美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂)
鎌倉期の土岐氏は美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎と称した。系図では頼貞母を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条時定女の誤りだろう。時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国i阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条氏に由来すると考えられる。このように土岐氏の外戚北条氏がいずれも元寇で西国に赴任しており、これが鎌倉末期に土岐氏の活動拠点のひとつが伊予にあった理由と考えられる。
また頼貞妻の兄弟北条宗方は、北条時宗の養子になり、平頼綱の乱後に得宗北条氏の執事(内管領)を勤めていた。嘉元三年(1305)宗方が連署北条時村を襲撃した嘉元の乱では、光定の子定親(隠岐孫太郎)は北条宗方に与して処刑されている。土岐氏が北条氏被官(御内人)のように行動していたことが分かる。これで弟頼貞(孫二郎・伯耆守)の系統が土岐氏嫡流となった。
元亨四年(1324)九月後醍醐天皇による討幕計画が土岐左近蔵人頼員(六波羅評定衆奉行斎藤氏女婿)の密告で発覚し、十九日密かに上洛していた土岐十郎五郎頼有と多治見国長は六波羅探題の討手との戦闘の末に自害した(『花園院宸記』九月十九日条)。『太平記』の記述は混乱しているが、『花園院宸記』によれば、登場人物は土岐左近蔵人頼員、土岐十郎五郎頼有、多治見国長である。元亨四年十月三日和田助家着到状(『岐阜県史』史料編古代・中世4、大阪府3和田文書1)では、土岐十郎五郎頼有を伯耆十郎、多治見国長を多治見四郎二郎とする。伯耆十郎であれば、伯耆入道頼貞の子伯耆十郎頼兼である。また『花園院宸記』の記事で頼員に「兼歟」との傍注がある。しかも「頼兼」とする傍注は宸筆による。伝聞を花園院自ら訂正したのである。蔵人は天皇の身の回りの世話をするため、土岐左近蔵人と聞いて、はじめは伝聞のまま記した花園院も、記憶をたどり頼兼と思ったのだろう。ただし花園院のときと蔵人も替わるため自信がもてず、「兼歟」としたものと考えられる。少なくとも花園院のときの土岐左近蔵人は土岐頼兼だったのだろう。事件当時の左近蔵人が誰かが問題になる。また頼兼がすでに任官していたのであれば、仮名「土岐伯耆十郎」で呼ばれることはない。『武家年代記裏書』正中元年条では「土岐小□郎・田志美二郎依有隠謀聞、於京都被誅了」とある(増補続史料大成)。小十郎であれば、伯耆十郎頼兼の子という意味になる。尊卑分脈に照らせば、頼員はその官職左近蔵人から船木頼春、また討たれた人物は伯耆十郎ならば頼兼、土岐十郎五郎・土岐小十郎なら頼兼の子に相当する。その実名は、『花園院宸記』にあるように頼有であろう。
『太平記』諸本で、頼員・頼有の名に混乱があり、左近蔵人頼員を頼員・頼貞・頼直・頼真・頼玄ともし、また頼有を頼時・頼貞・頼員・頼有・頼明ともする(平田俊春1984、佐々木紀一2012)。これは員・貞・有などの字が草書体では区別しにくいために、筆写されるたびに誤写されたと考えられる。そうであれば、このような人名の誤りが諸本の系統を復元するのに資することもできよう。
土岐頼貞┬頼清───┬頼康───康行(実は頼雄子)
├頼遠 ├ 明智頼兼
├明智頼基 ├揖斐頼雄
├頼兼 └池田頼忠─頼益―持益(美濃守護)
└頼明
