木地師小椋氏の系譜(4版)―清和源氏満季流と本佐々木氏

 木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。
 建久二年(1191)四月近江守護佐々木定綱と山門が抗争した。前年近江に大水害があり、多くの荘園が年貢未進となり困窮した山門僧兵による暴力事件が多発した。佐々木庄も同様で、日頃から佐々木庄を千僧供料と主張していた山門僧兵は激昂し、日吉社僧を佐々木庄に乱入させた。定綱が京官(蔵人尉)で留守だったため次男左兵衛尉定重が防戦、日吉社僧を刃傷し、さらに過って日吉社の神鏡を破損した。怒った山門僧兵が蜂起して朝廷・幕府に定綱父子の身柄引き渡しを求めた。摂政九条兼実も山門の非道に憤慨したが、定綱父子の配流で決着した。定綱は薩摩、長男広綱(左兵衛尉)は隠岐、次男定重(左兵衛尉)は対馬、三男定高(小三郎)は土佐に配流、郎等堀池八郎実員・井伊六郎真綱・岸本十郎遠綱・源七真延・源太三郎遠定は禁獄となった(『玉葉』『吾妻鏡』)。それでも収まらない山門僧兵は、五月二十日配流途中の定重を捕らえて近江唐崎で殺害した(『吾妻鏡』)。
 この禁獄となった郎党のうち、堀池八郎実員は続群書類従三上系図(清和源氏義綱流)に「三上八郎実員」とある三上氏、井伊六郎真綱は佐々木庄下司源行真(宇多源氏)の末子井六郎実綱、そして岸下十郎遠綱が『尊卑分脈』清和源氏満季流小椋氏に岸下十郎重綱とある小椋氏の祖である。源七真延・源太三郎遠定も岸下遠綱に続き、しかも名字が記されないことから岸下氏と考えられる。遠定は遠綱の父高屋定遠であり、源七真延は遠綱の別名「平井七郎」と関係があろう。
 慶長八年(1603)に作成された池田輝政家臣平井源八家系図によれば、源七真延は遠綱の実兄であるという。同系図では源七真延は「真綱」とも伝えられているが、井伊六郎真綱の孫が平井氏を名乗ったからだろう。

岸下系図
      ┌真延(源七)
 ┌定遠┴遠綱─景綱(修明門院判官代)
 └景遠(九条院判官代)

