永原氏の系譜(2訂)
永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐々木系図や野洲郡志所収三宅四五六郎氏所蔵系図(以下、三宅系図)では、守護代楢崎氏の分流に永原氏が見える。
しかし『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を伝え、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住み、その七代の孫に永原大炊助宗行が出たという。そのとおりであれば蒲生氏と同祖であり、右馬允藤原季俊の長子俊秀(従五位下)の子孫が永原氏であり、次子惟俊の子孫が蒲生氏となる。市三宅城主永原(三宅)氏が馬允を名乗るのは、この右馬允季俊に由来しよう。
また良堂正久の頌によれば、正久の祖父のときに関東から近江に来たともいう。関東から来た有力者には三雲氏(上杉氏あるいは武蔵七党児玉氏)があり、六角氏に鎌倉足利氏女が嫁いできたときに、女佐の臣として近江に来た者の子孫とも考えられる。
「賜藤氏」永原氏
永原氏が歴史に初めて登場するのは応永十六年(1409)の尊経閣文庫所蔵文書(前田家文書)であり、野洲郡一帯の名田畠を領有していた永原孫太郎入道・彦太郎が罪を犯し、その所領を三宅五郎左衛門尉家村と永原新左衛門入道正光が争い、正光が獲得したことを伝えている。正光は孫太郎入道・彦太郎の近親者であろう。応永二十六年(1419)十一月の菅原神社本殿造替のときの棟札に、領家藤原雅行・地頭源信清・神主藤原清重・願人沙弥正光のほか、江辺荘内の大工二名の名が記されている。沙弥正光は前述の永原新左衛門入道正光であり、神主藤原清重も永原一族で、「清」の字は地頭信清に由来しよう。また『蔭凉軒日録』長禄三年十二月八日条に「馬淵被官」、同月二十日条にも「馬淵被官之永原」とあり、長禄三年(1459)当時は郡守護代馬淵氏の支配下にあった。
まず八日条に「常徳院末寺正法寺檀那馬淵被管永原被為闕所、雖然中島依申掠而如此重依申披之、永原御免許之事伺之、御免之由被仰出也」とあり、二十日条には「依馬淵被管之永原公事、可有御糾明之相奉行之事、飯尾加賀守伺之、以飯尾左衛門大夫被相添之由被仰出也」とある。幕府において、永原氏の公事について糾明を必要とする事件があったと分かる。
文明十六年(1484)新左衛門入道正光子息と思われる良堂正久の二十五周年忌を永原吉重が営んでいるが、相国寺の横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記し、吉重も「承大織冠直下孫」と自署している。「賜藤氏」の文言は、良堂正久のとき藤原氏を賜ったことを意味していよう。
では、だれから藤原氏を賜ったのであろうか。それは江辺(江部)庄領家藤原雅行と考えられる。雅行は藤原師通流室町家の出身だが官歴は不明であり、子息雅国が従三位非参議に補任されたときに江辺を称している(公卿補任)。雅行本人は江部庄に下回向して荘園経営に専念していたのだろう。永原氏は雅行・雅国父子によって藤原氏を与えられたと考えられる。そのことは、『永原氏由緒』で藤原雅行の名が永原氏先祖の一人として記されていることで分かる。
野洲郡で勢力を得た永原氏が秀郷流藤原氏を名乗ったのは、三上山のムカデ退治伝承の藤原秀郷(俵藤太)を始祖と仰いだことによろう。先祖は関東にあったと伝えられるが、右馬允藤原季俊の子孫であれば蒲生氏と同祖であり、関東出身ではない。永原氏由緒など永原氏の系譜伝承によれば、藤原秀郷流足利忠綱(あるいは弟康綱)の子孫である伊勢赤堀氏との関係が記されており、赤堀氏が応永年間(1394~1428)に上野から伊勢に移り住んでいる。
まず上野住人赤堀三郎左衛門入道が、文和二年(1353)七月十三日付で上野国赤堀郷・貢馬村と伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されているが(早稲田大学赤堀文書)、応永三年(1396)十一月には赤堀民部少輔直綱が、久我家領伊勢石榑の代官職を請け負っており (久我家文書)、この間に伊勢に移住している。さらに応永十八年(1411)九月十日付文書に伊勢守護土岐康政の被官として赤堀三郎左衛門尉が見え(醍醐寺文書)、応永二十年(1413)四月十三日付で、幕府は赤堀孫次郎に前年十一月二十七日に引き続き伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵している(国会図書館足利時代文書)。そして、応永二十五年(1418)十二月二十五日付の文書に、赤堀兵庫入道が伊勢守護土岐持頼の被官として見える(口宣綸旨院宣御教書案)。赤堀氏の祖足利忠綱は治承・寿永の内乱で平氏方であったため、『永原氏由緒』のとおり、源頼朝に対峙したことになる。やはり、永原氏の系譜には藤原秀郷流足利氏の系譜伝承が混入していよう。
この赤堀氏との姻戚関係が、良堂正久の伝承「祖父昔在関東起家」「子孫今於江辺食菜」(補庵京華別集所収良堂正久拈香仏事)、あるいは吉重の伝承「高曽出自関東」「子孫起於江東」(補庵京華別集所収預修心月居士闍維諸仏事)を生んだと考えられる。
しかし天満宮并別当記録によれば、永和五年(1376)二月二十五日に江辺荘正公文源正満丸によって葺替がおこなわれている。同荘下司としては義清流富田秀貞と京極導誉を確認できるが(佐々木文書)、正公文は源正満丸であった。しかも正満丸の名から永原新左衛門入道正光本人か近親者と推測できる。永原氏の本姓は源氏であった。やはり沙沙貴神社所蔵佐々木系図や市三宅城主永原氏系図(以下、三宅系図)のとおり、本佐々木流楢崎氏の分流の可能性が出てくる。しかし楢崎氏は愛智家次の弟田中入道憲家の子孫であり、厳密には愛智秦氏の子孫である。
正光(源正満丸)の子息良堂正久のとき藤原氏を称し、藤原氏とする系譜伝承は吉重に受け継がれ、吉重は「承大織冠直下孫」と自署した。先祖が関東にあったと述べられていることから、このときすでに秀郷流藤原氏の系譜伝承を有していたのだろう。
吉重の子息には、明応二年(1493)の吉重(心月清公禅定門)三回忌を主催した「藤原重泰」(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門大祥忌拈香」)があり、同五年(1496)と推定される「永原千句」にも「重泰」の名が見える。また同七年(1498)六月には吉重五回忌を主催した「永原越州太守藤原重秀」がいる(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門七周忌拈香」)。同年四月十四日付「菅原神社本殿棟札」では、やはり越前守重秀が神主藤原重宗とともに署名している。どちらも吉重の子息として法事を行なっており、重泰と重秀は兄弟あるいは同一人物と考えられる。神主も藤原氏で「重」の字を使用しており、一族であろう。
