文庫版『戦国大名血脈系譜総覧』10月発刊予定!!
六角氏の系譜
六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。
室町期には三代将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また六代将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめ、嘉吉の土一揆(嘉吉元年〈一四四一〉)では黒幕であった。文安の乱(文安二年〈一四四五〉)では満綱・持綱父子が自殺して衰退し同族京極氏の介入を招くが、応仁・文明の乱(応仁元~文明九年〈一四六七~七七〉)で高頼が活躍して再び盛り返した。足利義尚・義稙二代の将軍親征を受けたが(長享・延徳の乱〈長享元年・延徳三年/一四八七・九一〉)十一代将軍足利義澄に赦免されると室町幕府の保護者に転じている。
六角氏嫡流である本所は中央と結び、①氏綱は足利義澄妹を妻に迎え、また摂関家と閨閥を形成し、②義久(系図では義実)は天皇家典侍を妻に迎え天皇家と私的な関係を築いた。以後、六角氏嫡子の初名は公家様であった。足利将軍家が分裂しており、天皇を調停者に考えたのだろう。さらに③義秀は十二代将軍足利義晴娘を迎え、娘は宇多源氏流の公家庭田重定に嫁いでいる。庭田家は天皇家典侍を輩出し、本願寺顕如の母の実家でもあった。これで天皇家や本願寺との連携が取れた。しかし織田信長が登場すると、④近江修理大夫は十五代将軍足利義昭の仲介で信長養女を迎え、義昭と信長の両者から協力を求められた。本所は両者の間で揺れることになる。
一方、陣代は在国政権として周辺諸大名と閨閥を築いている。定頼は細川晴元に娘を嫁がせ、さらに本願寺顕如に養女を嫁がせて同盟を結んだ。一向一揆に苦しむ諸大名は六角氏との婚姻を介して本願寺と結び、①定頼の娘は細川晴元・本願寺顕如のほか、伊勢北畠晴具・美濃土岐頼芸・若狭武田信豊に嫁いだ。また②義賢(のち承禎)は能登畠山義総娘、美濃土岐頼芸妹を妻に迎え、娘は北畠朝親(具親)、能登畠山義綱に嫁いでいる。さらに越前朝倉義景も六角氏出身と伝えられる。このように六角氏は北陸諸大名の盟主となり、本所は北陸道管領と呼ばれたという。さらに③義治は美濃斎藤義龍娘を迎えた。父義賢は重縁土岐氏の宿敵斎藤氏娘を迎えることに反対したが、自立を目指した浅井長政を抑えるのに成功している。これら諸大名との同盟が足利義昭を擁立する勢力になり、織田信長包囲網にもなった。
幕府・摂関家へ接近する氏綱
六角氏は鎌倉公方との関係が深く、氏綱の母は古河公方足利成氏娘であった。さらに明応の政変(明応二年〈一四九三〉)で堀越公方足利政知の子息義澄は、将軍に推されると六角氏を赦免し、駿河今川氏に養育されていた妹を上洛させ、氏綱に嫁がせた。これで六角氏は幕府の保護者に転じ、前将軍義稙が上洛を目指すと阻止している。
その後、氏綱は義澄・義稙両者から協力を求められ、敗北した義澄は保護を求めて近江に逃れ岡山城で病没し、義稙も氏綱に協力を求めて氏綱嫡子の義久を猶子にし、高頼・氏綱没後には義久(佐々木四郎)を近江守護に補任している。幼少の義久は、陣代定頼が後見した。
氏綱は摂関家とも閨閥を形成して、上洛したときに近衛政家・尚通父子を訪問しているほか、女子を二条晴良に嫁がせた。伏見宮王女を養女にしたものだろうか。もうひとりの女子は、京極材宗に嫁ぎ、近江北郡守護の京極氏の内紛に介入した。材宗は本名が経秀であるため、佐々木系図では「高秀」と記され、その子が京極高吉(高慶・高佳)である。高吉は六角氏から一門衆「五郎殿」と遇され、反抗し続ける同族京極高広(六郎)を非難している。京極氏対策は成功している。
義久、将軍家から天皇家に
義久(四郎・隆頼・宗能)の母は足利政知娘で、妻は後奈良天皇典侍である。足利義澄の子十二代将軍義晴が成長すると近江に保護し、細川晴元と和睦して定頼の娘と婚約させ、義晴の帰京に成功した。義久(四郎殿様)は義晴の上洛に供奉し、のち江州宰相と呼ばれている。さらに義久は恵林院殿十三回忌法事を主催して義稙の後継者であると宣伝し、義稙養子の阿波公方義維・義親(義栄)父子を牽制することで、足利義晴政権を支援した。