 近江守護定綱の郎党岸下定遠・遠綱父子の弟景遠(森氏祖)は九条院判官代だが、九条院は近衛天皇中宮藤原呈子(関白藤原忠通養女・太政大臣藤原伊通実娘)である。これで、定綱の父源三秀義の前身が近衛天皇蔵人源資長(宇多源氏宮内卿有賢三男、母平忠盛娘)であり、源為義の女婿である秀義が保元の乱で後白河天皇・関白忠通方であった理由が分かる。定綱が新田義重の女婿になったのも、義重が同じく九条院判官代だからだろう。
 判官代は女院領の管理を担当したが、遠綱の長男景綱も承明門院判官代を勤めた。承明門院は後鳥羽院の乳母であり、定綱が後鳥羽院蔵人として元服奉行を勤めたことと関係があろう。定綱が女院判官代を郎党にできる格式であったことも確認できる。
 小椋氏は、その祖岸下遠綱(本名重綱)が当時愛智郡岸下庄を名字の地とし、帰国後に大国・栗田・御園庄を得て、大国庄平井に居住して「平井七郎」を名乗った。源七真延の跡を継承して惣領「七郎」となったのだろう。また平井の名字は、愛智秦公の子孫平井家次の名跡を継承したものだろう。平井家次の外戚井伊六郎真綱が、遠綱の兄七郎真延の本名として平井源八家系図に伝わることからも、小椋氏と愛智秦氏の関係を推定できる。小椋氏とともに木地師を統括した大蔵氏も、秦大蔵忌寸の子孫であろう。
 愛智(依知)秦公が最初に文字資料に見えるのは、『日本書紀』孝徳天皇大化元年九月戊辰(三日)・丁丑(十二日)条の「朴市秦造田来津」である。この記事は、古人大兄王の謀反に加担したというものだが、秦田来津は処罰されることはなく、むしろ直後に百済救援の将軍として百済軍参謀となり、白村江の戦いで戦死を遂げている。古人大兄王事件では中大兄王と通じていて、古人大兄王に謀反を勧める役回りを演じたのだろう。
 田来津は秦河勝と同様に姓は造であり同族と考えられ、天智天皇(中大兄王)の近江大津宮遷都は、この愛智秦公の支援を期待したものと考えられる。近江佐々木山(繖山)の観音正寺が聖徳太子の創建とされるのも、佐々貴山公が、聖徳太子(厩戸王)の側近秦河勝の一族愛智秦公と縁戚関係にあったからだろう。佐々貴山公の祖は、雄略天皇の即位を軍事的に支援した狭狭城山君韓帒だが、その名は韓半島の冠を身に着けているものであり、海人族として韓半島と倭を行き来していたと考えられ、実際に沙沙貴神社では、秦氏も祭る渡来神少彦名命が佐々貴山公の祖大彦命とともに祭神となっている。また平安中期に佐々貴山公興恒の後任の近江追捕使に補任されたのは、渡来系大友漢人の出身大友兼平であり、承平二年(932)正月二十一日付田券(東寺百合文書)に、蒲生郡郡老佐々貴山公房雄、郡司佐々貴岑雄とともに名の見える擬大領大友馬飼の子孫と考えられる。佐々貴山公は渡来系氏族と関係が深い。
 秦氏は秦韓(新羅)出身の機織技術を持つ渡来人だが、秦韓の人びとは秦と同じ言葉を話していたともいわれ、また秦皇室と同姓の豪族が河南地方には多く分布していた。
 さらに古代中国神話で秦が機織技術と関係があったことが分かる。秦の始皇帝の子孫という系譜は信じられなくても、秦皇室と同姓であった可能性は高い。しかも「愛智」にもともと「朴市」の字が当てられていたように新羅王家朴氏と愛智秦公は関係があろう。中国長江流域の越の子孫が越智(おち)を名乗ったように、朴氏の子孫が朴市(えち)を名乗ったと考えられる。
 また秦皇室は鳥を宗教的象徴としていたが、新羅王家も卵生伝説をもつように鳥を宗教的象徴としていた。新羅王家には朴・昔・金氏があったが、とくに昔氏は鵲(かささぎ)、金氏は金鶏を始祖伝説の象徴にしている。しかも昔氏の初代脱解は倭人であり、多婆那国の王子で、母は女人国(邪馬台国か)の王女であったという。弥生人の甕棺は卵生を連想させるものであり、また少彦名命は鷦鷯(ささき)の羽を着ていたように、鳥を宗教的象徴とする人びとの祭神であった。但馬には佐々貴山公に由緒のある佐々伎神社があり、雀部(ささきべ)氏が分布していたように丹波・丹後・但馬も拠点のひとつだった。佐々貴山公や雀部臣・雀部連など広義のササキ氏と新羅王家昔氏は関係があった可能性がある。そうであれば、愛智秦公と佐々貴山公の関係が見えてくる。新羅王家の朴氏と昔氏という関係である。
 伊賀敢国神社の祭神が大彦命と少彦名命であるように、大彦命の子孫阿倍氏と結びついた秦氏は少彦名命を祭神にしているが、少彦名命は大彦命の弟少名彦建猪心命と同一人物と考えられ、大彦命と少名彦建猪心命の兄弟が出雲神話の大己貴尊と少彦名命のモデルと考えられる。出雲の祖神スサノヲ尊はまず新羅に天降ったと伝えられており、これが大彦命の子孫が日本海側に多く分布し、秦氏と関係が深い理由であろう。
 沙沙貴神社も大彦命と少彦名命を祭神としており、佐々貴山公と愛智秦公は関係が深く、佐々貴山公の本拠佐々木山に聖徳太子由緒の観音正寺があり、佐々木山の別名も機織集団にふさわしく繖山(きぬがさやま)である。箕作山は神農氏箕子と関係があろう。
 ところで遠綱とともに佐々木定綱郎党であった堀池実員は、三上氏(三上祝)の出身と考えられるが、三上氏と愛智秦公の縁戚関係は、続群書類従三上系図に山崎氏(愛智秦公)が記されていることで分かる。愛智秦公では平井家次(愛智秦公)が木村道澄(紀氏)とともに佐々木庄下司源行真の女婿であるように、本佐々木氏の閨閥であった。このことで、近江守護佐々木氏(宇多源氏時中流佐々木野家)入部以前の本佐々木氏には、佐々木庄下司源姓佐々木氏(宇多源氏扶義流)、蒲生郡大領佐々貴山公の子孫紀姓木村氏、神崎郡大領佐々貴山公の子孫伊庭氏のほか、愛智秦公の子孫平井・楢崎・山崎氏や、三上祝の子孫三上氏など佐々貴山公の閨閥である広義の本佐々木氏もあり、由緒を求め満季流や義綱流の清和源氏を名乗った。

