ジャムチ)である。またモンゴルは早くから隊商の交通路の整備や治安維持につとめており、旅行者や商人も許可状をもっていれば、駅馬を利用できた。正解(b)は、この牌符(牌子、パイザ)である。この牌符をもっていれば、安全は確実に保証され、ハイドゥの乱(一二六六~一三〇一年)でも中央アジアを無事に通過できたという。
この問題は、ジャムチが商人にも許可されていたことを知ってもらいたい問題である。モンゴル帝国は軍事力だけの大帝国ではなかったのである。一二三四年には華北を支配する金を滅ぼし、淮水で南宋と国境を接した。陸のシルクロードを支配するモンゴル帝国と海のシルクロードを支配する南宋との直接対決である。経済大国どうしの直接対決である。いよいよフビライの南征、フラグの征西が始まる。さらに東方には黄金の国ジパングがある。元寇も間近い。
問(7)西部開拓が進むと、一八六二年には太平洋鉄道法が制定され、連邦政府の財政支援で大陸横断鉄道の建設が推進された。また同年にホームステッド法も制定されている。ホームステッド法は、米国市民権を持つ二一歳以上の者ならば、西部に五年間定住するだけで、一六〇エーカーの土地を無償で与えられるというものである。これは南北戦争(一八六一~六五年)で、南部諸州が去った議会で成立したものであり、西部を味方につけたいというリンカーン大統領ら北部の意図があったろうことが分かる。正解は南北戦争である。この問題から、出題者が大陸横断鉄道・ホームステッド法と南北戦争を結びつけて理解してほしいと考えていることが分かる。
太平洋鉄道法によって、国策会社としてユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道とが設立され、ユニオンパシフィック鉄道は中国人労働者の手で東側を、セントラルパシフィック鉄道はアイルランド労働者の手で西側を建設し、一八六九年にプロモントリー=ポイントで連結した。開通まもない一八七二年には、岩倉具視らの日本使節団も乗車している。この大陸横断鉄道の開通と、開墾した国有地の私有化を認めたホームステッド法の制定によって西部開拓が一層促進された。しかし、鉄道の開通は同時にネイティブ・アメリカンの文化を衰退させることになった。鉄道の開通は地方独自の文化・生活を衰退させるものでもある。
問(8)露土戦争(一八七七~七八年)の敗戦を理由に一八七八年にミドハト憲法が停止され、アラブ独立運動が活発化する中、オスマン帝国のアブデュルハミト二世(在位一八七六~一九〇九年)はパン=イスラーム主義を提唱し、ムスリム(イスラーム教徒)の支持を得るために、聖地メッカやメディナへ向かう巡礼のためのヒジャーズ鉄道敷設計画を発表した。正解はメッカである。ヒジャーズ鉄道は教科書範囲ではないが、問題文に「ムスリム巡礼の最終目的地」と記されているため、メッカと答えられる。これならば十分に教科書範囲である。問題文で「ムスリムの歓心を買うため」とあることから、出題者はヒジャーズ鉄道からオスマン帝国のパン=イスラーム主義を学んでほしいと考えているようだ。
ヒジャーズ鉄道は、ドイツの出資で一九〇〇年に建設が開始されているが、このとき3B政策でバグダード鉄道の建設もすすめられており、ドイツから見れば、ヒジャーズ鉄道敷設は中東進出の一環であったと考えられる。一九〇八年にダマスカスからメディナまで完成したが、メッカに達することはなく、また第一次世界大戦時にはイギリスの支援を受けたアラブ勢力に破壊された。オスマン帝国のパン=イスラーム主義に対抗して、イギリスはアラブ独立運動を支持したのである。敷設権はトルコ分割後にシリア・ヨルダン・サウジアラビアなど沿線各国に任されたが、サウジアラビアでは再建されることはなく、一部シリア・ヨルダンで運行されているだけである。
