田中・山崎・永田氏の系譜―高島七頭(4)

田中氏の系譜
 高島郡田中郷の所職は、もともと「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫が有していたと考えられる。田中入道憲家は「源行真申詞記」に登場する愛智家次(愛智秦氏か)の弟で、その子孫が山崎氏を名乗った。本佐々木氏では紀道政の一族である真野時家が船木に移住して船木氏を名乗り、さらに若狭に転出するなど、平安末には積極的に高島郡に進出していた。田中入道憲家もそのひとりだろう。その跡を継承したのが、高島七頭のひとつ田中氏である。
 高島佐々木流田中氏の初代は、出羽守頼綱の子四郎左衛門尉氏綱(出雲守)である。正応二年(1289)五月二十日付佐々木頼綱譲状にあるように、霜月騒動で使用された太刀を与えられている。この太刀は、いちど兄義綱に与えたものを父頼綱が取り戻して、あらためて氏綱に与えたものである。これは悔い返しかもしれない。さらに正応五年十二月に先の譲状に任せて横山頼信・朽木義綱・田中氏綱兄弟三人が寄合い所領を分けるよう置文を遺した。すでに弘安十年(1287)二月に朽木義綱は所領近江朽木庄・常陸本木郷を譲与されているので、そのころには本貫地高島郡田中郷を譲られていたと考えられる。
 嘉暦二年(1327)十月、田中郷山崎に住む沙弥道仏坊(右馬入道)と妻薬師女が「田中郷地頭御方八条二里一坪北縄本字郷北根田」の私領田二反を葛川明王院に寄進している(葛川明王院文書361)。文言に「田中郷地頭御方」とあるが、当時の地頭は高島七頭のひとつ田中氏である。そして翌年に田中左衛門尉雅綱が「八条二里二十五坪自北縄本字」の田一反を寄進している(葛川901)。これで氏綱の子雅綱が地頭であったと確認できる。
 さらに永徳四年(1384)二月二十一日付田中下野守頼久が木根田の二反を再寄進したが(葛川367)、同地に関する同年四月付契状で作職については松蓋寺北谷坊が所持しているとの理由で頼冬は作職を譲渡しなかった(葛川374)。この方針の変更から、頼久と頼冬は別人の可能性がある。これ以後、田中氏は葛川領に進出する。
 明応元年(1390)朽木氏綱が佐々木田中と語らい、栃生郷を横領したことが葛川文書に見える(葛川161・163・164・168・170)。応永三年(1396)六月付朽木氏綱の嫡子五郎への譲渡状(朽木434)に「朽木庄栃生郷者、田中七郎一期之間、可知行之由、契約畢」とあり、栃生郷を一期譲与することで田中氏に合力を求め、朽木氏の勢力を拡大していたと分かる。
 明徳二年(1391)九月には、田中殿が賀茂別雷社から高島郡安曇川御厨の所務を預けられた(朽木470)。この田中殿は、翌年八月に足利義満の相国寺供養に帯刀として従った佐々木田中太郎頼兼だろう(朽木646、群書類従所収相国寺供養記)。さらに正長二年(1429)三月付田中下野入道宛貞経書状(朽木685)でも、田中氏による安曇川御厨支配の継続が確認できる。
 ところが、応永二十八年(1421)佐々木田中下野守の本貫地田中郷と西万木郷が、将軍足利義持によって没収されている。その跡はそのまま京都北野社へ寄進されてしまった(筑波大学所蔵「北野天満宮へ寄進状御朱印写」、および北野社家日記延徳三年十一月十八日条)。このとき永田氏や横山氏も所領を没収されており、六角満高の近江守護職解任と関係があるかもしれない。