     ┌道政(木村、佐々木宮神主)
紀貞道┼貞政┬景政─家政(鯰江庄下司)
     └道澄└建部入道西蓮
       ┃
     ┌女子        ┌家員(平井)
     ├守真(井)─家実┴家職(一井)
源行真┼宗真(伊庭)
     ├行正(三上)源為義郎党
     ├真綱(井六郎)─頼応─定光(伊庭)
     └女子
       ┃
   ┌秦家次(平井)
   └田中入道憲家(楢崎・山崎)

 源氏を名乗るというと、まったく関係もないのに仮冒したと思われるが、古代豪族が源氏の婿養子や猶子になることで一族化するのであり、その例が佐々木庄下司源氏と紀・秦両氏の関係である。
 また近江守護佐々木泰綱(定綱の孫)が紀氏の養子になることで愛智郡鯰江庄下司職を得ているように(春日社文書)、宇多源氏佐々木氏は積極的に古代豪族の子孫の養子になっている。この紀氏は『源行真申詞記』に登場する紀道正(道政)の弟貞政の子孫で、本姓は佐々貴山公と考えられ、さらに一族に建部入道西蓮もあって、建部氏(建部君)も一族化していたことが分かる。

小倉氏と小椋氏
 小倉氏と小椋氏は本来ともに小椋氏であるが、一般に前者が清和源氏満季流で、後者が木地師と考えられている。
 清和源氏満季流は、左大臣源高明の長男左兵衛佐忠賢の子蔵人致公が、父忠賢の出家で清和源氏満季の猶子になったものであり、本来は醍醐源氏といえる。
 また大岩日記など木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。しかし惟喬(コレタカ)は忠賢(タダカタ)の訓の誤りで、系譜上の祖である左大臣高明・忠賢父子を、伝承過程で、近江志賀郡小野に一時隠棲した小野宮惟喬親王と混同したと考えられる。
 左大臣源高明は醍醐天皇の皇子であり、安和の変で大宰権帥に左遷させられ、子忠賢も出家している。佐々貴山公は田券を売却するなど、源高明の母方嵯峨源氏と関係を持つ。
 ところで、滋賀県愛智郡小椋庄では、近世後期に神祇伯白川家(花山源氏)が管理する君ケ畑の大皇器地祖神社(白雲山小野宮大皇器地祖大明神)と、神祇大副吉田家(卜部氏)が管理する蛭谷の筒井正八幡宮があり、ともに惟喬親王を祀る木地師の氏神であると宣伝した。これは、全国の木地師を氏子として管理することで権益を得ようとするもので、白川・吉田両家は各地に散った木地師を探し出して強制的に氏子に登録する氏子狩を行なった。この氏子狩を統括したのが、藤原姓小椋氏の子孫を名乗る大岩氏である。
 小椋氏は近江守護佐々木六角氏重臣小倉氏(源姓)に遠慮して大岩氏を名乗ったと大岩日記は伝えるが、小倉氏に対して大岩氏を名乗ったのでは謙遜にはならない。「小」の字に対して「大」の字を使っており、むしろ尊大である。大岩氏の名乗りは甲賀銀山開発や巨岩信仰と関係があろう。
 では、小椋氏の系譜伝承ではなぜ藤原氏で梅鉢紋とされるのだろうか。実は六角満綱流小倉氏は、満綱の子備中守高久が藤原姓三井氏の女婿となり尚昌―義堯―定秀―定春と続いた鯰江氏のことである。また梅鉢紋は、鯰江定秀の実父が菅原氏五条為学であることに由来しよう。小倉氏を藤原氏で梅鉢紋とする大岩日記の記述は、この鯰江氏の系譜伝承の断片を伝えたものといえる。
 三井氏は日牟礼八幡宮神職で近江守護代である目賀田氏の一族であり、和邇臣の子孫一井氏に養子入りした源家職(佐々木庄下司源守真の子井源太家実の三男)の子孫である。南北朝期の目賀田信職とは「職」の字が通字である。三井氏は蒲生郡を拠点としており、志賀郡三井郷ではなく、水を管理した家職の実家源姓井氏に由来しよう。日牟礼八幡宮は藤原不比等に由緒を持つため、神職目賀田・三井両氏は藤原氏を名乗ったが、家職が養子入りしたため源氏とも名乗った。三井氏は、備中守高久の子出羽守実忠が継承し、新太郎安隆―石見守時高と続いている。
 鯰江氏は三井高久の次男久政(尚昌)が「政」「貞」の字を通字とする鯰江庄下司紀氏を継承して鯰江城主となったもので、清和源氏満季流小倉・森両氏を名乗った。惟喬親王伝承は、山君である佐々貴山公の直系紀氏、源高明の系譜を持つ源姓小椋氏によって木地師職能伝説へと変化したと考えられる。

