わが家の歴史

父方の佐々木与右衛門家(隅立て四つ目結、替紋は桐紋、女紋は三つ柏)は近江守護佐々木六角氏出身で、系譜では織田信長と対抗して毛利氏に頼った源義秋(綱秋)の子源義房(綱房)に始まるという。江戸期には廻船問屋を家業とする郷士で、上方から出羽に移り、480町歩の新田を開発した。屋号は「ヤマヨ」、のれんは「蔦紋(葉桐紋)」。
 出羽に転出後、戦国大名最上義光の旧臣で『乞食大名』のモデル佐々木愛綱(鮭延典膳・越前守)の子孫大沼半左衛門家(四つ目結紋、陣幕は四つ目結と三つ星)と一族化したため、系図は混乱した。半左衛門家の大沼系図では、愛綱を佐々木与右衛門家の源義房(綱房)の実弟で養子と記す。また、鮭延愛綱を軍記物では「秀綱」とするが、系図では愛綱とする。本人の署名は「愛綱」であり、系図の「愛綱」が正しい。半左衛門家の女紋は蔦紋であり、与衛門家とは縁戚だったことが分かる。
 明治維新では大沼半左衛門家(半三郎)が酒井・伊達ら奥羽越列藩同盟に誘われ角間川の戦いで協力したが、会津戦争敗戦により伊達氏の招きで仙台に移住して仙台藩士となり、佐々木に復した。朝廷・幕府から見れば陪臣(家臣の家臣)になったことになる。
 それに対して当家佐々木与右衛門家(与三郎)は奥羽越列藩同盟に加わらず出羽仙北郡に留まり、陪臣にはならなかった。与三郎の通称は、幕末に朝廷に遠慮して衛門・兵衛を名乗らなかったことによる。

【参考系図】
足利義昭―義尋(義尊)―義房(母法晢院、室柳原氏)

同母弟実相院門跡義尊
同母弟円満院門跡常尊
異父弟聖護院門跡道晃法親王(後陽成天皇第十一皇子)
権大納言柳原資行の室(妻)の父園基音は、霊元天皇の外祖父であり、祖父基任は後光明天皇の外祖父であった。柳原家(藤原氏日野流)は園家(藤原氏持明院流)を通して後水尾天皇と重縁を結んでいた。

【補足1】聖護院諸大夫佐々木氏(もと摂津西宮郷士)聖護院門跡増賞法親王(霊元天皇皇孫)外戚の縁で諸大夫(四位・五位)に補任。近江の郷士三上氏と縁戚があり、近江出身と分かるとともに、朝廷を根拠とする郷士がいたことが分かる。

【補足2】後光明天皇(典侍庭田秀子)後継の皇位継承問題で勅勘を受けた公卿葛岡宣慶(六角義秀の外孫庭田重秀の次男)が大坂に出奔した。※六角義秀の女子が庭田重定に嫁ぎ、その間に重秀・佐々木野資敦が生まれ、さらに重秀に雅純・葛岡宣慶・田向資冬・見雲重村、雅純に雅秀・重条(初め六角)の男子があった。

【補足3】幕末に、勤王を唱えて300人を擁した佐々木六角源次大夫・織田兵庫助がいる。足利義昭の養子六角義康(左衛門督侍従)と織田信長女虎福が婚姻、その子八幡山秀綱(三郎殿)が織田秀信の養子となっているように、六角氏と織田氏は縁戚関係にある。源次大夫は文久3年3月京都守護職会津松平容保のもとに京都方浪士として参じたが、第一次長州征伐の翌年元治2年(慶応元年)1月には内裏の守護の御用と唱えて武器を用意して馬印を掲げたため、見廻組・新撰組に捕捉された。ただし、長州や天誅組との関係はないとされ、反乱とは見なされなかった。源次大夫家も大坂に住んでいた。

【補足3】足利義昭の子孫を名乗る会津藩士坂本氏(足利義昭―一色義喬―坂本義房)とは同祖か。また会津地方の六角氏は同族か。

佐々木与右衛門家は差首鍋城主沓沢氏の子孫沓沢甚兵衛家(丸に隅立て四つ目結)、東根城主坂本氏の子孫坂本藤兵衛家(片喰紋)と重縁を結び、佐々木の娘が沓沢に、沓沢の娘が坂本に、坂本の娘が佐々木に嫁いだ。姑が実家の叔母という女性には幸せな婚姻だった。私の祖父母の代まで続いたため血は濃い。
 また沓沢・坂本は醸造業も営み、沓沢の「日の丸」は明治・大正期の品評会では東北一位になったこともある。杜氏は出羽山内杜氏ではなく丹波杜氏だが、これはもとも上方の西宮・灘と関係があったからだろう。
 東京では佐々木は恵比寿、沓沢が同志社創設者新島襄から譲り受けた千駄ヶ谷、坂本が白金に邸宅を有していた。一族の坂本理一郎は衆議院議員、のち貴族院議員となる。大隈重信や犬養毅との交流があった。しかし第二次世界大戦後の農地改革で没落した。佐々木の菩提寺の住職は、出羽仙北の戦国大名である小野寺康道の子孫大森氏。

実は佐々木氏は父方の祖母の実家、祖父の実家は出羽王伝説を持つ石田氏。出羽王は応仁文明の乱で西軍に立てられた南朝皇族。石田の名字は、陸奥太守義良親王(後村上天皇)・北畠氏が在城した陸奥南朝の国司館・霊山城(福島県伊達市)に由来する。石田氏が沓沢氏の養子になる形で佐々木の娘と結婚した。
 出羽は旧南朝方が多く、鮭延氏は 上杉氏との対抗から南朝に降りて会津に転出した越後国大将佐々木加地景綱(近江守)の子孫と考えられ、家臣に越後出身で新田義宗の子孫ともされる柿崎氏がいる。陣幕に四つ目結紋と三つ星紋が交互に配されていることでも、鮭延氏が盛綱流佐々木加地氏の子孫と分かる。
 鮭延氏との交流があった出羽小国城主細川氏は、越後佐々木氏と縁戚関係のあった細川清氏流だろう。越後新発田氏は、細川清氏の弟頼和の跡を継承した佐々木長綱(盛綱流佐々木磯部氏)の子孫であり、小国城主細川氏も細川清氏の子孫の可能性がある。
 鮭延氏の祖佐々木加地景綱は、その子近江四郎氏綱が『群書類従』所収佐々木系図で道誉の嫡子近江守秀綱の子息に記されているように佐々木京極氏(四つ目結紋)と近く、観応の擾乱でも足利尊氏派であった。このとき三つ星紋から四つ目結紋へ替えたのだろう。
 さらに家臣団に馬淵氏があることから、越後没落後に出羽における近江守護佐々木六角氏領代官になった可能性がある。その縁で、近世に佐々木六角氏の子孫である与右衛門家が出羽で新田を開発し、そして移住したとも考えられる。
 差首鍋城主沓沢氏は近江出身と伝え、家紋も丸に四つ目結紋であり、「忠」の字を通字としていることから、新田方の越後守護代佐々木弥三郎忠枝の子孫である盛綱流佐々木磯部氏とも考えられる。磯部氏は、『花営三代記』康暦二年(1380)七月十七日条に紀伊で山名氏清に討ち取られた南朝方の武士として磯部雅楽助が見える。しかし沓沢氏はもともと由利十二頭のひとつで出羽国由利郡履沢城を本拠とし、さらに名字の地は信濃国佐久郡沓沢郷である。沓沢郷は南北朝期に信濃守護小笠原氏の所領であり(勝山小笠原文書所蔵永徳三年二月十二日付小笠原長基自筆譲状)、本国を離れていたことが分かる。
 由利郡地頭職は源実朝の介錯役(養育役)大弐局(父加賀美遠光、母和田義盛女)に与えられ、さらに甥大井朝光(小笠原長清七男)に譲られた(吾妻鏡)。由利十二頭の筆頭矢島氏は室町期に下向した小笠原氏(大井氏)の子孫であり、沓沢氏は大井氏とともに由利郡に下向した信濃国人と考えられ、『信濃史料』の天正七年二月上諏訪造営に関する資料に佐久郡沓沢郷代官沓沢清右衛門尉を確認できる。代官として本領にとどまる者がいたと分かる。
 「長谷堂合戦図屏風」では、鮭延秀綱に従う沓沢金兵衛の旗印が七星紋であり、信濃国人で七星紋というと滋野氏を連想できる。滋野氏は、孝謙天皇のときに駿河で発見した金を献上した駿河守楢原造東人が、勤臣の意味で伊蘇志臣を賜り、その孫尾張守家訳が延暦十七年滋野宿禰を賜り、さらに弘仁十四年家訳・貞主父子が滋野朝臣を賜ったのに始まる(仁寿二年二月紀滋野朝臣貞主卒の記事、および貞観元年十二月紀滋野朝臣貞雄卒の記事)。貞主の曽祖父東人は高名な儒学者で大学頭兼文章博士であり、貞主も仁明天皇の東宮学士になり滋野朝臣を賜り、順調に昇進して正四位下参議に至った。娘縄子は仁明天皇女御となり、また娘奥子は文徳天皇宮人となり、さらに三女直子は光孝源氏大蔵卿国紀の室となり、歌人の滋野井弁公忠をもうけた。このように天皇家や賜姓源氏と関係をもち、また貞主が系譜伝承で「貞王」と伝えられ、系譜伝承では「貞」の字を通字とした清和天皇の皇子と誤り伝えられた。さらに子善根が天安元年十一月二十七日信濃権守に(文徳天皇実録)、同二年正月十六日に信濃守に補任(文徳天皇実録)、翌年の貞観元年に宮内少輔に転任し(三大実録)、貞観十二年正月二十五日に大蔵少輔から信濃守に再任された(三大実録)。また孫恒蔭も貞観十年正月十六日に大外記から信濃介に転任しており(三大実録)、信濃国の牧監(牧の管理者)であった信濃滋野氏はこの子孫だろう。鮭延氏の家臣沓沢氏はこの滋野氏流沓沢氏の名跡を継いだ者と考えられる。実は沓沢氏が居住した平鹿郡増田町は、小笠原氏が築城しており、沓沢氏の中にはその一族あるいは旧臣であった者もあると考えられる。
 信濃滋野氏は中先代の乱で諏訪氏らとともに北条時行方に参じており、その後は時行らとともに南朝方に参じている。由利十二頭には旧南朝方寒河江氏(「挙」を通字とする大江氏)や楠木氏の子孫と推定される者もあり、沓沢氏も南朝方として出羽を転戦していたと考えられる。
 また坂本氏は羽州探題最上直家の弟天童頼直が新田氏族里見氏を継承し、その子坂本頼高が南朝方の東根城主平姓小田島氏(和田義盛養子小野中条成季の子孫)を継承したものである。天童の名乗りは南朝方の北畠天童丸に由来するとも伝えられており、室町期に最上氏と同格とされ対抗していた。天童氏の官位が左京大夫・修理大夫と高かったのも、最上氏と同格であったことを示している。この家格の高さは旧南朝勢力の懐柔策であろう。
 坂本氏には天童氏最後の当主天童頼久(頼澄)の実弟頼景(母国分氏)が養子となり、天童氏正嫡の血脈を受け継いでいる。天童・東根両城落城後に最上氏に仕えた東根景佐は頼景の重臣里見右衛門尉で、紋は剣に四つ片喰紋であり、坂本氏(片喰紋)からみれば家来筋に当たる。ところで坂本藤兵衛の通称に「藤」の字が使用されるのは、『奥羽永慶軍記』に見られるように、天童氏が藤原兼家の子孫を自ら名乗ったことに由来する。坂本藤兵衛家でも京都出身と伝えている。これも、最上氏の下風に立つのを嫌ったからだろう。
 これら旧南朝方で重婚を結んで血を守ってきた。その一方で、佐々木氏を通して近世天皇家との由緒もあった。このように私自身が後南朝の可能性があるため、後南朝を名乗る系譜を見る目は当然厳しい。基本的に小倉宮の子に「尊義王」が記されている系図は近世以降の作成であり、信憑性は低い。また落胤伝説も多いが、落胤が事実としてもそれでは正統な後継者ではない。
 沓沢氏は江戸期に造酒屋で「日の丸」を商号としたが、久保田藩主佐竹家の家紋は扇に月丸であり、日の丸は南朝由来と考えられる。

