佐々木大原氏系譜(2訂)
佐々木大原氏の歴史は、近江守護佐々木信綱(近江守)の庶長子重綱に始まる。重綱は承久の乱では父信綱に従い、宇治川の先陣を徒歩で駆けて戦功を上げた。そののち左衛門尉に補任されて将軍藤原頼経の近臣となり、有力御家人として幕府の諸行事にも参列した。近江守信綱の長男である左衛門尉という意味で、近江太郎左衛門尉と名乗っている。ところが遺産相続では、太郎重綱(大原氏祖)・次郎高信(高島氏祖)の外祖父川崎為重(中山五郎)が比企能員の乱で滅亡していたため、北条義時を外祖父とする三郎泰綱(六角氏祖)・四郎氏信(京極氏祖)が遺領のほとんどを継ぎ、重綱は所領を与えられずに出家した。しかし寛元元年(一二四三)重綱は幕府に弟泰綱を訴え、泰綱から坂田郡大原荘を獲得し、ここに佐々木大原氏が始まる。
重綱の長男長綱も幕府に出仕し、『吾妻鏡』では近江左衛門太郎と呼ばれている。近江左衛門太郎は、近江守の子である左衛門尉を近江左衛門尉と呼び、さらにその長男は太郎をつけて「近江左衛門太郎」と呼ばれた。しかし沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、長綱が不孝であったため家督を継承できなかったと伝えている。
大原氏の家督を継承したのは三男頼重(三郎左衛門尉)である。しかし頼重には男子が無く、五男時綱(佐々木又源太)を女婿に迎えた。又源太という時綱の仮名は、源太(源氏の長男)の源太(長男)という意味であり、五男でありながら兄の養子になって家督となったことを意味している。時綱は、六角宗信が供奉した弘安九年(1286)の春日行幸で、右衛門尉として供奉している。こののち時綱は左衛門尉・検非違使を経て対馬守に補任されて受領となっており、検非違使判官・受領となった時綱によって大原氏は有力御家人の仲間入りを果たした。官職は幕府評定衆を勤めた京極氏信と並んでいる。
重綱の女子は二人で、一人はいとこの京極範綱(右衛門尉)に嫁いだ。範綱は評定衆京極氏信の次男だが早世している。そのためか京極氏家督は四郎宗綱が継いだ。もう一人は隠岐流佐々木義泰(富田左衛門尉・肥後守)に嫁いでいる。義泰は六波羅評定衆佐々木泰清の四男である。義泰の子息佐渡守師泰(佐々木佐渡入道如覚)は建武新政権で雑訴決断所三番(東山道)寄人に列している(『雑訴決断所結番交名建武元年八月』続群書類従三十一輯下)。このように佐々木氏では庶子家も有力御家人となっており、しかも有力庶子家どうしで閨閥を築いていた。
対馬守時綱の子息時重は、左衛門尉・検非違使を経て備中守に補任されて受領になった。これ以後、大原氏は大夫判官と備中守を世襲官途として、官職は惣領六角氏と並んだ。時重は得宗北条貞時の十三回忌に、佐々木氏の有力庶子家京極氏や隠岐氏とともに有力御家人として列している。さらに元弘の変で、時重(佐々木備中前司)は幕府軍の主力の一人として京都に上っている(『光明寺残篇』十月十五日条)。一宮を預かった六角時信は「佐々木大夫判官」と記されており(同八月二十七日・二十八日・十月九日条)、佐々木備中前司は備中守時重と分かる。しかし時重はのち官軍に転じたのだろう。建武新政権では武者所の一員に選ばれている。やはり有力な武士であった。また高師直の窪所ではなく、新田義貞の武者所に配属されており、当初は新田氏に近かったことが分かる。
時綱の女子は二人あって、一人は盛綱流佐々木氏の加地筑前五郎左衛門尉に嫁いでいる。加地筑前守の五男で左衛門尉の者という意味であり、加地筑前守長綱の五男宗長と考えられる。『尊卑分脈』では「加地筑後五郎左衛門尉」としているが、佐々木加地氏で筑後守を受領した者は確認できず、沙沙貴神社本にもあるように、筑後は筑前の誤りと考えられる。時綱のもう一人の娘は、六波羅評定衆長井茂重(丹後守)の子孫長井丹後左衛門大夫に嫁いでいる。建武の新政のとき六角時信とともに元弘三年・建武元年雑訴決断所に列した六波羅評定衆長井宗衡(丹後前司)であろう。丹後守の子息で五位(大夫)の左衛門尉の者を意味する長井丹後左衛門大夫は、まさに長井宗衡に相当する。大原氏が六波羅評定衆と婚姻関係を結んでいたことが確認できる。