また吉重の弟式部丞氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子にしている(前筑州重頼画賛)。氏重(京華集拾遺十二所収「慶堂号」)は、文亀二年御上神社文書で「永原式部殿」)とされている。御上社は楼門の屋根葺替え資金のため、社領である三上山の山林を売り渡しているが、その中で永原氏では「永原大方殿」「永原式部殿」「永原殿北殿」らが山林八十三筆を買得しており、他の買得者を大きく上回っている。それぞれ氏重母・式部丞氏重本人・氏重妻と考えられる。氏重は六角氏綱の一字書出を給付された六角氏近臣と考えられる。画賛では筑前守重頼を「故吏部頼信善叟公令子、而心月翁家姪也、実一門栄耀可観矣」と記している。重頼が氏重の養子になり、心月翁(吉重)の家姪になったことは、実に一門の栄耀であると述べている。これで重頼が六角氏の出身と分かる。六角氏から養子を迎えることで、富裕者であった永原氏は家格を上昇させた。
鳥羽氏と永原氏
市三宅城主永原氏系図では、六角高頼の兄弟永原高賢(信賢)の養子が氏高(「始者信頼」)だという。伊勢赤堀氏出身というのは藤原姓永原氏出身ということであろう。また永原伊豆家の系譜伝承である『永原氏由緒』では高賢を「重賢」とし、越前守重秀はこの重賢の養子になり家格を上昇させたという。では、この高賢・重賢は誰であろうか。実は、六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。
観応の擾乱の最中である観応二年(1351)八月四日付文書で、六角氏頼の三弟山内定詮(近江守護代)が石山寺領富波(鳥羽)庄を軍勢の宿所として兵糧米を課したため、尊氏から押妨の停止を命じられている(前田家文書)。文和三年(1354)四月八日付文書では、京極導誉が佐々木美作前司(富田秀貞)の跡地として江辺・富波の下司職を足利義詮から与えられた(佐々木文書)。しかし同三年閏十月山内定詮は再び半済をかけた(前田家文書)。六角氏は地頭として、京極氏は下司として、両者ともに権益を有することになった。定詮の没後、富波荘では孫高信が軍事行動のたびに半済をかけたため、康暦二年(1380)六月十二日、領家石山寺はその停止を幕府にもとめ、管領斯波義将は近江守護六角満高に停止を命じている(前田家文書)。これは六角氏が近江守護だったからである。しかし、それでも高信の押妨は止まらず、同年十一月十二日石山寺は再び押領を訴えている。六角氏は守護として荘園年部の半分を兵糧米として徴収できる半済の権益を有しており、高信の押領を認めていたのだろう。
高信の近親者であろう信清はいちど富波を離れたが、翌年の永徳元年(1381)七月五日付文書によれば、信清が復帰して再び領家職半分を押領したため、管領斯波義将は守護六角満高に返還を命じた(前田家文書)。しかし押領が止まらず、十月十二日幕府は小串下総守・市太郎右衛門を検使として派遣している(前田家文書)。
ところで、この信清のとき江辺庄内菅原神社神主は藤原清重であった。「重」の字から永原氏の一族と考えられ、また「清」の字は地頭鳥羽信清の一字書き出しであろう。鳥羽氏が江辺庄に進出していたことが分かる。
幕府による停止命令にもかかわらず高信の押領は止まず、刃傷など狼藉に及んだ。そのため、十二月十二日管領斯波義将は京極高詮(もと六角高経)に返還を命じた(前田家文書)。これは京極氏が同庄下司だったからである。しかし六角氏一門衆である高信が、六角氏を除籍されて帰家していた京極高詮の命令に従うはずもない。
至徳四年(1387)六月十三日・明徳四年(1393)八月四日・応永二年(1395)三月十二日付文書によっても、鳥羽高信の遺族による押領は止まず、管領斯波義将は守護六角満高に石山寺への返還を命じている(前田家文書)。満高が近江守護であり、惣領だったからである。
また『碧山日録』によると、寛正元年(1460)京極氏被官隠岐守某(守護代隠岐氏)が江辺荘を食邑にしていたという。もともと権益を有していることを考えれば、京極氏以前に江辺庄下司であった富田秀貞の子孫であろう。京極氏の代官として江辺庄にあったと考えられる。しかし文明八年(1476)七月六日慶寿院等順は、富波荘が「敵国」であることから、室町幕府に替地を要求して、若狭国藍田荘を得ている(政所賦銘引付)。このことで、六角方の押領が続いていたことが分かる。
鳥羽氏は山内定詮の子息五郎左衛門尉詮直に始まり、五郎左衛門尉高信(詮直子)・五郎左衛門尉高頼(山内定詮孫、次郎左衛門尉義重子)と続いた(『続群書類従』巻百三十二および百三十三佐々木系図)。続群書類従巻百三十二では鳥羽高信を、氏頼の次弟愛智河直綱の子にも記しており、観応の擾乱で尊氏派の近江守護であった愛智河直綱の跡を継承していたと分かる。観応の擾乱で氏頼は出家し、次弟愛智河直綱(四郎左衛門尉)が尊氏派に、三弟山内定詮(五郎左衛門尉)が直義派になって、それぞれ近江守護に補任された。高信が祖父定詮と同じ通称五郎左衛門尉を名乗りながら、山内氏を継承しなかったのは、大伯父愛智河直綱の跡を継承したからだと分かる。
さらに永原安芸家を六角高頼の兄高賢の子孫とする系譜伝承は、鳥羽五郎左衛門尉高頼を六角高頼と混同したとも考えられる。三宅城主永原氏系図に見られるように、系譜伝承で安芸家の通字を「高」とし、また「信」「頼」の字が系譜伝承で見られることは、鳥羽氏の高信・信清・高頼の名を連想させる。
ところで六角氏奉行人重信は、文明七年(1475)十一月六日(野洲郡兵主神社文書)から明応七年(1498)十一月二十一日(永源寺文書)まで奉行人として活躍し、署名した奉行人奉書六通を確認できる。連署人は後藤三郎左衛門高種(兵主神社文書)や(姓欠)久継(芦浦観音寺)・久健(醍醐寺文書)・久澄(永源寺文書)、および三上越後守頼安(芦浦観音寺・永源寺文書)である。
さらに、重信の子と推定できる重隆も、延徳元年(1489)十一月十日から明応八年(1499)九月七日まで六角氏奉行人であったことが確認でき、三通の六角氏奉行人奉書に署名している。連署人は(姓欠)久継(小佐治・長命寺文書)、久澄(永源寺文書)である。この奉行人重隆を天文期の越前守重隆と同一人物とすると年代が合わない。また花押も異なり、奉行人重隆の花押はやはり奉行人重信の花押に似ており近親者と分かる。明応七年(1498)の菅原神社本殿棟札見える越前守重秀は、その翌年まで文書を確認できる奉行人重隆は同時代人であり、すでに六角氏奉行人として活躍していた重隆が一世代上と考えられる。『永原氏由緒』で重秀の養父とされる「安芸守重賢」は重隆であろう。
