久留里藩主黒田家の系譜
一般に宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏というと外様大名の筑前福岡藩主黒田家が有名だが、実は譜代大名である久留里藩主黒田家も先祖が近江出身であり、宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏の子孫の可能性がある。
『寛政重修諸家譜』によれば久留里藩主黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱(信濃守)に始まり、定綱の子広綱のとき黒田氏に改めたという。寛政譜では黒田氏を橘氏に分類しており、大橘氏は名字ではなく氏姓と分かる。家紋は木瓜であり、橘姓も名乗る浅井氏との関係を連想させる。
尾張浅井氏は近江浅井氏と同族と伝え、また橘姓田中氏の子孫ともいう(寛政譜)。そうであれば、豊臣系大名田中吉政とも同族になる。定綱が橘氏を名乗ったのは、黒田氏の氏姓が橘氏なのではなく、京極氏没落後に浅井氏に仕えていたためとも考えられる。
あるいは黒田氏が丹党中山氏から養子直邦を迎えて、中山氏の氏姓丹治比氏を名乗ったという黒田系図の特徴を考えると、黒田広綱の実父大橘定綱の氏姓橘氏をそのまま名乗ったとも考えられる。ひとつの家が多くの氏姓を名乗ることは多く、系譜伝承研究はよく混乱に陥る。しかし黒田氏の事例から、多くの氏姓を名乗る理由は、養子が実家の氏姓を名乗るからと考えられ、今後はそのような視点で系譜伝承を見る必要があるだろう。
実際に旗本佐々木氏には清和源氏頼親流があるが、これも頼親流宇野氏が外家の佐々木氏を名乗った後も氏姓は清和源氏頼親流としていたためである。
また大橘定綱の名乗りは、六角定頼の一字書出と推測できる。さらに黒田氏を名乗った定綱の子息広綱(民部・信濃守)の名乗りは、京極高広の一字書出の可能性もある。寛政譜では広綱は故あって黒田氏を名乗ったと伝えるが、子孫の旗本黒田家が「源右衛門」を通称としており、京極庶流黒田氏の名跡を継いだものと考えられる。宇多源氏黒田氏を名乗りながらも、実父定綱の橘氏を伝えたことになる。
黒田久綱の系譜
寛政譜では広綱の子息黒田久綱(半兵衛・監物)のとき駿河今川氏に属したといい、孫光綱(蔵人・五左衛門)の生国は駿河と伝えられている。しかし曾孫直綱は慶長5年(1600)に近江で生まれ、また久綱の女婿富田一白も近江出身であり、本国は近江であったと分かる。
久綱の名乗りは六角義久(系譜上の義実)の一字書出と考えられる。京極氏没落後、京極高慶(五郎殿、のち高吉)は六角氏一族衆になっており、久綱も当初は六角氏に仕えていたのだろう。
寛政譜では久綱の妻は熊谷備中守直之女という。久綱の舅は熊谷備中守を名乗ることから、鎌倉幕府滅亡時の六波羅探題攻めの功で三河八名郡に所領を給付された熊谷直鎮(備中守)の子孫で、室町幕府奉公衆の近江熊谷氏(浅井郡塩津)と考えられる。その子孫熊谷直純(備中守)は足利義政に幕府財政については異見を述べたことで追放されており、その一族が三河に下向したと考えられる。久綱はこの熊谷備中守の女婿であったために、今川氏に属したという系譜伝承が生まれたのだろう。
この備中守直之という人物は、三河熊谷氏の子孫高力氏の系図(『寛政譜』桓武平氏維将流)に見ることができない。寛政譜によれば重実のとき三河に下向して、その子兵庫入道実長は、享禄3年(1530)松平清康に宇利城を攻められて没落したという。その実長の長男兵庫頭直安は父とともに没落し、孫直次は今川氏真に仕えたという。それに対して実長の次男新三正長(直長)は三河高力郷に移住して、その子備中守重長が松平清康に仕えたという。