母方は公家菅原氏桑原(桒原)家庶流(丸に剣梅鉢)。桑原の「桑」の字は正しくは「又」を三つではなく「十」を三つ記す「桒」の字。また家紋「丸に剣梅鉢紋」も剣が長い長剣梅鉢ではなく、加賀前田家と同様に剣の短い幼剣梅鉢(加賀梅鉢)。雷が鳴ると「クワバラ・クワバラ」と唱えるのは、菅原道真領桑原に落雷がなかったことによる。
 ところで江戸幕府大目付桑原盛員は丸に寄梅鉢[星梅鉢]と左三巴紋を使用した。男子のなかった盛員の跡は、松前順広の三男盛倫が婿養子となり継承した。桑原盛員は後北条氏家臣桑原盛正(伊豆衆、弥九郎・九郎右衛門尉)の子孫と考えられるが、『小田原北条記』で横井・田中・関とともに鎌倉北条氏の子孫とされる。たしかに伊豆桑原郷(現函南町桑原)には北条氏によって建てられた桑原薬師堂があり、北条時政の長子宗時の墳墓もある。ここが平姓桑原氏の名字の地だろう。武蔵七党の桑原氏とは別流と考えられる。また後北条氏家臣団の伊豆衆には、平姓南条氏など得宗被官の子孫があり、関氏も得宗被官関実忠の子孫と考えられる。彼らは北条御所とも呼ばれた堀越公方家に仕えており、『小田原北条記』でもいうように伊勢盛時の子氏綱が北条と名乗るのに際して大きな役割を果たしたと考えられる。伊豆衆桑原盛正は河東の乱に際して武田方への使者となり(高白斎記)、また武田晴信の娘が後北条氏政に嫁いだ際には、遠山殿・桑原殿・松田殿が甲斐上野原に出迎えている(妙法寺記)。さらに後北条時代の川越伊豆丸城主桑原弥七郎(馬廻衆)も一族と考えられる。その子孫である幕臣桑原氏が菅原氏を名乗ったのは、クワバラ・クワバラ伝承が広く民間に浸透していたからだろう。
 母方の縁戚には萩藩主毛利氏の同族という毛利氏、武蔵七党児玉党(あるいは清和源氏新田義宗の子孫)の浅見氏などがいるが、浅見氏の縁戚には明治の歌人佐佐木信綱があるという。

この記事へのコメント

ひなたむら
2012年04月08日 00:38
『後光明天皇ブログ』管理人の、ひなたむらです。庭田宣慶の勅勘理由を調べています。
貴ブログを拝見しましたが、「わが家の歴史」の欄にあります、「【補足1】後光明天皇(母庭田秀子)後継の皇位継承問題で勅勘を受けた公卿葛岡宣慶(六角義秀の外孫庭田重秀の次男)が大坂に出奔したのは、大坂在住の佐々木六角氏と関係あるか。」について、ぜひ出典をご教示ください。よろしくお願いします。
佐々木哲
2012年04月08日 02:01
後光明天皇ブログの方ですね。

わたしも葛岡宣慶研究の基礎資料として、池田晃淵「葛岡宣慶卿伝」(史学雑誌第8編第8号)を参考文献としています。

葛岡宣慶と佐々木六角氏の関係は、佐々木六角氏の子孫の系図からの推測です。そのため文末に「~か」と疑問形にしておきました。

たしかに源典侍秀子の弟庭田雅純の孫重条は始め六角氏を名乗る伏見宮殿上人(大膳権大夫)であり、同じく伏見宮侍に佐々貴直煕(大膳進)がいます。さらに葛岡宣慶(宣之)の葛岡は佐々木広綱流の家名、その子野木宣易の野木は佐々木高綱流の家名です。しかし、これらも状況証拠というだけで、直接裏付けるものではありません。

このようにまだ研究課題にとどまるものであるために、参考にはなさらない方がいいと思います。もし良質な資料で発見がありましたら、報告いたします。
ありがとうございます
2012年04月08日 13:29
早速お返事いただきまして、どうもありがとうございます。
了解いたしました。
私も、何かいい資料が見つかりましたら、ご連絡いたします。
ありがとうございました。
佐々木哲
2012年04月09日 01:05
わたしの系譜伝承研究は、伝承から作業仮説をつくり、それを良質の資料と付き合わせ、無矛盾ならば仮説(学説)とするというものです。

ブログの記事でいえば、「~か」という文末の場合は作業仮説と考えてください。

葛岡宣慶に関しては良質の資料が少なく苦労しますが、とても興味をそそられます。わたしも新資料を見つけましたら報告いたします。

連絡いただきありがとうございました。
山本
2014年01月30日 22:59
「戦国大名と政略結婚」を拝読させていただきました。六角氏は血統において、近江源氏ではなく、足利氏ではないかと感じました。源義秋は足利義昭ですか?
山本
2014年02月09日 10:53
出羽由利衆の沓澤氏(滋野氏流)、矢島氏(小笠原氏流)の記事に関連して(ちなみに、出羽由利衆の根井氏、潟保氏も滋野氏流か)
天文年間の武将で、小笠原宗家の小笠原長棟と滋野宗家の海野棟綱(一説に真田幸隆の父)とは姻戚関係にありました。小笠原家譜では、小笠原長棟の母は海野氏娘、妻は、浦野氏(海野氏庶流)娘とあります。小笠原長棟と海野棟綱は、棟の字が通字と考えられます。また、海野家の菩提寺である海(開)善寺は真言宗の名刹で小笠原氏菩提寺の開善寺と縁のある可能性があるかもしれません。なお、滋野一族に海野氏、矢澤氏(海野氏庶流とも神氏とも)、根津氏(海野氏庶流とも神氏とも)、望月氏があり、滋野一族は内輪の争いがなく、結束が固いと言われていました。
山本
2014年03月30日 21:09
36歌仙の一人である、滋野井弁公忠(父:光孝天皇皇子源国紀、母:滋野直子)は近江守であり近江の国衙に住んでいました。(近江守在任時の和歌が「公忠集」に収められています。)近江源氏が近江守護となることができたのは公忠の地盤を引き継いだからではないかと想像しています。その根拠として、下記の佐々木先生の説を参考にさせていただきました。
公忠の娘は源雅信室となり源時中を儲けており、時中の子孫が佐々木秀義です。また、時中の異母弟の源扶義の妻が公忠の曽孫である可能性があり、扶義の子孫が佐々木為俊です。なお、佐々木系図によると扶義の子孫である佐々木庄下司佐々木為俊の子息を佐々木秀義としているが、これは、領家佐々木氏(時中流)が現地支配を固めるために下司佐々木氏(弟扶義流)の系譜に自らを接木したものと考えられます。
平井
2014年11月16日 07:59
沓沢清佐衛門は依田信藩の家来で、沓沢村の丸山姓で塩名田宿本陣丸山、耳取の丸山と同族?藤岡藩の改易後沓沢に帰農して名主の丸山清佐衛門?近くの重田周防守は竹田村に帰農している。
九里
2015年01月07日 08:07
はじめまして。曽祖父が九里姓(養子)で、調べております。九里以前の姓を知りたく思っております。「源」「藤原」は加賀藩九里系図・大和郡山藩の文書に書いてありましたが、我が家(柏原藩)は「平姓」になっており、「平・源」となる以前からの姓もあるのでは、と思われます。姓氏家系大辞典の他に九里までつながる可能性のある本を知りたいです。どうかよろしくお願い致します。
佐々木哲
2015年01月08日 11:22
九里氏に関する書籍を、私は見たことがありません。資料から九里氏に関する資料を拾っているだけです。

『近江蒲生郡志』の佐々木氏家臣志にある九里氏の項がもっともまとまっているように思えますが、足利義澄の近江在国時代の記事が中心なので、物足りないと思います。

九里氏で平姓の家系とのことですが、佐々木氏では宇多源氏以前の本佐々木氏で、平姓を名乗っている者がいます。また姓は養子が入れば、養子が実家の旧姓を名乗ることもありますでの、色々な角度から系図を見る必要があると思います。
九里
2015年01月09日 00:32
ご返事有難うございました。言い遅れましたが、九里のことを本に載せてくださりありがとうございました。
本佐々木氏の中に九里氏の前身がいた可能性は?や源員定=九里員定か・・・など、謎だらけです。
受験生用ではない「歴史」のメールでのご指導は可能でしょうか?御検討いただけますと嬉しいです。

私は音楽科出身で日本の歴史とは遠いところに居りました。しかし、できれば九里のことを形に残しておきたいと思っております。
佐々木哲
2015年01月09日 00:42
私は受験界にも身を置いていますが、本業は研究者ですから、歴史の質問を直接メールしていただいてかまいません。

