当ブログの参考文献の扱いについて
当ブログでは、記事の読みやすさから注や参考文献を必要最小限にとどめています。基準は①文言を引用した場合、②独自の意見・主張である場合です。そのため資料に基づいて記している場合には、資料名は記しますが、資料を掲載・紹介しているだけの文献をひとつひとつ記すことはしません。お問い合わせがあった場合にはお答えします。
このように独自性を基準にしているため、参考文献に挙げるものは、最初に主張した方の文献です。そうでなければ独自性のある発見者をないがしろにするからです。大学院でも教員からは最初に発見・発言した者を記すように指導されます。うっかり紹介者を記すと、これは最初の発言者ではないと注意を受けてしまいます。
また、すでに広く知られ議論の土台となっているような事実については、参考文献を記しません。問題はどのレベルが基本レベルになるかという判断です。いつも苦しみます。著書のときは自分の意見の根拠として丁寧に記しますが、ブログですと読みやすさを重視して記しません。必要な人は問い合わせるでしょう。
Wikipediaでは、拙著からの引用やわたし独自の主張が、注も参考文献もなく記されていることを多く見かけます。わたし独自の意見でなければ、わたしの文献を参照していても記載する必要はありませんが、わたし独自の意見を記すのであれば、わたしの主張という注を記してほしいと思います。それに、わたしの意見だと記した方が、わたしの意見に誤りがあったときに、執筆者は責任逃れできると思います。
また逆に、議論の土台レベルの基礎の一部分において、御自分のブログの内容とわたしのブログの内容が同じだから、参考文献に挙げるようにとの問い合わせをいただくこともあります。わたしは、その方のサイトを見ていないにもかかわらずです。既出の説や資料を挙げているサイトであれば、内容が近似するのは当然です。同じ対象で同じテーマであれば、基本に忠実にまじめにやればやるほど近似するでしょう。実際に、そのようなサイトは基礎に忠実なことが多いです。しかし重要なのは議論の基礎の上に立てられる独自の意見です。それでさえ同時発見があるぐらいです。参照していないものを、参照したとはいえません。かえって嘘になります。
もちろん独自性の高いサイトであれば、たとえそのサイトを参照していなくても紹介したいと思います。翻刻や現代語訳は独自性があると判断します。これは文献も同様です。翻刻を使用した場合には、どの翻刻か分かるように注や参考文献に記します。基本的にインターネット上の情報は、検索以外には使わないようにしています。いいサイトもあるのですが、無断転載の記事が多く、また間違いも多いからです。Wikipediaでも誤りは多いです。サイトの情報を使用する場合には、必ず裏をとりましょう。自分が火傷します。
参考文献の取り扱いは非常に難しいのが現実です。研究書の場合でも、注がほしいところに注がなく、参考文献を知りたいところに参考文献がない場合があります。わたしは念には念を入れた方がいいと考えているので、著書執筆のときには引用・参照部分の頁まで記します。その方が自分の根拠が堅固になるからです。しかしブログだと読みやすさを重視してしまいます。コメント欄などがありますから、必要な方は問い合わせられるからです。
このように独自性を基準にしているため、参考文献に挙げるものは、最初に主張した方の文献です。そうでなければ独自性のある発見者をないがしろにするからです。大学院でも教員からは最初に発見・発言した者を記すように指導されます。うっかり紹介者を記すと、これは最初の発言者ではないと注意を受けてしまいます。
また、すでに広く知られ議論の土台となっているような事実については、参考文献を記しません。問題はどのレベルが基本レベルになるかという判断です。いつも苦しみます。著書のときは自分の意見の根拠として丁寧に記しますが、ブログですと読みやすさを重視して記しません。必要な人は問い合わせるでしょう。
Wikipediaでは、拙著からの引用やわたし独自の主張が、注も参考文献もなく記されていることを多く見かけます。わたし独自の意見でなければ、わたしの文献を参照していても記載する必要はありませんが、わたし独自の意見を記すのであれば、わたしの主張という注を記してほしいと思います。それに、わたしの意見だと記した方が、わたしの意見に誤りがあったときに、執筆者は責任逃れできると思います。