六角氏が京都で活動している間、『お湯殿の上の日記』に「亀寿」の記事が頻出する。亀寿(のち義秀)の元服で、典侍が天皇家に音物を献上しており、亀寿の母が、天皇家典侍であると分かる。当時、内侍所長官の尚侍は空席で、次官の典侍が天皇の后妃候補者であり、宇多源氏流庭田家、勧修寺流勧修寺・万里小路家、日野流広橋家など羽林・名家の女性が典侍となった。義久は典侍を妻としたことで天皇家と身内になり、嫡子亀寿は硯蓋・近江瓜・花・饅頭・柿・下草など日常生活の必需品を献上している。初名も公家様であった。
義秀に近づく信長
義秀(四郎・公能・徳川)の母は典侍であり、元服では、母の典侍が天皇家に御礼している。公家式の元服と考えられる。正妻には足利義晴娘を迎え、また続群書類従本伊勢系図では十三代将軍足利義輝の妾と男子を給わるという。足利将軍家とも私的に結びついていた。
群書類従本『万松院殿穴太記』は、天皇家内侍所の原本を二条晴良が書写したものであり、原本は義秀が献上したものだろう。子息亀千代の髪置でも、音物を天皇家に献上している。
六角氏は足利義輝と三好長慶を和睦させ、帰洛した義輝は義久への贈官を申請している。さらに六角氏は河内畠山氏と連携して三好包囲網を築いた。しかし浅井長政の自立で後方を撹乱され、三好氏に止めを刺せなかった。さらに陣代義治が後藤但馬守父子を殺害する観音寺騒動(永禄六年〈一五六三〉)が起こると、三好・松永氏によって将軍義輝が殺害された。弟の一乗院覚慶(義昭)は奈良脱出に成功し、六角氏は覚慶を近江に保護して還俗させたが、承禎父子が三好三人衆と結んだため、義昭は若狭・越前へと移った。越前朝倉邸御成では、六角氏綱の次男仁木義政が朝倉義景とともに出迎え、六角氏被官山内・九里両氏が警固した。また義昭は六角氏閨閥の前関白二条晴良の加冠で公家式の元服を行い四位に叙位され、五位の十四代将軍足利義栄を超えた。織田信長が美濃を攻略すると、義昭は信長を頼っている。信長軍は近江愛智川で六角主力軍に敗退したが、承禎と結ぶ三好三人衆軍が帰京すると近江に引き返し(言継卿記)、和田山城・観音寺城の六角主力軍を避けて箕作城を攻め、承禎父子を甲賀に追った。
強まる義康と将軍家の結びつき
義秀が没すると、織田信長書状の宛先に近江修理大夫が登場する(士林證文)。家老は、元亀元年(一五七〇)正月、畿内近国の諸大名に上洛を催促した織田信長触状の宛先、木村筑後守であろう。義秀が没したことを、信長は「言語道断」と述べて六角承禎父子の帰国を警戒したが(和田文書)、信長の朝倉義景追討で元亀争乱が始まると、実際に承禎父子は浅井長政を誘い挙兵した。修理大夫は信長と行動しており、信長養女を妻とした人物は修理大夫だろう。岩倉・犬山織田氏が六角氏と親しく、信長養女は「犬山之伊勢守息女」と考えられる。
また六角義郷(左兵衛佐氏郷)は信長に焼き討ちにされた延暦寺を自領近江蒲生郡に再興し、佐左馬(仁木義政)は朝倉義景と連動して挙兵した(尊経閣文庫)。
武田信玄の病没で第一次信長包囲網は崩壊し、足利義昭は京都を追放され、朝倉・浅井氏は滅亡したが、今度は六角義堯が登場する。
義堯は承禎を使者として甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現させた。さらに足利義昭の誘いには躊躇していた毛利輝元も、義堯の誘いには応じ、足利義昭の備後下向を実現させた。第二次信長包囲網の形成である。義昭と義堯は、承禎から「上意并大本所」と称され(坂内文書)、天正六年(一五七八)正月には、義堯は阿波・淡路の兵を従えて堺に上陸した(談山文書)。天正十年(一五八二)に甲斐武田勝頼が滅亡すると、佐々木次郎・若狭武田五郎・岩倉織田・犬山織田・土岐頼芸ら六角氏の縁者が捕らわれた。
しかし『天王寺屋会記』天正八年二月二十二日条に「佐々木殿」が見え、信長方に六角氏を確認できる。
近江修理大夫の嫡子と考えられる義康は、明智光秀の乱後に足利義昭の養子になり、小田原の陣での茶会では「近江六角殿」に足利義昭の側近真木島昭光が近侍している。義康は妻に織田信長孫娘を迎えたが、この女性は足利義昭邸に迎えられた「信長ヒソウ虎福女」と考えられる。
