細川幽斎の系譜-佐々木大原流細川氏
熊本藩主細川氏の藩祖細川藤孝(幽斎)の養父が、実は佐々木大原氏出身の細川政誠(伊豆守・治部少輔)の孫刑部少輔晴広(又次郎)との有力な学説がある。これは山田康弘「細川幽斎の養父について」(『日本歴史』2009年3月号、96-104頁)で発表したものである。
『寛永諸家系図伝』編集のとき子細川忠興の証言によれば、幽斎は三淵氏の出身で、細川伊豆か細川刑部少輔に養われて室町将軍御供衆になったという。また忠興の妹浄勝院(吉田兼治後室)が老女「しゆゑい」に尋ねた際の「しゆゑい」覚書によれば、細川伊豆は刑部少輔の父で、幽斎の祖父に当たるといいます。しかし寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜では、刑部少輔は和泉守護細川元常とされ、現在も通説になっている。
ところが竜安寺文書に十月四日付竜安寺宛藤孝書状と天文六年十二月十三日付龍安寺宛刑部少輔晴広書状がある。藤孝の花押は一般的に知られたものと異なるが、初期の花押と考えられる。この刑部少輔晴広が細川晴広であり、その父は室町幕府内談衆の細川伊豆守高久である。
『鹿苑日録』天文十年(1541)正月十二日条に「細川豆州□□千代殿来、挙盃、今日始公府江出仕云々」と細川伊豆守の孫熊千代が幕府に出仕した記事があり、幽斎の幼名が熊千代と分かるが、幽斎の子忠興・孫忠隆も幼名は熊千代であり、幽斎の細川氏はやはり佐々木大原流の細川氏であろう。
また、設楽薫「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察」(『遥かなる中世』19号、9-12頁、2001年)によれば、政誠は足利義政の寵臣で、淡路守護細川氏の養子になり細川氏を名乗っているという。
細川政誠(伊豆守・治部少輔)は佐々木大原氏出身で、八代将軍足利義政の命で淡路守護細川氏の養子として細川氏を名乗り、子高久、孫晴広と続いた。この晴広が、細川藤孝(幽斎)の養父です。
天文年間(1532-55)に記された故実書「御対面次第」に、「御部屋衆之事、(中略)又佐々木大原息にて候つるを、細川淡路守名字をえて、喝食よりめしつかはる、後には淡路治部少輔と号候」と記されるように、もともと佐々木大原氏であり、武家故実雑書九「条々聞書」では、細川治部少輔に「寿文房と云御喝食」と注記されている。
政誠が加えられた御部屋衆とは、将軍が身近に置きたい人物を、家柄と関係なく引き上げて側近に任用したものであり、さらに「入名字」といって足利一門の名字を給付されると、殿中での席次や書札礼なども一門の扱いを受けた。
佐々木大原判官持綱が上様(日野富子)御供衆であったため、持綱の子も義政の目に留まったのだろう。
さらに政誠の子高久は、十二代将軍足利義晴が新設した内談衆に加えられた。内談衆は、天文五年(1536)に設置された幕府の中枢機関で、将軍の政務決裁を支えるもので、近衛尚通の日記「後法成寺尚通公記」天文五年十月十八日条によれば、大館常興・晴光父子、朽木稙綱、細川高久、摂津元造、荒川氏隆、海老名高助、本郷光泰の八名がいた。
この内談衆細川高久の子が刑部少輔晴広であり、細川幽斎(藤孝)はこの佐々木大原流細川氏の養子になることで、将軍足利義輝・義昭に近侍したと考えられる。これが熊本藩主細川氏の家系である。
『寛永諸家系図伝』編集のとき子細川忠興の証言によれば、幽斎は三淵氏の出身で、細川伊豆か細川刑部少輔に養われて室町将軍御供衆になったという。また忠興の妹浄勝院(吉田兼治後室)が老女「しゆゑい」に尋ねた際の「しゆゑい」覚書によれば、細川伊豆は刑部少輔の父で、幽斎の祖父に当たるといいます。しかし寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜では、刑部少輔は和泉守護細川元常とされ、現在も通説になっている。