また逆に、議論の土台レベルの基礎の一部分において、御自分のブログの内容とわたしのブログの内容が同じだから、参考文献に挙げるようにとの問い合わせをいただくこともあります。わたしは、その方のサイトを見ていないにもかかわらずです。既出の説や資料を挙げているサイトであれば、内容が近似するのは当然です。同じ対象で同じテーマであれば、基本に忠実にまじめにやればやるほど近似するでしょう。実際に、そのようなサイトは基礎に忠実なことが多いです。しかし重要なのは議論の基礎の上に立てられる独自の意見です。それでさえ同時発見があるぐらいです。参照していないものを、参照したとはいえません。かえって嘘になります。
もちろん独自性の高いサイトであれば、たとえそのサイトを参照していなくても紹介したいと思います。翻刻や現代語訳は独自性があると判断します。これは文献も同様です。翻刻を使用した場合には、どの翻刻か分かるように注や参考文献に記します。基本的にインターネット上の情報は、検索以外には使わないようにしています。いいサイトもあるのですが、無断転載の記事が多く、また間違いも多いからです。Wikipediaでも誤りは多いです。サイトの情報を使用する場合には、必ず裏をとりましょう。自分が火傷します。
参考文献の取り扱いは非常に難しいのが現実です。研究書の場合でも、注がほしいところに注がなく、参考文献を知りたいところに参考文献がない場合があります。わたしは念には念を入れた方がいいと考えているので、著書執筆のときには引用・参照部分の頁まで記します。その方が自分の根拠が堅固になるからです。しかしブログだと読みやすさを重視してしまいます。コメント欄などがありますから、必要な方は問い合わせられるからです。
この記事へのコメント
また「著書執筆のときには引用・参照部分の頁まで記します……」には、大いに賛成です。書名のみでは、ページ数の多いものであれはあるほど、はたまた上下巻など分冊になっていたら、それこそいったいどこに書かれているのか、途方に暮れてしまうことが多くあります。今までこの作業にどれほど無駄な時間を費やしたことでしょうか。読み手の便宜を図ることは、著者の努めだと思います。ご教示ありがとうございました。
研究では独自性が重視されますから、注や参考文献に挙げる文献も、分かる限り最初の主張者・発見者のもでなければなりません。二番手・三番手の方の文献を挙げると、結果として一番手の方を蔑ろにすることになり、参考文献を掲げる意味がなくなるからです。
また翻刻や翻訳はひとつの業績であり、やはりどの翻刻・翻訳を使用したかを明記する必要があります。また、そのことで翻刻・翻訳ミスがあったとき、自分の責任ではないと責任逃れすることもできます。できれば、元の資料を自分でも確認する方がよいでしょう。
また、著書の注では参考文献の参照箇所の頁を記すのは、読者の便宜を図るためだけではなく、孫引きではないことを示すためです。間接的にしか知りえず、孫引きするほかにない場合には、紹介している文献も合わせ記載します。
わたしは理系の論文の書き方も学んでいるので、ほかの歴史研究の方とは異なるかもしれませんが、皆様の参考になれば幸いです。
今般もまた「参考文献を掲げる意味」についてのご教示をいただき深謝いたします。今まで本来の意味を知らずに挙げており、誠に恥ずかしい限りです。
また「翻刻や翻訳はひとつの業績」につきましても、かつて翻刻・翻訳がなされる輪読会に参加させていただきましたが、主催者がこれらの成果をまとめ上げられることが、すなわち業績となる訳なのですね。おかげさまでよく理解できました。
それから、先生は「理系の論文の書き方も学んでいる」とお書きですが、素人判断で生意気ですが、とてもすばらしいことだと思います。私はこのところ「水野氏」についてお話しさせていただく機会を与えられておりますが、この人物史では、日本史・古文書・考古学は元より、中国古代史(夏~秦)、宗教学など、今まで教えられてきたことすべてが役立っております。特に中国古代史と仏教学からは、日本史で使われる用語の本来の意味が理解できるようになり、今ではとてもよい勉強をさせていただいたと感謝しています。