 さらに『満済准后日記』永享三年(1431)八月十八日条に「佐々木田中江州没落処、於越前国一党悉打進、甲斐沙汰云々」とある。田中氏が近江に没落し、越前の田中党が越前守護代甲斐将久によって討ち取られたと伝聞で伝えている。この記事で田中党が越前に進出していたことが知られるが、これで愛智流田中入道憲家の子孫山崎氏が越前にいたことも理解できよう。
 こののち長禄二年(1458)九月、田中出雲守が年貢二〇貫文を、十月に八〇貫文を北野天満宮に納入しており(北野社家日記長禄二年十月二十六日条)、田中氏が地頭代官であったことが確認できる。地頭職を失った田中氏は、代官として本貫の地に残ったのである。しかし文明六年(1474)八月、田中四郎五郎貞信(のち四郎兵衛尉)が年貢納入二千貫文余を未進し続けたことで、北野天満宮によって幕府に訴えられた(北野天満宮史料所収「神輿動座並回禄記録」)。さらに貞信は一乱を理由に田中郷および西万木を押領し続けている(北野社家日記長禄二年正月二十日および延徳三年十一月十八日条)。文明・延徳期は近江守護六角高頼が反幕府的行動をとっていた時期であり、田中氏が「一乱」を理由に六角氏と連動して押領したのであろう。明応の政変以後では、北野社関係史料から田中郷および西万木に関する記事がなくなり、田中氏による一円支配が確立したと考えられる。細川政元によるクーデタで足利義澄が将軍になると、義澄(児御所)は六角高頼の守護復帰を図っている。六角氏による守護権確立と田中氏による一円支配と期を一にする。また貞信(四郎兵衛尉)は、南御所が知行する高島郡林寺関の代官を勤め(宝鏡寺文書)、流通の拠点も押さえていた。さらに山門大講堂領高島郡河上庄にも田中氏が関わっており(朽木311:年未詳十一月十九日付朽木直親宛飯川行房書状)、田中氏の経済力が分かる。
 また永正十五年(1518)伊達稙宗の使節が上洛する際に、北近江関所十二ケ所を通過しようとしたが、七頭面々が幕府の過書を信用せず通行できなかった。伊達氏は再度申請して過書を得て、さらに十二ケ所関所庭石・駒之口に酒代二貫文を下した(大日本古文書伊達家文書八〇号)。高島衆が近江と越前を結ぶ北近江の関所を支配していたことを確認できる。
 このように田中氏は高島郡田中郷を拠点に、その周辺の西万木や河上庄まで勢力を伸ばし、さらに西の葛川と接する栃生郷、東の安曇川御厨、北の北近江関所十二ケ所など湖西の広域を支配していた。
 滋賀県高島市安曇川町田中の返照山玉泉寺開基は行基と伝えられているが、享禄年間(1528-32)に火災に遭い、仏像と一房舎を残して焼失した。天文二年(1533)年田中下野守理春が、坂本西教寺の貫主に委託して再興し、西教寺末の念仏弘通の道場となったという。名に誤伝があるだろうが、この由緒によって田中氏が在地で実力を有していたことが確認できる。
 高島七頭は室町将軍奉公衆(直臣団)であり、越中頼高の子八郎が六角政堯の猶子として近江守護に補任されることもあった。さらに佐々木越中刑部大輔孝俊や田中四郎兵衛尉頼長が足利義輝元服式でも警固を勤めており(光源院殿元服記)、越中家と田中氏がそれ相当の軍事力を動員できたことを示している。それは、そのまま高島七頭における両者の所領の大きさに比例している。このことでも、田中氏が佐々木出羽家の嫡流と分かる。