永原氏の系譜伝承では、三宅系図では安芸守実高とする人物を、永原氏由緒では安芸守実賢とするように、「高」と「賢」が混同される。重賢も重隆の可能性が高い。
永原氏系図の復元
永原氏の系譜伝承では、永原氏を安芸家と越前家に分け、六角氏出身の安芸家を嫡流とする。永原伊豆家に伝わる『永原氏由緒』と、市三宅城主永原馬允家に伝わる三宅系図があり、『永原氏由緒』では伊豆家の飛騨介実治を安芸守実賢の養子とし、三宅系図では永原馬允家を安芸家につなげている。そこで両系図から永原氏系譜を再現してみよう。
『永原氏由緒』で安芸(大炊)家に相当する人物は、まず安芸守重賢である。六角氏の庶子重賢は、永原越前守重行(資料上の吉重)の娘を娶り、さらに越前守重行の子重秀を養子にしたという。この安芸守重賢には山城守重時と左馬允重春らの子があった。さらに越前守重秀の嫡子筑後守重頼で、ほかに七男の安芸守頼信がある。さらに筑後守重頼の五男に大炊助重冬がある。ここから越前家の重秀を除き、年代順に人物をつなげると、安芸守重賢―山城守重時―筑後守重頼―安芸守頼信―大炊助重冬となる。
『江源武鑑』では安芸守信頼と記していることから、単に氏重の法名頼信に由来するというだけではなく、相当する安芸守某がいたと分かる。資料の安芸守重澄であろう。
また飛騨介実治の養父とされる安芸守実賢(三宅系図では「実高」)も官途名から安芸家の人物と考えられるが、同書では飛騨介実治の父として見えるだけである。しかし『永原軍談』は対三好入洛戦を永禄八年のこととした上で、戦死した人物を安芸守実賢と記すため、実賢は資料上の安芸守重澄と分かる。
ところで安芸家の永原重澄の系譜上の名は頼信・信頼・実賢・実高とさまざまに伝わるが、系譜で実名が正しく伝承されないことはよくある。同じく六角氏重臣である永田刑部少輔景弘は、『寛政重修諸家譜』では「正貞」と記されている。この場合、永田刑部少輔景弘は鎌倉期の永田四郎左衛門尉貞綱の子孫であることを示しているように、系譜上の名には何かしらの意味がこめられている。安芸家の系譜上の実名も同様であり、その諱字から永原安芸家が鳥羽高信・信清・高頼の子孫と分かる。
永原氏歴代
野洲郡における馬淵氏から永原氏への支配権力の交替は、大笹原神社の棟札で知られる。まず正和五年(1316)に屋根の上葺きをしたときの棟札が残されているほか、十一枚の棟札が残されている。現在の本殿は応永二十一年(1414)に再建されたが、そのときの棟札には「上神主馬渕殿」「神主代山川藤九郎幸久」の名を確認できる。しかし文亀元年(1501)におこなわれた本殿葺替えの願主は永原重秀であり、永正十五年(1518)には越前守重秀が幕府から所領・所職の安堵状を受けている。
また「永原式部殿」氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子に迎え、永原氏は家格を上昇させた(前筑州重頼画賛)。その子孫が永原筑前・安芸家である。
永原越前家の系譜
越前家を継承した越前守重秀は、野洲郡と甲賀郡の境に小堤城を築いて居住した。小堤城は野洲・栗太両郡の中で最大の山城で、郭の配置は東山道を意識しており、六角氏の指示で築城されたものと考えられる。
重秀の子息重隆は、(大永五年)正月二十九日付永原太郎左衛門尉宛伊勢貞忠書状案(書札之御案文)から資料で確認できる。前世代の永原安芸家の人物である六角氏奉行人重隆とは別人である。このように安芸家と越前家に同名の人物がいることが、系譜の混乱につながっていると考えられる。また『永原氏由緒』に重隆が記されていないことも、安芸家と越前家の重隆が混同されていたことを示している。
大永七年(1527)六角定頼が足利義晴の入洛に供奉したとき永原重隆(太郎左衛門)も従軍していることが、十月九日付山崎惣庄中宛永原重隆書状(離宮八幡宮文書)で分かる。また、このころ重秀から重隆に世代交代があったことは、細川高国派であった讃岐守護代香川元景(中務丞)からの(年未詳)十一月十二日付永原太郎左衛門尉宛書状写(阿波国徴古雑抄所収飯尾彦六左衛門文書)に「仍越州之御時」とあることで確認できる。
天文九年(1540)に伊勢神宮内宮の造り替えが行われ、同十一年(1542)十二月に完成した仮殿に遷宮されたが、この造営費用七百貫文は、永原氏が支出した。永原氏が富裕であったことが確認できる。
軍事面でも、天文八年(1539)永原越前守重隆が六角軍を率いて摂津国に出陣し、また(天文十六年)十月十一日付永原太郎左衛門尉宛細川晴元書状写(諸家文書纂)で、永原太郎左衛門尉(重興)が西京大将軍口合戦で比留田弥六の首級を挙げたことを感謝されている。弘治元年(1555)には永原越前守(重興)宛に七月三十日付松永久秀書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)と八月二十日付安見宗房書状があり、また永原越前守入道宛に十一月七日付浅井三好長慶書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)がある。弘治二年(1556)三月二十四日於江州永原越前守新宅張行と称して宗養紹巴永原韻があった。
しかし永禄三年浅井長政が自立を目指した野良田の戦いでは、永原太郎左衛門が従軍しており(江濃記)、越前守重興から太郎左衛御門に家督が交代している。その翌四年(1561)三月越前守重興が没した。
ところが同年七月に六角氏の総大将として永原安芸守重澄が軍勢一万余騎を率いて京都に出陣したが、七月十五日付永原重虎書下写(久我家文書)、七月二十七日付安芸守重澄・永原重虎連署状(禅林寺文書)、八月九日付孫次郎重虎・安芸守重澄連署状(金蓮寺文書)とあるように、太郎左衛門ではなく孫次郎重虎が従軍している。永原越前家の家督が太郎左衛門尉から孫次郎重虎に交代していた。あるいは『江濃記』でいう「永原太郎左衛門」は安芸守重澄のことかもしれない。
同七年(1564)浅井長政が美濃斎藤竜興を攻めたときには、斎藤氏と結んで挟み撃ちすることを永原新左衛門が進言している(江濃記)。この新左衛門が孫次郎重虎と考えられ、永禄八年十二月二十八日付南千熊宛永原重虎書状もある(安土城考古博物館所蔵文書)。そのため織田信長が近江に侵攻したときの永原越前守は重虎と考えられる。
越前守重虎および一族と思われる飛騨守・伊豆守重綱ら永原五人衆は、信長と早くから連絡を取り、越前守重虎は永禄十一年(1568)四月二十七日付永原越前守宛信長条書(護国寺文書)で、「深重に入魂の上は、向後表裏・抜公事のないこと、知行は去年与えた書付のとおり相違ないこと、進退は今後見放さないこと」が約束されている。去年の書付というのは、永禄十年(1567)稲葉山城攻略と関係があろう。『永原氏由緒』によれば永原大炊助の妻は美濃斎藤氏であり、永原氏は美濃には明るかったと考えられる。そのため信長による稲葉山城攻略に関与したのだろう。それ以来、永原氏は信長に誼を通じていたことが、信長条書で分かる。しかし『信長公記』に大炊助も越前守も登場しない。