六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。
室町期には三代将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また六代将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめ、嘉吉の土一揆(嘉吉元年〈一四四一〉)では黒幕であった。文安の乱(文安二年〈一四四五〉)では満綱・持綱父子が自殺して衰退し同族京極氏の介入を招くが、応仁・文明の乱(応仁元~文明九年〈一四六七~七七〉)で高頼が活躍して再び盛り返した。足利義尚・義稙二代の将軍親征を受けたが(長享・延徳の乱〈長享元年・延徳三年/一四八七・九一〉)十一代将軍足利義澄に赦免されると室町幕府の保護者に転じている。
六角氏嫡流である本所は中央と結び、①氏綱は足利義澄妹を妻に迎え、また摂関家と閨閥を形成し、②義久(系図では義実)は天皇家典侍を妻に迎え天皇家と私的な関係を築いた。以後、六角氏嫡子の初名は公家様であった。足利将軍家が分裂しており、天皇を調停者に考えたのだろう。さらに③義秀は十二代将軍足利義晴娘を迎え、娘は宇多源氏流の公家庭田重定に嫁いでいる。庭田家は天皇家典侍を輩出し、本願寺顕如の母の実家でもあった。これで天皇家や本願寺との連携が取れた。しかし織田信長が登場すると、④近江修理大夫は十五代将軍足利義昭の仲介で信長養女を迎え、義昭と信長の両者から協力を求められた。本所は両者の間で揺れることになる。
一方、陣代は在国政権として周辺諸大名と閨閥を築いている。定頼は細川晴元に娘を嫁がせ、さらに本願寺顕如に養女を嫁がせて同盟を結んだ。一向一揆に苦しむ諸大名は六角氏との婚姻を介して本願寺と結び、①定頼の娘は細川晴元・本願寺顕如のほか、伊勢北畠晴具・美濃土岐頼芸・若狭武田信豊に嫁いだ。また②義賢(のち承禎)は能登畠山義総娘、美濃土岐頼芸妹を妻に迎え、娘は北畠朝親(具親)、能登畠山義綱に嫁いでいる。さらに越前朝倉義景も六角氏出身と伝えられる。このように六角氏は北陸諸大名の盟主となり、本所は北陸道管領と呼ばれたという。さらに③義治は美濃斎藤義龍娘を迎えた。父義賢は重縁土岐氏の宿敵斎藤氏娘を迎えることに反対したが、自立を目指した浅井長政を抑えるのに成功している。これら諸大名との同盟が足利義昭を擁立する勢力になり、織田信長包囲網にもなった。
幕府・摂関家へ接近する氏綱
六角氏は鎌倉公方との関係が深く、氏綱の母は古河公方足利成氏娘であった。さらに明応の政変(明応二年〈一四九三〉)で堀越公方足利政知の子息義澄は、将軍に推されると六角氏を赦免し、駿河今川氏に養育されていた妹を上洛させ、氏綱に嫁がせた。これで六角氏は幕府の保護者に転じ、前将軍義稙が上洛を目指すと阻止している。
その後、氏綱は義澄・義稙両者から協力を求められ、敗北した義澄は保護を求めて近江に逃れ岡山城で病没し、義稙も氏綱に協力を求めて氏綱嫡子の義久を猶子にし、高頼・氏綱没後には義久(佐々木四郎)を近江守護に補任している。幼少の義久は、陣代定頼が後見した。
氏綱は摂関家とも閨閥を形成して、上洛したときに近衛政家・尚通父子を訪問しているほか、女子を二条晴良に嫁がせた。伏見宮王女を養女にしたものだろうか。もうひとりの女子は、京極材宗に嫁ぎ、近江北郡守護の京極氏の内紛に介入した。材宗は本名が経秀であるため、佐々木系図では「高秀」と記され、その子が京極高吉(高慶・高佳)である。高吉は六角氏から一門衆「五郎殿」と遇され、反抗し続ける同族京極高広(六郎)を非難している。京極氏対策は成功している。
義久、将軍家から天皇家に
義久(四郎・隆頼・宗能)の母は足利政知娘で、妻は後奈良天皇典侍である。足利義澄の子十二代将軍義晴が成長すると近江に保護し、細川晴元と和睦して定頼の娘と婚約させ、義晴の帰京に成功した。義久(四郎殿様)は義晴の上洛に供奉し、のち江州宰相と呼ばれている。さらに義久は恵林院殿十三回忌法事を主催して義稙の後継者であると宣伝し、義稙養子の阿波公方義維・義親(義栄)父子を牽制することで、足利義晴政権を支援した。