元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。隠岐守光定は尊卑分脈によれば、悪党讃岐十郎を討った功績で隠岐守を受領したと伝えるので、讃岐に権益を有していた可能性がある。ここに登場する伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、東美濃の明智長山城の明智を名乗った。それに対して頼貞の庶子頼清・頼遠たちは西美濃に本拠を移動する。
建武元年(1334)中先代の乱に続く足利尊氏の挙兵では、頼貞の庶子弾正少弼頼遠・弟道謙が箱根竹下合戦で活躍した(太平記)。これを契機に諸国で足利方の挙兵が相次ぎ、讃岐では細川定禅が挙兵して高松頼重(明智三郎)の高松城が落城し、その老父(伯耆九郎頼基)は討死している(太平記)。庶子と嫡子で明暗を分けた。その後も頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
建武二年(1335)六月の京都攻防戦では、頼貞の子土岐悪源太(頼清)が活躍し(太平記)、翌三年(1336)北畠顕家の奥州勢との青野原軍ではやはり頼貞の子頼遠が奮戦し(太平記)、頼遠は敗れたものの顕家が新田義貞の北陸軍とは合流できずに伊勢に転じたことで、こののちの情勢を決定づけた。バサラ大名頼遠の面目躍如である。
暦応二年(1339)二月頼貞が没すると、頼遠(弾正少弼)が土岐惣領を継いだ。これは兄頼清(悪源太)が父に先立ち没していたためで、頼遠は土岐氏を美濃・尾張・伊勢三カ国の守護に押し上げた。ところが康永元年(1342)十二月光厳院に牛車に射かけた罪で刑死すると、伯耆弥十郎頼明が惣領を継承する。鎌倉幕府滅亡に活躍した伯耆九郎頼基・十郎頼有兄弟の末弟である。『太平記』巻第二十五「住吉合戦事」は貞和三年(1347)の楠正行との合戦で、土岐周済(頼貞子)・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門(京極秀宗)が安倍野に陣を張り、兵庫助は戦傷を負った。この明智兵庫助が、尊卑分脈に伯耆弥十郎とも兵庫頭とも記される頼明である。頼明が兵庫頭であったことは、年月未詳二十五日付土岐頼明書状(『岐阜県史』史料編古代・中世一、美濃市1阿部敏雄氏所蔵文書1)に、「兵庫頭頼□」とあることで確認できる。貞和四年(1348)正月土岐周済と明智三郎(高松頼重)が出陣した四条畷の戦いで周済らは戦死した(太平記巻第二十六)。これで土岐惣領は頼清の子頼康に移った。
観応の擾乱が始まると、土岐氏の分裂は決定的になった。『太平記』巻二十七「御所囲事」では貞和五年(1349)高師直邸に集まった武士の中に土岐刑部大輔頼康、同明智次郎頼兼、同新蔵人頼雄とある。頼康・頼雄は土岐頼貞の庶子頼清の子で、叔父頼遠に従い活躍していた。ここで注目できるのが土岐頼康・頼雄兄弟の間に記された明智次郎頼兼である。続群書類従本土岐系図一本では頼清の子に頼康・頼兼・頼雄の順で記されている。またもう一本の土岐系図の十郎頼兼(実は頼有)の項で記すように、正中の変の土岐十郎頼兼(実は十郎頼有)と明智次郎頼兼は別人である。やはり明智次郎頼兼は頼康の次弟である。
観応元年(1350)七月美濃で土岐周清(兵庫入道)の乱があり、同月二十七日に土岐勢が近江に侵入した(園太暦)。二十八日に足利義詮・高師直が美濃に進発している(園太暦)。『祇園執行日記』観応元年八月二十日条で足利義詮・高師直が美濃から帰洛した記事に、「生捕大将土岐周勢殿(兵庫入道、道存子)乗輿、佐々木六角判官(江州守護)預召具上洛、頭殿直御参将軍、」とあり、土岐周済が兵庫入道と注記されていることで、明智兵庫頭入道頼明と分かる。頼明は近江守護六角氏頼に預けられた。さらに『園太暦』同月二十七日条「濃州生捕周清法師并舎弟一人、去夜被斬首了」とあり、『祇園執行日記』二十七日条には「土岐周清、同舎弟左衛門大夫入道於樋口河原六波羅地蔵堂焼野、今夜戌刻被討了、奉行雑賀民部大夫也、左衛門大夫入道乍著裳無衣、切頸之条、無故実之由有沙汰、預人佐々木大夫判官切之」とあり、二十八日条に「周清并舎弟左衛門大夫入道頸、六波羅焼野被懸之(地蔵堂後)」、二十九日条に「周清兄弟頸、又今日懸之云々、」とある。頼康の土岐惣領継承に、明智頼明(兵庫入道周清)・土岐頼直(左衛門大夫)が反発したことが分かる。