大炊助は、三上若宮相撲頭人記録天正六年条に「去年永原大炊介被召失付而、地下人大略牢人之条、御神事下かた諸事半分に相究候也」とあるように、天正五年(1577)に没落して、神事も縮小された。大炊助が最後の永原氏嫡流と分かる。
実は『信長公記』には越前守に替わって「永原筑前守」が登場する。越前家と筑前家は混同され、『信長公記』に見える「永原筑前守」は「越前守」の誤記とも見られるが、一箇所の誤りではなく「筑前守」で通されており、越前守重虎ではなく、永原筑前守重康であろう。筑前守は、式部丞氏重の養子筑前守重頼(前筑州重頼画賛)に由来すると考えられる。
市三宅城主永原氏
この市三宅城主永原氏は、永原孫太郎入道・彦太郎の跡を新左衛門入道正光と争った三宅氏の子孫であろう。『永原氏由緒』によれば、永原重賢の子左馬允重春がその三宅氏を継承して子の備後守と続き、さらに筑前守重頼の子弥左衛門久重が養子に入った(永原氏由緒)。久重の名乗りは、六角義久(江州宰相)の一字書出を給付されたものだろう。明智光秀の家老明智左馬助秀満(三宅弥平次)は、仮名に「弥」の字を使い、左馬助を名乗っており、永原庶流三宅左馬家の出身と考えられ、三宅永原氏の三宅藤右衛門が明智光秀の家臣に見える。安芸家惣領の大炊助重冬も、天正十年(1582)明智光秀の乱で観音寺・安土落城後に明智氏に属し、山崎の戦いで戦死した。
市三宅城主永原氏系図で左馬允郷高・源八高盛らは左馬允を通称としており、この市三宅城主三宅氏の子孫と考えられる。このうち源八高盛の子右馬允郷孝は、天草島原一揆で幕府軍大将の板倉重昌を見舞い戦死したという。これは、寺沢家重臣三宅藤兵衛が討死にしたことを伝えているのかもしれない。そうであれば三宅藤兵衛は明智秀満の直系の子孫ではなく、同じく三宅永原氏の子孫であろう。
また実名に「高」の字を使用する永原刑部大輔高照(一照)も安芸家出身と考えられるが、山内一豊が長浜城主だったときに仕えて山内家家老になり、一豊から山内姓と諱字を給わった。また一族の乾正信も山内家の重臣となり、一照の次男正行(平九郎)がその跡を継承している。通字の「正」は永原新左衛門入道正光を連想させ、また通称の「平九郎」は三宅弥平次を連想させる。三宅永原氏の一族であろう。
永原伊豆家の系譜
越前家の庶流永原伊豆守重綱の長男実治(飛騨介)は安芸守重澄(実賢)の養子になったが(永原氏由緒)、飛騨介を名乗っていることから越前家庶流の飛騨家の世嗣であり、安芸家の猶子と考えられる。伊豆守の次男伊豆守重治(辰千代)は伊豆家を継いだが(「永原豊次家文書」所収天正十年六月二十五日付永原辰千代宛織田信孝知行宛行状)、兄実治後に安芸家を継承したと伝えられているように、越前家の人びとは安芸家の猶子になることが慣例であった。しかし実際には安芸家を継承したのではなく、伊豆守を名乗っているように、安芸家の猶子であろう。
伊豆守重治は織田信孝・豊臣秀次と仕えて秀次事件で蟄居したが、豊臣秀頼に再仕官して大坂落城後には行方不明になっている。その嫡子小三郎重光は大坂落城後に中北村に蟄居し、子孫は世を憚り福谷氏を名乗った。実は伊豆守重治は織田信孝与力の時代に、朝倉氏旧臣赤座直保の子右京孝治を養子としていたことから、赤座直保が関が原の戦いで改易されると、孝治は永原伊豆家を再興する形で加賀藩主前田家に仕え、松任城代になっている。孝治の「孝」の字は織田信孝の一字書出だろう。
長岡藩主牧野忠成の正室永原氏
実は長岡藩主牧野忠成の舅が永原道真の娘である。そして永田氏など六角氏旧臣が牧野家に仕えている。永原道真の特定はできないが、法名の可能性も考えて調査する必要があろう。永原越前守重興の法名が「前越州太守雲仲道芥大禅定門」(常念寺)であるように、「道」の字を法名に使用した者がいるからである。
永原には、江戸時代前期に将軍が上洛する際のお茶屋御殿(専用宿泊所)である永原御殿があり、近江には四か所のお茶屋御殿があった。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿があり、東海道には水口御殿が設けられていた。永原御殿の成り立ちは明確ではないが、慶長六年(1601)に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初である。以降、慶長十九年(1614)までの間に家康・秀忠が七回宿泊し、元和元年(1615)と元和九年(1623)に秀忠が宿泊している。寛永十一年(1634年)の三代将軍家光の宿泊が最後となり、貞享二年(1685)に廃止された(滋賀県野洲市永原御殿跡現地説明会資料)。
そのため徳川家と永原には交流があり、慶長八年(1603)に徳川家康より菅原神社に社領として五石寄進され、同十二年正月に三石四升三合が加増された。これは祈祷千句料として寄進されたものである。この千句料について、菅原神社では「其前永禄元年戊午正月義元公願主ニ而相勤申候、尤千句料置付田地も有之、其后芦浦観音寺殿御支配之節、格別ニ御取立、則正月十日より十三日迄御出仕被成候、其后角倉与市殿、古部文右衛門殿、石原清左衛門殿、牧野備后守殿より、巻頭の御発句斗冬之内ニ被下候、只今御支配多羅尾四郎左衛門殿え不相替御祈祷之御礼並御千句三つ物相添満座後差出申候、右御初穂金百疋ヅゝ毎年来り申候、先年角倉与市殿より者白銀三枚、其后鈴木小右衛門殿、牧野備后守殿より者銀壱枚被下候、」と伝えている。牧野忠成の一族牧野備後守の名も見える。
おわりに
『野洲町史』は良堂正久二十五周年忌で相国寺横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記していること、正公文源正満丸が正久の父正光本人か近親者であることに気づかなかった自らの探究不足で、永原氏を佐々木庶流という系譜伝承を否定した上で、「沢田源内」による偽系図と断罪している。しかし安易に「沢田源内」批判することは、それ以上の探究を止めてしまう。そろそろ系図研究は、「沢田源内」から解放される必要があるだろう。
【参考文献】
橋川正編『野洲郡史』上巻、滋賀県野洲郡教育会、1927年〔復刻版、臨川書店、1998年〕。
『野洲町史』一巻通史編1、野洲町、1987年。