久綱は熊谷氏の女婿であったために、三河と縁ができたといえよう。
久綱の女子には富田一白室と近藤康用妻がある。子息光綱のとき徳川家康に属して、三河八名郡黒田郷に住んだという。三河黒田郷は名字の地ではないようだ。ただし、もともと三河黒田郷が所領のひとつであった可能性もある。
光綱の妻は岡部五郎兵衛長孝女という。これは岡部五郎兵衛元信の別名長教を「長孝」と誤り伝えたものだろう。寛政譜によれば光綱は家康の奥方の番という。この奥方が築山殿を指すのか豊臣秀吉の妹朝日姫を指すのかは不明だが、女佐臣として徳川家に仕えたと分かる。久綱が今川家に属していたことを考えれば、築山殿の女佐臣と考えるのが自然であろう。
男子のうち直定・直光・直武は早世して、末子直綱が家督を継いだ。直綱が近江で生まれたことを考えると、父光綱は今川氏真没落、あるいは築山殿・信康母子自害後に本国近江に蟄居したと考えられる。
光綱の女子が家康女房に、子息直綱が家康小姓になることで徳川家に再仕したが、家康女房になっていた光綱女ももともとは家康の奥方に仕えていたのかもしれない。
黒田久綱の女婿富田一白
久綱には男子光綱のほか、富田一白室と近藤康用妻の女子があった。
富田一白(生年不詳~1599)は近江出身で、『寛政重修諸家譜』によれば隠岐佐々木泰清の三男富田義泰の子孫と伝える。出雲守護京極氏に仕えていたが、尼子経久に追われて京極氏とともに旧領近江に逃れた者の子孫という。
また近江江辺(江部)荘下司として、富田秀貞・京極導誉を確認でき(佐々木文書)、富田氏が近江に権益を有していたことが分かる。美作守護に補任されていた秀貞は、隠岐氏が元弘の変で滅亡し、塩冶氏が南北朝期に高師直の讒言で滅亡した後には、隠岐佐々木氏の嫡流を自任し、自らの名字の地出雲国富田郷のある出雲守護職をめぐり導誉と対立して南朝に降りたこともある。江辺荘下司職が導誉に替えられたのも、そのためだろう。出雲富田郷には後に出雲尼子氏が本拠とした富田月山城がある。秀貞の子弾正少弼直貞も隠岐佐々木氏の嫡流を自任し、一時隠岐守護に補任されている。
この富田氏は「とだ」と読み、滋賀県に多く分布する戸田氏は、近江にも権益を有していた富田氏の子孫の可能性もある。
しかし富田一白は左近将監を名乗る以前は「平右衛門尉」と名乗り、また嫡子信高も従四位下信濃守叙任以前には平九郎を名乗っており、伊勢平氏富田進士家助(家資)の子孫とも考えられる。
富田進士は伊賀平氏の乱を起こして伊賀守護大内惟義を破り、さらに近江甲賀郡に侵入したところ、近江守護佐々木秀義・義清父子に撃退された。ただし秀義も矢に当たり戦死している。
富田進士の子孫である伊勢梅戸氏は、六角高頼の末子高実を養子に迎えており、一白もこの伊勢富田氏の一族であった可能性がある。彼が豊臣政権で外交担当として活躍していることを考え合わせれば、室町幕府奉公衆梅戸氏の一族と考えられよう。そうであれば、富田文書にあるように信長以前には室町幕府に仕えていたことや、また平氏ではなく佐々木氏を名乗ることも理解できる。さらに彼がのちに伊勢国安濃津城主になったことも、伊勢に縁故があったことを示していよう。
一白は本能寺の変後に羽柴秀吉に従い、秀吉の使者として活躍し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄との和議の使者、つづく秀吉の妹・朝日姫と家康との縁組の実現を担当した。また小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城争奪戦における北条氏直への問責、伊達政宗との奥州仕置に関する交渉にも当たった。