この記事へのコメント

2011年07月01日 11:00
ありがとうございます。このお忙しい中、わずかな時間に、これ程の立派な記事を書いて頂き、感激以外の何ものでも有りません。
blog記事作成におきましては、部分的に転用させて頂きたいと思いますが、問い合わせメールを利用し事前の承諾を得た上で、出典先の表示もさせて頂いて、発表したいと思います。
 今回は、誠に申し訳のない失礼を致しましたにも関わらず、これ程の対応をして頂きありがとうございました。「近江佐々木氏の会」会報の《佐々木氏の系譜》の連載、毎回楽しみにしております。
                光延 勉
佐々木寿
2011年07月02日 22:27
堀池八郎実員は三上系図にみえる三上八郎実員と同一人物と考えられるということでしょうか。兄弟に記されている盛實(為員)は幼名千手で為の字は宇多源氏平為俊(源家定)・為兼(源行定)兄弟との関連もあるのでしょうか。
お答えできる範囲でお教えください。
佐々木哲
2011年07月03日 00:34
三上系図の「盛実(三上新太夫)」は、源行真(行実)の次男守真(浅小井盛実)と同一人物でしょう。「童名千手正(王)」の記事は、為俊(家定)の記事が混入したものと考えられます。
佐々木寿
2011年07月03日 01:15
もやっとしていたものがすっきりしました。定綱郎党の面々との関係性もよくわかりました。ありがとうございます。木地師小椋氏についても興味がありましたので大変貴重な記事でしたし、最近は愛智秦公にも興味を抱いておりました。
岸下
2011年07月07日 16:46
前略
 文中の「源七真延(眞綱)」は遠綱の兄です、
 他に「八郎重遠」がおり、遠綱は源太三郎定遠の
 四男です。
佐々木哲
2011年07月07日 18:18
岸下様

御連絡ありがとうございます。『尊卑分脈』では定遠の子息に遠綱(重綱)しか記されていませんので、推測で源七真延を遠綱の縁者と記すのにとどまりましたが、源七とあることで十郎遠綱の兄であろうとは考えていました。

源七真延・八郎重遠が十郎遠綱の兄とする資料を教えていただけませんか。系図であれば、系図のタイトルを教えてください。
佐々木寿
2011年07月07日 21:31
実は昨晩家で愛智秦公と朴氏と関係があるんじゃないかと話してたところでした。正直びっくりしました。昔氏のカササギ伝承も気になりますね。考えすぎでしょうか。
佐々木哲
2011年07月07日 22:56
昔氏は古代ササキ氏と関係があると思います。スサノヲ尊は出雲に来る前は朝鮮半島に天降っており、その別名のひとつに雀雄明神(隠岐周吉郡)があります。このことでもササキ(鷦鷯・雀)氏と朝鮮半島の関係が分かります。昔氏もササキ氏も鳥をトーテムにしており、音もセキとササキで通じます。倭人であった昔氏初代脱解は、古代ササキ氏だと推測できます。

このように推測すると雄略天皇の即位を支援した狭狭城山君韓帒の「韓」の字も理解できます。

現在、この内容を小論文としてまとめている最中ですから、近いうちに記事としてupします。
佐々木寿
2011年07月07日 23:16
自分のようなド素人がこのような見方考え方ができるようになったのは先生のおかげです。今後ともご指導よろしくお願いします。
岸下(きしもと)平居です。
2011年07月09日 00:10
はずかしながら。
小家の系譜で鯰江合戦で当主が討ち死にし慶長八年に池田輝政公え提出した系譜の抜粋です。
ご判物帳が平井源八どのとなっており、以来、
平居を平井に変えたとなっておりました。
岸下十郎遠綱、健久四年に赦免され大国・柿の御園・栗田・小椋荘下司職を賜り、大国荘平居に住し平居を号す。
遠綱嫡男範廣、四男忠廣の烏帽子親は佐々木廣綱公なりしも。
承久合戦後に七郎景綱と改名し家紋を六骨源氏車に定める、上記が輝政公に提出した由緒書き
です。
佐々木哲
2011年07月09日 00:37
岸下(きしもと)平居様

返事ありがとうございます。
系図のタイトルは「慶長八年付備前岡山藩士平井氏系譜並由緒書(平井源八記之)」でいいでしょうか。系譜の冒頭に何と記されていますか?