このように鎌倉期の大原氏は、京極氏や隠岐氏、加地氏など有力な佐々木一族と重縁関係を結んで一族の結束を固めるとともに、六波羅評定衆であった有力在京人長井氏と閨閥を形成していた。姻戚関係から大原氏の地位が理解できる。
建武三年(1336)正月二十八日付朽木義氏軍忠状(朽木428)により、佐々木出羽四郎義氏が京都法勝寺・三条河原両度の戦いに参陣し、さらに摂津兵庫島まで赴いていることが知られるが、京都攻防戦では両侍所佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連が首実検をおこなっている(『梅松論』)。この京都攻防戦は激戦で、三浦貞連は同月二十七日に上杉憲房らとともに戦死した。仲親は備中守受領と諱字「親」から、佐々木大原時親の兄弟と推定できるが、『尊卑分脈』など系図類では確認できない。時親の十数年前に備中守を受領していることから、時親以前の大原氏家督と考えられる。諱字の「仲」は、六波羅探題北方北条仲時の一字書出であろう。
ところで寛政重修諸家譜の朽木系図では義信の本名を「時綱」とするが、建武元年(1334)賀茂社行幸供奉足利尊氏隋兵交名(朽木641)の「佐々木備中前司時綱」は、元弘の変で鎌倉幕府軍に見える佐々木備中前司のことだろう。当時佐々木備中守と呼ばれるのは、佐々木氏惣領六角氏と佐々木大原氏だが、六角時信は佐々木判官と名乗るため、佐々木備中前司は大原氏である。国立国会図書館所蔵文書所収「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(『神奈川県史』資料編3古代・中世3231号)によれば、建武二年八月十八日相模川合戦で佐々木壱岐五郎左衛門尉が討死し、さらに佐々木備中前司父子が十九日辻堂・片瀬原合戦で戦傷を負っている。この備中守前司父子は時重・仲親父子であり、この戦傷がもとで大原氏家督が仲親から時親に移ったと考えられる。
時親は、『園太暦』貞和五年(1349)三月二十五日条「除目」に「備中守源時親」と見え、大原時親が仲親の後に大原氏家督になり、備中守を受領したことが確認できる。
この時親の次世代には義信と親胤がある。大原氏の惣領は義信で、次男親胤が白井氏の祖となる。義信の事跡を資料で追うのは難しいが、義信の子に当たる高信の名乗りが「佐々木備中六郎」である。備中守の子息の六郎という意味なので、高信の父が備中守と推測できる。時親と高信の間には一世代あると考えられるので、系図の通り義信は備中守を受領していたのだろう。
高信は『花営三代記』康暦二年(1380)八月二十五日条「右大将家拝賀散状并路次儀(康暦元七廿五)」の記事の中で、帯刀の一番左右を京極佐々木佐渡五郎左衛門尉(満秀)とともに勤めている。このとき満秀の兄高経(のち高詮)は六角氏猶子であり、満秀が京極氏家督の地位にある。大原高信はそれと並んで帯刀一番を勤めており、大原氏は国持ではないが本来は外様の格式であったと考えられる。
高信(佐々木大原六郎左衛門尉)は、やはり「さかゆく花」(『後鑑』所収)の永徳元年(1381)三月の後円融院花御所行幸の記事でも、佐々木五郎左衛門尉(満秀)とともに帯刀十番を勤めている。
しかし家督を継承したのは満信である。満信は相国寺供養記で帯刀に「佐々木大原五郎左衛門尉満信、佐々木大原六郎右衛門尉源高信」とあり、高信がともに列している。大原観音寺文書には、大原満信の文書として、明徳五年(1394)六月十七日付大原満信為貞名領家米寄進状、応永二年(1395)七月二十五日付大原満信段銭免除下知状、応永三年五月十三日付大原満信観音寺法輪院村居田野畠寄進状、そして応永七年八月二十二日付大原満信置文がある。『良賢真人記』に応永十九年(1412)八月十五日条の「石清水八幡宮放生会」の記事に、足利義持参向に供奉した帯刀として、「佐々木黒田備前守高宗、佐々木黒田九郎左衛門尉高清、佐々木鞍智四郎左衛門尉高信、佐々木岩山美濃守秀定、佐々木近江守満信、佐々木越中四郎左衛門尉高泰、佐々木治部少輔満秀、佐々木加賀守高数」と佐々木一族があり、このときまでに満信が近江守を受領していたことが確認できる。
