非AのA

よく「無AのA」の形の言葉を見聞きします。「無知の知」、「無分別の分別」、「無関係の関係」といった言葉はネットで検索するまでもなくよく使われます。「無信仰の信仰」という言葉を作って自著のタイトルにしている人もいます。ところで、この形は何を表わしているのでしょうか?逆説とか弁証法を表わしているのでしょうか?Aに入る言葉には共通性があるでしょうか?「無知の知」は、「自分が無知であることを知っている」という意味を表わし、「無分別の分別」は、「無分別を媒介した分別」を意味し、「無関係の関係」は、「無関係」という名の「関係」を意味しているように思えますが、そうなるとそれぞれ用法の違いがあるようにも思われます。「の」は「無知の知」の場合、「無知」を「知」るということで目的語的属格ですが、他の場合は別の働きをしているように思えます。さて、この「無AのA」という慣用句はどのような思考形態を表わしているのでしょうか。

という質問をいただきました。これは面白い質問だと思います。そこで、わたしは以下のように答えました。


非AのAは形式論理学を否定する立場からの発言ですから、形式論理学で考えても矛盾が生じてしまい、混迷すると思われます。御推察のとおり弁証法的な表現ですよね。それまで結びつくと思われなかったものを結びつけるというものです。そのもっとも典型的なものが、無AのA、非AのAという型でしょう。無AのA、非AのAは、ヘーゲル弁証法の正→反→合の考え方に基づくものです。

①知っているつもりが知らない。わたしはそのことを知っている。
②いったん無分別にして、そこからまた新たな分別をつくる。※「~出身の」という意味の「の」。
③無関係というのもひとつの関係のことであり、無関係という関係を結んでいる。

①から③はいずれも、①無知からはじめる知、②無分別から始める分別、③無関係から始める関係というように-A→Aという型です。共通性があると思いませんか。

以上がわたしの答えです。

言葉があるから言葉のとおりに世界があると思ってしまいますが、実は世界は無分別です。言葉のとおり分別されていると、わたしたちが思っているに過ぎません。そこから「無分別の分別」という言葉も生まれます。まれで禅問答ですが、ヘーゲル哲学は古代インドのウパニシャド哲学の影響を受けています。禅問答に似ていて当然なのです。

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