日本未来の党分党についての哲学的メモ(改訂版)

マスコミが、日本未来の党分党を、小澤一郎衆議院議員の処遇をめぐる嘉田由紀子元代表と国民の生活第一出身者による対立によると伝え、また嘉田元代表が未来の党を脱け、国民の生活第一出身者が未来の党を生活の党と改名して、政党助成金を受け取ることのみを伝える報道は、事実を正しく報道ではないため、公平とはいえない。
まず、嘉田元代表は離党することで、滋賀県議会との対立を緩和できるだろう。県知事と党代表の兼務はかつての飛鳥田横浜市長が市長のまま社会党代表になったという前例がある。滋賀県知事でありながら日本未来の党代表であることを非難する滋賀県県議会では自民党が多数派のために、小澤議員がいる党の代表であることを嫌ったのだろう。よほど小沢一郎衆議院議員が恐いのだろうか。そのため嘉田滋賀県知事が未来の党を分党して、小澤議員と分かれれば、知事に対する批判はやわらぐと考えられる。また嘉田知事が脱党することで政党助成金は受け取れないが、総選挙の大敗北で生じた多額の借金からも解放されることになる。明治維新で廃藩置県が成功したのは、実は各藩が借金から解放されることを望んだからである。
もちろん嘉田元代表と生活の党との人事をめぐる対立はあった。しかし、それは嘉田元代表が民主的な手続きもないままに、トップダウンで阿部知子衆議院議員を共同代表と決めたからである。生活出身者は旧社会党出身者でないため、社会党を離党して合流した阿部議員のトップダウンによる共同代表就任を快く思わなかったのも確かであろう。国民の生活第一出身者は、民主党のトップが民主主義的手続きをとらないままトップダウンで物事を決めて党議拘束を行なうという独裁政治的な手法に反発して民主党を離党したのだから、今回の嘉田元代表のトップダウンで決めた人事に反発したのも当然であろう。
そのような対立にもかかわらず、年内に平和的に分党が成立したのは、滋賀県知事としての苦境と選挙大敗北による借金から嘉田元代表を解放したからである。選挙敗北の責任をとった形にもなっている。
さらに未来の党を離党した亀井静香衆議院議員と、新党大地を離党した平山誠参議院議員がみどりの風に入党したことで、谷岡郁子参議院議員らのみどりの風が政党要件(所属議員5人以上)を満たし、政党助成金の交付を受け取れるようになった。これで、二人の前衆議院議員が離党して政党要件を満たしていなかったみどりの風は政党要件を満たせることになった。
このように対立を解消するには、両者ともに得する方法を模索しなければならない。誰かに不満が残れば対立は底辺を流れ続け、解消したことにはならない。そして両者が得する方法とは、また両者の長所を活かすことで、多様化を守りながらも共存することである。そのことで、二つが合わさる以上の効果を産むことになる。
もちろん多党化は脱原発の道を遠のかせることにつながるかもしれない。しかし多党化によって、それぞれの政党が個性を強く打ち出せば意見の多様化につながり、その中からすばらしい意見が生まれてくる可能性がある。少数のグループであれば意見がまとまり安いため、それぞれの政党が個性的な政策を打ち出せる可能性がある。たとえば、新党大地であれば、鈴木宗男氏がロシアに強く、ロシアの天然ガスの輸入による火力発電の強化を考えている。天然ガスによる火力発電であれば、温室効果ガスの排出は少なくなる。さらにロシアと日本がパイプラインでつながれば、ロシアの天然ガスを安く安定的に輸入することができるだろう。ロシアのプーチン大統領が北方領土について柔軟な姿勢を見せるのは日本を共同開発者・貿易相手国としてみているからである。多党化によって多様な政策が生まれることは、むしろ先例が通じない危機の時期には必要なものである。
無難な選択は実は無難な政策ではない。無難な選択は過去の成功例を前提にした判断であり、けっして現在の状況に即した判断ではない。むしろ何か問題が起きたならば、そこで発想の転換をする必要がある。問題が発生したということは、これまでの成功例が通じない危機的状況に陥っているということである。そして、今回の福島第一原発事故である。
脱原発運動をもういちど大きく盛り上げるためには、脱原発による産業構造の転換で経済成長を訴える政党が必要であろう。それができるかどうかが、今後の脱原発を訴える政党には求められる。そのため、今回の日本未来の党の分党は前向きな分党と考えられる。

この記事へのコメント

noga
2013年01月11日 02:02
哲学がなければ、目の周りの物しか目に入らない。
哲学があれば遠い未来社会が見えてくる。
盆栽・箱庭・一坪庭園なら、日本人の頭の中に入る。これらは、実物だから。
概念である ‘ユニバーサル’ (普遍的な) も’グローバル’ (全世界の) も発想の基礎とはならない。だから、世界観がない。

個人の意見は様々であるから、社会のことは政治的に決着する必要がある。
その決着のために、政治家は選出されて政治をする。
政治哲学を同じくする者同志が政党を作り、力を合わせて決着の能率を図るのが政党政治である。

だが、日本人には哲学がない。
だから、自己利益にしたがって離合集散を繰り返し、政治家たちは遠い世界を目指した政治的決着に興味を示さない。
佐々木哲
2013年01月11日 10:42
哲学がないのは政治家だけでは有りません。国民も政策を見て投票しているのではなく、雰囲気や気分で投票しています。すくなくとも国民が政策を見て、きちんと投票すれば、現在とは異なる政治風土が日本に根付いているはずです。

もちろん政治家が選挙で公約したことを守らないために、国民も政策では選べないという面があります。しかし、評論家然として行動を起こさない国民にも責任はあるでしょう。

その点で首相官邸を囲んだ原発反対の人の輪は、画期的だったと思います。とても平和的に多くの人びとが参加していました。

私は離合集散は批判しません。なぜなら政治をめぐる環境は日に日に変化しているのですから、その変化に応じて政治家が離合集散するのは当たり前でしょう。また民主主義は数で決まりますから、数を増やすことを目指すのも当たり前です。

政治は国民に見合ったものしか生まれません。政治家が国民を見ないのは、国民が政治に無関心だからです。

政治家に哲学がないのは、国民に哲学がないからです。政治家が未来を見ないのは、国民が未来を見ていないからです。反省すべきは、わたしたち国民だと思います。

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