近江守満信の後に資料に見える大原氏家督は、系図で満信の孫とされる五郎左衛門尉持綱である。持綱(法名源秀)は、永享元年(1429)の足利義教の元服を記した普広院殿御元服記(群書類従)に、「次御後官人 佐々木大原五郎左衛門尉持綱(今度下検非違使口宣歟)」とあり、翌二年七月二十五日足利義教の右近衛大将御拝賀式でも「御後官人、佐々木大原五郎右衛門尉持綱と見える(『後鏡』記載「大将御拝賀記」)。大将拝賀記の「右衛門尉」は左衛門尉の誤りと考えられる。また御元服記に「今度検非違使の口宣下るか」と注記されているが、大将拝賀式のときまだ検非違使に補任されていない。
永享四年(1432)十一月に持時と満幸の連署による大原観音寺山林竹木伐採禁制の状があり、大原氏家督のものと推定される花押が袖判として添えてある。『大原観音寺文書』の翻刻に付された注釈では持綱の父持信の花押とされるが、一般的に知られる持綱の花押と異なることからの推定であり、慎重に判断する必要があろう。
永享五年(1433)三月二十九日大夫判官持□が同寺領法輪田にかかる段銭二十貫文を寄進している。一字欠けているが、これは持綱であろう。また大夫判官とあるので、このときまでに判官に補任され、五位にも叙爵されていることが分かる。六位相当の官職から叙爵された場合は、五位相当の官にうつるため、六位相当の検非違使判官のまま五位に叙爵されることは叙留と称され名誉であり、とくに大夫判官と呼ばれた。
永享八年十一月二十五日の若公御着袴にも持綱は列しており、「慈照院殿御袴着記」(後鏡所収)で「御供人数、佐々木、小原」と記されている。このように見てくると、永享以来御番帳に「一番 大原備中入道」「五番 佐々木備中判官、佐々木越前守」とある五番衆の備中判官が持綱と分かる。備中守の子息で検非違使判官という意味である。これで父持信を備中守であったと確認できる。佐々木越前守は大原観音寺文書に見える越前守信業だろう。
『東寺執行日記』永享六年(1434)十月十三日条に「東坂本陣開引、御勢は山名、六角、京極、スギ、甲斐、西坂本ハ畠山、細川讃岐、赤松、小原、重中、山法師引之」とあり、大原氏(「小原」)が六角・京極両氏とともに出陣していた。相当の軍事力を有していたことが分かる。
永享十年(1438)足利義教の中原康富『石清水放生会記』に帯刀として「佐々木大原備中守持綱、佐々木大原近江守信成」が見える。持綱が備中守を受領しており、大原氏の世襲官途は系譜にあるように左衛門尉、検非違使判官、大夫判官、備中守と確認できる。また、こんどは越前守信業にかわって近江守信成が、持綱とともに番衆に列している。信成については、大原観音寺文書で永享十一年(1439)六月二十五日付大原信成千部経田注文を確認でき、持綱の祖父満信と同じく近江守を受領していることから、信成が家督の近親者と分かる。持綱と兄弟であろう。
さらに『経覚私要抄』宝徳元年(1449)八月二十八日条の足利義成初参内記事の帯刀交名に「…佐々木黒田兵庫助清高、同黒田掃部助信秀、佐々木大原越前守信業、同大原新次郎持頼、佐々木加賀守教久、同治部少輔秀直、」とあり、持綱の名はなく、佐々木大原氏では越前守信業と新次郎持頼が記されている。同じ宝徳年間の大原観音寺文書所収の宝徳四年(1452)三月二日付対馬守信長・越前守信業連署観音寺一山会合定書でも「越前守信業」と署名する。また越前守信業と列する佐々木大原新次郎持頼は、このときまだ任官していない。備中守持綱の弟あるいは子息の世代であろう。越前守信業が持頼の後見人であったと考えられる。
文安年中御番記に「一番 佐々木大原備中守、在国衆 佐々木大原民部少輔」「五番 大原備中守」とある。この五番衆大原備中守も持綱であり、一番衆の佐々木大原備中守は大原氏の有力庶子白井氏と考えられる。白井氏も備中守を受領して「佐々木大原備中守」と称されるので大原氏惣領と混同されやすいが、白井氏は左馬助・民部丞(六位相当)の功績で備中守を受領するので、かろうじて区別できる。同じ佐々木大原備中守でも、判官とある場合は大原氏惣領で、左馬・民部とある場合は白井氏である。このうち民部省は戸籍と徴税を担当するため、詔勅を作成する中務省、文官の人事を担当する式部省についで格式が高く、民部丞(民部省の三等官)のまま五位に叙爵されることがあり、民部大夫といった。佐々木大原民部少輔(正五位下相当)は「在国」とあるので、子息備中守に家督を譲って在国している隠居のことだろう。それに対して大原氏は検非違使の判官を世襲官途にしている。