『園太暦』文和二年(1353)三月二十六日条に「武家検断土岐頼泰舎弟長山某」とあるのが明智頼兼のことだろう。長山頼基と明智頼兼がともに「長山」と呼ばれたことで後世の系譜伝承に混乱が生じたと考えられる。長山遠江守の長山は本巣郡根尾長山砦であり、南朝方の脇屋義助が籠もったこともある。明智頼兼の長山は可児郡長山城とも考えられるが、頼兼は長山頼基の女婿として長山と称したとも考えられる。
長山遠江守は頼康のもとで尾張守護代となり、文和二年二月十三日には守護土岐頼康が守護代長山遠江守に対して地頭御家人や守護被官らの押領を止めるように指示している(醍醐寺文書十三函尾張守護土岐頼康書下『愛知県史資料編中世1』一三六二号)。遠江守は同年四月に南朝方の原・蜂屋らと戦っており、『園太暦』同年四月十日条に「十日、今日、於尾州有合戦、賊首廿許持上、守護代土岐家人等合戦、件党類原・蜂屋等云々」と見える。
同年七月二十二日付で尾張国衙良海東郡保分例名正税等について地頭土岐明智伯耆守が押領したとの報告があった(醍醐寺文書二十三函僧良禅等連署注進状『愛知県史資料編中世1』一三八一号)。この土岐明智伯耆守が長山頼基の女婿土岐明智次郎頼兼だろう。また同三年(1354)四月二十三日付熱田社領目録案(熱田神宮文書『愛知県史資料編中世1』一四一六号)では、中島郡玉江庄(田畠十四町四段三十歩)に「長山押領云々」と注記され、長山遠江守が中島郡に勢力を張っていたことが分かる。さらに同年七月二十八日付足利尊氏寄進状(妙興寺文書『愛知県史資料編1』一四二二号)は妙興寺に尾張国中島・丹羽・葉栗等郡内散在田畠百十八町七段余を寄附するとの寄進状に「守護人土岐大膳大夫頼康・同代官頼煕執達」とあり、守護代長山遠江守の当時の実名が頼基ではなく「頼煕」と分かる。頼基から頼煕に改名したのだろうか。また尾張中島郡が長山氏の勢力下と確認できる。
『美濃国諸家系譜』によれば、長山遠江守は土岐頼遠の女婿であり、子息満頼は揖斐土岐頼雄の女婿だが、見性寺文書(『愛知県史資料編2』四八四号)の至徳三年(1386)三月二十一日付大般若波羅蜜多経奥書にある「大檀那源朝臣岐陽満頼」は尾張中島郡浅井郷地頭であり、「岐陽」と名乗る美濃土岐氏の関係者である。尾張守護代長山遠江守の子息満頼と推測できる。また満頼が氏姓は源朝臣と確認できる。その後、長山氏では永享以来御番帳で五番に長山左馬助入道、文安年中御番帳で五番に長山右馬助入道が見える。
【参考文献】
秋元信英「分国支配と南宮社の関係」神道学55号、27-43頁、1967
年。
秋元信英「土岐一族の抬頭」国司学75号、16-34頁、1967年。
佐藤健一「鎌倉・室町初期の名国司―その出現と変遷」(今江廣道
編『前田本「玉燭宝典」紙背文書とその研究』続群書類従完成会、
165-226頁、2002年)。
荻野三七彦「春日社と成功」日本歴史464号、33-35頁、1987年。
荻野三七彦『大乗院文書の解題的研究と目録(下)』お茶の水図書
館、1987年。
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証(上)」山形
県立米沢女子短期大学附属生研究所39号、2012年、27-43頁。
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証(下)」山形
県立米沢女子短期大学附属生研究所40号、2013年、37-50頁。
谷口研語『美濃・土岐一族』新人物往来社、1997年。