歴史研究では根拠が必要なので、何回も質問して申し訳ございませんが、よろしくお願いします。
岸下
2011年07月10日 17:33
佐々木様
源八は忠継公付となり、姫路・淡路・岡山・
鳥取と移動しています。
通称名も源八・源八郎・角兵衛を名乗って
おります、最終は因幡池田氏家臣だと思います。
佐々木哲
2011年07月11日 12:13
岸下様

では、「清和源氏満季流平井系図並由緒書(慶長八年付)」でいいですね。

ところで平井源八の実名は何ですか?
岸下
2011年07月15日 20:58
佐々木様
源八重治で通称名は角兵衛ですが、由緒書き
控えの表題は、平井源八家となっております。
佐々木哲
2011年07月15日 23:02
では表題どおり「平井源八家系図」が良いですね。表題を大切にしましょう。

ご協力ありがとうございます。
BR
2011年07月19日 20:23
佐々木哲様

初めまして。
光延様に依頼して大岩姓についてしらべていただいている者です。
それに関連して記事まで載せていただきまして、とてもありがたく御礼申し上げます!

>大岩氏を名乗ったのは甲賀銀山開発と関係があるだろう

ところで、これに関しまして、もしよろしければ、どのようなことなのかを教えていただけないでしょうか?
お忙しいところ申し訳ありませんが、
私には大岩姓と小椋姓が関係有るのか、はたまた無いと見るのか、全く分からないしだいです。
本来、光延様の見解などもお聞きしてからが筋かと思いますが、ブログが書かれてから日数が経過してしまうと、コメントも気づかれないのではと思いまして、質問させていただきました。できましたら、是非宜しく願います。
佐々木哲
2011年07月20日 11:33
伏見稲荷のそばに大岩神社があるように、「大岩」は基本的には岩石信仰と関係があります。

大岩氏の系譜伝承では、小椋氏に遠慮して大岩氏に改めたとありますが、記事の中でも記しましたように「小」から「大」に改めては、謙遜ではなく尊大です。

とくに戦国期に改めたということでしたら、六角氏の銀山開発に木地師が関わっている時期ですから、鉱山開発の責任者であることを記念して「大岩」と改めたと考えるのは自然でしょう。木地師小椋氏の中で銀山開発にかかわったものが大岩氏に改めたと考えればいいでしょう。
2011年07月20日 12:22
佐々木様
早々にご回答ありがとうございます!
そういうことでしたか。私も小倉氏に遠慮したというのは、どうも不自然に感じていました。
では、小椋氏の末裔という考え方は充分に有るわけですね。私は全く別の姓という可能性も考えていましたが、やはり末裔説が自然なのでしょうか? いえ、資料の数から言えば末裔説が自然かもしれませんね。ありがとうございます。
ところで実は私、このようなサイトをいくつか見ました。
http://www.free-style.biz/sengoku/2007/09/post_250.html
これは、近江蛭谷で氏子狩りをした大岩助左衛門と同一人物と見て良いのでしょうか? 
その可能性など、宜しければ佐々木様の見解お聞かせいただけると、ありがたいです。
ぶしつけに誠に申し訳ありませんが、是非宜しく願います。
佐々木哲
2011年07月20日 14:42
大岩重政・重秀父子のことですね。近世では名字+通称は家ごとに世襲されますから、大岩助左衛門日記の記主は大岩重政・重秀父子の子孫と思われます。
2011年07月20日 17:39
度々にわたり早々のご回答、本当にありがとうございます!
子孫と見るわけですね!!
勉強になりました。ありがとうございます。
m(_ _)m
岸下
2011年07月24日 17:11
大岩氏は、近江愛智郡志(昭和46年発行)に下記の記載があります。
・佐々木氏の将小倉氏が小椋谷から和南蒲生の 市原左久良を占有せし後、伊勢国に通ずる各
 間道に住す、勢家に目付け役を命じ、即ち
 君が畑越えには蛭谷村の大岩助左衛門と
 左目衛門太夫の二人、八風峠越に云々・・。
・大岩氏は藤原氏にして始め小椋を称すと、
 大岩日記に見ゆ。
 助殿の時より當山庄、奈良知行の時より六ヵ
 畑の荘官職にて・・後略
・小椋姓を大岩に改名の條に記して曰く
 助殿の往古よりこの郷の荘官職なれども領家
 を重んじ名字を大岩に改めければ、小倉殿
 満足に思召し、変わりに梅鉢の紋をたまはり
 ける、それ迄は藤のさか(下)りの紋也、
 とありて元は小椋家の一族なり、 後略。
佐々木哲
2011年07月24日 23:47
岸下様コメントありがとうございます。この記事はもともと大岩様から光延様に質問があり、さらに光延様から私に質問をいただいたという記事ですから、もちろん大岩日記が前提となっており、愛智郡志の内容を知った上での議論です。

