2013年東大前期・国語第1問「翻訳」

詩人―作家が言おうとすること、いやむしろ正確に言えば、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない。人々はよく、ある詩人―作家の作品は「しかじかの主張をしている」、「こういうメッセージを伝えている」、「彼の意見、考え、感情、思想はこうである」、と言うことがある。筆者も、ときに(長くならないよう、短縮し、簡潔に省略するためにせよ)それに近い言い方をしてしまう場合がある。しかし、実のところ、ある詩人―作家の書いた文学作品が告げようとしているなにか、とりあえず内容・概念的なものとみなされるなにか、言いかえると、その思想、考え、意見、感情などと思われているなにかは、それだけで切り離され、独立して自存していることはないのである。〈意味され、志向されている内容〉は、それを〈意味する仕方、志向する仕方〉の側面、表現形態の面、意味するかたちの側面と一体化して作用することによってしか存在しないし、コミュニケートされない。だから、〈意味されている内容・概念・イデー〉のみを抜き出して「これこそ詩人―作家の思想であり、告げられたメッセージである」ということはできないのだ。
それゆえまた、詩人―作家のテクストを翻訳する者は、次のような姿勢を避けるべきだろう。つまり翻訳者が、むろん原文テクストの読解のために、いったんそのテクストの語り方の側面、意味するかたちの側面を経由して読み取れるのは当然なのであるが、しかしフォルム的側面はすぐに読み終えられ、通過されて、もうこの〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではない。もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度をとってはならない。そうやって自分が読み取った意味内容、つまり〈私〉へと伝達され、〈私〉によって了解された概念的中身・内容が、それだけで独立して、まさにこのテクストの〈言おう、語ろう〉としていることをなす(このテクストの志向であり、意味である)とみなしてはならないのである。
翻訳者は、このようにして自分が読み取り、了解した概念的中身・内容が、それだけで独立して(もうそのフォルム的側面とは無関係に)、このテクストの告げる意味であり、志向であるとみなしてはならず、また、そういう意味や志向を自分の母語によって読みやすく言い換えればよいと考えてはならないだろう。
自分が抜き出し、読み取った中身・内容を、自らの母語によって適切に言い換えればaシュビよく翻訳できると考え、そう実践することは、しばしば読みやすく、理解しやすい翻訳作品を生み出すかもしれない。ただし、そこには、大きな危うさも内包されているのだ。原文のテクストがその独特な語り口、言い方、表現の仕方によって、きわめて微妙なやり方で告げようとしているなにかを十分に気づかうことから眼をそらせてしまうおそれがあるだろう。
少し極端に言えば、たとえばある翻訳者が「これがランボーの詩の日本語訳である」として読者に提示する詩が、ランボーのテクストの翻訳作品であるというよりも、はるかに翻訳者による日本語作品であるということもありえるのだ。
それを避けるためには、やはり翻訳者はできる限り原文テクストを bチクゴ的にたどること、〈字句どおりに〉翻訳する可能性を追求するべきだろう。原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面に注意を凝らし、それにあたうかぎり忠実であろうとするのである。