大原観音寺文書には、享徳三年(1454)八月二十二日に持綱より同寺領田敷二町五段山林等のこと当知行に任せるという安堵状があり、まだ持綱の活動が確認できる。
ところで「松田家記」(『後鑑』所収)長禄二年七月二十五日条に義政任内大臣饗宴の記事があり、御後官人に「佐々木大原五郎左衛門尉持綱」と見える。持綱はすでに備中守を受領しており、持綱とは考えにくい。
『蔭凉軒日録』長禄三年(1459)十二月五日条に勝定院御仏事銭」の記事があり、「佐々木備中入道」が十貫文を納めている。この備中入道が大原持綱であろう。
そして『碧山日録』寛正三年(1462)正月二十七日条に「佺子之亡父、前廷尉大原氏秀公」「佺之兄、今廷尉某」とあり、持綱が没したこと、そして持綱(法名源秀)の子が判官であったことが確認できる。宝徳元年(1449)の足利義成初参内記事の帯刀交名の「新次郎持頼」と同一人物かどうかは不明だが、長禄二年(1459)足利義政任内大臣饗宴の「佐々木大原五郎左衛門尉」は判官の口宣を下されたうえで後官人を勤めており、持綱の子判官と同一人物と分かる。系図で「成信」と記される人物である。
『碧山日録』記主大極は、翌二月一日相国寺僧の質問に答えて自ら「大原譜諜」を述べており、大原氏と親しかったことも分かる。実際に、寛正四年(1463)正月二十九日条で「明日乃余亡友太原某諱辰也、其子判官某為斎僧之供」とあるように、大原持綱を友と述べている。そのため外様衆佐々木岩山氏出身の大極は、俗人として幕府奉公衆を勤めた後に出家した可能性がある。それが『碧山日録』に大極の俗子が登場する理由であろう。諱字には俗子らは「信」の字を使用しており、大極は鞍智駿河守高信の子と推測できる。
『親基日記』文正元年(1466)三月十七日条の参宮の記事で、御台御供衆のひとりに佐々木大原判官を見ることができる。実名は記されていないものの、やはり持綱の子息判官であろう。
応仁の乱では細川勝元に弾劾されて禁門を追い出された十二人衆に佐々木大原判官が見えるが(応仁記)。大原判官は御台日野富子の御供衆であり、義尚に将軍を継がせたい御台の意向を受けて西軍に参加したとも、同じ坂田郡に所領をもつ京極氏に対抗して西軍に参加したとも考えられる。
さらに文明年間には大原判官の子息を確認できる。文明十四年(1482)九月十六日付で重満より仏田安堵の状がある。「観音寺仏田之事、如先規不可有相違由、竹熊殿様被仰付候」とあり、竹熊殿様が大原氏の当主と分かる。しばらく大原氏当主に「重」の字を使用する者がいないにもかかわらず、重満は大原氏の通字のひとつ「重」の字を使用しているので、大原氏の一族で竹熊殿様の後見人と推定できる。同十六年十二月二十七日に夫役免除の状に政重と署名する人物が竹熊殿様だろう。これで政重の幼名が竹熊と分かる。
ところで常徳院御動座当時在陣衆着到に「一番衆 江州佐々木大原備中守、佐々木大原左馬介尚親」「五番 佐々木大原大夫判官」とある。一番衆の佐々木大原備中守と左馬介尚親は、宮内庁書陵部所蔵中御門本『宣秀卿宣下案』でそれぞれ備中守・左馬助への任官が確認できる元親・尚親であり、大原氏の有力庶子白井氏である。元親は群書類従本佐々木系図には見えないが、左馬助持泰と左馬助尚親の間の世代であろう。
五番衆の大原氏は佐々木大原大夫判官とあるので、検非違使判官を世襲官途とした大原氏惣領である。このときまでに、政重は大夫判官に補任されていたことが分かる。
享禄三年(1530)十二月二十日付けで「毎年正月十八日節之事」で本尊への寄進状を京極高慶が発給している。一時的に京極高慶が大原氏の名跡を継承していたことが分かる。東軍の京極氏により大原氏の名跡が奪われていたのかもしれない。『江北記』にある「大原五郎」は高慶のことだろう。しかし、その後六角高頼の三男高保(高盛)が継承して、六角方になる。天文八年(1539)七月七日付で水原氏家(橘左衛門尉)が観音寺長日之護摩料二石を寄進しているが、大原高保の家老であろう。