問(9) 一九一一年五月、清朝は日本の内閣制にならって責任内閣制を施行し、皇族慶親王(乾隆帝の孫、一八三六~一九一六年)を首相に内閣を発足させたが、閣僚の多くが満州人皇族・貴族(親貴内閣)であったため立憲派を大きく失望させた。さらに慶親王内閣はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカ四か国の銀行による四国借款団からの借款を得るため、大量の外債を発行しなければならない状況にあった。そこで慶親王内閣は、幹線鉄道を国有化したうえで担保にしようと幹線鉄道国有化を宣言した。正解は、幹線鉄道国有化である。鉄道敷設権獲得が植民地支配を意味すること、そのため民族独立派が利権回収を目指したことを知ってもらいたい問題である。
この計画に中国人株主や利権回収運動を進めていた人びとは動揺した。鉄道を担保にすることは、鉄道沿線にあたる中国内陸部の植民地化を意味し、中国の利権と資源が列強に奪われることを意味したからだ。そのため漢民族によって利権回収運動が展開されていた。彼らは四川保路同志会を結成して幹線鉄道国有化反対運動を展開したが、九月に四川総督が運動を弾圧したことで運動は武装蜂起となり、四川省は内乱状態に陥った。一〇月その鎮圧を命じられた武昌(湖北省)の新軍が革命側に立つと(武昌起義)、革命は中国全土に波及して二四省のうち一四省が独立を宣言した。各省代表は南京に集まり、一九一二年一月に孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立した。これに対して清朝は北洋新軍の袁世凱に革命政府の討伐を命じたが、袁は革命政府側と交渉して清皇帝の退位と共和政の実現を引き換えに自らが臨時大総統になるという協定を結び、孫文にとってかわり臨時大総統に就任した。これが辛亥革命の第一革命である。
問(10) 第一次世界大戦の敗北で、ドイツは莫大な賠償金を請求されてマルクの価値が大戦中の一兆分の一まで下落したハイパーインフレーションに陥った。その後、インフレ収束のために一兆マルクと交換されたレンテンマルクの発行、ドーズ案による賠償金支払い方法の変更とアメリカ資本の導入などにより順調に回復していたが、一九二九年のアメリカ発の世界恐慌で再び経済が混乱して、大量の失業者が生まれた。一九三三年ナチス政権が成立すると、ヒトラーはアウトバーン(自動車専用道路)建設など公共事業を進め、失業者を大幅に減少させた。正解は、アウトバーンである。
アメリカではフランクリン=ローズベルト大統領のニューディール政策によって世界恐慌から脱したが、同じようにドイツでもヒトラーによる公共事業の推進で大恐慌を乗り越えたのである。ヒトラー政権が、ワイマール憲法のもとでも合法的に権力を掌握できたのは、世界初となる高速道路網を建設して失業者対策をし、さらに職を得た労働者が自分で稼いだお金で車を買えるように、国民車(フォルクスワーゲン)計画を提唱して、国民の歓心を買うことができたからである。この国民車が、フェルディナント・ポルシェの設計による流線型のタイプ1(ビートル)である。悲劇をくり返さないためにも、ヒトラー政権がなぜ政権を維持できたのか、真正面から考察する必要があるようだ。
第二次世界大戦が始まると、フォルクスワーゲン社は軍需生産に移行し、アウトバーンも滑走路として利用されたため連合国による激しい爆撃にあった。戦後西ドイツ地域の区間は修復され、フォルクスワーゲンもいちどイギリスの管理下で改組されうえで西ドイツ政府に移管され、戦後の西ドイツ復興に大いに貢献した。
【解答例】
問(1) スーサ
問(2) アッピア街道
問(3) サンチャゴ=デ=コンポステラ
問(4) ソグド人(ソグド商人)
問(5) 陶磁器
問(6) (a)站赤(ジャムチ)
(b)牌符・牌子(パイザ)
問(7) 南北戦争
問(8) メッカ
問(9) 幹線鉄道の国有化
問(10) アウトバーン
世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。これに関連して、以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。
問(1) アケメネス朝ペルシアでは、王都と地方を結ぶ道路が「王の道」として整備された。そのうち幹線となったのは、サルディスと王都を結ぶものであった。その王都の名称を記しなさい。