大岩日記など木地師の伝承では、小椋・大岩氏は惟喬親王の側近太政大臣藤原実秀の子孫ということになっていますが、藤原実秀は実在の人物ではなく、記事中で述べたように愛智秦公の子孫と分かります。

清和源氏満季流は、愛智秦公の子孫が源氏の猶子になったものか、源氏が愛智秦公の女婿になったものと考えられます。それは佐々木庄下司源行真の閨閥につながる堀池実員(三上氏)・井伊真綱(行真末子)らとともに定綱郎党として記録に登場し、岸下遠綱自らが、下司源行真の女婿平井家次(愛智秦公)の平井氏を名乗るからです。これが六角氏家老平井加賀守定武が、清和源氏満季流とも本佐々木氏とも伝えられる理由です。正解は、両方とも正しいでしょう。

岸下様に伝わる平井源八家系図は清和源氏満季流の系図であり、定綱郎党の人びとをかなり正確に伝えているもので、中世系図をもとにした良質な系図と思われます。私も、この系図で平井氏が清和源氏でもあり本佐々木氏でもあるという結論を出せました。ありがとうございます。
2011年07月25日 09:32
岸下様、佐々木様、そして光延様
いろいろありがとうございます!
私、歴史の勉強は学校教育以外ははしたことがなかったのですが、何かとらえ方や考え方が少し見えてきたような気がします^^
しかし、私なりに今調べているのですが、分からないようなことが沢山です。
できましたら、また何かで教えていただけたらとてもありがたいです。あつかましい話で恐縮ですが、是非、よろしく願います。
岸下
2011年07月26日 22:56
大岩氏の件、お役にたてず申し訳ありません
でした。
佐々木様にはまだお尋ねしたき事があり、今後も宜しくお願い申しあげます。
佐々木寿
2011年08月08日 01:15
箕はミ以外にキと読む可能性があるのですね。吉士、岸と近江は関係が深そうですね。このことだけでも想像が尽きません。
広義の本佐々木氏の意味を理解できれば見方が大きく変わることがよくわかりました。
佐々木庶流が解明されていくことに本当に喜びを感じます。機会があればで結構ですので、佐々木行範流(真野・船木祖)についても触れてもらえると有難いです。
古代史については直接お話できる機会があると幸いです。
佐々木哲
2011年08月11日 00:23
佐々貴山公の子孫が紀氏を名乗るのは、中国の呉の子孫を意味する東海姫氏国に関係があるのか、殷の皇族で礼儀や農事・養蚕・機織の技術を東方に伝えたという朝鮮侯箕子の子孫箕氏に関係があるのか、いろいろと考えているのです。箕作山から考えると、箕氏の可能性も否定できません。

たしかに岸は、新羅の役職名から使用された姓で外交と関係した「吉士」と関係があるかもしれませんね。

また真野や船木は、本佐々木氏で琵琶湖の西岸に渡った人びとです。愛智秦系山崎氏も西岸に渡っていて、山崎憲家が名乗った田中入道を継承したのが、高島七頭の田中氏です。そのため高島七頭に山崎氏も含まれているのです。