一白の娘が徳川家康の家臣近藤康用の末子用勝に嫁ぎ、また嫡子信高の妻が小田原北条家臣大森左近女であることから、一白は外交交渉で相手方と縁戚を結んで信用を得ていたと考えられる。富田家はいちど断絶するが、信高の子息知儀が旗本として富田家を再興する。この知儀の母は、寛政譜によれば大森氏である。
一白は朝鮮出兵にも参加しており、秀次事件では浅野長政が謹慎を命じられたとき五奉行の職務を代行した。
慶長4年(1599)の隠居に先立ち伊勢安濃津に3万石、嫡男信高にも2万石が与えられたが、関が原の戦いを前にまもなく病没している。
富田一白の女婿近藤用勝
黒田久綱のもう一人の女子が近藤康用妻だが、さらに富田一白女も、前述のように近藤康用の末子用勝(平右衛門)に嫁いでいる。近藤家は二代にわたり黒田家と縁が結ばれたことが分かる。
近藤康用の長男秀用(1547~1631)は上野邑楽郡青柳藩主(一万五千石)、さらに遠江井伊谷藩主(一万五千石)となったが、所領を子息季用・用可・用義に分け与えたため、井伊谷藩は秀用一代で終わり、近藤家は旗本として存続している。
また一白の女婿である末子用勝は始め徳川家康に仕え、のち紀伊頼宣に属した。近藤家は今川家旧臣であったが桶狭間の戦い後、菅沼氏とともに徳川家に仕えていた。紀伊頼宣は家康在世中ともに駿府にあったため、今川家旧臣の多くが紀伊家に仕えている。
この用勝と一白女子の間に生まれた用綱(源右衛門)が、黒田直綱の養子になる。
黒田直綱の系譜
『寛永諸家系図伝』によれば、黒田直綱は慶長5年(1600)に黒田光綱の子として近江に生まれ、慶長19年(1614)に徳川家康の小姓となり、大坂の陣に参戦したという。元和元年(1615)11月15日に伊豆国田方郡、相模国鎌倉郡、足柄下郡を加増されて、三河国内1000石と合わせて4000石を領し、元和元年7月従五位下信濃守となった。しかし寛永元年(1624)4月19日わずか25歳で没し、富田一白の女婿近藤用勝の六男黒田用綱(源右衛門)が養子として家督を継いだ。墓所は江戸浅草新光明寺にある。
黒田用綱の系譜
用綱(源右衛門)は紀州藩士近藤用勝の六男として生まれた。祖母が黒田久綱女で、母は富田一白女であったため、若くして没した黒田直綱の養子となった。
用綱は寛永元年(1624年)に家督を継ぎ、将軍徳川秀忠に拝謁する。寛文元年(1661)、徳川綱吉が上野館林に立藩したのにともない家老となり3000を給付される。このとき本知1220石は三男直綱が継承して、寄合に列した。
用綱の長男三十郎は早世し、次男左京も早世、三男直常は父用綱が神田館に仕えたため本知を継承して直臣にとどまった。直常の妻は水野越中守忠久女である。四男直達は綱吉の側用人牧野成貞の婿養子となり牧野成時を名乗るが、若くして没している。女子ひとりが中山直張に嫁ぎ、その三男直邦を養子とした。
黒田直邦の系譜
直邦は、寛文6年(1666)12月27日に旗本中山直張の三男として生まれ、外祖父黒田用綱の養子となり、延宝8年(1680)徳川綱吉の嫡子徳松の側近として仕えた。徳松の早世後は小納戸役や小姓を歴任。徳川綱吉に寵愛されて元禄9年(1696)には7000石に加増され、元禄13年(1700)1万石を領して大名に列する。元禄16年に常陸下館に封ぜられ、享保8年(1723年)には奏者番で寺社奉行を兼任した。享保17年3月に常陸下館から上野沼田に移封され、同年に武蔵国内で5000石を加増された。正室は柳沢吉保の養女(折井正利の娘)であった。このことでも綱吉の信任が厚かったことが分かる。享保20年(1735)3月26日、江戸で死去し、後を養嗣子の直純が継いだ。
墓所は埼玉県飯能市の能仁寺(曹洞宗)だが、これは実家中山氏の菩提寺であり、譜代大名黒田氏は『寛政重修諸家譜』でも中山氏の出自とされ、丹治比氏に分類される。
黒田直基の系譜