しかし『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を伝え、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住み、その七代の孫に永原大炊助宗行が出たという。そのとおりであれば蒲生氏と同祖であり、右馬允藤原季俊の長子俊秀(従五位下)の子孫が永原氏であり、次子惟俊の子孫が蒲生氏となる。市三宅城主永原(三宅)氏が馬允を名乗るのは、この右馬允季俊に由来しよう。
また良堂正久の頌によれば、正久の祖父のときに関東から近江に来たともいう。関東から来た有力者には三雲氏(上杉氏あるいは武蔵七党児玉氏)があり、六角氏に鎌倉足利氏女が嫁いできたときに、女佐の臣として近江に来た者の子孫とも考えられる。
「賜藤氏」永原氏
永原氏が歴史に初めて登場するのは応永十六年(1409)の尊経閣文庫所蔵文書(前田家文書)であり、野洲郡一帯の名田畠を領有していた永原孫太郎入道・彦太郎が罪を犯し、その所領を三宅五郎左衛門尉家村と永原新左衛門入道正光が争い、正光が獲得したことを伝えている。正光は孫太郎入道・彦太郎の近親者であろう。応永二十六年(1419)十一月の菅原神社本殿造替のときの棟札に、領家藤原雅行・地頭源信清・神主藤原清重・願人沙弥正光のほか、江辺荘内の大工二名の名が記されている。沙弥正光は前述の永原新左衛門入道正光であり、神主藤原清重も永原一族で、「清」の字は地頭信清に由来しよう。また『蔭凉軒日録』長禄三年十二月八日条に「馬淵被官」、同月二十日条にも「馬淵被官之永原」とあり、長禄三年(1459)当時は郡守護代馬淵氏の支配下にあった。
まず八日条に「常徳院末寺正法寺檀那馬淵被管永原被為闕所、雖然中島依申掠而如此重依申披之、永原御免許之事伺之、御免之由被仰出也」とあり、二十日条には「依馬淵被管之永原公事、可有御糾明之相奉行之事、飯尾加賀守伺之、以飯尾左衛門大夫被相添之由被仰出也」とある。幕府において、永原氏の公事について糾明を必要とする事件があったと分かる。
文明十六年(1484)新左衛門入道正光子息と思われる良堂正久の二十五周年忌を永原吉重が営んでいるが、相国寺の横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記し、吉重も「承大織冠直下孫」と自署している。「賜藤氏」の文言は、良堂正久のとき藤原氏を賜ったことを意味していよう。
では、だれから藤原氏を賜ったのであろうか。それは江辺(江部)庄領家藤原雅行と考えられる。雅行は藤原師通流室町家の出身だが官歴は不明であり、子息雅国が従三位非参議に補任されたときに江辺を称している(公卿補任)。雅行本人は江部庄に下回向して荘園経営に専念していたのだろう。永原氏は雅行・雅国父子によって藤原氏を与えられたと考えられる。そのことは、『永原氏由緒』で藤原雅行の名が永原氏先祖の一人として記されていることで分かる。
野洲郡で勢力を得た永原氏が秀郷流藤原氏を名乗ったのは、三上山のムカデ退治伝承の藤原秀郷(俵藤太)を始祖と仰いだことによろう。先祖は関東にあったと伝えられるが、右馬允藤原季俊の子孫であれば蒲生氏と同祖であり、関東出身ではない。永原氏由緒など永原氏の系譜伝承によれば、藤原秀郷流足利忠綱(あるいは弟康綱)の子孫である伊勢赤堀氏との関係が記されており、赤堀氏が応永年間(1394~1428)に上野から伊勢に移り住んでいる。
まず上野住人赤堀三郎左衛門入道が、文和二年(1353)七月十三日付で上野国赤堀郷・貢馬村と伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されているが(早稲田大学赤堀文書)、応永三年(1396)十一月には赤堀民部少輔直綱が、久我家領伊勢石榑の代官職を請け負っており (久我家文書)、この間に伊勢に移住している。さらに応永十八年(1411)九月十日付文書に伊勢守護土岐康政の被官として赤堀三郎左衛門尉が見え(醍醐寺文書)、応永二十年(1413)四月十三日付で、幕府は赤堀孫次郎に前年十一月二十七日に引き続き伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵している(国会図書館足利時代文書)。そして、応永二十五年(1418)十二月二十五日付の文書に、赤堀兵庫入道が伊勢守護土岐持頼の被官として見える(口宣綸旨院宣御教書案)。赤堀氏の祖足利忠綱は治承・寿永の内乱で平氏方であったため、『永原氏由緒』のとおり、源頼朝に対峙したことになる。やはり、永原氏の系譜には藤原秀郷流足利氏の系譜伝承が混入していよう。
この赤堀氏との姻戚関係が、良堂正久の伝承「祖父昔在関東起家」「子孫今於江辺食菜」(補庵京華別集所収良堂正久拈香仏事)、あるいは吉重の伝承「高曽出自関東」「子孫起於江東」(補庵京華別集所収預修心月居士闍維諸仏事)を生んだと考えられる。
しかし天満宮并別当記録によれば、永和五年(1376)二月二十五日に江辺荘正公文源正満丸によって葺替がおこなわれている。同荘下司としては義清流富田秀貞と京極導誉を確認できるが(佐々木文書)、正公文は源正満丸であった。しかも正満丸の名から永原新左衛門入道正光本人か近親者と推測できる。永原氏の本姓は源氏であった。やはり沙沙貴神社所蔵佐々木系図や市三宅城主永原氏系図(以下、三宅系図)のとおり、本佐々木流楢崎氏の分流の可能性が出てくる。しかし楢崎氏は愛智家次の弟田中入道憲家の子孫であり、厳密には愛智秦氏の子孫である。
正光(源正満丸)の子息良堂正久のとき藤原氏を称し、藤原氏とする系譜伝承は吉重に受け継がれ、吉重は「承大織冠直下孫」と自署した。先祖が関東にあったと述べられていることから、このときすでに秀郷流藤原氏の系譜伝承を有していたのだろう。
吉重の子息には、明応二年(1493)の吉重(心月清公禅定門)三回忌を主催した「藤原重泰」(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門大祥忌拈香」)があり、同五年(1496)と推定される「永原千句」にも「重泰」の名が見える。また同七年(1498)六月には吉重五回忌を主催した「永原越州太守藤原重秀」がいる(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門七周忌拈香」)。同年四月十四日付「菅原神社本殿棟札」では、やはり越前守重秀が神主藤原重宗とともに署名している。どちらも吉重の子息として法事を行なっており、重泰と重秀は兄弟あるいは同一人物と考えられる。神主も藤原氏で「重」の字を使用しており、一族であろう。