六角氏が京都で活動している間、『お湯殿の上の日記』に「亀寿」の記事が頻出する。亀寿(のち義秀)の元服で、典侍が天皇家に音物を献上しており、亀寿の母が、天皇家典侍であると分かる。当時、内侍所長官の尚侍は空席で、次官の典侍が天皇の后妃候補者であり、宇多源氏流庭田家、勧修寺流勧修寺・万里小路家、日野流広橋家など羽林・名家の女性が典侍となった。義久は典侍を妻としたことで天皇家と身内になり、嫡子亀寿は硯蓋・近江瓜・花・饅頭・柿・下草など日常生活の必需品を献上している。初名も公家様であった。
義秀に近づく信長
義秀(四郎・公能・徳川)の母は典侍であり、元服では、母の典侍が天皇家に御礼している。公家式の元服と考えられる。正妻には足利義晴娘を迎え、また続群書類従本伊勢系図では十三代将軍足利義輝の妾と男子を給わるという。足利将軍家とも私的に結びついていた。
群書類従本『万松院殿穴太記』は、天皇家内侍所の原本を二条晴良が書写したものであり、原本は義秀が献上したものだろう。子息亀千代の髪置でも、音物を天皇家に献上している。
六角氏は足利義輝と三好長慶を和睦させ、帰洛した義輝は義久への贈官を申請している。さらに六角氏は河内畠山氏と連携して三好包囲網を築いた。しかし浅井長政の自立で後方を撹乱され、三好氏に止めを刺せなかった。さらに陣代義治が後藤但馬守父子を殺害する観音寺騒動(永禄六年〈一五六三〉)が起こると、三好・松永氏によって将軍義輝が殺害された。弟の一乗院覚慶(義昭)は奈良脱出に成功し、六角氏は覚慶を近江に保護して還俗させたが、承禎父子が三好三人衆と結んだため、義昭は若狭・越前へと移った。越前朝倉邸御成では、六角氏綱の次男仁木義政が朝倉義景とともに出迎え、六角氏被官山内・九里両氏が警固した。また義昭は六角氏閨閥の前関白二条晴良の加冠で公家式の元服を行い四位に叙位され、五位の十四代将軍足利義栄を超えた。織田信長が美濃を攻略すると、義昭は信長を頼っている。信長軍は近江愛智川で六角主力軍に敗退したが、承禎と結ぶ三好三人衆軍が帰京すると近江に引き返し(言継卿記)、和田山城・観音寺城の六角主力軍を避けて箕作城を攻め、承禎父子を甲賀に追った。
強まる義康と将軍家の結びつき
義秀が没すると、織田信長書状の宛先に近江修理大夫が登場する(士林證文)。家老は、元亀元年(一五七〇)正月、畿内近国の諸大名に上洛を催促した織田信長触状の宛先、木村筑後守であろう。義秀が没したことを、信長は「言語道断」と述べて六角承禎父子の帰国を警戒したが(和田文書)、信長の朝倉義景追討で元亀争乱が始まると、実際に承禎父子は浅井長政を誘い挙兵した。修理大夫は信長と行動しており、信長養女を妻とした人物は修理大夫だろう。岩倉・犬山織田氏が六角氏と親しく、信長養女は「犬山之伊勢守息女」と考えられる。
また六角義郷(左兵衛佐氏郷)は信長に焼き討ちにされた延暦寺を自領近江蒲生郡に再興し、佐左馬(仁木義政)は朝倉義景と連動して挙兵した(尊経閣文庫)。
武田信玄の病没で第一次信長包囲網は崩壊し、足利義昭は京都を追放され、朝倉・浅井氏は滅亡したが、今度は六角義堯が登場する。
義堯は承禎を使者として甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現させた。さらに足利義昭の誘いには躊躇していた毛利輝元も、義堯の誘いには応じ、足利義昭の備後下向を実現させた。第二次信長包囲網の形成である。義昭と義堯は、承禎から「上意并大本所」と称され(坂内文書)、天正六年(一五七八)正月には、義堯は阿波・淡路の兵を従えて堺に上陸した(談山文書)。天正十年(一五八二)に甲斐武田勝頼が滅亡すると、佐々木次郎・若狭武田五郎・岩倉織田・犬山織田・土岐頼芸ら六角氏の縁者が捕らわれた。
しかし『天王寺屋会記』天正八年二月二十二日条に「佐々木殿」が見え、信長方に六角氏を確認できる。
近江修理大夫の嫡子と考えられる義康は、明智光秀の乱後に足利義昭の養子になり、小田原の陣での茶会では「近江六角殿」に足利義昭の側近真木島昭光が近侍している。義康は妻に織田信長孫娘を迎えたが、この女性は足利義昭邸に迎えられた「信長ヒソウ虎福女」と考えられる。
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