ところが竜安寺文書に十月四日付竜安寺宛藤孝書状と天文六年十二月十三日付龍安寺宛刑部少輔晴広書状がある。藤孝の花押は一般的に知られたものと異なるが、初期の花押と考えられる。この刑部少輔晴広が細川晴広であり、その父は室町幕府内談衆の細川伊豆守高久である。
『鹿苑日録』天文十年(1541)正月十二日条に「細川豆州□□千代殿来、挙盃、今日始公府江出仕云々」と細川伊豆守の孫熊千代が幕府に出仕した記事があり、幽斎の幼名が熊千代と分かるが、幽斎の子忠興・孫忠隆も幼名は熊千代であり、幽斎の細川氏はやはり佐々木大原流の細川氏であろう。
また、設楽薫「足利義晴期における内談衆の人的構成に関する考察」(『遥かなる中世』19号、9-12頁、2001年)によれば、政誠は足利義政の寵臣で、淡路守護細川氏の養子になり細川氏を名乗っているという。
細川政誠(伊豆守・治部少輔)は佐々木大原氏出身で、八代将軍足利義政の命で淡路守護細川氏の養子として細川氏を名乗り、子高久、孫晴広と続いた。この晴広が、細川藤孝(幽斎)の養父です。
天文年間(1532-55)に記された故実書「御対面次第」に、「御部屋衆之事、(中略)又佐々木大原息にて候つるを、細川淡路守名字をえて、喝食よりめしつかはる、後には淡路治部少輔と号候」と記されるように、もともと佐々木大原氏であり、武家故実雑書九「条々聞書」では、細川治部少輔に「寿文房と云御喝食」と注記されている。
政誠が加えられた御部屋衆とは、将軍が身近に置きたい人物を、家柄と関係なく引き上げて側近に任用したものであり、さらに「入名字」といって足利一門の名字を給付されると、殿中での席次や書札礼なども一門の扱いを受けた。
佐々木大原判官持綱が上様(日野富子)御供衆であったため、持綱の子も義政の目に留まったのだろう。
さらに政誠の子高久は、十二代将軍足利義晴が新設した内談衆に加えられた。内談衆は、天文五年(1536)に設置された幕府の中枢機関で、将軍の政務決裁を支えるもので、近衛尚通の日記「後法成寺尚通公記」天文五年十月十八日条によれば、大館常興・晴光父子、朽木稙綱、細川高久、摂津元造、荒川氏隆、海老名高助、本郷光泰の八名がいた。
この内談衆細川高久の子が刑部少輔晴広であり、細川幽斎(藤孝)はこの佐々木大原流細川氏の養子になることで、将軍足利義輝・義昭に近侍したと考えられる。これが熊本藩主細川氏の家系である。
この記事へのコメント
言継卿記、天文3年、正月26日の項に、両名登場。
官位、
少輔・・・従5位の下、伊豆守・・・従6位の下、父子が官位逆になることがあるのでしょうか?
言継、少輔には、腹帯、伊豆守には、多分、檀紙を贈答から見ても、父子は逆なような気がしますが。
いかがでしょうか?
返事が遅れて申し訳ありません。
官途名を見るとき、官位相当表はあくまで参考程度のものです。どちらも従五位下と考えていいです。八省の少輔から受領に補任されることも多くありました。
実は、平安時代には公卿・殿上人が権守・権介を兼任していたように受領が権益となっていましたし、他の官職を経たのちに功労で受領に補任されることも多くありました。そのため大・上・中・小国の差はありましたが、受領の地位は従五位以上となり、鎌倉時代には武士が受領になることは、とても名誉とされました。
刑部少輔→伊豆守という官途をたどったとしても不思議ではありません。官位相当表よりも慣習を重視してみるといいでしょう。
淡路守護細川尚春が、澄元派により殺害されたのは永正16年(1519年?)
永正の政変で細川政元が暗殺された後なので、足利義政はすでに亡く
、十代義尹(義稙)と十一代義澄の時代です。
政誠の「政」は義政からではなく、細川政元からの偏諱ではないかと考えます。
政誠が義政の時代から仕えていた人物だったとしても、淡路守護家を継ぐ事にさせたのは義政ではないと思います。
佐々木流大原系細川氏が、政誠→高久→晴広、と続いているそうなので
次代高久の「高」の字は、細川高国の偏諱ではないかと思います。
晴広の「晴」は細川晴元だと思いますので、淡路細川家は足利将軍家から偏諱を受けるのではなく、管領京兆家から偏諱を受けていたのではないでしょうか。