宇多源氏の近江進出と秀郷流藤原氏―蒲生氏の源流【改訂2版】

摂関家と秀郷流藤原氏
 藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘三年(1006)六月十六日条に、秀郷流藤原氏文行(秀郷の曾孫)と伊勢平氏正輔(平貞盛の孫)の闘争事件が記されている。左衛門尉文行は検非違使別当藤原斉信の召しによって法住寺に参仕していたが、帯刀正輔に打擲された。難を逃れようと文行は寺から逃走したが、このとき検非違使に射返してしまった。文行は道長に保護を求めて土御門邸に逃げ込んだ。しかし検非違使に弓を引くのは重罪であり、身柄は引き渡された。ところが本来は縄で縛られて徒歩で連行されるところを、とくに衣冠を身に着けて馬に乗ったまま検非違使庁に入るのを許されている。これで文行も面子を保てた。十八日には明法道の官人たちに罪名を勘申させ、二十二日には検非違使に抵抗したのは人臣として礼がないとして官職は解かれたが、身柄は解放された。二十七日には斉信は検非違使別当の辞表を受理されている。斉信はここ何年か辞表を出し続けていたが受理されず、今回の件を機にようやくと受理されている。
 また同五年(1008)正月四日条には、弟兼光(前鎮守府将軍)が道長に馬五疋を献上した記事がある。頼通(春宮権大夫)と教通にも一疋ずつ献上している。
 甥頼行(兼光の子)も武者として道長に仕えていたようである。前年の同四年(1007)閏五月十七日条に、藤原道長の金峰山詣のための長斎の記事がある。このとき道長に従って精進所(室町の源高雅宅)に籠もった人びとの中に文行の甥頼行の名が見える。
 さらに頼行は道長の子藤原能信(近江権守)に仕えていた。『小右記』長和三年(1014)十二月二十五日条には、右近衛将監藤原頼行が、三位中将能信の従者を射殺した事件が記されている。頼行が近江国で悪行を企てたため、能信が心配した。そこで前若狭守道成が能信の雑人を差し向け、頼行を召還しようとしたところ、山科で合戦になり雑人を射殺してしまい、検非違使の追捕を受けることになった。しかし藤原行成が述べるには、近江守(道長の家司藤原惟憲)が追捕の中止を申請したという。理由は、これ以上の近江の混乱を避けるためである。これで秀郷流藤原氏が近江に居住し、しかも相当の勢力を有していたと分かる。これがまた数々の闘争の理由でもあろう。
 道長と対抗した小野宮右大臣実資の日記『小右記』万寿元年(1024)三月二十八日条に、鎮守府将軍頼行の口入れで、下道久頼が鎮守府の軍監になったことが見える。頼行は右近衛将監であった当時、右近衛大将であった右大臣藤原実資と私的な関係をもったのだろう。頼行は、実資の孫藤原資平の日記『春記』長久二年(1041)三月十三日条にも「前将軍頼行子行善」と見え、頼行の子藤原行善が文章生の試験を受けたことが記されている。頼行・行善父子が小野宮流藤原氏に近づいたことが分かる。