ところで、わたしの夏休みは8月15・17・18・31日の4日間だけです。ご都合が合えば幸いです。
佐々木寿
2011年08月14日 23:19
田舎に帰っておりました。
お忙しいようですね。またの機会をお待ちしています。
先生の見解が聞けただけでも有難いです。また勉強してみます。
岸下
2011年08月20日 18:12
佐々木様、残暑お見舞い申しあげます。
我が家に伝わる由緒書きは、慶長八年と新しい
ものであり、信用してよいものかと思っており
ました。
岸下と平井が本佐々木氏と近しい関係にあるとは
思いもしませんでした、弥四郎重則(重冶の父)
が鯰江城で討ち死にするまで、佐々木氏の郎党で
あったことは間違いはないのですが、地誌で調べ
るかぎり、両氏とも小椋氏の中に総括されている
のか。
「佐々木南北諸士帳」でも、平居城主は小倉実冶
とあり、由緒書きでは重冶の祖父と同一名であり、
小倉実冶を平井実冶と、判断して良いのか迷っております。
ご教示のほど宜しくお願い申しあげます。
2013年04月18日 00:05
大変に興味深い記事をありがとうございます。勝手に読ませて頂いております。
先祖が丸に違い鷹の羽紋の武家で山形県の岸氏です。
山形県の岸氏は、幾志(キシ)という地を発祥とするという事なのですが、その幾志という地の近辺で、中世戦国時代に神田大館という所が、岸氏が居て、宇田源氏佐々木氏族の鮭延氏に与力していたらしいのです。
「新撰姓氏録考證」に、孝元天皇皇子の彦太忍信命の後裔が出庭(出羽)臣に任じられてその女系が紀氏である事が書かれてあるそうです。
朝鮮の王族を「コシ(キシ)」と言ったそうですので高句麗や百済の方から又は箕氏が渡来して居着いたとか、難波吉士が大和朝廷と遠征して居着いた可能性もありますが、紀氏系ではないかと考えております。
ですが丸に違い鷹の羽紋は山形は鷹の羽産地なため出羽との命名の由来があるものの、紀氏ではなく宇田源氏系佐々木氏に見当たり、一方で紀氏はこちらの宇田源氏系佐々木氏の系譜にも拝見され、上述の与力していたらしい鮭延氏も宇田源氏系佐々木氏ですので実は与力ではなく鮭延氏にも同族に紀氏系がいて、それが自分達の支配地に「幾志」と名付け発祥となった紀氏族で、宇田源氏佐々木氏族との合いの子なものかと推測致します。如何なものでしょうか。
因みに岸氏の神田大館では古峯神社の日本武尊が奉られていたようです。紀氏と日本武尊や継体天皇と関係ございますか。
何か良い参考文献がありますでしょうか。
お返事は何時でも、またもしして頂けるならご負担にならない可能な限りで結構です。
今後の調査が愉しみです。
長文、すみませんでした。
佐々木哲
2013年04月18日 09:31
系譜伝承研究の基本は、まず地方史から始めることです。一足飛びに古代までさかのぼってはいけません。まずは出羽神田大館の周辺や鮭延氏を地方史で調べましょう。

また名字と地名の関係については、地名から名字が起こることが多いのですが、移住先に名字を地名として付ける場合もありますので、出羽に機志があるからといって、そこが名字の地とは限りません。両方の可能性を考えましょう。

また鷹の羽紋ですが、一般的には尚武という意味を持たせますが、本来は火(日)に関係した神社・神職の紋と考えましょう。阿部氏族や阿蘇氏族、武蔵日奉氏(武蔵七党西党)などが有名です。菊池氏の鷹の羽紋は阿蘇神社に由来すると考えられますし、東京の高橋さんの紋に鷹の羽紋が多いのは武蔵日奉氏族だからです。

まずは地方史から始めましょう。新庄市史や真室川町史、山形県史などから始めてください。
2013年04月18日 22:54
お返事愉しみにさせて戴いておりました。思いがけず早速のお返事ありがとうございます。
武士でしたので神職とは余り縁がないものかとてっきり思っておりましたが。
そうでしょうか、それではその方向の検討も今後はさせて頂きます。
地方史ですね、分かりました。先ずは地方史を入念に調べる事を優先させて頂きます。
本当にご親切にありがとうございました。
佐々木哲
2013年04月19日 02:18
鷹の羽紋はまず神紋から考察しないといけません。どうしても近世大名では浅野家を想像しやすいのですが、譜代大名の阿部家も鷹の羽紋です。

「あべ」はアイヌ語で火を意味するabiに由来すると考えられます。秋田氏系図によれば、陸奥の安倍頼時の先祖は安日彦です。アビ彦ですね。

家紋関係の一般書だとすぐに鷹の羽を「尚武」と解説しますが、それでは的を射ていません。まずは神紋と考えましょう。武運長久を願うのは神社ですよね。神紋と武士とは深い関係にあります。