重綱の長男長綱も幕府に出仕し、『吾妻鏡』では近江左衛門太郎と呼ばれている。近江左衛門太郎は、近江守の子である左衛門尉を近江左衛門尉と呼び、さらにその長男は太郎をつけて「近江左衛門太郎」と呼ばれた。しかし沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、長綱が不孝であったため家督を継承できなかったと伝えている。
大原氏の家督を継承したのは三男頼重(三郎左衛門尉)である。しかし頼重には男子が無く、五男時綱(佐々木又源太)を女婿に迎えた。又源太という時綱の仮名は、源太(源氏の長男)の源太(長男)という意味であり、五男でありながら兄の養子になって家督となったことを意味している。時綱は、六角宗信が供奉した弘安九年(1286)の春日行幸で、右衛門尉として供奉している。こののち時綱は左衛門尉・検非違使を経て対馬守に補任されて受領となっており、検非違使判官・受領となった時綱によって大原氏は有力御家人の仲間入りを果たした。官職は幕府評定衆を勤めた京極氏信と並んでいる。
重綱の女子は二人で、一人はいとこの京極範綱(右衛門尉)に嫁いだ。範綱は評定衆京極氏信の次男だが早世している。そのためか京極氏家督は四郎宗綱が継いだ。もう一人は隠岐流佐々木義泰(富田左衛門尉・肥後守)に嫁いでいる。義泰は六波羅評定衆佐々木泰清の四男である。義泰の子息佐渡守師泰(佐々木佐渡入道如覚)は建武新政権で雑訴決断所三番(東山道)寄人に列している(『雑訴決断所結番交名建武元年八月』続群書類従三十一輯下)。このように佐々木氏では庶子家も有力御家人となっており、しかも有力庶子家どうしで閨閥を築いていた。
対馬守時綱の子息時重は、左衛門尉・検非違使を経て備中守に補任されて受領になった。これ以後、大原氏は大夫判官と備中守を世襲官途として、官職は惣領六角氏と並んだ。時重は得宗北条貞時の十三回忌に、佐々木氏の有力庶子家京極氏や隠岐氏とともに有力御家人として列している。さらに元弘の変で、時重(佐々木備中前司)は幕府軍の主力の一人として京都に上っている(『光明寺残篇』十月十五日条)。一宮を預かった六角時信は「佐々木大夫判官」と記されており(同八月二十七日・二十八日・十月九日条)、佐々木備中前司は備中守時重と分かる。しかし時重はのち官軍に転じたのだろう。建武新政権では武者所の一員に選ばれている。やはり有力な武士であった。また高師直の窪所ではなく、新田義貞の武者所に配属されており、当初は新田氏に近かったことが分かる。
時綱の女子は二人あって、一人は盛綱流佐々木氏の加地筑前五郎左衛門尉に嫁いでいる。加地筑前守の五男で左衛門尉の者という意味であり、加地筑前守長綱の五男宗長と考えられる。『尊卑分脈』では「加地筑後五郎左衛門尉」としているが、佐々木加地氏で筑後守を受領した者は確認できず、沙沙貴神社本にもあるように、筑後は筑前の誤りと考えられる。時綱のもう一人の娘は、六波羅評定衆長井茂重(丹後守)の子孫長井丹後左衛門大夫に嫁いでいる。建武の新政のとき六角時信とともに元弘三年・建武元年雑訴決断所に列した六波羅評定衆長井宗衡(丹後前司)であろう。丹後守の子息で五位(大夫)の左衛門尉の者を意味する長井丹後左衛門大夫は、まさに長井宗衡に相当する。大原氏が六波羅評定衆と婚姻関係を結んでいたことが確認できる。
このように鎌倉期の大原氏は、京極氏や隠岐氏、加地氏など有力な佐々木一族と重縁関係を結んで一族の結束を固めるとともに、六波羅評定衆であった有力在京人長井氏と閨閥を形成していた。姻戚関係から大原氏の地位が理解できる。
建武三年(1336)正月二十八日付朽木義氏軍忠状(朽木428)により、佐々木出羽四郎義氏が京都法勝寺・三条河原両度の戦いに参陣し、さらに摂津兵庫島まで赴いていることが知られるが、京都攻防戦では両侍所佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連が首実検をおこなっている(『梅松論』)。この京都攻防戦は激戦で、三浦貞連は同月二十七日に上杉憲房らとともに戦死した。仲親は備中守受領と諱字「親」から、佐々木大原時親の兄弟と推定できるが、『尊卑分脈』など系図類では確認できない。時親の十数年前に備中守を受領していることから、時親以前の大原氏家督と考えられる。諱字の「仲」は、六波羅探題北方北条仲時の一字書出であろう。