問(2) 「すべての道はローマに通じる」とは名高い格言である。これらの舗装された道は軍道として造られたものであるが、その最初の街道はすでに前四世紀末に敷設されている。このローマとカプアを結ぶ最古の街道の名称を記しなさい。
問(3) 中世ヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、キリスト教徒の旅が見られるようになった。ローマやイェルサレムと並んで、イベリア半島西北部にあり聖地と見なされた利はどこか。その都市の名称を記しなさい。
問(4) 中国産の絹が古くから西方で珍重されたことから、それを運ぶ道は一般にシルクロードとよばれる。この道を経由した隊商交易で、六~八世紀ころに活躍したイラン系商人は何とよばれているか。その名称を記しなさい。
問(5) シルクロードと並ぶ「海の道」は、唐代から中国の産品を西に運んだ。絹と並ぶ主要産品の一つは、それに因む「海の道」の別名にも使われている。この主要産品の名称を記しなさい。
問(6) モンゴル帝国では駅伝制度が整備され、ユーラシア大陸の東西を人間や物品がひんぱんに往来した。とくに中国征服後はすべての地域で駅伝制が完備した。この駅伝制の名称(a)と、公用で旅行する者が携帯した証明書の名称(b)を、冒頭に(a)・(b)を付して記しなさい。
問(7) アメリカ合衆国における大陸横断鉄道の建設は、移民を労働者として利用しながら進められた。それは西部開拓を促しただけではなく、合衆国の政治的・経済的な統一をもたらすことになった。この鉄道建設が遅れる要因となった出来事の名称を記しなさい。
問(8) オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト二世は、各地のムスリム(イスラ-ム教徒)の歓心を買うために、巡礼者鉄道(ヒジャーズ鉄道)を建設したが、ムスリム巡礼の最終目的地はどこであったか。その地名を記しなさい。
問(9) 一九一一年の辛亥革命は、清朝が外国からの借款を得て、ある交通網を整備しようとしたことへの反発をきっかけとして生じた。この交通網をめぐる清朝の政策の名称を記しなさい。
問(10) 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興とともに高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。
【考え方】
問(1) アッシリアは「アッシリアのくびき」といわれるように武力で統治したために、反乱で滅亡した。それに対して、アケメネス朝ペルシアは、キュロス二世(在位前五五九~五三〇年)がバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したように、異民族の自治を認める寛容策をとった。王の道の一部がアッシリア時代のものと推定できるように、アケメネス朝がアッシリアの中央集権体制を継承しながらも長期政権を維持できたのは、この寛容策による。大国を維持するのに必要なものを、アケメネス朝は教えてくれる。
メソポタミア・シリア・エジプト・小アジアを支配する大帝国を築いたダレイオス一世(在位前五五二~前四八六年)は、地方に非世襲のサトラップ(州知事)を置き、そのもとに異民族の自治を認めて、サトラップ監視のために「王の目」「王の耳」を置いた。こうして地方政治を安定させた。それとともに、ヒトとモノと情報を運ぶ王の道を敷設して中央集権体制を実現した。もっとも有名な道は、大帝国の王都スーサと、小アジア西部の都市サルディスを結ぶ、およそ二、五〇〇キロメートルのもので、一一一の駅舎が設けられていた。歴史の父ヘロドトスのペルシア戦争記『歴史』によれば、この道程を七日間で移動できたという。さらに諸民族が朝貢のために訪れたペルセポリスにも通じていた。ペルセポリスの遺跡には、諸民族の朝貢の様子を描いたレリーフが見られる。
ダレイオス一世といえば新都ペルセポリスを造営したと覚えている人も多いだろうが、ペルセポリスは新年祭や朝貢など儀式用の都市で、ペルセポリスという名もペルシアの都を意味するギリシア語で、アケメネス朝での呼称ではない。行政の中心はスーサであり、正解の王都はスーサである。