田中氏系図
出雲守氏綱(四郎)─左衛門尉雅綱─下野守頼久─頼冬─太郎頼兼
                                   (下野入道)

京極流田中氏
 志賀郡比良庄にも田中氏が見える。「足利将軍御判御教書」三(国立国会図書館所蔵貴重書解題四巻)所収寛正元年(1460)十二月三十日付足利義政御教書によれば、田中清賀が山門領志賀郡比良庄の預所職を有していた。清賀の跡は一色七郎政煕に与えられたが、その後も清賀の押領は続いた。 西島太郎氏は、この田中清賀を七頭のひとり田中氏の一族とするが、田中清賀は山徒であり、さらに実名に「賀」の字を使用することから、京極氏信の末子信濃権少僧都田中信賀(「悪僧」)の子孫佐々木京極流田中氏と考えられる。清賀の「清」の字も京極持清に由来しよう。その跡は近世まで続き、京極高知の子京極満吉(源三郎)が田中式部少輔を名乗り、また豊岡藩主京極高三の子三右衛門高友も田中を称している。すべての佐々木流田中氏を、高島七頭の田中氏とはできない。

愛智流山崎氏と高島七頭
高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流の越中家(高島)をはじめ能登家(平井)・朽木・横山・田中・永田の高島一族、および本佐々木愛智流の山崎氏を含めて「高島七頭」と言い、「西佐々木」と称された。能登家と平井氏は同氏であり、西島太郎氏は山崎氏を高島七頭のひとつとしたが、卓見である。高島七頭の本拠高島郡田中郷には、愛智家次(「源行真申詞記」)の弟で「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫山崎氏が開発領主として居住しており、平井村も愛智家次の子平井家政にはじまる平井氏が開発したものと考えられる。能登家も高島郡に移住した愛智流平井氏の跡を継承したものだろう。
 愛智家次は、「源行真申詞記」で佐々木庄下司として見える源行真(沙沙貴神社所蔵佐々木系図では行実)の女婿として登場する。愛智郡大領や近江掾(在庁官人)を勤めた愛智秦公の子孫と考えられる。
 嘉暦二年(1327)十月、田中郷山崎に住む沙弥道仏坊(右馬入道)と妻薬師女が「田中郷地頭御方八条二里一坪北縄本字郷北根田」の私領田二反を葛川明王院に寄進している(葛川361)。文言に「田中郷地頭御方」とあるが、当時の地頭は高島七頭のひとり田中左衛門尉雅綱であり、地頭田中雅綱も翌年に「八条二里二十五坪自北縄本字」の田一反を寄進している(葛川901)。右馬入道は地頭よりも多くの土地を寄進しており、湖西に移住して田中郷山崎を開発した愛智流山崎氏の子孫であろう。右馬入道の官途名も山崎氏の世襲官途のひとつである。
 山崎氏は、「文安年中御番帳」に「西佐々木七人」のひとり「佐々木山崎」と見える。また「大館記」(天理大学所蔵)所収「雑条」によれば、寛正二年(1461)山崎氏は近江守護代山内政綱と自らの申状二通を幕府に提出し、翌年足利義政から高島郡宮野郷返付の下知を受けた。ここで宮野郷は根本勲功の賞とされており、山崎氏の根本所領のひとつと分かる。文明三年(1471)九月十六日付で幕府は六角亀寿(高頼)ならびに山内政綱退治を六角政堯に命じ、目賀田次郎衛門・下笠美濃守・高野瀬与四郎・小河丹後守・山崎中務丞に味方になることを命じており、湖東の山崎氏を確認できる。
 また高島衆六人が幕府命令で社家代官と合力して牢人を切り出したところ、山門が神訴に及んだため管領細川勝元に口入を求めた。その高島衆六人は越中守持高・朽木信濃守貞高・永田弾正忠親綱・横山三郎高久・山崎新三郎冬能・田中四郎五郎貞信であり(朽木古文書438号)、高島衆に山崎氏の存在を確認できる。
 愛智流を含め本佐々木氏は通称に、「神」に通じる「新」の字を使用することから(源行真申詞記)、この山崎冬能も愛智流山崎氏と確認できる。この山崎新三郎冬能は、私領の田二反を朽木岩神殿(貞高)に売却した文明十年(1476)十二月十八日付田地売券(朽木古文書975)に見られる源冬能と同一人物であろう。この文書で山崎氏被官横井河入道正泉・横井河右衛門二郎秀恒・中村次郎左衛門尉祐弘を確認できる。
 『蔭凉軒日録』文明十八年(1486)七月二十七日条に「山崎新三郎殿為六角殿名代上洛」とある。この山崎新三郎が冬能あるいは子息であれば、高島衆山崎氏は六角氏にも近かったことになる。
 永禄五年(1562)十一月に将軍義輝が近江日吉神社に礼拝講を修したときに、西佐々木面々中に神馬奉納を命じたが、このときの七頭次第に「山崎三郎五郎」がみえる(御礼拝講之記)。三郎の子である五郎という仮名「三郎五郎」を名乗ることから、新三郎冬能の子孫と考えられる。
 山崎氏は北陸への交通ルートに深く関与し、田中氏とともに越前に進出したと考えられる。『満済准后日記』永享三年(1431)八月十八日条で田中氏が近江に没落し、越前の田中一党が越前守護代甲斐将久によって討ち取られたとあり、この田中一党の中に「田中入道」憲家の子孫越前山崎氏も含まれていたであろう。越前山崎氏は越前新庄保地頭であり、また『親元日記』寛正六年(1465)三月二十八日条では越前斯波四郎三郎政綿殿に宛てた将軍足利義政の返礼披露状の宛所として山崎右京亮が記録されているように、越前守護斯波氏の一門斯波殿の執政であった。戦国期の越前山崎氏は斯波氏に仕えながら朝倉方として行動したため、越前朝倉氏に仕えた赤松氏範流山崎氏と混同されることが多い。赤松流山崎氏は「長」の字を通字として肥前守・長門守を名乗る(山崎家譜)。ところが長門守吉家は実名に「家」の字を使用しており、「家」の字を通字とする佐々木流山崎氏と混同されやすく、上杉文書では近江山崎氏とされている。しかし長門守の官途名で赤松流と分かる。佐々木流越前山崎氏は「景」の字を通字とし、右京亮・中務少輔を官途名とした。近江山崎氏の官途名も右馬允(助)・中務丞(少輔)・右京亮であり、愛智郡の山崎氏の子孫である近世大名山崎家(右馬助賢家)に継承されている。
 ところで続群書類従巻百二十一武田系図で、新羅三郎義光の三男で武田氏の祖刑部三郎義清の子浅利与一義成を「江州山崎氏出自是」とするように、甲斐源氏が山崎氏に養子入りしたという系譜伝承がある。これは、本佐々木氏と縁戚関係にあり、奥州藤原清衡の後家平氏を妻とした検非違使源義成の伝承が混入したものかもしれない。義成は新羅三郎義光の長男刑部太郎義業のことで、山本・錦織氏など義光流近江源氏の祖である。どちらにしても、義光流清和源氏との関係があったことが分かる。