直基(1708~1721)は、旗本滝川元長の長男として生まれた。黒田直基の実家滝川氏は甲賀衆大原資征を祖とする近江出自の家系である。大原資征は、尾張で橘姓浅井政貞(信濃守)に仕えて、木全光信女を室に迎えて木全氏(紀氏)を名乗った。そののち木全征詮・忠澄・忠征と続き、忠征のとき滝川一益に仕えて滝川氏を許された。そののち法直・直政・征盛・元長と続き、元長の妻が中山直守養女(直張女)であったため、その長男直基が黒田直邦の婿養子になった。
直基は、享保元年(1716年)に従五位下対馬守に叙任される。しかし、享保6年(1721)に早世したため、本多正矩の次男直純が直邦の婿養子となり家督を継いだ。
黒田直純の系譜
直純は、宝永2年(1705年)4月23日に本多正矩の次男として江戸で生まれた。黒田直基が早世したため、その未亡人(直邦女)と結婚して享保6年(1721)12月に直邦の養嗣子となり、享保20年(1735)に家督を継いで上野沼田藩を襲封した。寛保2年(1742)7月に上野沼田藩から上総久留里藩へ移封され、ここに久留里藩主黒田家が成立した。翌年6月に大坂城在番、そののち奏者番となった。安永4年(1775)閏12月27日に没した(享年71)。その跡は養子直亨(直邦庶子)が継いだ。
直純の子女には、直弘、亀次郎、長吉ら男子と、女子(多度津藩主京極高慶正室)、女子(津軽著高正室)、女子(上田義陳正室のち勝田元忠継室)、女子(三枝守富正室)、女子(杉浦正勝正室)、女子(松平信礼正室)、女子(森光嶢正室)があった。また養子には黒田直亨、養女は黒田直基の娘(本多忠栄正室)があった。このうち多度津藩主高慶の子に福岡藩主黒田治高(母側室林氏)がいる。黒田治之の末期養子に入った。福岡藩主黒田家と久留里藩主黒田家が結ばれたことになる。
黒田直亨の系譜
享保14年(1729)黒田直邦の次男として、江戸常盤橋藩邸で生まれた。享保20年(1735)に父が死去したとき、まだ7歳と幼少で、さらに妾腹の庶子であったため、すでに養子として迎えられていた直純が家督を継いだ。しかし寛保3年(1743)11月には直純の養子に迎えられ、延享元年(1744)12月に従五位下豊前守に叙位されて、安永4年(1775)に家督を継いだ。天明4年(1784)閏1月17日に没した(享年56)。
養子の黒田直弘(直純の長男)が家督相続を辞退したため、長男直英が家督を継承して、黒田久綱以来の黒田氏の血筋は明治維新まで伝えられた。
結び
三河武士には近江出自の者が多い。久留里藩主黒田家もそのひとつである。これら諸家の三河移住の経緯が分かれば、近江源氏の系譜の調査も大いに進むだろう。
また館林藩主徳川綱吉の神田館から、綱吉の将軍就任にともない幕府直臣になった者も多く、綱吉将軍就任が旧家取立ての契機となったことが分かる。
さらに養子が実家の氏姓を名乗ることで、ひとつの家で多くの氏姓が名乗られる理由も理解できる。
『寛政重修諸家譜』によれば久留里藩主黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱(信濃守)に始まり、定綱の子広綱のとき黒田氏に改めたという。寛政譜では黒田氏を橘氏に分類しており、大橘氏は名字ではなく氏姓と分かる。家紋は木瓜であり、橘姓も名乗る浅井氏との関係を連想させる。
尾張浅井氏は近江浅井氏と同族と伝え、また橘姓田中氏の子孫ともいう(寛政譜)。そうであれば、豊臣系大名田中吉政とも同族になる。定綱が橘氏を名乗ったのは、黒田氏の氏姓が橘氏なのではなく、京極氏没落後に浅井氏に仕えていたためとも考えられる。