また吉重の弟式部丞氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子にしている(前筑州重頼画賛)。氏重(京華集拾遺十二所収「慶堂号」)は、文亀二年御上神社文書で「永原式部殿」)とされている。御上社は楼門の屋根葺替え資金のため、社領である三上山の山林を売り渡しているが、その中で永原氏では「永原大方殿」「永原式部殿」「永原殿北殿」らが山林八十三筆を買得しており、他の買得者を大きく上回っている。それぞれ氏重母・式部丞氏重本人・氏重妻と考えられる。氏重は六角氏綱の一字書出を給付された六角氏近臣と考えられる。画賛では筑前守重頼を「故吏部頼信善叟公令子、而心月翁家姪也、実一門栄耀可観矣」と記している。重頼が氏重の養子になり、心月翁(吉重)の家姪になったことは、実に一門の栄耀であると述べている。これで重頼が六角氏の出身と分かる。六角氏から養子を迎えることで、富裕者であった永原氏は家格を上昇させた。
鳥羽氏と永原氏
市三宅城主永原氏系図では、六角高頼の兄弟永原高賢(信賢)の養子が氏高(「始者信頼」)だという。伊勢赤堀氏出身というのは藤原姓永原氏出身ということであろう。また永原伊豆家の系譜伝承である『永原氏由緒』では高賢を「重賢」とし、越前守重秀はこの重賢の養子になり家格を上昇させたという。では、この高賢・重賢は誰であろうか。実は、六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。
観応の擾乱の最中である観応二年(1351)八月四日付文書で、六角氏頼の三弟山内定詮(近江守護代)が石山寺領富波(鳥羽)庄を軍勢の宿所として兵糧米を課したため、尊氏から押妨の停止を命じられている(前田家文書)。文和三年(1354)四月八日付文書では、京極導誉が佐々木美作前司(富田秀貞)の跡地として江辺・富波の下司職を足利義詮から与えられた(佐々木文書)。しかし同三年閏十月山内定詮は再び半済をかけた(前田家文書)。六角氏は地頭として、京極氏は下司として、両者ともに権益を有することになった。定詮の没後、富波荘では孫高信が軍事行動のたびに半済をかけたため、康暦二年(1380)六月十二日、領家石山寺はその停止を幕府にもとめ、管領斯波義将は近江守護六角満高に停止を命じている(前田家文書)。これは六角氏が近江守護だったからである。しかし、それでも高信の押妨は止まらず、同年十一月十二日石山寺は再び押領を訴えている。六角氏は守護として荘園年部の半分を兵糧米として徴収できる半済の権益を有しており、高信の押領を認めていたのだろう。
高信の近親者であろう信清はいちど富波を離れたが、翌年の永徳元年(1381)七月五日付文書によれば、信清が復帰して再び領家職半分を押領したため、管領斯波義将は守護六角満高に返還を命じた(前田家文書)。しかし押領が止まらず、十月十二日幕府は小串下総守・市太郎右衛門を検使として派遣している(前田家文書)。
ところで、この信清のとき江辺庄内菅原神社神主は藤原清重であった。「重」の字から永原氏の一族と考えられ、また「清」の字は地頭鳥羽信清の一字書き出しであろう。鳥羽氏が江辺庄に進出していたことが分かる。
幕府による停止命令にもかかわらず高信の押領は止まず、刃傷など狼藉に及んだ。そのため、十二月十二日管領斯波義将は京極高詮(もと六角高経)に返還を命じた(前田家文書)。これは京極氏が同庄下司だったからである。しかし六角氏一門衆である高信が、六角氏を除籍されて帰家していた京極高詮の命令に従うはずもない。
至徳四年(1387)六月十三日・明徳四年(1393)八月四日・応永二年(1395)三月十二日付文書によっても、鳥羽高信の遺族による押領は止まず、管領斯波義将は守護六角満高に石山寺への返還を命じている(前田家文書)。満高が近江守護であり、惣領だったからである。
また『碧山日録』によると、寛正元年(1460)京極氏被官隠岐守某(守護代隠岐氏)が江辺荘を食邑にしていたという。もともと権益を有していることを考えれば、京極氏以前に江辺庄下司であった富田秀貞の子孫であろう。京極氏の代官として江辺庄にあったと考えられる。しかし文明八年(1476)七月六日慶寿院等順は、富波荘が「敵国」であることから、室町幕府に替地を要求して、若狭国藍田荘を得ている(政所賦銘引付)。このことで、六角方の押領が続いていたことが分かる。
鳥羽氏は山内定詮の子息五郎左衛門尉詮直に始まり、五郎左衛門尉高信(詮直子)・五郎左衛門尉高頼(山内定詮孫、次郎左衛門尉義重子)と続いた(『続群書類従』巻百三十二および百三十三佐々木系図)。続群書類従巻百三十二では鳥羽高信を、氏頼の次弟愛智河直綱の子にも記しており、観応の擾乱で尊氏派の近江守護であった愛智河直綱の跡を継承していたと分かる。観応の擾乱で氏頼は出家し、次弟愛智河直綱(四郎左衛門尉)が尊氏派に、三弟山内定詮(五郎左衛門尉)が直義派になって、それぞれ近江守護に補任された。高信が祖父定詮と同じ通称五郎左衛門尉を名乗りながら、山内氏を継承しなかったのは、大伯父愛智河直綱の跡を継承したからだと分かる。
さらに永原安芸家を六角高頼の兄高賢の子孫とする系譜伝承は、鳥羽五郎左衛門尉高頼を六角高頼と混同したとも考えられる。三宅城主永原氏系図に見られるように、系譜伝承で安芸家の通字を「高」とし、また「信」「頼」の字が系譜伝承で見られることは、鳥羽氏の高信・信清・高頼の名を連想させる。
ところで六角氏奉行人重信は、文明七年(1475)十一月六日(野洲郡兵主神社文書)から明応七年(1498)十一月二十一日(永源寺文書)まで奉行人として活躍し、署名した奉行人奉書六通を確認できる。連署人は後藤三郎左衛門高種(兵主神社文書)や(姓欠)久継(芦浦観音寺)・久健(醍醐寺文書)・久澄(永源寺文書)、および三上越後守頼安(芦浦観音寺・永源寺文書)である。
さらに、重信の子と推定できる重隆も、延徳元年(1489)十一月十日から明応八年(1499)九月七日まで六角氏奉行人であったことが確認でき、三通の六角氏奉行人奉書に署名している。連署人は(姓欠)久継(小佐治・長命寺文書)、久澄(永源寺文書)である。この奉行人重隆を天文期の越前守重隆と同一人物とすると年代が合わない。また花押も異なり、奉行人重隆の花押はやはり奉行人重信の花押に似ており近親者と分かる。明応七年(1498)の菅原神社本殿棟札見える越前守重秀は、その翌年まで文書を確認できる奉行人重隆は同時代人であり、すでに六角氏奉行人として活躍していた重隆が一世代上と考えられる。『永原氏由緒』で重秀の養父とされる「安芸守重賢」は重隆であろう。
永原氏の系譜伝承では、三宅系図では安芸守実高とする人物を、永原氏由緒では安芸守実賢とするように、「高」と「賢」が混同される。重賢も重隆の可能性が高い。
永原氏系図の復元