ところで寛政重修諸家譜の朽木系図では義信の本名を「時綱」とするが、建武元年(1334)賀茂社行幸供奉足利尊氏隋兵交名(朽木641)の「佐々木備中前司時綱」は、元弘の変で鎌倉幕府軍に見える佐々木備中前司のことだろう。当時佐々木備中守と呼ばれるのは、佐々木氏惣領六角氏と佐々木大原氏だが、六角時信は佐々木判官と名乗るため、佐々木備中前司は大原氏である。国立国会図書館所蔵文書所収「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(『神奈川県史』資料編3古代・中世3231号)によれば、建武二年八月十八日相模川合戦で佐々木壱岐五郎左衛門尉が討死し、さらに佐々木備中前司父子が十九日辻堂・片瀬原合戦で戦傷を負っている。この備中守前司父子は時重・仲親父子であり、この戦傷がもとで大原氏家督が仲親から時親に移ったと考えられる。
時親は、『園太暦』貞和五年(1349)三月二十五日条「除目」に「備中守源時親」と見え、大原時親が仲親の後に大原氏家督になり、備中守を受領したことが確認できる。
この時親の次世代には義信と親胤がある。大原氏の惣領は義信で、次男親胤が白井氏の祖となる。義信の事跡を資料で追うのは難しいが、義信の子に当たる高信の名乗りが「佐々木備中六郎」である。備中守の子息の六郎という意味なので、高信の父が備中守と推測できる。時親と高信の間には一世代あると考えられるので、系図の通り義信は備中守を受領していたのだろう。
高信は『花営三代記』康暦二年(1380)八月二十五日条「右大将家拝賀散状并路次儀(康暦元七廿五)」の記事の中で、帯刀の一番左右を京極佐々木佐渡五郎左衛門尉(満秀)とともに勤めている。このとき満秀の兄高経(のち高詮)は六角氏猶子であり、満秀が京極氏家督の地位にある。大原高信はそれと並んで帯刀一番を勤めており、大原氏は国持ではないが本来は外様の格式であったと考えられる。
高信(佐々木大原六郎左衛門尉)は、やはり「さかゆく花」(『後鑑』所収)の永徳元年(1381)三月の後円融院花御所行幸の記事でも、佐々木五郎左衛門尉(満秀)とともに帯刀十番を勤めている。
しかし家督を継承したのは満信である。満信は相国寺供養記で帯刀に「佐々木大原五郎左衛門尉満信、佐々木大原六郎右衛門尉源高信」とあり、高信がともに列している。大原観音寺文書には、大原満信の文書として、明徳五年(1394)六月十七日付大原満信為貞名領家米寄進状、応永二年(1395)七月二十五日付大原満信段銭免除下知状、応永三年五月十三日付大原満信観音寺法輪院村居田野畠寄進状、そして応永七年八月二十二日付大原満信置文がある。『良賢真人記』に応永十九年(1412)八月十五日条の「石清水八幡宮放生会」の記事に、足利義持参向に供奉した帯刀として、「佐々木黒田備前守高宗、佐々木黒田九郎左衛門尉高清、佐々木鞍智四郎左衛門尉高信、佐々木岩山美濃守秀定、佐々木近江守満信、佐々木越中四郎左衛門尉高泰、佐々木治部少輔満秀、佐々木加賀守高数」と佐々木一族があり、このときまでに満信が近江守を受領していたことが確認できる。
近江守満信の後に資料に見える大原氏家督は、系図で満信の孫とされる五郎左衛門尉持綱である。持綱(法名源秀)は、永享元年(1429)の足利義教の元服を記した普広院殿御元服記(群書類従)に、「次御後官人 佐々木大原五郎左衛門尉持綱(今度下検非違使口宣歟)」とあり、翌二年七月二十五日足利義教の右近衛大将御拝賀式でも「御後官人、佐々木大原五郎右衛門尉持綱と見える(『後鏡』記載「大将御拝賀記」)。大将拝賀記の「右衛門尉」は左衛門尉の誤りと考えられる。また御元服記に「今度検非違使の口宣下るか」と注記されているが、大将拝賀式のときまだ検非違使に補任されていない。
永享四年(1432)十一月に持時と満幸の連署による大原観音寺山林竹木伐採禁制の状があり、大原氏家督のものと推定される花押が袖判として添えてある。『大原観音寺文書』の翻刻に付された注釈では持綱の父持信の花押とされるが、一般的に知られる持綱の花押と異なることからの推定であり、慎重に判断する必要があろう。