源経頼と佐藤公行
 『小右記』万寿四年(1027)二月二十七日条に、昨日のこととして、宇多源氏左中弁経頼が近江志賀郡の崇福寺参りの帰りに、逢坂関山で群盗に襲撃され、前佐渡守公行朝臣が射られたが命に別状はなかった。経頼は藤原道長の正室源倫子の甥だが、矢を射られたのは経頼ではなく、随行していた秀郷流藤原氏公行であった。公行は文行の子であり、はじめから公行を狙っていたものと考えられる。
 ところで公行は前佐渡守だが、佐渡国が疫鬼を放逐する北方の境とされている(『延喜式』)。酒呑童子退治の源頼光や鵺退治の源頼政のように、鬼退治の呪力を有する存在と考えられていた軍事貴族が、国司を勤めるのにふさわしい国といえる。そういえば、佐々木導誉(京極高氏)も検非違使の功で佐渡守に補任され、その家系は佐渡守を世襲官途として佐々木佐渡家を立てている。
 参議源経頼の日記『左経記』長元四年(1031)六月二十七日条によれば、公行は欠員となっていた相模守の申文を提出していたが、除目では六位史(姓欠)光貴が昨年とどめられていた史巡(六位史の功績)で補任された。経頼は、光貴の補任を故実にかなっていると認めながらも、公行の佐渡守の事績を高く評価しており、平忠常の乱で衰亡した当時の相模を再建するには公行が適任であると憤っている。たしかに国司の初任者には、平忠常の乱直後の東国国司は重すぎるであろう。しかしまた経頼が公行と親しいことも分かる。公行は、経頼が寛仁二年(1018)から治安元年(1021)頃までの近江守在任のとき郎等になったのだろう。さらに参議右大弁経頼は長元四年(1031)から同七年(1034)頃まで近江権守を兼任している。この記事の当時経頼は近江権守であった。三上山のムカデ退治という俵藤太秀郷の伝承は、秀郷流藤原氏と近江の関係の深さを物語っていよう。
 この公行の玄孫公俊が、経頼の兄成頼(四位中将)の曾孫検非違使為俊の養子になっている。宇多源氏と秀郷流藤原氏の関係の深さが分かる。そのことは、公行の甥高年が検非違使に追捕されたときも、経頼の従兄弟済政が保護していることで分かる。
 『小右記』長元元年(1028)九月八日条によれば、去春、筑前国高田牧の雑物が運上されたが、物流の拠点摂津国河尻(淀川)で前備後守義通の郎等らが牧司藤原為時一行を襲撃し、物品を奪い取り、牧の下人ひとりを射殺するという事件があった。実資は高田牧を領有し、そこから唐物を運ばせており、その牧司一行が襲撃されたのであり、実資には重大事件であった。牧司藤原為時は紫式部の父越後前司為時であろうか。そうであれば漢文の才を評価されて、最晩年ではあるが牧司になったのだろう。この翌年に為時は没した。
 張本四人は行方をくらましたが、そのひとりが藤原高年であった。高年は字を小藤太といい、近江国甲賀郡に住み、時々京の近辺に来ては悪行を犯しては、最上の馬を盗んでいたという。同郷の頼経に命じて探索させたところ、昨夕に報告があり、三条の前佐渡守公行宅に入ったという。高年は公行の姪(甥)だという。高年は捕えられ、一昨日馬を盗まれた者に見せたところ本人だという。また牧司為時にみせたところ本人だという。実資は感慨無量と喜んだ。
 しかし同月十七日条によれば、検非違使別当経通が来て言うには、高年への拷問はできないとのこと女院(上東門院彰子)の仰せがあった。実資は驚きのあまり謀略ではないかと記している。しかし、これは天下治乱のためだという。高年はすでに宇多源氏済政朝臣に引き渡され、済政に名籍が提出されたという。娘からは拷問をしないように申し入れがあり、口入れはできなかった。こうして高年は源済政の郎等になった。実は済政は源経頼の後任の近江守で治安二年(1022)頃から長元二年(1029)頃まで近江守であり、この記事の当時は近江守に在職していた。
 上東門院彰子(一条天皇中宮)は藤原道長の長女で、母は宇多源氏左大臣雅信女倫子であり、源経頼や源済政は従兄弟であった。万寿三年(1026)に落飾して、東三条院の先例にならって女院号を賜っていた。
 やはり道長の外戚宇多源氏と佐藤一族の関係は深い。近江守に補任された宇多源氏は、近江に勢力を張り天下治乱のもととまでいわれた秀郷流藤原氏を郎等にしながら、近江に進出していったと考えられる。これが近江源氏佐々木氏の源流である。
 また高年の名は『尊卑分脈』には見えないが、公行の兄弟脩行は近江に留住して近江掾となり、近藤氏の祖となっている。秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っており、また蒲生氏が平安末期から鎌倉期に「俊」の字を通字とすることから、この高年の子孫と考えられる。そうであれば古代豪族蒲生忌寸の子孫とは決め付けられない。むしろ佐々木氏との関係を見ると、秀郷流藤原氏の可能性が高い。
 蒲生氏の娘が佐々木定綱の側室になっていることでも、秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏が早い時期から宇多源氏の郎等であったことが分かる。