永原氏の系譜伝承では、永原氏を安芸家と越前家に分け、六角氏出身の安芸家を嫡流とする。永原伊豆家に伝わる『永原氏由緒』と、市三宅城主永原馬允家に伝わる三宅系図があり、『永原氏由緒』では伊豆家の飛騨介実治を安芸守実賢の養子とし、三宅系図では永原馬允家を安芸家につなげている。そこで両系図から永原氏系譜を再現してみよう。
『永原氏由緒』で安芸(大炊)家に相当する人物は、まず安芸守重賢である。六角氏の庶子重賢は、永原越前守重行(資料上の吉重)の娘を娶り、さらに越前守重行の子重秀を養子にしたという。この安芸守重賢には山城守重時と左馬允重春らの子があった。さらに越前守重秀の嫡子筑後守重頼で、ほかに七男の安芸守頼信がある。さらに筑後守重頼の五男に大炊助重冬がある。ここから越前家の重秀を除き、年代順に人物をつなげると、安芸守重賢―山城守重時―筑後守重頼―安芸守頼信―大炊助重冬となる。
『江源武鑑』では安芸守信頼と記していることから、単に氏重の法名頼信に由来するというだけではなく、相当する安芸守某がいたと分かる。資料の安芸守重澄であろう。
また飛騨介実治の養父とされる安芸守実賢(三宅系図では「実高」)も官途名から安芸家の人物と考えられるが、同書では飛騨介実治の父として見えるだけである。しかし『永原軍談』は対三好入洛戦を永禄八年のこととした上で、戦死した人物を安芸守実賢と記すため、実賢は資料上の安芸守重澄と分かる。
ところで安芸家の永原重澄の系譜上の名は頼信・信頼・実賢・実高とさまざまに伝わるが、系譜で実名が正しく伝承されないことはよくある。同じく六角氏重臣である永田刑部少輔景弘は、『寛政重修諸家譜』では「正貞」と記されている。この場合、永田刑部少輔景弘は鎌倉期の永田四郎左衛門尉貞綱の子孫であることを示しているように、系譜上の名には何かしらの意味がこめられている。安芸家の系譜上の実名も同様であり、その諱字から永原安芸家が鳥羽高信・信清・高頼の子孫と分かる。
永原氏歴代
野洲郡における馬淵氏から永原氏への支配権力の交替は、大笹原神社の棟札で知られる。まず正和五年(1316)に屋根の上葺きをしたときの棟札が残されているほか、十一枚の棟札が残されている。現在の本殿は応永二十一年(1414)に再建されたが、そのときの棟札には「上神主馬渕殿」「神主代山川藤九郎幸久」の名を確認できる。しかし文亀元年(1501)におこなわれた本殿葺替えの願主は永原重秀であり、永正十五年(1518)には越前守重秀が幕府から所領・所職の安堵状を受けている。
また「永原式部殿」氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子に迎え、永原氏は家格を上昇させた(前筑州重頼画賛)。その子孫が永原筑前・安芸家である。
永原越前家の系譜
越前家を継承した越前守重秀は、野洲郡と甲賀郡の境に小堤城を築いて居住した。小堤城は野洲・栗太両郡の中で最大の山城で、郭の配置は東山道を意識しており、六角氏の指示で築城されたものと考えられる。
重秀の子息重隆は、(大永五年)正月二十九日付永原太郎左衛門尉宛伊勢貞忠書状案(書札之御案文)から資料で確認できる。前世代の永原安芸家の人物である六角氏奉行人重隆とは別人である。このように安芸家と越前家に同名の人物がいることが、系譜の混乱につながっていると考えられる。また『永原氏由緒』に重隆が記されていないことも、安芸家と越前家の重隆が混同されていたことを示している。
大永七年(1527)六角定頼が足利義晴の入洛に供奉したとき永原重隆(太郎左衛門)も従軍していることが、十月九日付山崎惣庄中宛永原重隆書状(離宮八幡宮文書)で分かる。また、このころ重秀から重隆に世代交代があったことは、細川高国派であった讃岐守護代香川元景(中務丞)からの(年未詳)十一月十二日付永原太郎左衛門尉宛書状写(阿波国徴古雑抄所収飯尾彦六左衛門文書)に「仍越州之御時」とあることで確認できる。
天文九年(1540)に伊勢神宮内宮の造り替えが行われ、同十一年(1542)十二月に完成した仮殿に遷宮されたが、この造営費用七百貫文は、永原氏が支出した。永原氏が富裕であったことが確認できる。
軍事面でも、天文八年(1539)永原越前守重隆が六角軍を率いて摂津国に出陣し、また(天文十六年)十月十一日付永原太郎左衛門尉宛細川晴元書状写(諸家文書纂)で、永原太郎左衛門尉(重興)が西京大将軍口合戦で比留田弥六の首級を挙げたことを感謝されている。弘治元年(1555)には永原越前守(重興)宛に七月三十日付松永久秀書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)と八月二十日付安見宗房書状があり、また永原越前守入道宛に十一月七日付浅井三好長慶書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)がある。弘治二年(1556)三月二十四日於江州永原越前守新宅張行と称して宗養紹巴永原韻があった。
しかし永禄三年浅井長政が自立を目指した野良田の戦いでは、永原太郎左衛門が従軍しており(江濃記)、越前守重興から太郎左衛御門に家督が交代している。その翌四年(1561)三月越前守重興が没した。
ところが同年七月に六角氏の総大将として永原安芸守重澄が軍勢一万余騎を率いて京都に出陣したが、七月十五日付永原重虎書下写(久我家文書)、七月二十七日付安芸守重澄・永原重虎連署状(禅林寺文書)、八月九日付孫次郎重虎・安芸守重澄連署状(金蓮寺文書)とあるように、太郎左衛門ではなく孫次郎重虎が従軍している。永原越前家の家督が太郎左衛門尉から孫次郎重虎に交代していた。あるいは『江濃記』でいう「永原太郎左衛門」は安芸守重澄のことかもしれない。
同七年(1564)浅井長政が美濃斎藤竜興を攻めたときには、斎藤氏と結んで挟み撃ちすることを永原新左衛門が進言している(江濃記)。この新左衛門が孫次郎重虎と考えられ、永禄八年十二月二十八日付南千熊宛永原重虎書状もある(安土城考古博物館所蔵文書)。そのため織田信長が近江に侵攻したときの永原越前守は重虎と考えられる。
越前守重虎および一族と思われる飛騨守・伊豆守重綱ら永原五人衆は、信長と早くから連絡を取り、越前守重虎は永禄十一年(1568)四月二十七日付永原越前守宛信長条書(護国寺文書)で、「深重に入魂の上は、向後表裏・抜公事のないこと、知行は去年与えた書付のとおり相違ないこと、進退は今後見放さないこと」が約束されている。去年の書付というのは、永禄十年(1567)稲葉山城攻略と関係があろう。『永原氏由緒』によれば永原大炊助の妻は美濃斎藤氏であり、永原氏は美濃には明るかったと考えられる。そのため信長による稲葉山城攻略に関与したのだろう。それ以来、永原氏は信長に誼を通じていたことが、信長条書で分かる。しかし『信長公記』に大炊助も越前守も登場しない。