永田氏と六角氏
 高島郡音羽荘永田を本拠とする永田氏は、建武四年(1337)八月付鴨社祝鴨秀世重訴状に高島郡高島荘をめぐって発向された室町幕府の両使が横山三郎左衛門尉入道道光と永田四郎信氏であり(「加茂御祖皇大神宮諸国神戸記」古事類苑神祇部一、六三九頁)、翌年に守護京極高氏から軍勢催促された永田四郎も信氏であろう(朽木家古文書56~8号)。信氏の「四郎」の名乗りと「信」の字から、永田胤信の長男「原殿」三郎長綱の子孫ではなく、次男四郎貞綱の子四郎長信の子息に当たろう。
 しかし観応三年(1352)四月二日付で、山門一揆衆中に音羽庄地頭職と若狭河崎庄・越前国主計保が勲功賞として、足利義詮から宛がわれているように(永田一馬氏所蔵文書所収足利義詮下文案)、永田氏は音羽庄地頭職を維持できなかった。さらに応永二十八年(1421)六月三日付けで将軍足利義持は、高島郡内の永田上総介の所領を没収して、北野社に寄進している(法花堂記録)。この時期は田中氏や横山氏も所領を没収されており、高島衆には受難の時期であった。文明五年(1473)には永田弾正忠親綱が音羽荘地頭職をもつ山門山徒の代官になることで、本貫地に復帰できた(政所賦銘引付)。ところが、契約に背いたため文明十二年(1480)に地頭方の山徒円明坊兼澄代によって幕府政所に訴えられている。永田氏は地頭代官では満足せず、実力行使による勢力回復を目指したのだろう。
 このような中で、明応頃永田氏庶流が六角氏被官になり、湖東と湖西で所領を得て、発展の機会をつかんだ。明応三年(1494)八月十四日付で永田源次郎が愛智郡香庄の所務を六角高頼から安堵されており(醍醐寺文書所収六角氏奉行人連署奉書案)、さらに嫡子猿菊が高島郡河上庄鴨野今新田を給分として、やはり六角高頼から宛がわれている(朽木家古文書283)。六角氏被官になることで、勢力を回復したのである。しかもここで注目できるのが、永田氏が獲得した所領が愛智郡と高島郡ということである。佐々木愛智流山崎氏が愛智郡から高島郡に進出したように、愛智郡と高島郡につながりがあったことが確認できる。
 その後、円明坊は音羽荘ならびに志賀穴生人足などをめぐり同じ山徒の護正院と争い、大永二年(1521)三月二十四日付で幕府から半分知行するよう判決が下され、さらに同八年六月十一日付で幕府は護正院を全面勝訴とした(永田一馬氏文書所収室町幕府奉行人連署奉書)。そして近世には永田氏が護正院主を輩出している。護正院は志賀郡守護を勤める山門使節であり、永田氏は地頭護正院と一体化して権益を回復・維持したことが分かる。
 高島衆の永田氏惣領家は「四郎」「伊豆守」を名乗り、湖上交通を支配して六角氏からは自立しており、六角氏文書では「永田殿」と敬称された。また六角氏重臣永田備中家は仮名孫二郎が、愛智郡香庄所務を六角高頼から安堵された永田源次郎と連続しており子孫と推定できる。六角氏近臣団の一員として戦国期に急成長し、備中守高弘・備中守氏弘・刑部少輔某などが見え、六角氏式目の連署人に永田備中入道(賢弘)・永田刑部少輔(景弘)が列している。
 織田信長の近江侵攻で、刑部少輔景弘は後藤・進藤氏らとともに観音寺城にこもって信長に呼応し、以後は江州衆として織田軍の一翼を担っている。それに対して永田惣領家ら高島七頭は幕府奉公衆として独立した勢力を維持し、足利義昭政権でも奉公衆として、三好三人衆が義昭邸を襲撃した際には高島七頭が撃退している。しかし信長に対抗して没落し多くは帰農したが、永田氏は前述のように護正院主を輩出して権益を維持した。また江州衆として織田軍に編成された永田刑部少輔は相撲奉行も勤めたことが『信長公記』に見える。明智光秀の乱で没落したが、のちに徳川家に仕えて幕府旗本として存続した。
 また平高望の四男良兼に始まる尾張国長田(おさだ)庄司の家系で永田氏と名乗った家系もあり、尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである。永田氏と長田氏は混同されることが多く、とくに永田氏の本貫が『寛政重修諸家譜』に見られるように高島郡永田ではなく蒲生郡長田と思われ、また江戸時代には歌舞伎の演目でも佐々木盛綱・高綱兄弟が登場するほど佐々木氏は人気があったことから、長田氏の子孫も佐々木永田氏を名乗り、四つ目結紋を使用したと考えられる。このように永田氏のすべてが、必ずしも高島七頭や六角氏旧臣の永田氏とは限らない。これが系譜研究の難しいところである。