平田俊春「土岐頼兼と正中の変」日本歴史432号、1-16頁、1984年。
『角川日本地名大辞典』21岐阜県、竹内理三等編、角川書店、1980
年。
『愛知県史』資料編中世1、2001年。
『岐阜県史』史料編古代・中世1~4、1969-73年。
『不破郡史』
『瑞浪市史』歴史編、1974年。
また頼貞妻の兄弟北条宗方は、北条時宗の養子になり、平頼綱の乱後に得宗北条氏の執事(内管領)を勤めていた。嘉元三年(1305)宗方が連署北条時村を襲撃した嘉元の乱では、光定の子定親(隠岐孫太郎)は北条宗方に与して処刑されている。土岐氏が北条氏被官(御内人)のように行動していたことが分かる。これで弟頼貞(孫二郎・伯耆守)の系統が土岐氏嫡流となった。
元亨四年(1324)九月後醍醐天皇による討幕計画が土岐左近蔵人頼員(六波羅評定衆奉行斎藤氏女婿)の密告で発覚し、十九日密かに上洛していた土岐十郎五郎頼有と多治見国長は六波羅探題の討手との戦闘の末に自害した(『花園院宸記』九月十九日条)。『太平記』の記述は混乱しているが、『花園院宸記』によれば、登場人物は土岐左近蔵人頼員、土岐十郎五郎頼有、多治見国長である。元亨四年十月三日和田助家着到状(『岐阜県史』史料編古代・中世4、大阪府3和田文書1)では、土岐十郎五郎頼有を伯耆十郎、多治見国長を多治見四郎二郎とする。伯耆十郎であれば、伯耆入道頼貞の子伯耆十郎頼兼である。また『花園院宸記』の記事で頼員に「兼歟」との傍注がある。しかも「頼兼」とする傍注は宸筆による。伝聞を花園院自ら訂正したのである。蔵人は天皇の身の回りの世話をするため、土岐左近蔵人と聞いて、はじめは伝聞のまま記した花園院も、記憶をたどり頼兼と思ったのだろう。ただし花園院のときと蔵人も替わるため自信がもてず、「兼歟」としたものと考えられる。少なくとも花園院のときの土岐左近蔵人は土岐頼兼だったのだろう。事件当時の左近蔵人が誰かが問題になる。また頼兼がすでに任官していたのであれば、仮名「土岐伯耆十郎」で呼ばれることはない。『武家年代記裏書』正中元年条では「土岐小□郎・田志美二郎依有隠謀聞、於京都被誅了」とある(増補続史料大成)。小十郎であれば、伯耆十郎頼兼の子という意味になる。尊卑分脈に照らせば、頼員はその官職左近蔵人から船木頼春、また討たれた人物は伯耆十郎ならば頼兼、土岐十郎五郎・土岐小十郎なら頼兼の子に相当する。その実名は、『花園院宸記』にあるように頼有であろう。
『太平記』諸本で、頼員・頼有の名に混乱があり、左近蔵人頼員を頼員・頼貞・頼直・頼真・頼玄ともし、また頼有を頼時・頼貞・頼員・頼有・頼明ともする(平田俊春1984、佐々木紀一2012)。これは員・貞・有などの字が草書体では区別しにくいために、筆写されるたびに誤写されたと考えられる。そうであれば、このような人名の誤りが諸本の系統を復元するのに資することもできよう。
土岐頼貞┬頼清───┬頼康───康行(実は頼雄子)
├頼遠 ├ 明智頼兼
├明智頼基 ├揖斐頼雄
├頼兼 └池田頼忠─頼益―持益(美濃守護)
└頼明
元弘元年(1331)に始まる元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、頼兼の兄伯耆九郎頼基の子頼重(高松三郎頼重)が建武新政のもと讃岐守護になった。隠岐守光定は尊卑分脈によれば、悪党讃岐十郎を討った功績で隠岐守を受領したと伝えるので、讃岐に権益を有していた可能性がある。ここに登場する伯耆九郎頼基・十郎頼兼・弥十郎頼明らは頼貞の正妻北条氏の子であり、東美濃の明智長山城の明智を名乗った。それに対して頼貞の庶子頼清・頼遠たちは西美濃に本拠を移動する。
建武元年(1334)中先代の乱に続く足利尊氏の挙兵では、頼貞の庶子弾正少弼頼遠・弟道謙が箱根竹下合戦で活躍した(太平記)。これを契機に諸国で足利方の挙兵が相次ぎ、讃岐では細川定禅が挙兵して高松頼重(明智三郎)の高松城が落城し、その老父(伯耆九郎頼基)は討死している(太平記)。庶子と嫡子で明暗を分けた。その後も頼清・頼遠は活躍し父頼貞は美濃守護に補任された。