大炊助は、三上若宮相撲頭人記録天正六年条に「去年永原大炊介被召失付而、地下人大略牢人之条、御神事下かた諸事半分に相究候也」とあるように、天正五年(1577)に没落して、神事も縮小された。大炊助が最後の永原氏嫡流と分かる。
実は『信長公記』には越前守に替わって「永原筑前守」が登場する。越前家と筑前家は混同され、『信長公記』に見える「永原筑前守」は「越前守」の誤記とも見られるが、一箇所の誤りではなく「筑前守」で通されており、越前守重虎ではなく、永原筑前守重康であろう。筑前守は、式部丞氏重の養子筑前守重頼(前筑州重頼画賛)に由来すると考えられる。
市三宅城主永原氏
この市三宅城主永原氏は、永原孫太郎入道・彦太郎の跡を新左衛門入道正光と争った三宅氏の子孫であろう。『永原氏由緒』によれば、永原重賢の子左馬允重春がその三宅氏を継承して子の備後守と続き、さらに筑前守重頼の子弥左衛門久重が養子に入った(永原氏由緒)。久重の名乗りは、六角義久(江州宰相)の一字書出を給付されたものだろう。明智光秀の家老明智左馬助秀満(三宅弥平次)は、仮名に「弥」の字を使い、左馬助を名乗っており、永原庶流三宅左馬家の出身と考えられ、三宅永原氏の三宅藤右衛門が明智光秀の家臣に見える。安芸家惣領の大炊助重冬も、天正十年(1582)明智光秀の乱で観音寺・安土落城後に明智氏に属し、山崎の戦いで戦死した。
市三宅城主永原氏系図で左馬允郷高・源八高盛らは左馬允を通称としており、この市三宅城主三宅氏の子孫と考えられる。このうち源八高盛の子右馬允郷孝は、天草島原一揆で幕府軍大将の板倉重昌を見舞い戦死したという。これは、寺沢家重臣三宅藤兵衛が討死にしたことを伝えているのかもしれない。そうであれば三宅藤兵衛は明智秀満の直系の子孫ではなく、同じく三宅永原氏の子孫であろう。
また実名に「高」の字を使用する永原刑部大輔高照(一照)も安芸家出身と考えられるが、山内一豊が長浜城主だったときに仕えて山内家家老になり、一豊から山内姓と諱字を給わった。また一族の乾正信も山内家の重臣となり、一照の次男正行(平九郎)がその跡を継承している。通字の「正」は永原新左衛門入道正光を連想させ、また通称の「平九郎」は三宅弥平次を連想させる。三宅永原氏の一族であろう。
永原伊豆家の系譜
越前家の庶流永原伊豆守重綱の長男実治(飛騨介)は安芸守重澄(実賢)の養子になったが(永原氏由緒)、飛騨介を名乗っていることから越前家庶流の飛騨家の世嗣であり、安芸家の猶子と考えられる。伊豆守の次男伊豆守重治(辰千代)は伊豆家を継いだが(「永原豊次家文書」所収天正十年六月二十五日付永原辰千代宛織田信孝知行宛行状)、兄実治後に安芸家を継承したと伝えられているように、越前家の人びとは安芸家の猶子になることが慣例であった。しかし実際には安芸家を継承したのではなく、伊豆守を名乗っているように、安芸家の猶子であろう。
伊豆守重治は織田信孝・豊臣秀次と仕えて秀次事件で蟄居したが、豊臣秀頼に再仕官して大坂落城後には行方不明になっている。その嫡子小三郎重光は大坂落城後に中北村に蟄居し、子孫は世を憚り福谷氏を名乗った。実は伊豆守重治は織田信孝与力の時代に、朝倉氏旧臣赤座直保の子右京孝治を養子としていたことから、赤座直保が関が原の戦いで改易されると、孝治は永原伊豆家を再興する形で加賀藩主前田家に仕え、松任城代になっている。孝治の「孝」の字は織田信孝の一字書出だろう。
長岡藩主牧野忠成の正室永原氏
実は長岡藩主牧野忠成の舅が永原道真の娘である。そして永田氏など六角氏旧臣が牧野家に仕えている。永原道真の特定はできないが、法名の可能性も考えて調査する必要があろう。永原越前守重興の法名が「前越州太守雲仲道芥大禅定門」(常念寺)であるように、「道」の字を法名に使用した者がいるからである。
永原には、江戸時代前期に将軍が上洛する際のお茶屋御殿(専用宿泊所)である永原御殿があり、近江には四か所のお茶屋御殿があった。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿があり、東海道には水口御殿が設けられていた。永原御殿の成り立ちは明確ではないが、慶長六年(1601)に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初である。以降、慶長十九年(1614)までの間に家康・秀忠が七回宿泊し、元和元年(1615)と元和九年(1623)に秀忠が宿泊している。寛永十一年(1634年)の三代将軍家光の宿泊が最後となり、貞享二年(1685)に廃止された(滋賀県野洲市永原御殿跡現地説明会資料)。
そのため徳川家と永原には交流があり、慶長八年(1603)に徳川家康より菅原神社に社領として五石寄進され、同十二年正月に三石四升三合が加増された。これは祈祷千句料として寄進されたものである。この千句料について、菅原神社では「其前永禄元年戊午正月義元公願主ニ而相勤申候、尤千句料置付田地も有之、其后芦浦観音寺殿御支配之節、格別ニ御取立、則正月十日より十三日迄御出仕被成候、其后角倉与市殿、古部文右衛門殿、石原清左衛門殿、牧野備后守殿より、巻頭の御発句斗冬之内ニ被下候、只今御支配多羅尾四郎左衛門殿え不相替御祈祷之御礼並御千句三つ物相添満座後差出申候、右御初穂金百疋ヅゝ毎年来り申候、先年角倉与市殿より者白銀三枚、其后鈴木小右衛門殿、牧野備后守殿より者銀壱枚被下候、」と伝えている。牧野忠成の一族牧野備後守の名も見える。
おわりに
『野洲町史』は良堂正久二十五周年忌で相国寺横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記していること、正公文源正満丸が正久の父正光本人か近親者であることに気づかなかった自らの探究不足で、永原氏を佐々木庶流という系譜伝承を否定した上で、「沢田源内」による偽系図と断罪している。しかし安易に「沢田源内」批判することは、それ以上の探究を止めてしまう。そろそろ系図研究は、「沢田源内」から解放される必要があるだろう。
【参考文献】
橋川正編『野洲郡史』上巻、滋賀県野洲郡教育会、1927年〔復刻版、臨川書店、1998年〕。
『野洲町史』一巻通史編1、野洲町、1987年。
この記事へのコメント
・長禄2年5月10日付目賀田筑後入道(浄慶)宛宮内大輔(守護後見山内政綱?)遵行状案
・長禄5年5月12日付栗田民部丞・国領掃部助・田中孫左衛門入道宛浄慶宛遵行状案
今谷明氏は「近江守護表」の中で、目賀田氏を守護代、栗田氏・国領氏・田中氏を又代・群奉行としている。目賀田氏はもともと、織田信長が安土城を築城する前の城主で、「蒲生郡」が本貫の地である。栗田氏は「愛知郡」出身、国領氏は「神崎郡」出身である。
※田中孫左衛門入道の出身が不明ですが、「野洲郡」の可能性が高いでしょうか。ご教示いただければ幸いです。