そして何より家系を調べるのであれば、まず地域の地方史に当たるのが順当です。そこから多くのことが見えてくるはずです。まずは鮭延氏の家臣岸氏を調査しましょう。
2013年09月28日 13:43
その後なのですが、地方史を調べよと頂いたアドバイスに従い調査を進めております。
ですが、山形県で幾志(キシ)という地帯から発祥で鮭延氏与力の岸氏は、
源義仲末裔の岸美作守義満の一族らしく、家紋が木曾義仲氏系は異なられるようなのです。
また、安倍氏系家紋なら多少趣が異なりどうも納得がいきません。

岸一族が建立し関東の稲荷神社の総本社らしい岸稲荷神社という辺りから福島県に移住し稲荷神社を建てて麻の栽培をしていた岸氏が、
相模の方で公開されている岸氏邸のご一族で私と全く一致する同じ家紋なのですが、
この岸氏は、元々は宇多源氏佐々木氏系の座間氏で、
佐々木氏は佐々木氏であり続ける事はむしろ稀で、本流系でも姓をよく変え、またその際に家紋は私と同じ丸に違い鷹の羽にする事が多いらしいのです。
佐々貴山君が、安倍晴明の祖先ではとの説もあり大彦命に伊賀の文殊院で拾われ安倍一族に迎え入れられた事が、
佐々木氏族が丸に違い鷹の羽紋をよく使用する事があるのに関係しているのではないでしょうか。
同系の紋である阿蘇発祥の菊池氏族も佐々木氏と同系という人の記事も目にした事があります。
最後に、ご参考までにお一つリンクを貼らせて頂いて置きます。長文失礼致しました。
〔座間の歴史-野火のコラムNe〕
http:www.ne.jp/asahi/zama/nobi/interest.html
2013年09月28日 13:49
重ねて投稿申し訳ありません。
また、座間氏も、物部氏の“物”と同様に「不可視の力」を意味するという“敢(あへ)”に纏わる安倍氏族で祝部(はふり)の敢臣岸臣も美濃の加茂にルーツがあったり等致します。
関東稲荷総本社を建てて福島県でも織り姫を祭る神社を建立していたり、大彦命が文殊院で拾った佐々貴山君について調べさせたら、
かつて月神の力を借りて悪神を倒し世界を救った呪力ナンバーワン一族であるという事だっだ云々とか、
安倍晴明もそうだと言いますし岸一族は佐々木氏一族の中にあって、祭祀を担う一族か何かで、むしろ佐々木氏族の核心的一族だったのではないでしょうか。
佐々木哲
2013年10月25日 12:13
出羽の岸氏は貴志とも記し、古代の姓のひとつ吉士(きし)が由来と考えられます。

吉士は新羅十七等官のうち十四位で、新羅からの渡来人が吉師と称していました。彼らは外交に関係することが多く、阿倍氏に管理されていたことから多くが阿倍氏族を名乗ります。

奥羽地方には、金氏など新羅由来の氏姓が多く、しかも阿倍氏族を名乗ります。鷹羽紋を使用する岸(貴志)氏も、阿倍氏族を名乗る吉士の子孫ではないでしょうか。

私が鮭延氏家臣の岸氏を調べましょうと言ったのは、佐々木氏族という意味ではなく、地元の岸(貴志)氏を調べましょうということです。まず佐々木氏族という考えからは離れてください。
清怜
2016年09月10日 17:40
吉志氏は、ずばり狭狭城山君のようです。

下記リンク先を見ると、天穂日命を祖とする出雲国造・武蔵国造の不可思議な系図に登場する伊佐知直こと吉志氏の祖先の五十狭茅宿禰説について納得がいきます。
藤原氏に分からなくされたという事です。

『「稲荷山鉄剣銘」が明かすワニノ臣(後の春日臣)の実像(7)』【日本古代史の謎シリーズ102 稲荷山鉄剣銘 5代タサキワケ】
ttp://s.ameblo.jp/egami-namio/entry-12074278240.html

(↑最初に半角hを付けてください。)
清怜
2016年10月11日 14:02
管理人さま、知らなかったとはいえ、よりによって大変な時にコメントしてしまい、申し訳ありませんでした。

ただただお祈り申し上げるばかりです。
山本
2017年01月26日 23:43
井伊六郎真綱は遠江の井伊家とは別系統と考えて良いでしょうか?ある書籍では、この井伊六郎真綱を井伊六郎直綱と読み、直を遠江の井伊家の通字と解釈していました。

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