むしろコメント欄に書けないような情報が調査のために必要な場合が多いので、歴史関係の方こそ、メールを積極的に使用していただきたいと思います。

ではメールを楽しみにしております。
九里
2015年01月09日 09:38
ご返事ありがとうございます。メールを差し上げたいのですが、先生の連絡先のメールをうまく起動できずにおります。
また、昨夜見つけたのですが「系図学校」まだ募集中でしょうか?
できればこちらにも参加したく思っております。
大変恐れ入りますが、メールを入れていただけますでしょうか?
私のメールアドレスは昨日の五天山ヤフーのアドレスです。どうかよろしくお願いいたします。
平井
2015年05月24日 21:41
なぜ、東国肥沃なの情報をもたらすたシオズノオズが東北に?ところで国譲りのタケミヅチが関東に、それだけの功があれば、片居宮の近くに住めるはず?
丸山は副官のミミナリか?東御市和の中曽根親王塚は丸山古墳の言わのように、丸山姓の墓、維新後上田城跡を買い取った丸山?
山本
2015年06月07日 15:42
北条氏綱の妻である、養珠院の出自は不明ですが、後北条氏旧臣である、高橋家の過去帳の中には養珠院を横江北条相模守女と記しており、鎌倉北条氏の末裔である可能性があります。
平井
2015年06月21日 21:32
獲加多支齒?大王の銘文の片堅石がヤマトタケルに負け、大王からしきずりおろされた。小諸の姓美斉津は美美津、美々津からの転化?八満弓神社ハマユミジンジヤ、破魔弓、金鶏のとまった矢。
平井
2015年06月27日 21:53
片井の紋は丸に三つ蔓柏である。塩名田と耳取の丸山は丸に三つ柏紋、沓沢の丸山は片井のお堂に畑を寄進するそれを記した位牌に丸に剣カタバミがはいる。榛名平に丸山姓の家があった。八幡の高良社に左手から丸に三つ柏、菊花紋、桐の紋とならぶ、沓沢の丸山が丸に三つ柏なら、片井、上野の桐の紋、とそろうのだが?!
平井
2015年06月28日 22:07
御代田町に今は真言宗の寺であるが、それ以前の創建らしい、空海以前。その三門の仁王像の体像から、佐久二郎、野沢、臼田が書かれたものがあるらしい。野沢氏臼田氏とも、滋野姓である。この地方で佐久の地名は、佐久郡しかない。野沢臼田等滋野姓の頭であろう。すなわち木曾義仲に従軍した兵の頭。石附次郎、石寸(イワレ)次郎。従軍した諏訪氏も、中原氏も、樋口、その頃あった?直江氏?進軍の経路は、出雲道、投馬道?
山本
2015年07月18日 11:26
臼田氏(踊り念仏発祥の地、佐久市臼田の出身)は山内上杉家の家臣で、関東の多くの地域に足跡を残しています。私の住所の近くである、川崎市多摩区寺尾台には、寺尾城があります。風土記稿には、この地に、16苗の子孫が残っているとし、その中に
諏訪氏系の関谷氏や、滋野氏系で諏訪党である臼田氏もいます。また、臼田滋野経長は、武蔵国師岡保帷子の地頭でした。なお、諏訪氏の関係する土地が何故か寺尾と呼ばれることの不可思議さについては
風土記稿で記述されています。
平井
2015年07月20日 21:38
古代海洋国であった日本が、家紋が、貴族の牛車から始まった説はおかしい。戦の旗その前に、船印。村上の丸に上、丸に一引き、二引き、三引き、島津の丸に十字。視力検査と同じ認識しやすいから。即座に判断しないと、先手をとれない。船団を守るのが、優先で、誰が功績の旗は必要ない。日本人は同じ船に乗り、すのこ一枚下は、死、その中でも協調し、互い助け合い来たのが日本人で、中国的専制君主は必要としない。いつからおかさくなったのか?
平井
2015年07月25日 20:57
寺尾姓、赤尾姓旧北佐久郡におおい。いずれも丸に立ちオモダカ、現在の上田市塩川に高木姓があり、小諸市には、塩川姓があり高木塩川とも、丸に立ちオモダカ、小諸市小原に小原城があってその本丸を高木城といっとか?高木はタカムスビの後で、大伴氏はタカムスビからでてついる。滋野の寺島。山浦、池田は丸に二引きまた丸に立ちオモダカをそれぞれ裏表として使う。
平井
2015年07月25日 21:38
佐久の重田姓は丸に梶の葉一本の紋である。重田は伊勢の地名、伊勢崎市伊勢原市、佐久市伊勢林の近くに英多神社梶の葉一本の紋、諏訪系である。その背後の山の中に、八風山がある、伊勢の八風峠から佐久に降り立った伊勢津彦、即ち、タテミナカタ。重田は山口県にもあり、戦国時代、佐久に重田周防守がいて、親戚に江戸城の天主守がいる。家康が天下をとったとき依田信藩が佐久諏訪両郡を与える約束はあながち、両郡の親密姓をいい当てているのかも?
平井
2015年07月26日 21:08
沓沢清佐衛門は、縣沢とも名乗っていた?縣沢清左
衛門ここらで、縣沢は下県があるように、根際が県沢、県沢内沓沢の表記がある。石附から八幡神社までを矢島原または八幡原といったとか、吾妻日記に八幡宮御前二十騎、矢島より八幡原が正しい。平井のくぼみより高台に今、風の丘と言うバラ園がある。字立石ですが、俗称でホウリクボ、祝のクボ?神武の何代前のホウリ?イシズキ川の源流に飛石の字名がある。石が採れる分けでもないのに?飛ぶ船?
平井
2015年11月01日 20:52
佐久市根岸に日向ひなたがあり、立科町芦田に日向、東御市八重原に日向がある。それぞれ岩下姓がある。南佐久に菊池、千曲市に猿渡、神武の本拠は南九州?長野県の宮崎姓は宮崎?依田、重田は江田?江田船山古墳、江田島?
平井
2015年11月01日 21:42
根岸糠尾の重田と村上は縁組みする、竹田の重田と村上氏の分家須田と縁組みをする。重田と村上は、瀬戸内海の海族、または、それぞれ港を支配した、津彦。伊勢津彦とか、直江氏は言い換えれば、直江津彦?村上氏は上杉家を離れ信濃にかえる?
平井
2015年11月09日 20:45
ニギハヤシと神武はなにをみせあったか?三種の神器そんなかっぱらってくれば手に入る物でなかったろう。王統の承継の証、先代から儀式を受けた証、諏訪なら、生け贄の鹿の?
平井
2015年11月29日 22:01
旧八千穂村は佐佐木姓がある。戦国時代、伴野の譜代衆で載っている。諏訪の原形とう言うべき、小海の松原神社の宮司、畠山和泉守が方井蔵之介と共に高野山成慶院文章に出てくる。 臼井に三分ミブン、東御市和に三分ミワケ、望月片倉春日の奥に入り片倉、そこが三明ミアケ、これが片井の直轄地、そこに新参者が村を支配できるのか、同じ戦さ場を戦っきた東征軍の仲間なんであろう。
平井
2015年12月04日 19:53
大国主の直系の富氏の昔の代官が、横山であった?美保神社の宮司がそうである?平井に横山姓、臼田の三分に横山姓、東御市和の三分川近くに横山姓、戸倉は外倉、立科町に外倉、近く片井と同じ丸に三っ柏、当然平井の横山も丸に三っ柏紋。
平井
2015年12月12日 20:01
片井が片十六弁の菊、天皇が八重菊、系統が違う証か、昔片十六は出雲の紋という文があった、実際諏訪神社に片十六弁の垂れ幕が掛かっていたいつだったか、片十六弁の垂れ幕を昭和天皇が参拝された後、諏訪から、片十六弁菊の垂れ幕が消えたと、記憶されている。勘違い。片井横山の紋は丸に三っ蔓柏でした。特に、八幡神社の高良社の参拝の帰りにその門を見上げと、正にスサノウの紋 柏に松の葉紋がはいる。
平井
2015年12月12日 20:28
草薙の剣が、スサノウの収穫物である以上、出雲の神宝である筈だ。それが姉との誓約で姉に渡った、作り話だろう。あるならば、スサノウ系が王権を譲ってた時しか、考えられない。 神宝の剣を討伐に行くものに渡すか、奪われたら、敗北の証、関東の日の本の国から、神宝を奪い、その時誓約がなされ、委譲されたと考えるのが普通では?
平井
2015年12月28日 20:14
富山藩は金沢藩の分家、富山、戸倉、外倉は分家の意味。建御名方の子か孫にオギハギがあるが、立科町外倉の近くに荻原姓があり、片井と同じ丸に蔓柏、戸倉近くの森将軍塚は分家?平井の近くに字名荻原がある。片井は南方そのものか?
平井
2016年01月06日 21:14
佐久市落合に、元善光寺があり、信玄が鐘を松原神社まで引いて行った。神道系をたどると、主にたどり着く、それを消すために、須和を移した諏訪に。仏教系の色を強くして、新興勢力に見せかけた。跡部を武田まで変えて、守ってくれた跡部耕雲齋に、片井逸平、藤太の孫、清人として、深く頭低、御霊を安らげん。
平井
2016年01月10日 21:50
真田を武田の家臣に勧めたのは、芦田の依田信藩である。信藩の妻の父親は跡部勝資である。跡部耕雲齋の先祖。勝頼が布引の寺領を瀬下采女に与えるのは、勝資の懇願?跡部は佐久の跡部が本官地である。富岡の?一宮?本性は茂原?物部?
平井
2016年01月13日 21:08
逸平の妻は平井の山浦で、山浦は日蓮堂を屋敷神として、他人の土地を踏まなくもの片井家に伝承のこる。山浦の江戸時代、仁兵衞、仁右衞門の名がある。仁兵衞といえば、布下仁兵衞。布下は望月氏の枝族と伝えるが、大伴は丸のに立ちオモダカで山浦の家紋とあうが、望月は九曜か七曜?山浦は小諸市街でも古い今日蓮系の実大寺の檀家である。平井なのに小諸の寺。山浦が檀家になった時は、何宗?布下の寺領伴野にあった、布下仁兵衞、伴野信守、武田と引きつがれ、瀬下采女と。平井の竜泉寺は天台宗。天台宗で善光寺まで。比叡山はスサノウの山?
平井
2016年01月21日 20:35
木曽義仲の墓がある、滋賀県義仲寺、義仲の墓の傍らに、松尾芭蕉の墓があるらしい。芭蕉の遺言で義仲の墓近くに?新海神社の行幸は平井に来ていない。芭蕉も平井近くに来ていない。松尾と言えば、丸に立ちオモダカ。義仲寺で公家らによる、赤報隊の行動計画が?箱根神社縁起を書いたのは、海野姓とも藤原姓とも?曽我の仇討ちは頼朝暗殺?曽我は工藤?頼朝が善光寺参りするのは?
平井
2016年01月31日 20:59
依田信藩の従弟が家康の忍者であったので、信長の呼び出しで諏訪に行けば、殺されるので、諏訪に行かないように家康の命で信藩に伝達される。徳川家は武田の多く遺臣を抱える。
 木曽義仲に従軍した落合氏が、明治維新の赤報隊の落合の神職水野丹波ならば何か因縁が?
山本
2016年02月07日 10:46
大河ドラマ真田丸で注目の真田家の祖先は滋野氏とされる。信濃滋野氏の由緒は諸説あり、古代貴族大伴氏の一族であったとする説や牧の管理に従事していた現地土着勢力が、形式上は地方官に任命された滋野氏と接点を持ち、その傘下に入って一族を名乗ったとする説などがある。ところで、「望月町誌」に滋野氏の由緒についての下記の記載がある。奈良県御所市楢原(ならはら)にある駒形大重神社の祭神は、滋野貞主である。ここは滋野貞主の曽祖父である、楢原造東人の故地である。また、奈良県に住していた楢原氏が東人(東国の人の意味)である理由は、支配権の拡大に伴って、東国との様々な関係が生じたことによるものではないか。一方、長野県東御市根津には奈良原があり、ここは新治牧にかかわる地で、滋野氏一族の根津氏の根本所領の内であって、この付近に、楢原姓を名乗る人が40余戸集中している。
平井
2016年03月20日 22:08
歴史は繰り返す、高天原は八ヶ岳山麓である。縄文時代に12万の内7万人が暮らしていた八ヶ岳が高天原。川上村は高天原の地名がある?群馬は上野の介しかなぜなれない?足利が九州で盛り返し天下取る様に、祟神は上野下野の出身?
坂本
2016年04月06日 21:59
はじめまして
佐々木さんのご先祖様は
仙北の出ですか?
僕の先祖は秋田仙北なのですが
先日除籍謄本を取ったところ
玄祖父に佐々木兵右衛門家から
坂本家に養子で来た三蔵さんとゆう
方が記載されていたのですが
御関係はありますか?
突然こんな話をしてしまいすみません
ちなみに当時の坂本家の戸主は
坂本 七三郎です。
佐々木哲
2016年04月07日 02:17
私の出身は東京で、秋田・山形の地域名にあまり実感がないのですが、広い意味で仙北地方だと思います。菩提寺が大仙市にあります。縁戚の坂本も仙北ですが、仙北に来たのは江戸末期のようです。坂本理一郎を御存知ですか。衆議院議員3期(進歩党)・貴族院議員を勤めています。坂本の紋は新田流里見氏の片喰紋(酢漿草紋紋)です。斯波氏(最上氏)から新田流里見氏の養子になったのが天童・坂本氏です。しかし近世は最上氏流も里見流も名乗らず、京都の藤原氏の子孫を名乗っています。それが坂本藤兵衛の由来です。