【参考文献】
野口実『伝説の将軍藤原秀郷』吉川弘文館、2001年。
河添房江『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川選書、2008年。

この記事へのコメント

佐々木寿
2012年11月11日 22:41
質問させてください。
小藤太高年は誰の子になるのでしょうか。
近江における秀郷流藤原氏には大変興味があります。よろしくお願いします。
佐々木哲
2012年11月15日 14:45
当時の記録に、高年の父の記載は有りません。公行の甥で近江甲賀郡在住、しかも「小藤太」と名乗るのですから、公行の弟「近藤太」脩行の長男と考えられます。近江掾脩行の子息が、近江守を勤めた宇多源氏経頼・済政の郎等になることは十分に考えられるでしょう。

『尊卑分脈』では、近藤太脩行の子息には左衛門尉行景のみ記しますが、これは近藤氏につながる直系のみ記したからと考えられます。あるいは、悪名の高い高年を系図から除外したのかもしれません。「小藤太」高年は、近藤太脩行の長男と考えていいと思います。

また、このことから近藤氏の子孫である大友氏と近江の関係も見えてきます。大友氏の祖能直は武者所近藤太能成の子息ですが、大友の名乗りは蒲生郡の大友氏と関係があるかもしれません。平安前期の近江蒲生郡大領が佐々貴山公房雄で、擬大領が大友馬飼であったように大友氏は近江蒲生郡の実力者であり、平安中期の承平天慶の内乱の時には、佐々貴山公興恒とともに大友兼平が近江追捕使になっています。近藤氏はこの大友氏を継承したと推測できます。
佐々木寿
2012年11月15日 23:33
ありがとうございました。またうならせていただきました。
これまであまり注目してこなかったのですが、おかげさまでまた一つ深く楽しませてもらっています。
坂田郡にも進出してるかと思いますが、こうした経緯があったのですね。
記事における頼行の事跡には驚きますが、彼が鎮守府将軍になって以来二十数年間鎮守府将軍が中絶していたと本で読みました。興味が沸く人物ですね。その後の鎮守府将軍が源頼義、そして藤原経清が秀郷流なら因果を感じますね。
最後に、佐藤氏の代表紋「源氏車」は宇多源氏に由来していると考えてもいいのでしょうか?
佐々木哲
2012年11月19日 21:42
車紋は文様としては古くから使われていたようですが、沼田頼輔『日本紋章学』の車紋の項によれば、藤原秀郷流佐藤氏は伊勢外宮の神官として、外宮奉献の錦の文様をとって家紋にしたとのことです。

この伊勢佐藤氏が伊勢壹志郡榊原村に住み、榊原氏を名乗っています。そのため榊原氏の家紋も源氏車なのです。

ただし、源氏車と呼ばれる理由は分かりませんので、今後の課題です。もしかしたら公卿源氏と関係があるかもしれませんね。
佐々木寿
2012年11月21日 21:34
伊勢佐藤氏、伊勢外宮神官のことは存じ上げませんでした。また勉強させていただきました。
貴重な時間をいただきありがとうございました。
佐々木寿
2012年12月01日 21:26
たびたび申し訳ありません。
大友氏に関しては何度か触れていただいておりますが、加地信実の子実秀が大友二郎左衛門尉と名乗っているのには何か相続等の関係があるのでしょうか。波多野氏や近藤氏との関係があるのであればとても興味があります。
佐々木哲
2012年12月02日 01:00
越後加地庄には大友(新発田市大友)という地名があり、その大友を名乗ったと考えられます。現在も実秀が建立したという大友稲荷があります。

しかし私も大友実秀の大友が、多野氏由来で相模大友郷から名乗ったものと考えたこともあり、結論は保留中です。武士が移住した先に本国や旧領の地名を持ち込むことはよくあるからです。

大友という地名が大友二郎実秀が住む以前からあったのか、以後に付けられたのか慎重に見極める必要はあるかもしれませんね。

もし実秀が居住したことで大友という地名ができたのであれば、大友は波多野由来ということになりますね。佐々木兄弟のうち盛綱は東下した当初、波多野義常の許に身を寄せましたから、佐々木・波多野・大友という関係が見えてきます。
佐々木寿
2012年12月02日 08:14
ありがとうございます。

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