問(2) アケメネス朝ペルシアの公道は「王の道」と呼ばれたが、最初のローマ街道であるアッピア街道は「女王の道」と呼ばれた。アッピア街道は、サムニウム戦争(前三四二~前二九〇年)が断続的に続いていた紀元前三一二年に、ケンソル(監察官)アッピウスの要請で南イタリアに敷設された。以後、征服地が拡大するにつれてアッピア街道も延長されている。このように、アッピア街道はもともと軍隊の迅速な移動のために建設されたものであり、そのために石で舗装されていた。それが結果的には商用にも役立ったのである。
ローマ人は法律と土木工事に優れ、とくに巨大な石を組み立てたガール水道橋(南フランス)、競技場であるコロッセウムは有名である。ローマ街道は、ローマから放射線状に伸び、各地へ軍隊を迅速に派遣して中央集権を維持した。ローマ街道には一ローママイル(約一・五キロメートル)ごとにマイルストーンが置かれ、ローマとの距離だけではなく、近隣の主要都市への距離も記され、商業活動でも大いに役立った。「すべての道はローマに通ず」と言われたように、ローマの文化はこのローマ街道によって各地に伝えられた。
問(3) エルサレム、ローマとならぶキリスト教三大聖地のひとつに、サンチャゴ・デ・コンポステラがある。十字軍のひとつレコンキスタ(再征服運動)の最中に、十二使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン名サンチャゴ)の墓所が発見されたからである。正解は、サンチャゴ・デ・コンポステラである。
イベリア半島では、七一一年にアタナシウス派ゲルマン国家の西ゴート王国がイスラーム国家のウマイヤ朝によって滅亡したが、七一八年に西ゴートの貴族ペラヨがアウストゥリアスにキリスト教徒を結集して、コバドンガの戦いでイスラーム勢力を撃退した。戦いそのものは小規模だったが、イスラーム軍を最初に破った戦いであり、これがレコンキスタの始まりである。つづいて七三二年には同じくアタナシウス派ゲルマン国家フランク王国の宮宰カール=マルテル(六八六~七四一年)が、トゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝軍を破った。このような時期に、羊飼いによって聖ヤコブの墓が奇跡的に発見されたため、アウストゥリアス王アルフォンソ二世(七九一~八四二年)により聖堂が建設され、聖ヤコブはイベリア半島の守護聖人に祭り上げられた。
レコンキスタは、聖地エルサレムの回復を目指したエルサレム十字軍、北ヨーロッパおよびバルト海に遠征した北方十字軍とともには、十字軍と認定された。以後、サンチャゴ・デ・コンポステラはエルサレムやローマにつぐ主要な巡礼地になり、まわりには都市が発達した。巡礼の道は十字軍が進んだ道でもあり、今日では観光客の訪れる歴史街道となっている。
問(4)アラル海、ヒンドゥーク山脈、パミール高原、天山山脈に囲まれた広大な盆地は、ギリシア語でソグド人の土地という意味でソグディアナと呼ばれた。このシルクロードのちょうど中間地点に当たるソグディアナは、パミール高原に発するアム川や、天山山脈に発するシル川にはさまれ、比較的大規模なオアシスが多く、ペルシア系オアシス灌漑農耕民族のソグド人が居住し、アケメネス朝の頃から農牧生活をしながら隊商交易を営み始めた。正解はソグド人である。
ソグディアナがギリシア語であるように、アレクサンドロス大王の東方遠征でその支配下に入り、続けてギリシア人国家バクトリアに属し、その後も大月氏・クシャーン朝・ササン朝・エフタル・突厥に支配された。エフタルやウイグルなど騎馬民族は、彼らの隊商交易を保護することで大きな利益を得ていた。彼らの活動範囲は中国・インド・ビザンツ帝国に及び、中国の絹を西方に伝えたため、オアシスの道はシルクロード(絹の道)と呼ばれるようになった。ソグド人は唐では「胡人」と呼ばれ、ゾロアスター教も唐に伝えられて祆教と呼ばれた。安史の乱で知られる安禄山やその部下史思明もソグド人であり、語学に堪能であったという。ソグド語は七世紀以降中央アジアの商用共通語となり、アラム文字から発達したソグド文字はウイグル文字・モンゴル文字・満州文字のもとになった。このことでも、彼らの活動範囲が広かったことが分かる。