お尋ねの佐々木兵右衛門家や坂本七三郎は、当家の系図には見られませんが、関係があるといいですね。
坂本
2016年04月07日 12:59
返信ありがとうございます
そうですか、
わが坂本家の家紋は五三の桐紋で
東根の坂本氏と家紋が同じなので
関連あると思っていました。
除籍謄本に記載されている
本籍地見てみましたら
仙北郡六郷東根村でした
その後に仙北郡六郷千畑村に変わっていたので、坂本理一郎氏も
同村なので、何かの関係があるのかもしれませんね。
ちなみに、
玄祖父の佐々木三蔵氏は
佐々木兵右エ門家の三男とありました
金沢村金沢から婿に来たようです
わざわざ御返信頂きありがとうございます

金沢村から、
婿にきて
平井
2016年04月15日 21:00
孫子の子孫、諸葛の子孫が一村成している報道をみると、日本は、源氏平家、が主で、藤原の政権下で天皇家から出た家しかない、由緒も歴史もない国なのか、武田も源氏でなく、九州から、東北までいききしていた海族だろう。その場で生活していた集団が?
山本
2016年05月03日 23:33
東急田園都市線に江田駅がある。江田は信濃国と縁が深い。江田城は義経配下の信濃英多郷出身の江田源三(諏訪氏系?)の居城と伝わる。城の東麓は小黒谷と言う。橘樹郡諏訪河原村の諏訪左近頼久が小黒氏を称したのは、この小黒谷に暫く住んだためとの説がある。(寺尾城百話)この頼久は、信濃一宮諏訪大社の大祝である諏訪氏の一族と考えられる。また、江田町の観福寺境内には、諏訪廃社があったとされる。同町の真福寺の「おしゃもじ様」は、諏訪の土着神、「ミシャグジ」からきていると推測される。なお、江田北の小黒公園から約500メートルほど離れたところに大場諏訪神社がある。
平井
2016年05月12日 21:46
熊本の阿蘇の阿蘇氏と諏訪の諏訪氏が同族、カムヤイミミの別れ?良く御子が努力したから信仰が、全国に広まった?それ以前に受け入れる素地があったと考えるのが普通か?実家の節分は、恵比寿大黒豆上がらしゃい、鬼はそと福うちである。ハァーフのカムヤイミミならそこに、天孫の神の名があってもいいはずだが?上田に尾滝山竜泉寺を発見。明泉寺と一緒に、津金寺の組寺を抜ける、竜泉寺は青木村でなく丸子。インターネットで竜泉は長野で多い、手塚治虫の先祖の地上田の手塚に行こうと思ったが行けず、またの機会に同胞の地へ!
平井
2016年05月19日 20:28
平井をでる時の預言で、日本の王は天皇家で、地球の王はわたしがなる。それをやっと気づいて、その宣言さないよう、ここ二日で、パソコン二代インターネット不能。
馬淵
2017年08月17日 17:27
はじめまして。
我が家の家紋は、平四ツ目です。
代々口頭で伝わっている宇田源氏に興味を持ち、先祖の系譜を調べております。江戸時代は鳥取池田に仕えており、鳥取藩の馬淵家譜では、加地三郎左衛門武綱が近江馬淵村を領し、7代目の馬淵春綱の代に信長公上洛の際、没落流浪するも上杉家と浅井家、飛鳥井家の縁で春綱の息子馬淵種綱が池田恒興の与力になったとあります。
この家譜を見る前までは、六角庶流の馬淵の流れを組んでいるものと考えておりましたが、蒲生郡志での馬淵氏の記載には加地氏との関係は一切ありません。
加地三郎左衛門武綱とは何者なのか、どのような縁で馬淵村に来たのか、これからも調べていこうと思います。
しかし中世の時代に、例えば近江の馬淵と越後の加地が交流していたりするものなのでしょうか。。。
佐々木哲
2017年08月22日 00:24
馬淵様

一般的に馬淵氏は佐々木定綱の五男広さだから始まります。盛綱流馬淵氏も加地三郎左衛門武綱も残念ながら存じ上げません。実は佐々木六角流西条氏でも、盛綱の子孫とする系譜伝承があるようです。
 しかし盛綱流・高綱流と称する系譜伝承は、浄土真宗の盛綱・高綱伝承の中で生まれたもののようです。佐々木氏というとやはり源平合戦(治承・寿永の内乱)で活躍した盛綱・高綱が著名であり、定綱流の子孫でも盛綱・高綱の子孫という系譜伝承を作り上げたようです。「佐々木三郎」といえば盛綱、「佐々木四郎」といえば高綱というようにです。