あるいは黒田氏が丹党中山氏から養子直邦を迎えて、中山氏の氏姓丹治比氏を名乗ったという黒田系図の特徴を考えると、黒田広綱の実父大橘定綱の氏姓橘氏をそのまま名乗ったとも考えられる。ひとつの家が多くの氏姓を名乗ることは多く、系譜伝承研究はよく混乱に陥る。しかし黒田氏の事例から、多くの氏姓を名乗る理由は、養子が実家の氏姓を名乗るからと考えられ、今後はそのような視点で系譜伝承を見る必要があるだろう。
実際に旗本佐々木氏には清和源氏頼親流があるが、これも頼親流宇野氏が外家の佐々木氏を名乗った後も氏姓は清和源氏頼親流としていたためである。
また大橘定綱の名乗りは、六角定頼の一字書出と推測できる。さらに黒田氏を名乗った定綱の子息広綱(民部・信濃守)の名乗りは、京極高広の一字書出の可能性もある。寛政譜では広綱は故あって黒田氏を名乗ったと伝えるが、子孫の旗本黒田家が「源右衛門」を通称としており、京極庶流黒田氏の名跡を継いだものと考えられる。宇多源氏黒田氏を名乗りながらも、実父定綱の橘氏を伝えたことになる。
黒田久綱の系譜
寛政譜では広綱の子息黒田久綱(半兵衛・監物)のとき駿河今川氏に属したといい、孫光綱(蔵人・五左衛門)の生国は駿河と伝えられている。しかし曾孫直綱は慶長5年(1600)に近江で生まれ、また久綱の女婿富田一白も近江出身であり、本国は近江であったと分かる。
久綱の名乗りは六角義久(系譜上の義実)の一字書出と考えられる。京極氏没落後、京極高慶(五郎殿、のち高吉)は六角氏一族衆になっており、久綱も当初は六角氏に仕えていたのだろう。
寛政譜では久綱の妻は熊谷備中守直之女という。久綱の舅は熊谷備中守を名乗ることから、鎌倉幕府滅亡時の六波羅探題攻めの功で三河八名郡に所領を給付された熊谷直鎮(備中守)の子孫で、室町幕府奉公衆の近江熊谷氏(浅井郡塩津)と考えられる。その子孫熊谷直純(備中守)は足利義政に幕府財政については異見を述べたことで追放されており、その一族が三河に下向したと考えられる。久綱はこの熊谷備中守の女婿であったために、今川氏に属したという系譜伝承が生まれたのだろう。
この備中守直之という人物は、三河熊谷氏の子孫高力氏の系図(『寛政譜』桓武平氏維将流)に見ることができない。寛政譜によれば重実のとき三河に下向して、その子兵庫入道実長は、享禄3年(1530)松平清康に宇利城を攻められて没落したという。その実長の長男兵庫頭直安は父とともに没落し、孫直次は今川氏真に仕えたという。それに対して実長の次男新三正長(直長)は三河高力郷に移住して、その子備中守重長が松平清康に仕えたという。
久綱は熊谷氏の女婿であったために、三河と縁ができたといえよう。
久綱の女子には富田一白室と近藤康用妻がある。子息光綱のとき徳川家康に属して、三河八名郡黒田郷に住んだという。三河黒田郷は名字の地ではないようだ。ただし、もともと三河黒田郷が所領のひとつであった可能性もある。
光綱の妻は岡部五郎兵衛長孝女という。これは岡部五郎兵衛元信の別名長教を「長孝」と誤り伝えたものだろう。寛政譜によれば光綱は家康の奥方の番という。この奥方が築山殿を指すのか豊臣秀吉の妹朝日姫を指すのかは不明だが、女佐臣として徳川家に仕えたと分かる。久綱が今川家に属していたことを考えれば、築山殿の女佐臣と考えるのが自然であろう。
男子のうち直定・直光・直武は早世して、末子直綱が家督を継いだ。直綱が近江で生まれたことを考えると、父光綱は今川氏真没落、あるいは築山殿・信康母子自害後に本国近江に蟄居したと考えられる。
光綱の女子が家康女房に、子息直綱が家康小姓になることで徳川家に再仕したが、家康女房になっていた光綱女ももともとは家康の奥方に仕えていたのかもしれない。
黒田久綱の女婿富田一白
久綱には男子光綱のほか、富田一白室と近藤康用妻の女子があった。
富田一白(生年不詳~1599)は近江出身で、『寛政重修諸家譜』によれば隠岐佐々木泰清の三男富田義泰の子孫と伝える。出雲守護京極氏に仕えていたが、尼子経久に追われて京極氏とともに旧領近江に逃れた者の子孫という。