しかしイスラーム勢力が台頭した七~八世紀には、東西交易で栄えたソグディアナの中心都市サマルカンド(康国)もイスラーム化し、さらにトルコ系ウイグルク人南下によってトルコ化が進み、ソグディアナを含む中央アジア一帯はトルキスタンと呼ばれるようになった。
問(5) シルクロードは中国に通じる交易路の代名詞になっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶ。すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港から出発してインドと通商を行っており、さらにエジプトを征服したローマ帝国でも、ギリシア系エジプト人によって、季節風貿易が行われて、南インドのサータヴァーハナ朝と交易し、さらに絹を求めて中国にまで達した。五賢帝のひとりマルクス=アウレリウス=アントニヌス(大秦国王安敦、一二一~一八〇年)の使者と名乗る使節団が後漢の日南郡(現在のヴェトナム)に達したことは有名である。
陸のシルクロードはローマ帝国とササン朝など東西の大帝国の直接対決でしばしば中断されたが、海のシルクロードは中断されることがなかった。陸のシルクロードがソグド人の隊商交易で栄えたのに対して、海のシルクロードではアラブ人が交易の担い手になって広州に居留地を築き、中国の唐・宋など各王朝は市舶司を置いている。軍事国家としては弱体であった宋は、金によって都開封を陥落された靖康の変(一一二六~二七年)で南遷して以後の南宋の方がむしろ活気に溢れた。これは、海のシルクロードで早稲種の占城米(チャンパー米)が輸入されて大穀倉地帯を築くことができ、さらに茶の栽培で飲茶の習慣が生まれ、景徳鎮に代表される茶器(陶磁器)が製作されて手工業が栄え、経済的に繁栄したからである。こうして海のシルクロードは陶磁器の道になった。
南宋を倒した元も交易を推進したが、明は倭寇対策として海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めなかった。しかし靖難の役(一三九九~一四〇二年)で即位した永楽帝(在位一四〇二~二四年)は、朝貢貿易を朝廷による貿易独占と解釈し、鄭和(一三七一~一四三四年頃)の南海大遠征隊を派遣した。大遠征隊は海のシルクロードを西方に向かい、一部は東アフリカに達した。東アフリカにはイスラーム商人によって海港都市が建設され、現地の言葉にアラビア語の単語が導入されたスワヒリ語が東アフリカの共通語になった。その東アフリカの海港都市マリンディー・モンバサ・ザンジバル・キルワなどでも中国の陶磁器が取引され、南方のモノモタパ王国のジンバブエ遺跡からも中国の陶磁器が出土している。海のシルクロードはやはり陶磁器の道であった。
一六世紀には喜望峰経由でポルトガルが東方貿易に進出した。それまで東方貿易はエジプトのマムルーク朝と結んだヴェネツィアによって独占されていたが、インド西岸のディウ沖の海戦で、ヴェネツィアの支援を受けたマムルーク朝軍をポルトガルが破ると、東方貿易でのイスラーム商人の役割は急速に低下した。以後、西ヨーロッパ諸国が東インド会社を設立して東方貿易に乗り出し、ヨーロッパは博物学の時代を迎える。そのなかでも中国の白磁は憧れの的であり、ポーランド王を兼ねたザクセン選帝侯アウグスト二世(強健王、一六七〇~一七三三年)は錬金術師ベドガー(一六八二~一七一九年)に白磁の研究を命じて、今日のマイセンの基礎を築いている。
問(6) チンギス・ハン(在位一二〇六~二七年)没後、一二二九年のクリルタイ(族長会議)で、オゴタイ(在位一二二九~四一年)が大ハンに推戴された。オゴタイは、モンゴル帝国のほぼ中央にあたるカラコルムに中国風の宮殿をつくり遷都すると、耶律楚材(一一九〇~一二四四年)を重用して行政機構を整備し、また征服地の戸口調査をして新しい税制を制定した。さらに幹線道路を張り巡らした駅伝制を整備して、一日行程ごとに駅(站)を設け、使者や軍人には食料や駅馬を提供した。これが、正解(a)の站赤(ジャムチ)である。またモンゴルは早くから隊商の交通路の整備や治安維持につとめており、旅行者や商人も許可状をもっていれば、駅馬を利用できた。正解(b)は、この牌符(牌子、パイザ)である。この牌符をもっていれば、安全は確実に保証され、ハイドゥの乱(一二六六~一三〇一年)でも中央アジアを無事に通過できたという。