おそらく馬淵様の先祖は「佐々木三郎左衛門」を名乗っていたのでしょう。それで盛綱に結びつけられたと推測できます。

越後上杉家・飛鳥井家と関係のある馬淵氏は、六角氏の重臣広定流馬淵氏です。『上杉氏年譜』でも馬淵氏が六角氏の名代として登場します。
馬淵
2017年12月27日 10:20
だいぶ時間経ってしまいましたが、ご返事ありがとうございます。上杉氏年譜も調べてみようと思います。
完全な推測ですが織田の上洛で離散した後に、織田方に仕えるにあたって元六角家臣であるとは言えず、上杉や飛鳥井の縁者であるとしたのではと勝手に考えています。
maririnn
2018年06月19日 20:27
私の先祖は、長谷堂城の戦いで武功をあげた志村伊豆守光安です。「淡海温故録」によると佐々木義実の下にいて、観音寺城が落城した時に、守り旗頭だった父の安房守秀定(光清)と武者修行後に最上家に仕えました。どの資料を見ても、出自が明らかではないとされます。家紋は、三つ盛亀甲花菱です。清和源氏小笠原氏族志村氏の流れをくんでいるのかと思いますが、何か手がかりがないかお教えください。落城後に甲州に行った志村貞時は、後に主君の山県昌景の首を敵から奪い返しましたが、家紋は、丸に一文字、五丁子で、いろいろな資料に名前が登場しています。光安のルーツを知りたいので、よろしくお願いいたします。
佐々木哲
2018年06月20日 12:01
志村氏はもと新村氏で、「源行真申詞記」の源行真(豊浦冠者行実)の末弟五郎大夫行範の子真野源二定時の次男新村井四郎定平に始まります。愛智郡新村城(志村城)は旧能登川町(現東近江市)にあり、六角氏と結んだ一向一揆の拠点にもなったようです。織田信長の近江進出に抵抗して、落城後には東国に逃亡したようです。武田・最上に頼った可能性はあります。
maririnn
2018年06月20日 19:07
すぐにお返事をいただきましてありがとうございました。調査が暗礁に乗り上げていましたので、佐々木先生には感謝の気持ちで一杯です。引き続き疑問点にお答えいただけますと幸いです。志村光安は、宇多源氏の流れと考えてよいのでしょうか?新村姓の発祥地は、近江国で正しいですか?いつ頃から志村姓になりましたか?観音寺城を守るようになったいきさつはなんですか?新村城主は、高氏で、3年間籠城して落城後、信長による残党狩りを恐れて志村姓になったと言われています。家紋は、輪違いから揚羽蝶になっています。光安はその三年前の観音寺城から出た時には、志村姓だったようです。光安の菩提寺の家紋は、三つ盛亀甲花菱です。この家紋は、敵対していた浅井長政と同じなのはどうしてでしょうか?なぜ、新村城主と光安の家紋が違うのでしょうか?新村城主の資則や資良と志村光安は、親戚関係はあったのでしょうか?たくさんの質問で御迷惑をおかけしまして申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
平井
2018年06月22日 06:21
10代崇神天皇は、宇都宮氏で武烈天皇まで巴紋を用いる。福岡県に上毛郡があり、宇都宮姓がある様だ、上野介まで、守は天皇であるので、上野守設けないが正解の様だ。崇神天皇は旧丸子町尾野山から旧北御牧村日向の住んだ尾山氏であろう。尾野山から御牧に入った所すんだ王ミマキイリヒコスメラミコト。尾山氏は二つ巴、小山市がオヤマと言うのも頷ける。応神等を祀る宇佐八幡が巴紋であるのも分かる。
maririnn
2018年06月27日 10:38
6月19,20日にコメントさせていただいた者です。個人的なたくさんの質問内容でしたので、メールの方に代えさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
平井
2018年07月13日 08:28
上田市芳田大日木に大日霊神社があり、そこに満木姓、麻蒔りんご園があり、阿波三木家の麻栽培と麻織物、それと天皇の即位式?前に述べた尾野山の千曲川を挟んだ対岸の位置。??
平井
2018年08月02日 00:07
上野、常陸や上総は親王が支配したので、守はおかない。崇神天皇の長子豊城入彦が、統治していた、東御市和の中曽根親王塚は豊城入彦?
平井
2018年10月29日 10:24
大日木の近くに、殿城とのしろがある。豊城からの転換か、戸倉に佐良志奈神社があり宮司さんが豊城氏、祭神に大サザキ[仁徳天皇]正に崇神朝!豊城入彦こちらから出て、関東に帰ったか、人名の移動で分かるか?!
平井
2018年12月03日 22:40
ユーチューブで武田鉄矢さんが、白川文字学の白井さんを、とりあげている報道があっる。そこで、貝を大事にする人と、羊を大事にする人達がある。漢字の生い立ちには?もし中国大陸に、日本の様に、インドのヒンズー教の影響が全くなければ、日本のヒンズー教の影響は、海伝いにきている。縄文の海洋民族が、漢字の初期の段階で、創作に関わっている?甲羅は、陸か、海か?殷の鼎の紋様は、北海道のアイヌの着物柄に似ている。なかなか鍋の様に、漢字を捨てない日本がみえる。漢字というより、縄文字というべきであろう。
平井
2019年02月02日 21:34
前山城主伴野宮内少輔のご譜代衆は、平井方井蔵乃介、沓沢は、橋詰氏。糠尾は重田二人?竹田は工藤氏。沓沢の分村日向に、長坂。竹田に重田がない?竹田の重田と、沓沢の丸山は、芦田城依田系。平井の片井小兵衛又は次兵衛、六兵衛、九郎兵衛は依田系?自民党から、政権が変わらないのは、おかしい小選挙区を押したが、村のなかで、議論をたたかせて、分けの分からぬ比例代表は、意味がわからない!真田家ニケ家に分かれるのは、どちらかを残す知恵。どちらにしろ、外部勢力に従う外道をなんとかせねば!だから武士は、遠い存在でなく、江戸時代初めの名主は、戦国時代それぞれの村を考え生き抜いてきた武士であり指導であったことは間違いない!方井蔵乃助は、片井墓の先祖追碑片井内蔵助と書かれて、仙石氏の代官片井五郎助、片井鴨乃助、鴨乃助は掃部助か?佐久のこの地方でなく、戦国時代の村はどこでも言えるのではないか?
平井
2019年02月25日 20:36
譜代と、直参の違い。家康が武力で制圧した所で、家来になったのが、外様か譜代?自らの意思をもって早くから、家来になっていたのが直参、縁組をして親類衆?。わたしが歴史に興味をもったのは、実家の家に、祖父の守り神鬼子母神の前に、大きい高炉があって、仏前に入る紋が違って母親に聞いたことからはじまる。高炉には丸に立ち澤瀉、仏前に丸にミツ蔓柏、母親は鬼子母神前の高炉は、母親の 母の従姉妹の旦那が戦時中に我が家に疎開していて、お礼でおいていたった。三菱銀行の東京支社長やって、帝国大学を出て先祖は長崎の藩で代々家老をしていた山口姓?御代田町小田井の近くに、中屋敷に同じ紋で山口姓?家紋も同じで、九州と長野県が同じでわたしには不思議で、歴史に興味をもったはじめである。わたしの祖母の話しは、オバ達が、祖父が健在の間、毎月五人の姉妹が実家に集まって、それは賑やかなことか?わたしは、色んな話が聞きけて、楽しみであった。そのなかで、祖母のイトコに、秀吉の奥さんネネの実家木下家に連なる木下家と縁組をしているとも聞いた。のちに祖母の妹の嫁ぎ先、瀬下家から、分家に養子に行って世界大恐慌のおり、三菱銀行の会長をやる瀬下清氏。当時長野県経済界を八十ニ銀行合併で、基盤をととのえる。日本銀行総裁にの声もあがるが!
平井
2019年03月04日 20:38
片井五郎助は得意な例かもしれない、仙石氏が、小諸に入ってまず地元の人で代官ができる組織団体?その適任組織が、八幡の八幡神社を信仰する武士団、八幡の本陣小松系?二百石に始まって五郎助百石まで、中の小林は、中込の小林ではなくやはり八幡に関する小林であろう。協力する証に、小諸城下に八幡神社を分祠しハチマン町をつくる。瀬下は富岡の貫前神社に関わる物部系、跡部、市川も石上神社に関わる物部系、重田も天照国照系の物部である。天神さんを別の天照さんと解釈すれば、新しい展開、地域像が浮かびあがるかもしれない?
平井
2019年03月16日 21:30
ミマキイリヒコの話しに戻ると、御牧に入った父と豊城に入った長子、父の後を継いだ活目入はどこに入ったか?尾野山の近くの生田? 佐久市小宮山の田んぼに、四角いっぺん1メートルもないものがあって、それが、条理制の基準の蛇の目と記憶していたが確認できなく曖昧ですが、田んぼはある意味目、強引ですが? 大日木から南に海野宿がありその神社に白鳥神社、ヤマトタケル。真田、海野は崇神朝か?!
平井
2019年04月21日 23:00
大井隆雄先生監修の中仙道、望月、八幡、塩名田宿の写真集の中で、八幡宿本陣小松家古地図によれば、脇本陣日光屋は間口二十間奥行二十間門構えで、中庭のある格式のある家とある。間口一間当たりで年貢が決まるのに、どれだけの支配地?今の所当確する武将はなし、桑山地籍を支配していたの話しがあり、小諸市森山に字名、桑山がある、日光屋は森山まで持っていた??
平井
2019年05月13日 00:07
小諸市街に実大寺があり、同じ丘陵の地続き建速神社があって、佐久地方の祇園の草分けとなる例祭が始まり、佐久地方の夏祭りが始まる。その実大寺から、平井で江戸時代から、院号居士の百姓屋がある。その檀家に平井姓を名乗る家があるらしい、元は平井の片井から出たものか平井を名乗るのは、片井しかないか?他にも平井の人がいる。院号の家の一族郎党か?うち家の墓は、片井のお堂にあって、逸平の時代今の地へ。逸平の娘が嫁ぐ赤尾家とも、墓に向かった右が古い順だが、片井逸平家と、赤尾家は左が古い、出雲の大國主が、神社に向かい左手で、向く方向も左り?出雲?!
平井
2019年06月05日 21:27
新潟県に、石打の地名がある、その近くに上田の郷。木曾義仲の倶利伽羅峠の陣張り図に、余田と共に樋口の陣地がみえる。中原氏の分かれ、のちに樋口家から、直江家に養子にはいる?新潟には、青海神社の宮司が、石附氏、中原氏は、イワレ彦の三代目の分かれ、のちの中原中也と同族?。佐久に中仙道の岩村田宿がある。イワレ の田、イワムラタ?
平井
2019年06月07日 22:10
アイヌ人が、原住民とは限らない、アイヌ人は、樺太から入って北海道に入ってきた新しい勢力かもしれない。?沖縄から島づたいに鹿児島の肝付、山口の周防瀬戸内海淡路、伊勢、千葉の重田が古い、縄文人で、諏訪の鹿を生贄にする習慣が、海を渡り、インカ文明なりの、生贄の儀式になってあるかもしれない?泡盛の瑞泉の社長の名字が、佐久?日御崎神社が、佐久神社旧名。出雲大社が、佐久佐神社。山梨に佐久神社がある。九州の松浦党、日本海を支配していた安倍氏。重田と共に梶の葉?和人は、半島系とその混血を指すのではないかか?倭寇は、最初日本で、中国から半島まで海から陸地二キロくらいを支配していた?そのくらい海を支配する実力がないと、太平洋を渡れないでしょう?!
小山清人
2019年07月19日 21:38
佐々木さん、わたしは、1953生まれで駒澤大法学部卒ですが、わたしの祖父藤太の長兄茂の長女、民の長兄が、桜井力で、東大を出て埼玉大学で、数学の教鞭していて、そろそろ定年の頃かと?
平井
2019年07月19日 21:50
執権ほうじょう
平井
2019年07月19日 21:56
執権北条の別荘が、小県郡塩田にあった。重田が、伊勢津彦ならば、伊勢新九郎 は重田と同族か、!
平井
2019年09月07日 22:07