その点を踏まえて、もう一度考えてみよう。ランボーが《Tu voles selon……》(……のままに飛んでいく)と書いたことのうちには、つまりこういう語順、構文、語法として〈意味する作用や働き〉を行なおうとし、なにかを言い表そうと志向したこと、それをコミュニケートしようとしたことのうちには、なにかしら特有な、独特のもの、密かなものが含まれている。翻訳者は、この特有な独特さ、なにか密かなものを絶えず気づかうべきであろう。なぜならそこにはランボーという書き手の(というよりも、そうやって書かれた、このテクストの)独特さ、特異な単独性が込められているからだ。すなわち、通常ひとが〈個性〉と呼ぶもの、芸術家や文学者の〈天分〉とみなすものが宿っているからである。
こうして翻訳者は、相容れない、両立不可能な、とも思える、二つの要請に同時に応えなければならないだろう。その一つは、原文が意味しようとするもの、言おうとし、志向し、コミュニケートしようとするものをよく読み取り、それをできるだけこなれた、達意の日本語にするという課題・任務であり、もう一つは、そのためにも、原文の〈かたち〉の面、すなわち言葉づかい(その語法、シンタックス、用語法、比喩法など)をあたう限り尊重するという課題・任務である。そういう課題・任務に応えるために、翻訳者は、見たとおり、原文=原語と母語との関わり方を徹底的に考えていく。翻訳者は、原文の〈意味する仕方・様式・かたち〉の側面、表現形態の面、つまり志向する仕方の面を注意深く読み解き、それを自国語の分脈のなかに取り込もうとする。しかし、フランス語における志向する仕方は、日本語における志向する仕方と一致することはほとんどなく、むしろしばしば食い違い、齟齬をきたし、cマサツを起こす。それゆえ翻訳者は諸々の食い違う志向する仕方を必死になって和合させ、調和させようと努めるのだ。あるやり方で自国語(自らの母語)の枠組みや規範を破り、変えるところまで進みながら、ハーモニーを生み出そうとするのである。
こうして翻訳者は、絶えず原語と母語とを対話させることになる。この対話は、おそらく無限に続く対話、終わりなき対話であろう。というのも諸々の食い違う志向の仕方が和合し、調和するということは、来るべきものとして約束されることはあっても、けっして到達されることや実現されることはないからだ。こうした無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存しているだろう。
もしかしたら、翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれているかもしれない。だからある意味で原文=原作に新たな生命を吹き込み、成長をdウナガし、生き延びさせるかもしれない。翻訳という試み、原文と(翻訳者の)母語との果てしのない対話は、ことによると新しい言葉の在りようへとつながっているかもしれない。そう約束されているかもしれない。こういう約束の地平こそ、ベンヤミンがeシサした翻訳者の使命を継承するものであろう。
そしてこのことは、もっと大きなパースペクティブにおいて見ると、諸々の言葉の複合性を引き受けるということ、他者(他なる言語・文化、異なる宗教・社会・慣習・習俗など)を受け止め、よく理解し、相互に認め合っていかなければならないということ、そのためには必然的になんらかの「翻訳」の必然性を受け入れ、その可能性を探り、拡げ、掘り下げていくべきであるということに結ばれているだろう。翻訳は諸々の言語・文化・宗教・慣習の複数性、その違いや差異に細心の注意を払いながら、自らの母語(いわゆる自国の文化・慣習)と他なる言語(異邦の文化・慣習)とを関係させること、対話させ、競い合わせることである。そうだとすれば、翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みであると言えるのではないだろうか。