また近江江辺(江部)荘下司として、富田秀貞・京極導誉を確認でき(佐々木文書)、富田氏が近江に権益を有していたことが分かる。美作守護に補任されていた秀貞は、隠岐氏が元弘の変で滅亡し、塩冶氏が南北朝期に高師直の讒言で滅亡した後には、隠岐佐々木氏の嫡流を自任し、自らの名字の地出雲国富田郷のある出雲守護職をめぐり導誉と対立して南朝に降りたこともある。江辺荘下司職が導誉に替えられたのも、そのためだろう。出雲富田郷には後に出雲尼子氏が本拠とした富田月山城がある。秀貞の子弾正少弼直貞も隠岐佐々木氏の嫡流を自任し、一時隠岐守護に補任されている。
この富田氏は「とだ」と読み、滋賀県に多く分布する戸田氏は、近江にも権益を有していた富田氏の子孫の可能性もある。
しかし富田一白は左近将監を名乗る以前は「平右衛門尉」と名乗り、また嫡子信高も従四位下信濃守叙任以前には平九郎を名乗っており、伊勢平氏富田進士家助(家資)の子孫とも考えられる。
富田進士は伊賀平氏の乱を起こして伊賀守護大内惟義を破り、さらに近江甲賀郡に侵入したところ、近江守護佐々木秀義・義清父子に撃退された。ただし秀義も矢に当たり戦死している。
富田進士の子孫である伊勢梅戸氏は、六角高頼の末子高実を養子に迎えており、一白もこの伊勢富田氏の一族であった可能性がある。彼が豊臣政権で外交担当として活躍していることを考え合わせれば、室町幕府奉公衆梅戸氏の一族と考えられよう。そうであれば、富田文書にあるように信長以前には室町幕府に仕えていたことや、また平氏ではなく佐々木氏を名乗ることも理解できる。さらに彼がのちに伊勢国安濃津城主になったことも、伊勢に縁故があったことを示していよう。
一白は本能寺の変後に羽柴秀吉に従い、秀吉の使者として活躍し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄との和議の使者、つづく秀吉の妹・朝日姫と家康との縁組の実現を担当した。また小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城争奪戦における北条氏直への問責、伊達政宗との奥州仕置に関する交渉にも当たった。
一白の娘が徳川家康の家臣近藤康用の末子用勝に嫁ぎ、また嫡子信高の妻が小田原北条家臣大森左近女であることから、一白は外交交渉で相手方と縁戚を結んで信用を得ていたと考えられる。富田家はいちど断絶するが、信高の子息知儀が旗本として富田家を再興する。この知儀の母は、寛政譜によれば大森氏である。
一白は朝鮮出兵にも参加しており、秀次事件では浅野長政が謹慎を命じられたとき五奉行の職務を代行した。
慶長4年(1599)の隠居に先立ち伊勢安濃津に3万石、嫡男信高にも2万石が与えられたが、関が原の戦いを前にまもなく病没している。
富田一白の女婿近藤用勝
黒田久綱のもう一人の女子が近藤康用妻だが、さらに富田一白女も、前述のように近藤康用の末子用勝(平右衛門)に嫁いでいる。近藤家は二代にわたり黒田家と縁が結ばれたことが分かる。
近藤康用の長男秀用(1547~1631)は上野邑楽郡青柳藩主(一万五千石)、さらに遠江井伊谷藩主(一万五千石)となったが、所領を子息季用・用可・用義に分け与えたため、井伊谷藩は秀用一代で終わり、近藤家は旗本として存続している。
また一白の女婿である末子用勝は始め徳川家康に仕え、のち紀伊頼宣に属した。近藤家は今川家旧臣であったが桶狭間の戦い後、菅沼氏とともに徳川家に仕えていた。紀伊頼宣は家康在世中ともに駿府にあったため、今川家旧臣の多くが紀伊家に仕えている。
この用勝と一白女子の間に生まれた用綱(源右衛門)が、黒田直綱の養子になる。