木曽義仲が旭日将軍、義仲の四天王といわれた、根々井大弥太、小弥太が将軍から、日足紋を貰うのは妥当、現在の根々井の大井氏が、日足紋を用いるのは、至極当然のことを?
平井
2019年09月17日 20:38
江戸期に、神官を廃業する家、松原湖の畠山和泉守家、跡部の堀籠家、ヤワタの松田家、瀬戸の柳沢家、わたしが昔調べたのみ?ヤワタ松田氏は、千曲市のヤワタ神社の神官と同じ名字。群馬の豊城入彦を祀る王守神社の神紋が、三つ巴。春日の大森が、二つ巴三つ巴を用いる。望月氏の家老を務めていたと言はれる望月宿本陣の大森が三つ巴、神武朝と崇神が親しい仲なのは、崇神が指名した四道将軍がほぼ神武朝の人?前に書いた藤太の長兄は、藤太の長男又は長子、民は茂の長女長子、力は民の長男長子訂正します。
平井
2019年09月23日 20:26
平井
2019年09月23日 20:44
ユーチューブで毛利家の先祖が、天野御中主に通じ報道を、五年前位に観た、毛利氏が天野御中主系ならば、一引に三つ星?全国の渡辺、渡部が三つ星に棒ならば、天野御中主の系統ということになる。権力によって、制限されない姓は、今多い姓が昔の勢力者といえるか?
平井
2019年09月24日 00:54
武田信玄は、佐久攻略後、家来になった武士に禅宗に改宗することを強制する。伴野宮内少将輸の家来は、ほんんどが禅宗に!片井は、立科の津金寺を本寺とすると明留山明泉寺の末寺平井の滝尾山竜泉寺であったろう?そのなかで平井の山浦家が、小諸の日蓮系の寺まま、信玄に咎めなくいれたのは、相当の武力集団だった?前筆の尾野山の寺、平井の寺の山号を入れ替えた山号?尾滝山か、滝尾山。佐久間象山の近くに、竜泉寺があるようである。
平井
2019年09月24日 21:48
明治九年の神社の登幡の新調に関する帳面に、平井の南、北村、五本木、曽利中島の中で、竜泉寺の住職が、曽利中島の部で板垣姓で、書かれている。武田の武将板垣情報方を務める信方の系統か。竜泉寺は、南の寺と言っいて、竜泉寺の住職が中村の家に行ってくると言って良く来ていと聞いている。ましてや竜泉寺の境内上に片井の自仏堂、お堂の鰐口に片井六兵衛尉吉原田と刻まれている。平井が甲府天領の時、平井の一部に、松平某旗本の知行地があった、その時の名主が、次兵衛。旗本松平は、家康の忍者重田守国、江戸城天守守の可能性もある。ヤワタの日光屋は、信長時代の生駒居館の役目をここの地域でしていたか?
平井
2019年10月02日 20:24
日本海の真名井から、琵琶湖海上ルートで郡上八幡から、太平洋側のルートを押さえて押さえあたのが、忍者の重田?伊勢津彦?
平井
2019年10月25日 22:44
依田信藩の跡に、家康が藤岡藩を与えた。信蕃の従兄弟にあたる竹田の重田も藤岡に移住して、藤岡に竹田町の地名が残るらしい。根岸の特に平井は、ヒとシが区別がつかない。
江戸の下町に、根岸や平井の地名があり、江戸っ子もヒとシが区別がつかない、家康の忍者重田による佐久からの移住?
平井
2019年11月01日 22:04
根岸と伴野が合併して、岸野村?岸野村史に平井の宗門改が、写真で載っていて高持で、市之烝が書かれていて、二番手に新右衛門が記される。両家と逸平墓地にある。多分平井の宗門改の最初に記される家柄であり。新右衛門の妻がその時の平井の名主市大夫の姉、同じ片井を名乗る一族。平井いでは、一族を
同じクルワと言う。同じクルワで、名主をやる家から、姉を嫁がせる家は、名主家より先頭に宗門改に書かれる家、上位と考えるべき?新右衛門は逸平家。市乃烝家は、本家。死に絶っ家、逸平家が権帯する。逸平家が、村内で縁組する家、横山、上野、山浦、高橋、このなかで複雑に市大夫家を含めて婚姻してきた?
平井
2019年11月10日 20:52
欧州の大航海は、産物を求め船出する。航海は、まず避難地として水補給基地して港が開発され、次の港の開発。内陸部の植民地はあとからであろう。交易が主で、支配する発想はなかった?交易のなかで、富裕層が大党してきて、欲の競争が始まり、港から内陸部へ兵隊を投入して、支配権限を強め。植民地化へ移行?       
 日本でも、まず港ありき、港から開発が進み内陸部へ。内陸の進軍は、相当な統制の効いた勢力でないと?この地も、千葉、静岡からの影響が濃いか?
平井
2019年11月29日 21:23
先月諏訪下社秋宮に参拝して、しめ縄が出雲大社に同じと初めて知る。片井の血筋的には、金刺と同族。平井の中島の下に長田の小字名ナガタあり、子供の頃からオサダとも読める。金刺氏の別れ、他田は同族同族だと思っていた。
 平井の小字尾岸を囲む様に、南に上社北に下社。根際、根岸を囲む様に北の平井、南に竹田の根際神社。根岸は、アガタザワとも呼ばれるた。安原の英多神社アガタと呼ばれていたのではないかと言われている。英多神社に湖があって、昔は、舟の神輿を壊す祭りがあったと伝えている。神武は出雲系。ならば竹田の重田。英多神社の梶の葉。三輪造の神殿 何を意味するか。片井は、上社のイサク的行事や、暗い場所に閉じ込められる行事は同じである。天照をお祭りしたり、三木家の麻もない。
平井
2020年01月26日 19:45
諏訪と言えば、甲賀三郎伝説?神武に三人の男子?いずれも末子が跡取り。諏訪で大祝の跡取りと家来の跡が、地中に籠る儀式がある。タテミナカタが、地中で過ごして、やがて竜になって天に登る? 
 赤報隊や、勝頼の家来勝資の子孫武田耕雲斎の天狗党が、諏訪を目指していた。諏訪で源氏を名乗るまで身を落としたゲス供が、武人の誉れを高々に唱える者に、諏訪では、誰一人いなかった。春宮で相楽総三?寒空の下木に括られ?
平井
2020年02月11日 19:41
春日に春原姓と児玉姓があり、東御市和カノウにも春原姓児玉姓、片井の本拠地は春日と考えたが?東御市和の南傾斜東方向に広がる縄文集落を束ていた勢力?そこには滋野神社があり、関西の滋野姓の発祥?楢原姓がある。 
 立科町山部に行基開基と言われる津金寺があり、そこに滋野氏の供養塔がある。天台系山伏を束ね情報をえていた?善光寺ある意味天台系でもある。小諸の布引観音は天台系。天台系の総本山も、仏教と関係ない時代は支配地?!
弾正少弼
2020年03月22日 14:27
(武蔵、相模の諏訪氏)1月の「鶴見れきぶん祭」で横浜市鶴見の寺尾城に関する講演会があり、寺尾城に興味を持った。寺尾城は、他に、川崎市多摩区や川越市寺尾にも存在し、いずれも城主を諏訪氏と伝えている。この諏訪氏は、関屋氏一族の寺尾氏と考えられる。実際、江戸時代に編纂された風土記稿によれば、川崎市多摩区の寺尾の地に関屋氏が住しているという。関屋氏の由緒は、諏訪為盛(信濃介)が、延久元(1069)年に、信濃英多(あがた)郷の関屋に住したことによる。また、川崎市高津区の小黒氏も諏訪一族と伝える。「寺尾城百話」によると、小黒氏の由緒は、横浜市青葉区にある江田城の東麓の小黒谷に住したことによる。江田城の城主は江田氏で信濃英多の出と伝えている。また、江田城の鬼門には諏訪社があったとされる。(観福寺の境内)このことから、小黒氏も信濃英多の関屋氏の一族の可能性がある。実は、関屋為盛は父である諏訪上社の大祝(神霊が宿る対象物)、諏訪為仲が諏訪の地を出てはならないという神誓を破ったことによる神罰を受けたため、大祝を継げなかった遺子である。「諏訪大明神画詞」によると、為盛の子孫は多かったが神職を継がなかったとあり、関屋氏の一族が、信濃の地を離れ、武蔵、相模に住したことが理解できる。
平井
2020年04月16日 20:32
30代に諏訪の図書館で、諏訪の古い郷土書籍に、諏訪の御神渡りが有ればまず佐久の神に報告されたと云う文面をよんだことがある。それを今の諏訪では、御神渡りの湖面の走り方でいくっかある現象を佐久の神としてごまかそうとうとしている節がある。御代田町の真楽寺の山門の仁王像の首の内側に、佐久二郎、臼田、野沢姓が記された文字が発見されている。真楽寺といえば、急ごしらえであるが、長野オリンピックの龍の舞い、実際真楽寺の出水から、タテミナカタが天に登った伝承が有るようだ。わたしが祖父から聞いたのは、蓼科山の赤池、青池の双子池から龍になってと聞いた。諏訪は、佐久の神をしっかり検証すべきと考える。天皇に忠の諏訪氏なはむりなこと!
2020年05月11日 20:29
和歌山県に伊達神社がある、祭神に五十猛、スサノウの子を祀る。次の祭神に神谷井耳がある。神谷井耳は、異母兄を殺すことが出来なくて、祭司となった。神谷井耳の祖霊は、スサノウか!佐久ヤワタの旧ヤワタ本殿の前の門に、参拝郷見上げれば丸に柏の葉3枚、片井は蔓柏。ヤワタの紋を良く見ると、蔓ではなく松葉にしかみえない。これはインターネットの情報で、スサノウの奥さんの出産の時の出たものを、柏の葉に包んで松葉の葉で括って川に流した故事にはじまるのではないかの説があった。五十猛とカムヤイミミを祀る伊達神社。政宗の家来片倉小十郎は望月の片倉の上野の出?
 伊達家の菩提寺、政宗が座る正座の上に、小さいけれど座がある?祖霊を祀るカムヤイミミの系統のいます座?
2020年05月11日 21:07
松本の浅間温泉に行ったかえり、浅間温泉に、御射山神社があって、近くには小笠原氏の先祖の墓があったりする。
 その神社の説明書きに、信濃の武士は、御射山で行はれる御射山の流鏑馬に出るため、戦をやめて帰郷したと書いてある。少し前に、木曽義仲が、信濃の武士に京が目の前出大事な時だから、戦線に復帰する様促す号令がでていた?こちら佐久の武士は京まで生きていなかったと思う事もあったが。そうゆうことかと、次は頼朝と読んだ?
平井
2020年06月20日 21:03
片居宮の次男坊が、いつ信濃に入ったか、九州王朝説から言えば、神武は九州から出ていない。奈良から九州からの問題が生じる。軽井沢の熊野神社に、石臼より大きい源氏車をあしらった石像がある。軽井沢に佐藤姓が多い、源氏車が先なのか、佐藤姓が先なのか?軽井沢では、佐藤より鈴木姓は少ない様に感じる。信濃に村上姓がある、瀬戸の村上氏と行ったり来たりの縁組みをしている。奈良の村上氏が、神谷井耳に従って信濃入りか、九州から神谷井耳の都落ちの途中に、家来になったか?平井に天神講があって、わたしの時代、平井に諏訪下社なく、その屋敷神的祠を天神様として、子供達の行事として、行われていた。今思えば、天神様は、管道真だったのか?!時の左大臣時平に流されたれの、テンノオヲいささか怨みたつまっらんの唄を歌い行進 祠に、学行コウシンを独り独り参拝する。行進の時の旗が、半紙半分して何枚か貼り合わせて、奉納天満天神とかの字を書いた様に記憶するが。それを半分の半紙より長い竹に先頭を巻きつけのり付して、竹の両端を紐で括って、笹の付いた本体の竹の棒にくくり付けて、紙をなびかせ、歌を歌いこうしんする。当時は、村で持ち周りで当番せい。唯一抜けていたのが創価学会に親が入っていた子供達、子供ごころに、親の都合でと考えたものだ?!
弾正少弼
2020年07月12日 08:16
信濃諏訪の高島藩士に六角氏の存在が確認される。諏訪史料叢書巻24によると、源姓、本国近江、六角、磯邊である。松平大和守の家臣であった六角弥兵衛の息子・四郎左衛門定保が、天明年中に召し出され、新知150石で高島藩に仕えた。
平井
2020年09月01日 20:26
春日の宮に大森姓があり二つ巴、本郷にも大森姓があって3つ巴、望月宿本陣の大森も3つ巴?望月氏の家老との伝承がある。仙石氏小諸入府の時片井五郎助と共に代官に取り立てられている一族か?群馬に王守神社があり祭神は崇神天皇の長男豊城親王を祀る。福岡県上毛町に大森姓多数ある。昔上毛郡、下毛郡が