この問題は、ジャムチが商人にも許可されていたことを知ってもらいたい問題である。モンゴル帝国は軍事力だけの大帝国ではなかったのである。一二三四年には華北を支配する金を滅ぼし、淮水で南宋と国境を接した。陸のシルクロードを支配するモンゴル帝国と海のシルクロードを支配する南宋との直接対決である。経済大国どうしの直接対決である。いよいよフビライの南征、フラグの征西が始まる。さらに東方には黄金の国ジパングがある。元寇も間近い。
問(7)西部開拓が進むと、一八六二年には太平洋鉄道法が制定され、連邦政府の財政支援で大陸横断鉄道の建設が推進された。また同年にホームステッド法も制定されている。ホームステッド法は、米国市民権を持つ二一歳以上の者ならば、西部に五年間定住するだけで、一六〇エーカーの土地を無償で与えられるというものである。これは南北戦争(一八六一~六五年)で、南部諸州が去った議会で成立したものであり、西部を味方につけたいというリンカーン大統領ら北部の意図があったろうことが分かる。正解は南北戦争である。この問題から、出題者が大陸横断鉄道・ホームステッド法と南北戦争を結びつけて理解してほしいと考えていることが分かる。
太平洋鉄道法によって、国策会社としてユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道とが設立され、ユニオンパシフィック鉄道は中国人労働者の手で東側を、セントラルパシフィック鉄道はアイルランド労働者の手で西側を建設し、一八六九年にプロモントリー=ポイントで連結した。開通まもない一八七二年には、岩倉具視らの日本使節団も乗車している。この大陸横断鉄道の開通と、開墾した国有地の私有化を認めたホームステッド法の制定によって西部開拓が一層促進された。しかし、鉄道の開通は同時にネイティブ・アメリカンの文化を衰退させることになった。鉄道の開通は地方独自の文化・生活を衰退させるものでもある。
問(8)露土戦争(一八七七~七八年)の敗戦を理由に一八七八年にミドハト憲法が停止され、アラブ独立運動が活発化する中、オスマン帝国のアブデュルハミト二世(在位一八七六~一九〇九年)はパン=イスラーム主義を提唱し、ムスリム(イスラーム教徒)の支持を得るために、聖地メッカやメディナへ向かう巡礼のためのヒジャーズ鉄道敷設計画を発表した。正解はメッカである。ヒジャーズ鉄道は教科書範囲ではないが、問題文に「ムスリム巡礼の最終目的地」と記されているため、メッカと答えられる。これならば十分に教科書範囲である。問題文で「ムスリムの歓心を買うため」とあることから、出題者はヒジャーズ鉄道からオスマン帝国のパン=イスラーム主義を学んでほしいと考えているようだ。
ヒジャーズ鉄道は、ドイツの出資で一九〇〇年に建設が開始されているが、このとき3B政策でバグダード鉄道の建設もすすめられており、ドイツから見れば、ヒジャーズ鉄道敷設は中東進出の一環であったと考えられる。一九〇八年にダマスカスからメディナまで完成したが、メッカに達することはなく、また第一次世界大戦時にはイギリスの支援を受けたアラブ勢力に破壊された。オスマン帝国のパン=イスラーム主義に対抗して、イギリスはアラブ独立運動を支持したのである。敷設権はトルコ分割後にシリア・ヨルダン・サウジアラビアなど沿線各国に任されたが、サウジアラビアでは再建されることはなく、一部シリア・ヨルダンで運行されているだけである。