黒田直綱の系譜
『寛永諸家系図伝』によれば、黒田直綱は慶長5年(1600)に黒田光綱の子として近江に生まれ、慶長19年(1614)に徳川家康の小姓となり、大坂の陣に参戦したという。元和元年(1615)11月15日に伊豆国田方郡、相模国鎌倉郡、足柄下郡を加増されて、三河国内1000石と合わせて4000石を領し、元和元年7月従五位下信濃守となった。しかし寛永元年(1624)4月19日わずか25歳で没し、富田一白の女婿近藤用勝の六男黒田用綱(源右衛門)が養子として家督を継いだ。墓所は江戸浅草新光明寺にある。
黒田用綱の系譜
用綱(源右衛門)は紀州藩士近藤用勝の六男として生まれた。祖母が黒田久綱女で、母は富田一白女であったため、若くして没した黒田直綱の養子となった。
用綱は寛永元年(1624年)に家督を継ぎ、将軍徳川秀忠に拝謁する。寛文元年(1661)、徳川綱吉が上野館林に立藩したのにともない家老となり3000を給付される。このとき本知1220石は三男直綱が継承して、寄合に列した。
用綱の長男三十郎は早世し、次男左京も早世、三男直常は父用綱が神田館に仕えたため本知を継承して直臣にとどまった。直常の妻は水野越中守忠久女である。四男直達は綱吉の側用人牧野成貞の婿養子となり牧野成時を名乗るが、若くして没している。女子ひとりが中山直張に嫁ぎ、その三男直邦を養子とした。
黒田直邦の系譜
直邦は、寛文6年(1666)12月27日に旗本中山直張の三男として生まれ、外祖父黒田用綱の養子となり、延宝8年(1680)徳川綱吉の嫡子徳松の側近として仕えた。徳松の早世後は小納戸役や小姓を歴任。徳川綱吉に寵愛されて元禄9年(1696)には7000石に加増され、元禄13年(1700)1万石を領して大名に列する。元禄16年に常陸下館に封ぜられ、享保8年(1723年)には奏者番で寺社奉行を兼任した。享保17年3月に常陸下館から上野沼田に移封され、同年に武蔵国内で5000石を加増された。正室は柳沢吉保の養女(折井正利の娘)であった。このことでも綱吉の信任が厚かったことが分かる。享保20年(1735)3月26日、江戸で死去し、後を養嗣子の直純が継いだ。
墓所は埼玉県飯能市の能仁寺(曹洞宗)だが、これは実家中山氏の菩提寺であり、譜代大名黒田氏は『寛政重修諸家譜』でも中山氏の出自とされ、丹治比氏に分類される。
黒田直基の系譜
直基(1708~1721)は、旗本滝川元長の長男として生まれた。黒田直基の実家滝川氏は甲賀衆大原資征を祖とする近江出自の家系である。大原資征は、尾張で橘姓浅井政貞(信濃守)に仕えて、木全光信女を室に迎えて木全氏(紀氏)を名乗った。そののち木全征詮・忠澄・忠征と続き、忠征のとき滝川一益に仕えて滝川氏を許された。そののち法直・直政・征盛・元長と続き、元長の妻が中山直守養女(直張女)であったため、その長男直基が黒田直邦の婿養子になった。
直基は、享保元年(1716年)に従五位下対馬守に叙任される。しかし、享保6年(1721)に早世したため、本多正矩の次男直純が直邦の婿養子となり家督を継いだ。
黒田直純の系譜
直純は、宝永2年(1705年)4月23日に本多正矩の次男として江戸で生まれた。黒田直基が早世したため、その未亡人(直邦女)と結婚して享保6年(1721)12月に直邦の養嗣子となり、享保20年(1735)に家督を継いで上野沼田藩を襲封した。寛保2年(1742)7月に上野沼田藩から上総久留里藩へ移封され、ここに久留里藩主黒田家が成立した。翌年6月に大坂城在番、そののち奏者番となった。安永4年(1775)閏12月27日に没した(享年71)。その跡は養子直亨(直邦庶子)が継いだ。