建武二年(1335)六月の京都攻防戦では、頼貞の子土岐悪源太(頼清)が活躍し(太平記)、翌三年(1336)北畠顕家の奥州勢との青野原軍ではやはり頼貞の子頼遠が奮戦し(太平記)、頼遠は敗れたものの顕家が新田義貞の北陸軍とは合流できずに伊勢に転じたことで、こののちの情勢を決定づけた。バサラ大名頼遠の面目躍如である。
暦応二年(1339)二月頼貞が没すると、頼遠(弾正少弼)が土岐惣領を継いだ。これは兄頼清(悪源太)が父に先立ち没していたためで、頼遠は土岐氏を美濃・尾張・伊勢三カ国の守護に押し上げた。ところが康永元年(1342)十二月光厳院に牛車に射かけた罪で刑死すると、伯耆弥十郎頼明が惣領を継承する。鎌倉幕府滅亡に活躍した伯耆九郎頼基・十郎頼有兄弟の末弟である。『太平記』巻第二十五「住吉合戦事」は貞和三年(1347)の楠正行との合戦で、土岐周済(頼貞子)・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門(京極秀宗)が安倍野に陣を張り、兵庫助は戦傷を負った。この明智兵庫助が、尊卑分脈に伯耆弥十郎とも兵庫頭とも記される頼明である。頼明が兵庫頭であったことは、年月未詳二十五日付土岐頼明書状(『岐阜県史』史料編古代・中世一、美濃市1阿部敏雄氏所蔵文書1)に、「兵庫頭頼□」とあることで確認できる。貞和四年(1348)正月土岐周済と明智三郎(高松頼重)が出陣した四条畷の戦いで周済らは戦死した(太平記巻第二十六)。これで土岐惣領は頼清の子頼康に移った。
観応の擾乱が始まると、土岐氏の分裂は決定的になった。『太平記』巻二十七「御所囲事」では貞和五年(1349)高師直邸に集まった武士の中に土岐刑部大輔頼康、同明智次郎頼兼、同新蔵人頼雄とある。頼康・頼雄は土岐頼貞の庶子頼清の子で、叔父頼遠に従い活躍していた。ここで注目できるのが土岐頼康・頼雄兄弟の間に記された明智次郎頼兼である。続群書類従本土岐系図一本では頼清の子に頼康・頼兼・頼雄の順で記されている。またもう一本の土岐系図の十郎頼兼(実は頼有)の項で記すように、正中の変の土岐十郎頼兼(実は十郎頼有)と明智次郎頼兼は別人である。やはり明智次郎頼兼は頼康の次弟である。
観応元年(1350)七月美濃で土岐周清(兵庫入道)の乱があり、同月二十七日に土岐勢が近江に侵入した(園太暦)。二十八日に足利義詮・高師直が美濃に進発している(園太暦)。『祇園執行日記』観応元年八月二十日条で足利義詮・高師直が美濃から帰洛した記事に、「生捕大将土岐周勢殿(兵庫入道、道存子)乗輿、佐々木六角判官(江州守護)預召具上洛、頭殿直御参将軍、」とあり、土岐周済が兵庫入道と注記されていることで、明智兵庫頭入道頼明と分かる。頼明は近江守護六角氏頼に預けられた。さらに『園太暦』同月二十七日条「濃州生捕周清法師并舎弟一人、去夜被斬首了」とあり、『祇園執行日記』二十七日条には「土岐周清、同舎弟左衛門大夫入道於樋口河原六波羅地蔵堂焼野、今夜戌刻被討了、奉行雑賀民部大夫也、左衛門大夫入道乍著裳無衣、切頸之条、無故実之由有沙汰、預人佐々木大夫判官切之」とあり、二十八日条に「周清并舎弟左衛門大夫入道頸、六波羅焼野被懸之(地蔵堂後)」、二十九日条に「周清兄弟頸、又今日懸之云々、」とある。頼康の土岐惣領継承に、明智頼明(兵庫入道周清)・土岐頼直(左衛門大夫)が反発したことが分かる。
『園太暦』文和二年(1353)三月二十六日条に「武家検断土岐頼泰舎弟長山某」とあるのが明智頼兼のことだろう。長山頼基と明智頼兼がともに「長山」と呼ばれたことで後世の系譜伝承に混乱が生じたと考えられる。長山遠江守の長山は本巣郡根尾長山砦であり、南朝方の脇屋義助が籠もったこともある。明智頼兼の長山は可児郡長山城とも考えられるが、頼兼は長山頼基の女婿として長山と称したとも考えられる。