永田氏系図
胤信┬長綱(三郎左衛門)─┬有綱(三郎)
   │            └長隆(四郎)
   └貞綱(四郎)─長信(四郎)

【参考文献】
①西島太郎『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、2006年。
②小風真理子「戦国期近江における湖上ネットワーク」史学雑誌103(3)、1997年。

この記事へのコメント

佐々木寿
2011年12月08日 21:44
愛智流を含め本佐々木氏は通称に「神」に通じる「新」の字を使用する。というのには驚きました。その字にそういった意味も含まれることがあるのですね。
佐々木哲
2011年12月09日 00:33
『源行真申詞記』でも、本佐々木氏の人物の仮名に「新」の字が使われています。

仮名も丁寧に見ていくと、いろいろな情報が含まれています。これからは、実名の通字だけではなく、仮名にも注目してください。そこから出自が分かる場合があります。
佐々木寿
2011年12月09日 00:43
神は何を指していると考えられるのでしょうか。
また、「中」であれば大中臣氏や中原氏を指すと考えてよいでしょうか。最近は近江中原氏や多賀大社にも注目しています。
佐々木哲
2011年12月09日 01:07
「神(新・甚)」は神職を意味しています。

源氏が「源」、平氏が「平」、藤原氏が「藤」、橘氏が「橘(吉)」、菅原氏が「菅」、大江氏が「江」、大伴氏が「伴」、小野氏が「野」などは有名です。

江州中原氏でも「中三」「中三郎」「中四郎」「中八」という例があります。

これらは平安以降、「氏」を中国風に漢字一字で表記するのが流行したことによります。
佐々木寿
2011年12月09日 01:20
神職ですかあ。なるほど。ありがとうございます。
佐々木寿
2011年12月10日 18:46
田中氏といえば、高(高階)氏の中で高惟長の弟惟業が田中十郎左衛門尉を名乗り、高島郡田中を名字の地としているのではないかと思いますが、高惟長も大江広元の娘婿だったかと思います。先生のおっしゃられていた高島郡横山郷地頭職が大江広元~佐々木広綱~横山氏へと継承されたことを考えると田中氏も関係がありそうな気がしてきます。
佐々木哲
2011年12月10日 20:27
高(高階)氏流田中氏は、本当に高島郡田中郷が名字の地ですか?

私は高氏を詳しく知らないので、肯定することも否定することもできません。

高惟長も大江広元の女婿なのですね。

そうだとしても、横山庄が大江広元から佐々木広綱に伝領されたからといって、同じく広元の女婿高惟長の田中氏も高島郡田中郷に関係ありとするのは飛躍があると思います。

今は外なので、このぐらいのことしか言えません。
佐々木寿
2011年12月10日 21:29
お忙しい折に早速のご回答ありがとうございます。
名乗りについてもうひとつ教えていただければ有難いのですが、戦国期では「伝」とか「勘」などもよく見かけるのですが、これは可能性としてどういった意味をもたせているのでしょうか?
佐々木哲
2011年12月11日 00:16
これはあくまで一例であって、必ずその通りだというわけではないので、ご注意ください。

「伝」は田口氏が有名です。「田」のつく氏が考えられます。「勘」は菅原・菅野氏が考えられますが、勘解由使を一時で表したものとも考えられます。織田勘十郎は、織田氏では勘解由左衛門尉の官途名も見られることから、勘解由使を一字で表記したものと考えられます。

あくまで一例ですので、慎重に願います。
佐々木寿
2011年12月11日 00:21
わかりました。ありがとうございました。

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