あったみたいで、群馬茨城の勢力に関係あるか。神は海をかき混ぜて、そのしずくがたるて淡路島ができた。正しく海人の発想。渦、ウズ、宇佐は、宇美が正しいとか言われるが、神話的には宇津、宇都が正解ではないか。藤原氏九州のその辺は勢力圏だった、崇神天皇と同じく、鹿島神宮の勢力圏から九州攻略に関東から向かった。?
平井
2020年10月09日 21:14
軍人の永田鉄平も高島藩士の子息、永田が生きていればのYouTubeもたったが、力があるものに流されるが常。力が正義とは限らない。
 諏訪の守矢氏資料館館長が永田氏、関係は知りません。資料館の裏に現人神の諏訪氏の墓所がある。わたしが行った後、守矢家のミシャグジ神の木が枯れたり、折れたりでいいことはない。前宮の石作りの鳥居が、学生時代に行っていた食堂?
 佐久の英多神社が上社として、下社が小諸市大杭のミシャグジか、手前の耳取の弥美登里神社か。ミミナシはミミナリか?
平井
2020年10月09日 21:46
前筆の鉄平は鉄山の誤りでした。失礼しました。
平井
2020年12月11日 20:34
スサノウは、ヤマタのオロチに難儀している家を助け、その娘妻にしてスサノウの王朝を開く。大物主神か大国主は、スサノウから、スサノウの娘をスサノウの試練から娘を奪い、スサノウから剣を渡され、大物になれなのか、大きな国創れと言い渡される。神武は、ニギハヤシを倒して、王朝を建てる?王朝新規に立てたならば、大国主の娘とか、事代主の娘を妻にしなくも良い、地元で妻にした子を、後継にできるはず。事代主の血筋の片井は、大日霊女を祀らない。静岡県に、物部系の片堅石豪族がいた。神武の片居宮から九代開化まで物部系である。崇神から、今の八満神。神武までは、八幡の神区別すべきでわ?!
平井
2020年12月11日 20:48
開化の別れに、堅井があります。また開化の別れ依羅があり、次回漏れのないように、
頑張りますので、ご容赦ください。日韓のトンネル、元寇で戦ってきた血筋として、中国や韓国のトロイの木馬は、よう造らない。平井の最明寺に誰の像があると思っている。
平井
2020年12月26日 21:40
戦国時代、前山城主伴野宮内少将輔の御譜代衆の中に、南佐久郡に菊池姓が見受けられ
る。神谷井耳の別れに、金刺、阿蘇氏がある。両方とも神社に関係する。神武は、熊本の奥、幣立神社の辺が故郷説あり。神谷井耳の孫が、阿蘇氏の始まり。日本の祭司として父の故郷をまもりたかった?菊池のほかに、悪津姓がある。宇都宮に阿久津姓が多い。
 崇神の豊城入彦と、神武系との関わり、四道将軍と、大彦、稲荷山鉄剣。吉備津彦、余田。依羅。?
平井
2021年01月20日 21:11
まえに、依羅を調べていて、牛鹿に行き当たった?小諸宿の与良町が、かって南城公園辺りにあって依羅とも書いた説があり、依羅が依田に転嫁するとも考えた。旧望月町の春日の澤、奥に入片倉があり、そのそばに三明ミョウがあり、臼田に三分ミブン、東御市和カノウに三分ミワケがある。税を神を祀る為、人々の生活を守る為、小国でも地域を外敵から守る為大ざっぱに、三に分けておく倉?大依羅神社でさがしたのは、屯倉でそこに、牛鹿屯倉があった。芦田城の大ざっぱに言うとその沢の下に、僧侶が勉強する学問所があった津金寺が山部に、その下に牛鹿ウシク地名があり、近くに外倉トグラがある。芦田城の支城が下八重原にあって外山城トヤマ。近くに荻原姓があり、片井と同じ丸にミツ蔓柏紋。伝承で年貢をあっめて納めることをしていた?臼田の新海神社には、タテミナカタの子、ないしは孫のオギハギを祀る。荻原はオギハギか?旧小県郡塩田の生島足島神社の意言伝えで、タテミナカタが諏訪はに行く途中に、立ち寄りてお粥を差し上げた伝承あり。牛鹿屯倉の候補地が他になければ?!屯倉より三分が古いかも?
平井
2021年01月29日 21:02
竹田の重田守国が、徳川家康の忍者で、江戸城天守の守りを任されていた。伊勢風土記の伊勢津彦が先祖で、伊賀の神社にある、出雲武命?がヤマトタケルと水浴びをして、ヤマトタケルが出雲武命の刀を差し替えて、出雲武命を討ち取るはなしがある。八風峠から風に乗って、伊勢津彦は伊勢から去った。長野市に、風間神社があるらしい?子供の頃、隠密剣士に、風魔小太郎が出てきた。悪役だったが、風間神の祭神がタテミナカタならば、応援してたかも?家康と北政所は仲が良かった。その繋ぎ役に重田?出雲のお国、中村、尾張の中村の秀吉。江戸に、根岸、平井、上野。重田守国が、江戸開発に、長野県東信の住人を投入した?4世期から片井が、平井を中心に支配していたので、ヒとシの区別がつかない江戸っ子が生まれた。仮説?
平井
2021年02月28日 21:58
諏訪の御頭祭について、わたしも柱に縛られて、祖父に解かれ、ツブシに閉じ込められる。儀式みたいを受けた。イサクが受けた事に似ている?諏訪の生贄の鹿の耳が、必ず一頭は、先がイバラか何かで、欠けている話しがある。イサクの身代わりに、イバラに引っかかって動けない羊が、神に捧げられる。Xが十字架にかかって、遺体が洞窟に安置され、昇天する。甲賀三郎伝説では、地下に落ちたタテミナカタが龍になって昇天する。 
 偽官軍の諏訪系神官が、許されて神社庁でキリスト教を調べを命ぜられるも、キリスト教に改宗する。何か似た要素があるのかも?!
平井
2021年04月19日 19:00
先日、松原湖の松原神社にいって、佐久落合の昔あった元善行寺と記述したのが、間違いと気付きました。その当時は、新善光寺と言われていた。落合の寺の住職、小諸の寺に入っているのが、小諸元善光寺。
 木曽義仲、頼朝に加担した、勢力は、なぜだか、京都の意を汲む小笠原、大井、
平井
2021年06月02日 19:53
四月末に、地蔵峠を超えて松代の竜泉寺(字違うかも)に行った。竜泉寺が単に目的ではなく、佐久間象山生家の近くと言う理由で!
 その寺の近くに、日蓮系古刹があり、京から分けたと言う象山の墓があった。墓の前に鬼子母神のお堂があり、祖父の守り神なので、感銘した。祖父の守り神は、祖父の祖母が村内の山浦からで、山浦は日蓮系なので、山浦からきたと思っていたが、昔甲斐から、来た坊さんが、泊まったお礼に置いていったと聞いた。戸籍では、その祖母は、13歳許嫁の嫁入り。平井にも竜泉寺があって、津金寺の本で、津金寺の組み寺を、明?瑠山明泉寺と、小県の尾瀧山竜泉寺が抜ける記述がある。尾野山のてらは、龍尾山龍泉寺?平井が滝尾山竜泉寺。平井に上野姓で丸にぶっ違いの鷹羽、尾野山の竜泉寺に上野で同じ紋の墓がある。まだ尾瀧山竜泉寺がある?上越市の国分寺跡の近くにも竜泉寺がある? 
 祖父の守り神、日蓮系でも、北陸地方が拠点宗派?水野丹羽は、佐久間象山や、赤松小三郎らと、書面のやり取りする。もう明治期に歴史研究している。
平井
2021年06月14日 20:45
百回で、最終で!わたしにも初孫ができ、血がつながると思えば感無量で、先代祖父が、田舎の学問より都の昼寝と言ってくれって。充分に、都の大学後の席でヨダレを垂れさせていただいた。祖父が危ないので帰えるよう連絡があり、帰って。祖父の座敷に行くと、祖父は床から半身を起こしており、茂帰ったかと言っていたが、聞き取りづらく。茂?ボケたか?と思った。続けて何やらモゴモゴ言っている。シゲを剃ってくれと、言っているょうだ。バリカンでいいかと言うと、いいらしい。剃ってやって手の爪までやつたか今は記憶にない。前から、爪は、ニッパの小さい形の爪切りで切っていた。わたしが、祖母が12月に亡くなり、翌年4月に生まれたので、祖父からは、大事にされた気がする。今から思えば、祖父の死に装束調える為に
祖父に呼びっけられたような。次に帰った時は、入棺していて合うことはなかった。それ以後困ったことも沢山あったが、なから順調に、祖父がこの家は、俺がマブルと言った通り、わたしの血筋から、本家を再建せねばと思う。
平井
2021年06月20日 21:54
最後。明治期、水野丹羽を調べ、郷土誌に投稿していたのが、落合の市村清太郎だと記憶しているが?  この間、塩尻の奈良井宿に行って、旧問屋が、資料館になっていて、家紋が九曜紋で、思わず受けっけの人に、こちらはミヨジはと聞くと、手塚と答える。金刺氏の別れ、木曽義仲に従い、手塚は、諏訪一族で、諏訪から出ない約束だから、途中で引き返したと言われる手塚に同じかと思う。金刺氏別れが九曜紋、上社下社とも菊の紋。九曜紋を用いる人言うに、九曜紋は、菊の紋を意味する。望月、禰津、海野が九曜紋。水野清太郎の父は、落合の水野武蔵。水野丹羽が家長で大家族主義の家!清太郎の妻は大杭の赤尾福左衛門娘。墓に記していて、紋に、雁金か州浜紋。市村は、小諸市の市村が出?小布施の高井高山も市村から、軽井沢に出た市村?市村の親戚に九曜紋を用いる家がある。そこが本家?菊の紋、九曜紋、雁金、州浜が本家分家の関係。?赤尾福左衛門の長男が逸平の娘の夫で二人して、赤尾家本家の名跡を継ぐ。片井の本家市乃烝家を誰かわたしの血筋のなかで、?!できればと思う?現在の子に通じるか!おわり
平井100の追記
2021年09月04日 20:03
小諸市市村の九曜紋を用いる家が、高地姓で、神武から開化までの間 、越智氏の別れに、高市があった気がする。タカイチ、コウチ?佐久市に、北耕地、南耕地の字名がある。どう変化したか?
平井
2021年10月21日 19:06
100を以って終了と宣言しましたが、何か言いたくなるムシが、騒いで前言撤回でお願いします。申し訳ないですが!
平井
2021年12月06日 20:11
八風山の尾根伝い香坂山から、数万年前の石器が発掘された。伊勢の八風峠あたりで、同時代頃の石器が出土すれば!伊勢津彦が風に乗って八風山に降り立った。伊勢風土記が、現実的に、交流があった地域となる。 
 元伊勢は、伊勢津彦の本管地を意味するか?日御崎神社が、佐久神社。伊勢津彦は元は若狭湾を支配していて、後に今の伊勢を支配した。小浜にs姓、近江八幡。伊勢にはない。伊勢にスサノウの荘民将来の伝説がある。上田市国分寺八日堂縁日の荘民将来の
護符がうられる。知多半島の近くに佐久島。伝説の如く伊勢からs姓をなる人々は、関東に移住した。
 昔のインターネットは、雑賀孫六を検索すると鈴木孫六、s姓孫六がヒットしたきがする。いまは、一句だけ?種ヶ島から日本全体に、鉄砲が広まったのs姓の情報伝達網のせい?!
平井
2022年02月19日 21:12
大神が、大賀に変化したならば、賀は神。神武は、神族の王?諏訪一族が、神党を名乗る。敦賀、(滋賀)、甲賀、伊賀、もと神の国?
 福永晋三氏の倭国大乱が、神武の異母長子、すでに大王位についていた大王に反逆して、起こった説!この頃、インターネットで観れなくなった、どの天皇の別れか、わかる嵯峨天皇の時のインターネット版が観れなくなった、また平氏源氏橘、藤原以外は、人間ではない政策が、また、大戦で途絶えたが、また復活の兆しがある、藤原朝廷の復活!朝廷の仲良しクラブ!鹿鳴館の復活。群馬の福田如きが、ワイングラスを片手に、君たちとは違うんですの言葉を聞きながら、中国の足を舐めさせれ、中国人の股下を潜らされて、その先に、林外相外相脚を潜る様股下を広げているのは、我慢できない!先祖逸平が、日本が植民地化しないょいに、東信を指揮したのに?藤原の下衆ども、許さない、
平井
2022年05月06日 21:40
福永晋三氏の設、天日鉾が敦賀現人で?!神后皇后がその関係?数少ない神が先頭につく?神武、以来? 