長山遠江守は頼康のもとで尾張守護代となり、文和二年二月十三日には守護土岐頼康が守護代長山遠江守に対して地頭御家人や守護被官らの押領を止めるように指示している(醍醐寺文書十三函尾張守護土岐頼康書下『愛知県史資料編中世1』一三六二号)。遠江守は同年四月に南朝方の原・蜂屋らと戦っており、『園太暦』同年四月十日条に「十日、今日、於尾州有合戦、賊首廿許持上、守護代土岐家人等合戦、件党類原・蜂屋等云々」と見える。
同年七月二十二日付で尾張国衙良海東郡保分例名正税等について地頭土岐明智伯耆守が押領したとの報告があった(醍醐寺文書二十三函僧良禅等連署注進状『愛知県史資料編中世1』一三八一号)。この土岐明智伯耆守が長山頼基の女婿土岐明智次郎頼兼だろう。また同三年(1354)四月二十三日付熱田社領目録案(熱田神宮文書『愛知県史資料編中世1』一四一六号)では、中島郡玉江庄(田畠十四町四段三十歩)に「長山押領云々」と注記され、長山遠江守が中島郡に勢力を張っていたことが分かる。さらに同年七月二十八日付足利尊氏寄進状(妙興寺文書『愛知県史資料編1』一四二二号)は妙興寺に尾張国中島・丹羽・葉栗等郡内散在田畠百十八町七段余を寄附するとの寄進状に「守護人土岐大膳大夫頼康・同代官頼煕執達」とあり、守護代長山遠江守の当時の実名が頼基ではなく「頼煕」と分かる。頼基から頼煕に改名したのだろうか。また尾張中島郡が長山氏の勢力下と確認できる。
『美濃国諸家系譜』によれば、長山遠江守は土岐頼遠の女婿であり、子息満頼は揖斐土岐頼雄の女婿だが、見性寺文書(『愛知県史資料編2』四八四号)の至徳三年(1386)三月二十一日付大般若波羅蜜多経奥書にある「大檀那源朝臣岐陽満頼」は尾張中島郡浅井郷地頭であり、「岐陽」と名乗る美濃土岐氏の関係者である。尾張守護代長山遠江守の子息満頼と推測できる。また満頼が氏姓は源朝臣と確認できる。その後、長山氏では永享以来御番帳で五番に長山左馬助入道、文安年中御番帳で五番に長山右馬助入道が見える。
【参考文献】
秋元信英「分国支配と南宮社の関係」神道学55号、27-43頁、1967
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佐藤健一「鎌倉・室町初期の名国司―その出現と変遷」(今江廣道
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165-226頁、2002年)。
荻野三七彦「春日社と成功」日本歴史464号、33-35頁、1987年。
荻野三七彦『大乗院文書の解題的研究と目録(下)』お茶の水図書
館、1987年。
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証(上)」山形
県立米沢女子短期大学附属生研究所39号、2012年、27-43頁。
佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証(下)」山形
県立米沢女子短期大学附属生研究所40号、2013年、37-50頁。
谷口研語『美濃・土岐一族』新人物往来社、1997年。
平田俊春「土岐頼兼と正中の変」日本歴史432号、1-16頁、1984年。
『角川日本地名大辞典』21岐阜県、竹内理三等編、角川書店、1980
年。
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『岐阜県史』史料編古代・中世1~4、1969-73年。
『不破郡史』
『瑞浪市史』歴史編、1974年。
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