(湯浅博雄「ランボーの詩の翻訳について」)

〔注〕○フォルム――forme(フランス語)、form(英語)に同じ。
○ランボー――Arthur Rimbaud(1854~1891)フランスの詩人
○シンタックス――syntax 構文
○ベンヤミン――Walter Benjamin(1892~1940)ドイツの批評家


設問
(一)「もっぱら自分が抜き出し、読み取ったと信じる意味内容・概念の側面に注意を集中してしまうという態度を取ってはならない」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(二)「はるかに翻訳者による日本語作品である」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「原語と母語とを対話させる」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)「翻訳という対話は、ある新しい言葉づかい、新しい文体や書き方へと開かれている」(傍線部エ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
(五)「翻訳という営為は、諸々の言語・文化の差異のあいだを媒介し、可能なかぎり横断していく営みである」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、本文全体の趣旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
aシュビ bチクゴ cマサツ dウナガ(し) eシサ

【解説】
(一)傍線部アでは、「意味内容・概念の側面」に注意を集中してはならないと述べているから、「内容」と反対の意味のものを探そう。傍線部の次の文は「…のである」で終っているように言い換えであり、そこでも自分が読み取った意味内容だけが独立して、作品の志向・意味とみなしてはならないと述べている。では反対の言葉は何であろう。傍線部の直前の文で、〈意味するかたちの側面〉を気づかうことをやめるという姿勢はとるべきではないと述べている。そう、「かたち」である。内容に対立する言葉は形式であり、筆者は表現形式に注目する必要があると述べている。そもそも文頭に「詩人―作家が言おうとすること、その書かれた文学作品が言おう、言い表そうと志向することは、それを告げる言い方、表し方、志向する仕方と切り離してはありえない」と述べている。傍線部のある段落の最初に「それゆえ」とあることに注目して、前段落を見ないといけない。そうすると前段落の最後の文は「だから」で始まる。文章全体の構成を見れば、簡単な表現が見つかる。
(二)これは前問を受けて、異なる言語に翻訳するときに、原作品の表現形式が一方的に壊されてしまうことを答える問題である。傍線部イでは、翻訳された文学作品は、翻訳作品であるというよりも、翻訳者による日本語作品ということもありえると述べている。この文は「少し極端に言えば」で始まるのだから、前の段落の最後の文の言い換えである。そこに注目すると、原文の独特な語り口、言い方、表現の仕方によって告げようとしているなにかから眼をそらせるとある。やはり原文の形式から眼をそらすことになると述べている。
(三)これは前問を受けて、表現形式を多言語で表現する難しさを答える問題である。傍線部ウ「絶えず原語と母語とを対話させる」は、「こうして」で始まる文の中にあるのだから、やはり前段落のその内容が説明されている。原文の言語を翻訳しようとすると、二つの言語の志向性の違いから翻訳がぴったりと合うことはほとんどなく、翻訳者は二つの言語を和合・調和させるのに努力するという内容だ。もちろん、この対話は、傍線部の後の文にも延べられているように、「無限の対話」になるが、そこに翻訳の苦労と喜びの両方がある。
(四)これは前問を受けて、文学作品の多言語での翻訳では、従来の表現方法ではうまく表現できず工夫が必要であることを答える問題である。傍線部エでは、翻訳により、新しい言葉づかいや新しい文体が生まれるかもしれないと述べている。勘のいい受験生なら、問題を読んですぐに答えられるだろう。前の段落で、言語と母語の無限の対話のうちに、まさしく翻訳の喜びと苦悩が表裏一体となって存在していると述べているが、これは両言語の文法の違いから、原語の表現をそのまま母語に移すことができないからである。しかしその苦しみは報われないものではなく、傍線部の後の文で述べられているように、翻訳という試みは、新しい言葉の有様へとつながることが約束されている。このことをまとめよう。
(五)これまでの問題を受けて、全文をまとめる問題である。傍線部のある段落では、翻訳は、単に言語を置き換えるというだけではなく、他文化を理解するということであると述べられている。翻訳は多くの言語・文化・宗教・慣習の多様性、差異に十分に注意を払いながら、自らの母語と原文の言語とを関係させることである。このことをまとめよう。そこに、新しい表現の開発は、新しい文化の創造と書き加えるといい。
(六)東大を含め大学入試では、難解な漢字は問われないので、文章を読みながら漢字を覚えればいい。対策が必要な場合は、漢字検定対策ではなく、大学入試対策のものを1冊仕上げよう。

【解答例】
(一)文学作品は内容と表現形式は一体であり、内容だけを取り出しては作品の一面を見ているにすぎないからである。
(二)翻訳作品では、翻訳者の表現形式で書かれているので、原文の独特の表現形式と一体となった内容が読者に伝わらない。
(三)翻訳は文学作品を通して二つの言語を比較し、両者の表現方法の違いを認めつつ、適切な翻訳を模索するということ。
(四)原語の表現をそのまま母語に移せないため、母語には従来なかった表現を開発する必要も出てくるということ。
(五)翻訳は、単に言語を置き換えることではなく、他文化を理解することでもある。それは、言語には基盤となる社会・文化があるからである。その差異に注意を払い翻訳することで、原書に新しい評価、そして母語には新しい表現を生みだすことになる。
(六)a 首尾  b 逐語  c 摩擦  d 促(し) e 示唆

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