直純の子女には、直弘、亀次郎、長吉ら男子と、女子(多度津藩主京極高慶正室)、女子(津軽著高正室)、女子(上田義陳正室のち勝田元忠継室)、女子(三枝守富正室)、女子(杉浦正勝正室)、女子(松平信礼正室)、女子(森光嶢正室)があった。また養子には黒田直亨、養女は黒田直基の娘(本多忠栄正室)があった。このうち多度津藩主高慶の子に福岡藩主黒田治高(母側室林氏)がいる。黒田治之の末期養子に入った。福岡藩主黒田家と久留里藩主黒田家が結ばれたことになる。
黒田直亨の系譜
享保14年(1729)黒田直邦の次男として、江戸常盤橋藩邸で生まれた。享保20年(1735)に父が死去したとき、まだ7歳と幼少で、さらに妾腹の庶子であったため、すでに養子として迎えられていた直純が家督を継いだ。しかし寛保3年(1743)11月には直純の養子に迎えられ、延享元年(1744)12月に従五位下豊前守に叙位されて、安永4年(1775)に家督を継いだ。天明4年(1784)閏1月17日に没した(享年56)。
養子の黒田直弘(直純の長男)が家督相続を辞退したため、長男直英が家督を継承して、黒田久綱以来の黒田氏の血筋は明治維新まで伝えられた。
結び
三河武士には近江出自の者が多い。久留里藩主黒田家もそのひとつである。これら諸家の三河移住の経緯が分かれば、近江源氏の系譜の調査も大いに進むだろう。
また館林藩主徳川綱吉の神田館から、綱吉の将軍就任にともない幕府直臣になった者も多く、綱吉将軍就任が旧家取立ての契機となったことが分かる。
さらに養子が実家の氏姓を名乗ることで、ひとつの家で多くの氏姓が名乗られる理由も理解できる。
この記事へのコメント
>(治之の末期養子)がいる。福岡藩主
>黒田家と久留里藩主黒田家が結ばれたこと
>になる。
黒田治高の母は側室であるため、久留里藩主黒田家との血縁はありません。
しかし家と家の結びつきがありますので、述べさせていただきました。側室の子であるために血のつながりはないにもかかわらず、養子に入るということは江戸時代にはよくありましたので、そのような判断です。
黒田家は、黒田治高の前藩主治之(一橋宗尹5男)が入ったことで黒田家の血筋が絶え、さらに治之の末期養子で治高が入り、治高も末期養子斉隆(一橋宗尹孫)を取っているので、どちらにしても血はつながっていないことも知ったうえで、家のつながりで述べました。
分かりますか。どの文献でしょうか。
返事が遅れ、申し訳ありません
福岡藩主黒田長知(慶賛)のことですね。版籍奉還で知藩事になったころに、長知と改名したのですよね。
正室が黒田長溥女理玖子、継室が松定和女豊子です。嫡子長成は正室理玖子の子です。長成は1867年生で、明治生まれの弟長和(1881年生、直方黒田男爵家)・妹禎子(1882年生、侯爵鍋島直映室)・弟長敬(1885年生、秋月黒田子爵家)とは年齢差があるように、異母兄弟だったようです。母は未詳です。
江戸時代の資料では嫡子長成までしか記されていませんので、明治・大正期の華族家系体系を見た方がいいでしょうね。
長和 禎子 長敬 は異母兄弟ですか。
版籍奉還、廃藩置県後の、
黒田藩の福岡城に黒田の子孫や
その異母も入っていたと考えられますか。
異母や継室やその子孫が民間に嫁いだこともあったのでしょうか。
ヨーロッパは同じ身分どうしでなければ結婚できませんでしたし、庶子には相続権がありませんでした。しかし日本では、庶子でも認知されていれば相続できました。
黒田家の場合、長和も長敬も他家を再興・継承して、それぞれ男爵・子爵になり、禎子は鍋島直映に嫁いでいます。家督ではありませんが、それぞれ華族になっています。
それに対して秩父宮妃殿下の実父松平恒雄氏は、松平容保の六男だったため、華族ではなく平民で外交官でした。そこで叔父保男(子爵)の養女となって秩父宮と婚姻しています。