永享五年(1433)三月二十九日大夫判官持□が同寺領法輪田にかかる段銭二十貫文を寄進している。一字欠けているが、これは持綱であろう。また大夫判官とあるので、このときまでに判官に補任され、五位にも叙爵されていることが分かる。六位相当の官職から叙爵された場合は、五位相当の官にうつるため、六位相当の検非違使判官のまま五位に叙爵されることは叙留と称され名誉であり、とくに大夫判官と呼ばれた。
永享八年十一月二十五日の若公御着袴にも持綱は列しており、「慈照院殿御袴着記」(後鏡所収)で「御供人数、佐々木、小原」と記されている。このように見てくると、永享以来御番帳に「一番 大原備中入道」「五番 佐々木備中判官、佐々木越前守」とある五番衆の備中判官が持綱と分かる。備中守の子息で検非違使判官という意味である。これで父持信を備中守であったと確認できる。佐々木越前守は大原観音寺文書に見える越前守信業だろう。
『東寺執行日記』永享六年(1434)十月十三日条に「東坂本陣開引、御勢は山名、六角、京極、スギ、甲斐、西坂本ハ畠山、細川讃岐、赤松、小原、重中、山法師引之」とあり、大原氏(「小原」)が六角・京極両氏とともに出陣していた。相当の軍事力を有していたことが分かる。
永享十年(1438)足利義教の中原康富『石清水放生会記』に帯刀として「佐々木大原備中守持綱、佐々木大原近江守信成」が見える。持綱が備中守を受領しており、大原氏の世襲官途は系譜にあるように左衛門尉、検非違使判官、大夫判官、備中守と確認できる。また、こんどは越前守信業にかわって近江守信成が、持綱とともに番衆に列している。信成については、大原観音寺文書で永享十一年(1439)六月二十五日付大原信成千部経田注文を確認でき、持綱の祖父満信と同じく近江守を受領していることから、信成が家督の近親者と分かる。持綱と兄弟であろう。
さらに『経覚私要抄』宝徳元年(1449)八月二十八日条の足利義成初参内記事の帯刀交名に「…佐々木黒田兵庫助清高、同黒田掃部助信秀、佐々木大原越前守信業、同大原新次郎持頼、佐々木加賀守教久、同治部少輔秀直、」とあり、持綱の名はなく、佐々木大原氏では越前守信業と新次郎持頼が記されている。同じ宝徳年間の大原観音寺文書所収の宝徳四年(1452)三月二日付対馬守信長・越前守信業連署観音寺一山会合定書でも「越前守信業」と署名する。また越前守信業と列する佐々木大原新次郎持頼は、このときまだ任官していない。備中守持綱の弟あるいは子息の世代であろう。越前守信業が持頼の後見人であったと考えられる。
文安年中御番記に「一番 佐々木大原備中守、在国衆 佐々木大原民部少輔」「五番 大原備中守」とある。この五番衆大原備中守も持綱であり、一番衆の佐々木大原備中守は大原氏の有力庶子白井氏と考えられる。白井氏も備中守を受領して「佐々木大原備中守」と称されるので大原氏惣領と混同されやすいが、白井氏は左馬助・民部丞(六位相当)の功績で備中守を受領するので、かろうじて区別できる。同じ佐々木大原備中守でも、判官とある場合は大原氏惣領で、左馬・民部とある場合は白井氏である。このうち民部省は戸籍と徴税を担当するため、詔勅を作成する中務省、文官の人事を担当する式部省についで格式が高く、民部丞(民部省の三等官)のまま五位に叙爵されることがあり、民部大夫といった。佐々木大原民部少輔(正五位下相当)は「在国」とあるので、子息備中守に家督を譲って在国している隠居のことだろう。それに対して大原氏は検非違使の判官を世襲官途にしている。
大原観音寺文書には、享徳三年(1454)八月二十二日に持綱より同寺領田敷二町五段山林等のこと当知行に任せるという安堵状があり、まだ持綱の活動が確認できる。
ところで「松田家記」(『後鑑』所収)長禄二年七月二十五日条に義政任内大臣饗宴の記事があり、御後官人に「佐々木大原五郎左衛門尉持綱」と見える。持綱はすでに備中守を受領しており、持綱とは考えにくい。
『蔭凉軒日録』長禄三年(1459)十二月五日条に勝定院御仏事銭」の記事があり、「佐々木備中入道」が十貫文を納めている。この備中入道が大原持綱であろう。