問(9) 一九一一年五月、清朝は日本の内閣制にならって責任内閣制を施行し、皇族慶親王(乾隆帝の孫、一八三六~一九一六年)を首相に内閣を発足させたが、閣僚の多くが満州人皇族・貴族(親貴内閣)であったため立憲派を大きく失望させた。さらに慶親王内閣はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカ四か国の銀行による四国借款団からの借款を得るため、大量の外債を発行しなければならない状況にあった。そこで慶親王内閣は、幹線鉄道を国有化したうえで担保にしようと幹線鉄道国有化を宣言した。正解は、幹線鉄道国有化である。鉄道敷設権獲得が植民地支配を意味すること、そのため民族独立派が利権回収を目指したことを知ってもらいたい問題である。
この計画に中国人株主や利権回収運動を進めていた人びとは動揺した。鉄道を担保にすることは、鉄道沿線にあたる中国内陸部の植民地化を意味し、中国の利権と資源が列強に奪われることを意味したからだ。そのため漢民族によって利権回収運動が展開されていた。彼らは四川保路同志会を結成して幹線鉄道国有化反対運動を展開したが、九月に四川総督が運動を弾圧したことで運動は武装蜂起となり、四川省は内乱状態に陥った。一〇月その鎮圧を命じられた武昌(湖北省)の新軍が革命側に立つと(武昌起義)、革命は中国全土に波及して二四省のうち一四省が独立を宣言した。各省代表は南京に集まり、一九一二年一月に孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立した。これに対して清朝は北洋新軍の袁世凱に革命政府の討伐を命じたが、袁は革命政府側と交渉して清皇帝の退位と共和政の実現を引き換えに自らが臨時大総統になるという協定を結び、孫文にとってかわり臨時大総統に就任した。これが辛亥革命の第一革命である。
問(10) 第一次世界大戦の敗北で、ドイツは莫大な賠償金を請求されてマルクの価値が大戦中の一兆分の一まで下落したハイパーインフレーションに陥った。その後、インフレ収束のために一兆マルクと交換されたレンテンマルクの発行、ドーズ案による賠償金支払い方法の変更とアメリカ資本の導入などにより順調に回復していたが、一九二九年のアメリカ発の世界恐慌で再び経済が混乱して、大量の失業者が生まれた。一九三三年ナチス政権が成立すると、ヒトラーはアウトバーン(自動車専用道路)建設など公共事業を進め、失業者を大幅に減少させた。正解は、アウトバーンである。
アメリカではフランクリン=ローズベルト大統領のニューディール政策によって世界恐慌から脱したが、同じようにドイツでもヒトラーによる公共事業の推進で大恐慌を乗り越えたのである。ヒトラー政権が、ワイマール憲法のもとでも合法的に権力を掌握できたのは、世界初となる高速道路網を建設して失業者対策をし、さらに職を得た労働者が自分で稼いだお金で車を買えるように、国民車(フォルクスワーゲン)計画を提唱して、国民の歓心を買うことができたからである。この国民車が、フェルディナント・ポルシェの設計による流線型のタイプ1(ビートル)である。悲劇をくり返さないためにも、ヒトラー政権がなぜ政権を維持できたのか、真正面から考察する必要があるようだ。
第二次世界大戦が始まると、フォルクスワーゲン社は軍需生産に移行し、アウトバーンも滑走路として利用されたため連合国による激しい爆撃にあった。戦後西ドイツ地域の区間は修復され、フォルクスワーゲンもいちどイギリスの管理下で改組されうえで西ドイツ政府に移管され、戦後の西ドイツ復興に大いに貢献した。
【解答例】
問(1) スーサ
問(2) アッピア街道
問(3) サンチャゴ=デ=コンポステラ
問(4) ソグド人(ソグド商人)
問(5) 陶磁器
問(6) (a)站赤(ジャムチ)
(b)牌符・牌子(パイザ)
問(7) 南北戦争
問(8) メッカ
問(9) 幹線鉄道の国有化
問(10) アウトバーン
この記事へのコメント
10問中4問しか、回答出来ませんでした。
問5
昔、焼物を趣味にしていた為。
問7
現在、アメリカに住んでいる為。
問8
サンスクリットに興味を持った事があった為。
問10
若かりし頃、car race に参加し興味を持った為。
以上、
お粗末ながら私の経験上(体験を通して得た物)
から得た知識です。
興味を持った事に付いて、
惜しみ無く調べる事、学ぶ事。
其れ等が、
今の私の持つ、僅かながらの知識に成っています。