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メルマガ「系図学校」
~歴史学者による本格的な系図講座
毎月1日・15日発行
─────────────────────────────
【掲載予定】
1.系図の見方
2.歴史研究実況中継
3.質問箱
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1.系図の見方
先祖の名で家系を知る
~通称が資料になる
各家にはそれぞれの通称がありました。そのため通称で家が区別
されました。普段は名字を名乗らなかった農民や町民も、通称で
家を区別しました。そのため通称で家系をたどれます。
たとえば源右衛門尉であれば、源氏で右衛門尉という意味です。
新任であれば新右衛門尉であり、平氏であれば平右衛門、藤原氏
であれば藤右衛門です。また右衛門も右衛門尉を指します。明治
維新まで続いた律令の官位制度では、ひとつの官職を長官・次官
・判官・主典の四等官に分け、右衛門・兵衛・式部と官名のみで
呼ぶのは実務担当の判官です。紫式部の父親は、式部省の判官で
ある式部丞でした。そこで紫式部は、源氏物語の主人公紫の上の
〈紫〉と父の官職〈式部〉を合わせて、紫式部と呼ばれました。
(続きは1号で)
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2.歴史研究実況中継
佐々木宇津木氏
~源氏なのに平氏
室町時代の佐々木氏の動向を当時の資料で調べる中で気づいたの
が、佐々木氏が源氏であるに、通称で平氏を名乗る者がいること
です。江戸時代に塙保己一が小さな資料を収集して『群書類従』
を編集しましたが、そのなかに「永享以来御番帳」があります。
「永享以来御番帳」は室町将軍家奉公衆(直臣)の五番編成を記
述したもので、そのなかに宇多源氏の佐々木一族も見られます。
一番に佐々木大原(大原庶流白井)、佐々木宇津木、佐々木浅堀、
吉田、二番に佐々木延福寺、高島(高島庶流)、佐々木井尻、三
番に塩冶、五番に大原、三上、鏡、岩山です。
このうち佐々木宇津木氏は佐々木宇津木平次郎と名乗り、二番の
佐々木延福寺は佐々木延福寺対馬守・平四郎と名乗ります。これ
は、宇津木氏も延福寺氏ももともと平姓だったからです。また、
文永八年十一月出雲国杵築大社御三月絵相撲舞頭役結番事(千家
文書)によれば出雲井尻保地頭に宇津木十郎と記されており、
承久の乱(一二二一年)の宇治川渡河戦で活躍した宇津幾十郎が
新補地頭として出雲入りしたことが分かります。
東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族で
あり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。横山党は縁戚関
係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元
が補任されましたが、宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。
文永八年の記録に井尻保地頭として見える宇津木十郎は、その
直系でしょう。『吾妻鏡』によれば、承久の乱の宇治川渡河戦で
負傷した者に宇津幾平太が記されているので、和田義盛の乱後に
平姓の人物が宇津木氏を継承していたと分かります。太平記でも
正平七年閏二月十六日条に宇津木平三が見えます。さらに佐々木
氏が継承した後も、通称の「平」を使用し続けました。
(続きは1号で)
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■ 発行元:佐々木哲学校:http://blog.sasakitoru.com/
著作権は佐々木哲にあります。
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1.系図の見方
先祖の名で家系を知る
~通称が資料になる
各家にはそれぞれの通称がありました。そのため通称で家が区別
されました。普段は名字を名乗らなかった農民や町民も、通称で
家を区別しました。そのため通称で家系をたどれます。
たとえば源右衛門尉であれば、源氏で右衛門尉という意味です。
新任であれば新右衛門尉であり、平氏であれば平右衛門、藤原氏
であれば藤右衛門です。また右衛門も右衛門尉を指します。明治
維新まで続いた律令の官位制度では、ひとつの官職を長官・次官
・判官・主典の四等官に分け、右衛門・兵衛・式部と官名のみで
呼ぶのは実務担当の判官です。紫式部の父親は、式部省の判官で
ある式部丞でした。そこで紫式部は、源氏物語の主人公紫の上の
〈紫〉と父の官職〈式部〉を合わせて、紫式部と呼ばれました。
(続きは1号で)
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2.歴史研究実況中継
佐々木宇津木氏
~源氏なのに平氏
室町時代の佐々木氏の動向を当時の資料で調べる中で気づいたの
が、佐々木氏が源氏であるに、通称で平氏を名乗る者がいること
です。江戸時代に塙保己一が小さな資料を収集して『群書類従』
を編集しましたが、そのなかに「永享以来御番帳」があります。
「永享以来御番帳」は室町将軍家奉公衆(直臣)の五番編成を記
述したもので、そのなかに宇多源氏の佐々木一族も見られます。
一番に佐々木大原(大原庶流白井)、佐々木宇津木、佐々木浅堀、
吉田、二番に佐々木延福寺、高島(高島庶流)、佐々木井尻、三
番に塩冶、五番に大原、三上、鏡、岩山です。
このうち佐々木宇津木氏は佐々木宇津木平次郎と名乗り、二番の
佐々木延福寺は佐々木延福寺対馬守・平四郎と名乗ります。これ
は、宇津木氏も延福寺氏ももともと平姓だったからです。また、
文永八年十一月出雲国杵築大社御三月絵相撲舞頭役結番事(千家
文書)によれば出雲井尻保地頭に宇津木十郎と記されており、
承久の乱(一二二一年)の宇治川渡河戦で活躍した宇津幾十郎が
新補地頭として出雲入りしたことが分かります。
東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族で
あり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。横山党は縁戚関
係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元
が補任されましたが、宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。
文永八年の記録に井尻保地頭として見える宇津木十郎は、その
直系でしょう。『吾妻鏡』によれば、承久の乱の宇治川渡河戦で
負傷した者に宇津幾平太が記されているので、和田義盛の乱後に
平姓の人物が宇津木氏を継承していたと分かります。太平記でも
正平七年閏二月十六日条に宇津木平三が見えます。さらに佐々木
氏が継承した後も、通称の「平」を使用し続けました。
(続きは1号で)
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著作権は佐々木哲にあります。
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この記事へのコメント
また、江戸時代の戒名から家系を知ることは可能でしょうか。
信綱の子で近江守に補任されたのは実は末子氏信で、泰綱の子で壱岐守に補任されたのも三男長綱です。このように庶子が父の官位を名乗る場合もあります。
過去帳があるならば、そこから家系をたどるのが正攻法です。戒名の中に官位が含まれている場合も多いです。また戒名にどのような文字を使用しているかも重要です。
まずは菩提寺で過去帳を調べましょう。