そして『碧山日録』寛正三年(1462)正月二十七日条に「佺子之亡父、前廷尉大原氏秀公」「佺之兄、今廷尉某」とあり、持綱が没したこと、そして持綱(法名源秀)の子が判官であったことが確認できる。宝徳元年(1449)の足利義成初参内記事の帯刀交名の「新次郎持頼」と同一人物かどうかは不明だが、長禄二年(1459)足利義政任内大臣饗宴の「佐々木大原五郎左衛門尉」は判官の口宣を下されたうえで後官人を勤めており、持綱の子判官と同一人物と分かる。系図で「成信」と記される人物である。
『碧山日録』記主大極は、翌二月一日相国寺僧の質問に答えて自ら「大原譜諜」を述べており、大原氏と親しかったことも分かる。実際に、寛正四年(1463)正月二十九日条で「明日乃余亡友太原某諱辰也、其子判官某為斎僧之供」とあるように、大原持綱を友と述べている。そのため外様衆佐々木岩山氏出身の大極は、俗人として幕府奉公衆を勤めた後に出家した可能性がある。それが『碧山日録』に大極の俗子が登場する理由であろう。諱字には俗子らは「信」の字を使用しており、大極は鞍智駿河守高信の子と推測できる。
『親基日記』文正元年(1466)三月十七日条の参宮の記事で、御台御供衆のひとりに佐々木大原判官を見ることができる。実名は記されていないものの、やはり持綱の子息判官であろう。
応仁の乱では細川勝元に弾劾されて禁門を追い出された十二人衆に佐々木大原判官が見えるが(応仁記)。大原判官は御台日野富子の御供衆であり、義尚に将軍を継がせたい御台の意向を受けて西軍に参加したとも、同じ坂田郡に所領をもつ京極氏に対抗して西軍に参加したとも考えられる。
さらに文明年間には大原判官の子息を確認できる。文明十四年(1482)九月十六日付で重満より仏田安堵の状がある。「観音寺仏田之事、如先規不可有相違由、竹熊殿様被仰付候」とあり、竹熊殿様が大原氏の当主と分かる。しばらく大原氏当主に「重」の字を使用する者がいないにもかかわらず、重満は大原氏の通字のひとつ「重」の字を使用しているので、大原氏の一族で竹熊殿様の後見人と推定できる。同十六年十二月二十七日に夫役免除の状に政重と署名する人物が竹熊殿様だろう。これで政重の幼名が竹熊と分かる。
ところで常徳院御動座当時在陣衆着到に「一番衆 江州佐々木大原備中守、佐々木大原左馬介尚親」「五番 佐々木大原大夫判官」とある。一番衆の佐々木大原備中守と左馬介尚親は、宮内庁書陵部所蔵中御門本『宣秀卿宣下案』でそれぞれ備中守・左馬助への任官が確認できる元親・尚親であり、大原氏の有力庶子白井氏である。元親は群書類従本佐々木系図には見えないが、左馬助持泰と左馬助尚親の間の世代であろう。
五番衆の大原氏は佐々木大原大夫判官とあるので、検非違使判官を世襲官途とした大原氏惣領である。このときまでに、政重は大夫判官に補任されていたことが分かる。
享禄三年(1530)十二月二十日付けで「毎年正月十八日節之事」で本尊への寄進状を京極高慶が発給している。一時的に京極高慶が大原氏の名跡を継承していたことが分かる。東軍の京極氏により大原氏の名跡が奪われていたのかもしれない。『江北記』にある「大原五郎」は高慶のことだろう。しかし、その後六角高頼の三男高保(高盛)が継承して、六角方になる。天文八年(1539)七月七日付で水原氏家(橘左衛門尉)が観音寺長日之護摩料二石を寄進しているが、大原高保の家老であろう。
この記事へのコメント
記事中にある佐々木治部少輔秀直はどの流れの人物になるのでしょうか?
この京極多田満秀は、次兄佐渡五郎満秀と間違われやすいのですが別人です。後に佐渡五郎満秀(系図では秀満)は応永の乱で滅亡しますが、多田十郎満秀は摂津分郡守護になります。
現在、室町時代の資料を片っ端から見ていて、佐々木諸流の流れが見えてきたところです。今回の記事「佐々木大原氏系譜」もその成果で、次に京極家とその諸流黒田・鏡・鞍智・岩山・尼子・宇賀野・多田・加賀氏です。このなかでは尼子氏が後回しになります。そのつぎに隠岐佐々木氏です。多くの労力と資金がかかっていますが、佐々木氏の全体像が見えてきました。
今後も応援願います。
そーいえば、大河ドラマでもやっと佐々木定綱、経高が登場しましたね。
先生の偉業が広く世に評価されることを私は信じて止みません。