 諏訪上社の大祝は、儀式の後現人神となる、ツルガアラヒト。現人なのか?伊勢津彦が、関係するようで、70のボケ防止になる気がする。
平井
2022年06月15日 20:00
この間、忍術武田家から真田家への記事が信毎に載った。武田信玄は、わざわざ望月城を攻め、望月氏を滅亡させて娘を信玄の甥と婚姻させ望月姓を名乗らせ、忍軍の長に据える。甲賀に望月姓で九曜紋の家がある。東御市?海野氏の菩提寺の海野氏の墓は、雁金紋?九曜紋家の家臣が用いる紋!真田が滅ぼした真田の本家海野家があっては困る?
 香坂は、春日とも名乗って、佐久の出?望月家を抜くことはできない。真田は、源氏を名乗っていて、天皇家の忍軍の長になって、さぶらうきだ?
平井
2022年06月15日 20:29
真田は、六文銭!九曜の分家だから、州浜か、雁金のはず?それを、六文銭に三文足せば、九曜紋。九曜紋からの分家ではない。本家殺し少しばかりの本家気取り!?
平井
2022年08月25日 21:07
 お盆に来た長男家族と、日本のポンペイ、釜原にドライブして、帰り真田経由で、帰る途中、上田市真田町長の山家神社に立ち寄った。長男が小学生の時にから、真田の山城や、長谷寺に来ているのに、初めてと長男は言う?そう言うわたしも、山家神社の祭神のなかに、神谷井耳が祀られているとの記憶がなかった。井伊直弼を銃撃した、短銃が、奉納されていた新聞記事を読んでいて、のちに加えて武田耕雲斎が、伊賀守を名乗っていたのを知ったばかりだ片井のお堂の、金毘羅大権現の灯籠がある。逸平の父豊次郎の父なのか、喜三郎名が入っている。四国の金毘羅山詣で記念であろう。山家神社の社殿の裏に、社殿を一周できる、経路を大山積を祀る祠がある、総じて四国とも関係あるのか!
平井
2022年09月19日 20:13
 不眠症と言うか、一度起きるとなかなか寝ることができないで、YouTubeをイヤホーンで聞いていると、上野守がいないのは、親王が群馬千葉栃木の支配者となる為、豊城入彦に習って!亮が最上位の民間の位?とかの説明を聞いた。ならば親王は、九州の宇佐八幡の北、上毛郡、下毛郡のあった地域に、崇神天皇がいた。巴紋を使う、大森氏、宇都宮氏、宇佐八幡。天皇家は、九州出と言うことになる。
平井
2022年10月25日 20:06
野田元総理大臣に、敬意の念を抱く。
なんらかの理由で、九州から逃れてきた物部の一族が流れついたのが、今の千葉県? 
 高校時代の同級生に、依田がおり望月の式部で代々神主を務めてた、一族である。依田が野田家に養子に行って、野田家も、依田も一緒だと言っていた。野田醤油、重田醤油、キッコウマン醤油。この間長男の誘いで、伊豆土肥温泉に行った、途中三島大社に寄った。キッコウ紋であり、事代主をも祭神としている。役行者を祭る、伊豆や秩父の平家は、物部ではないか、秩父の、横山党。千葉の九曜紋の千葉氏。千葉県の茂原から、佐久市跡部の茂原氏、跡部姓名に元茂原?重田も千葉から?
平井
2022年10月25日 20:44
 佐久市根岸竹田の重田守国が徳川家康の忍者で江戸城天守を守る任についている。その重田家の紋と、安倍晋三元首相家の紋と同じ梶の葉一本。重田家の先祖に五郎左衛門があり、武田勝頼から布引観音寺の寺領をあてがはれる瀬下采女の流れ瀬下五郎ダイュウ家が田野口藩の苗字帯刀を許された藩の御用達の家。重田家は縁組する。その一族から昭和初期恐慌の頃、三菱銀行の会長をやる瀬下清がでる。森永製菓を二度も助ける。これも何かの繋がりがありな、なしや。安倍晋三さんとは、一眼会いたかった、感涙!
平井
2023年01月05日 19:55
正月の信毎に、長野篠井で遠賀川式土器?長野県の村上氏は、片井とともに四世紀頃、宗像あたりから?
平井
2023年03月13日 19:56
 仙台のk氏は、イバラ藤に井形らしい。慶長の使節団に通じる何か根本的な?なにか!
平井
2023年04月04日 20:09
 醤油と言えば、魚醤。縄文土器が海水の中したして真水維持することができるか?真水を維持できれば、長い航海も可能?海で使う目的ならば陸では、発見されない?  
 新潟の海から潮に乗れば、オホウック、ウラジォストック、半島、対馬、北九州、出雲。対岸に縄文土器が出るのが必然だか?大陸半島は、別種なれば、期待すべきもなく!
平井
2023年04月05日 21:11
 江戸期東信の神職家が、神職から離脱する。松島神社の畠山和泉守家、鷹野家に宮司を譲る。八幡の松田家職から離れる。跡部の堀籠家。同じく、瀬戸の柳沢家。小宮山の畠山。専門に調べてたのではないのであるが、天皇家が、天照の一神教に特化して、それまでの神仏習合を廃すことを、察知した動きなのか?片井は、八幡宿に、和宮を迎え多様に、公武合体、が本筋。ある意味武家が、一丸で?あまりにも、海外の情報が過多になり、海外の資金過多になり、思惑が過多なり、落ちつくところ、まずまず?というべきか!
平井
2023年04月08日 21:51
 旅客機墜落の山は、高間原山尾根が正しく、上野村の当時村長の意向だかで、御巣鷹山尾根になったとか?日本の民主主義は、平安時代を武士が鎌倉時代に変革できたからと、小県郡依田城、信濃の武士が、貴族政治に反旗の旗をあげたから、石附次郎はが先祖?石寸イワレビコ
平井
2023年04月15日 21:58
 立科町山部の津金寺、行基開基と伝わる。長野市の善光寺も行基開基、善光寺縁起に、九州年号?難波の池で、捨てられていた、仏像を本田善光が、飯田に運び、長野市に移るて現在にいたる。小諸市に本田姓あり。ある意味家康が天下とり、家臣集団の浄土宗に、天台宗の善光寺に被せた可能性がある。難波の池は、九州のみやこの、川辺の池?その川の名は犀川?行基も九州の人?長野市に石堂町、佐久春日の山に石堂の地名、みやこに、石堂ありや?みやこの、たち澤瀉の松尾先輩は、大山祇の系統?
平井
2023年04月15日 22:49
 佐久市八幡の神社本殿が今は、高良社となっている。望月あたりの伊勢神社で修行した神主は、韓国系の神と言う?渡来系神と由緒書きに書いてある。八幡の分家神社であろう千曲市の武水別神社の所在地は、ヤワタであり、境内にやはり高良社がある。戸倉のサラシナ神社境内にも、高良社。九州の高良玉神社に、軒先を貸して母屋を取られる的な話がある。九州王朝説で、豊の国と筑紫国の交代論がある。高良社を祀るのは、筑紫国系?伊勢王?になる!
2023年04月29日 20:03
 立科町山部の津金寺、別名片栗の寺、カタクリ粉の袋に五角で片が書かれている。片井はその字を書く!信玄に焼かれた説あるが、芦田城の依田が家来なっているので疑問である。依田家松平家改易後、北陸の雄藩に身を寄せる。芦田姓に変えて。跡部武田耕雲斎。福井藩松平家を頼るか?
 福岡県みやこ町の石堂池が善光寺秘仏の捨てられていた池?
平井
2023年04月30日 20:21
 信玄が焼いた寺は、佐久市安原の安養寺?信玄は、津金寺の庇護した。寺の前に信玄が、腰掛けた伝承の石。焼いたのは、信長の手勢!信長が諏訪の神宮寺を焼き払って、芦田城の依田に、諏訪に出向けの命が出る。それを知った家康、依田信藩に諏訪に出向けば、殺されるので、出向くな 、の伝言を家康の忍者、信藩の従兄弟の重田守国をして伝えて、匿う!もう一人の真田?市川先生の著による。先生の田野口藩陣屋は日記は、わたしの郷土研究の指針となった。平井村貧村となると日記にある。それが、片井の宗家の家が絶えたことを指すのか?平井村逸平が帰村願い、三塚の五郎大夫倅芳次商い願いこれらは、地侍の管理関係か?
平井
2023年08月05日 03:15
佐久の英多神社は、福岡県の英彦山神社と同じ読み方でいいのでは?たまたは、おおしまたは多い。正に神武の別れ多氏。その神社の社人に白川氏!英彦山近くに白川姓!古くは天皇家において、白川神道が重んじられた。みやこは天皇家発祥地?佐久の人々の故郷か?
平井
2023年11月14日 20:01
八幡の親戚に上田神川の近くの太田姓のうちがある。八幡の家は、戒名が斎号。神八井耳は異母兄を殺せなかったので大王になれなかった。祭司となる。多、飯富は、オウ、斎王の意味か、岩村田の大井城、王城とも言う?元古墳か?耳が付く名は、出雲系に多い。長官が耳、副官が耳なり、八幡の成澤は、副官か?投馬国はどこ?また!
平井
2024年05月12日 19:41
余り進展はないですが、重田と伊勢の着く地名あるところにあるはべくしてあった!佐久市根岸糠尾に伊勢山!糠尾は重田の村、その重田の墓地のある高台が、伊勢山。
 水戸市飯富町に大井神社、主祭神建借金命カシマ。昔小諸駅前が鹿島町、鹿島神社があった。今は移築して、懐古園の隣?小諸市芝生田に多古神社、香取神宮の近くに多古町がある。ではつづくと言うことでたま
平井
2024年05月28日 10:59
 根岸の根際神社より平井の諏訪下社は北側にある。諏訪の上社は、下社より南である。諏訪湖を囲んで、平井は、小字尾岸を囲んで、岸を囲んだ所モデルがある?YouTubeのふどきさんの様に妄想解釈すると!伊勢津彦のふるさと伊勢の北側にある神社が下社にあたる。熱田神宮?敦賀湾で元伊勢の北側の神社に熱田はない、あるのは剣神社。伊勢湾の北側にも剣神社がある。根際神社が伊勢津彦で重田。平井の片井がカムヤイミミ。尾張氏は飯富氏だという。合うのである。水戸大井神社祭神建借金命は仲国造、那珂、剣神社の祭神は天御中主、カムヤイミミは、御中主の子孫?神武の子は作り話。伊都国糸島とすればその近くに那珂川市がある。天御中主は、伊都国の国王その系統のカムヤイミミの後が多氏を名乗る?諏訪上社の北に八剱神社はあるが、剣神社とは違う?次は伊都国?また
平井
2024年06月04日 01:16
伊都の姓ありました。伊達神社のある所の水系を川上へ行くと、武人の聖地?造化三神の系統の比売?報告まで!
平井
2024年06月19日 04:06
 まずは伊都國ありき、次にこうやの宮。カムヤイミミの東征が始まる。和歌山紀ノ川を上ると高野山。吉野。伊都に丹生都比売を祀る。大和に入って石上の神を祀る。春日にて王権を結ぶ。一部が丹羽へ高野比売、後に石附と片井の地名を持って佐久に入る。高良玉も伊都国の関係?
平井
2024年07月13日 07:02
丹生酒殿神社の境内の鎌八幡宮は、昔昔諏訪神社があった証?伊勢津彦の支配地?下社秋宮の前の坂が八幡坂。片井が八幡の神社に関係して、平井で下社上社二つの諏訪神社を祀るのと同じか?石川県に鎌宮諏訪神社がある。紀の川添いに那賀郡。加賀、敦賀、多賀、甲賀、伊賀、大賀、那賀、雑賀これら伊勢津彦の旧地?では佐賀の伊都国?寛政時代沓沢村の丸山今都が片井の大日堂に畑地五斗蒔をきしん永代祀る位牌。??また
平井
2024年09月21日 08:56
 平井城跡へ行きました。北信の武士か?井上高梨氏の墓所あり、平井の曽利に井上与惣治の墓がある。江戸末陣屋日記に村境で与惣治賭博を開く?倒幕運動? 望月宿の隣に茂田井がありそこの無量寺に井上氏の古い墓?
 平井城は 飛石砦がまだ観てないので次の機会また詳しく観たいものだ!また
平井
2024年10月15日 13:21
記憶しているには、甲賀の望月氏と諏訪氏ともに平将門の乱に功があって、甲賀の地を与えられた言い伝えがあるみたいです。この間塩田城の前を通過して別所温泉に行ってきた。執権北条が塩田に城を構える。近くに手塚がある、木曽に従った手塚の地?執権北条、関東管領上杉も多氏を押さえ込む役目と保護する役目があった??

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