河野親清と首藤親清
河野氏は伊予国越智郡郡司である越智氏の子孫と伝えられるが、通清の父親清は伊予守源頼義の四子三島四郎親清であるという。実は源頼義・義家父子の有力な郎等に首藤資清(佐藤公清の猶子守部氏)があり、その孫が左衛門少尉親清である。資清の子資道(豊後権守)は康和三年(一一〇一)源義家の子対馬守義親が鎮西で反乱を起こしたとき、義家の命を受けて鎮西に下向したが、義親に味方して追討の官吏を殺害して捕縛され、かわって平正盛が追討使となった。資道の子である親清は、『中右記』大治五年(一一三〇)十一月二十二日条に「北面下臈」と見え、さらに『本朝世紀』康治二年(一一四三)四月二十日条に「左衛門少尉藤親清」と見えており、院北面や京官を勤める京武者と分かる。国司の郎等は、国司見習いであることが多く、秀郷流藤原氏の首藤氏も国司予備軍の京武者と考えられる。愛媛県松山市来住町の軍ケ森八幡宮は、河野親清の郎従首藤助方が石清水八幡宮を勧請したものだという。この由緒で、河野親清と首藤氏の関係が分かり、首藤親清と同一人物の可能性が見えてくる。
藤原公清―┬佐藤季清――康清――義清(西行)
└首藤資清―┬資道――親清――河野通清
└義通(通義、首藤山内・小野寺)
親清・通清の「清」の字は、佐藤義清(西行)に見られるように秀郷流藤原氏の佐藤氏の通字であり、親清は西行の従兄弟に当たる。また河野氏の通字である「通」の字も、親清以後の首藤氏の通字である。首藤氏は美濃国席田郡司守部氏の地位を継承しており、河野氏がその子孫であれば、美濃で稲葉氏など河野一族が栄えたことも理解できる。
伊予の在庁官人河野親経(伊予権介)は、「親」の字から源義親に近かったと考えられ、同じく義親に近かった京武者首藤資道(資通)の子親清を女婿にしたと考えられる。一遍が西行を強く意識したことが、これで理解できる。また一遍が信濃滞在中に訪れた下野小野寺は、同じく首藤氏の子孫小野寺氏(資道の弟首藤山内義通流)の本貫の地であり、その縁で訪れたとも考えられる。
藤原公清―┬佐藤季清――康清――義清(西行)
└首藤資清―┬資道――親清――河野通清
└義通(通義、首藤山内・小野寺)
親清・通清の「清」の字は、佐藤義清(西行)に見られるように秀郷流藤原氏の佐藤氏の通字であり、親清は西行の従兄弟に当たる。また河野氏の通字である「通」の字も、親清以後の首藤氏の通字である。首藤氏は美濃国席田郡司守部氏の地位を継承しており、河野氏がその子孫であれば、美濃で稲葉氏など河野一族が栄えたことも理解できる。
伊予の在庁官人河野親経(伊予権介)は、「親」の字から源義親に近かったと考えられ、同じく義親に近かった京武者首藤資道(資通)の子親清を女婿にしたと考えられる。一遍が西行を強く意識したことが、これで理解できる。また一遍が信濃滞在中に訪れた下野小野寺は、同じく首藤氏の子孫小野寺氏(資道の弟首藤山内義通流)の本貫の地であり、その縁で訪れたとも考えられる。
この記事へのコメント
当初、地頭職では無く預所職などで河内源氏の一流が下って来たのではと考え、その痕跡を探していましたので…。
先生の研究内容には、いつも感嘆の声があがります。
自家の先祖調べも中々進みません。
先生のプロフィールを見て驚きましたが、当家も○右衛門を通字にしており、〇三郎を通称としています。
これからも、記事楽しみにしております。
三郎ヱ門
河野氏の系譜伝承も謎が多く、調べていると面白い発見も多くあります。①越智氏と紀氏の関係、②本当に越智氏の子孫か、③嵯峨天皇の皇子の養子入り、④河内源氏の養子入り、⑤河野通清の三島神御子説など興味が尽きません。