2012年東大前期国語第1問「科学的自然観」
環境問題は、汚染による生態系の劣悪化、生物種の減少、資源のaコカツ、廃棄物の累積などの形であらわれている。その原因は、自然の回復力と維持力を超えた人間による自然資源の搾取にある。環境問題の改善には、思想的・イデオロギー的な対立と国益の衝突を超えて、国際的な政治合意を形成して問題に対処していく必要がある。
しかしながら、環境問題をより深いレベルで捉え、私たちの現在の自然観・世界観を見直す必要もある。というのも、自然の搾取を推進したその論理的・思想的背景は近代科学の自然観にあると考えられるからだ。もちろん、自然の搾取は人間社会のトータルな活動から生まれたものであり、環境問題の原因のすべてを近代科学に押し付けることはできない。
しかしながら、近代科学が、自然を使用するに当たって強力な推進力を私たちに与えてきたことは間違いない。その推進力とはただ単に近代科学がテクノロジーを発展させ、人減の欲求を追求するためのbコウリツ的な手段と道具を与えたというだけではない(テクノロジーとは、科学的知識に支えられた技術のことを言う)。それだけではなく、近代科学の自然観そのものの中に、生態系の維持と保護に相反する思想が含まれていたと考えられるのである。
近代科学とは、一七世紀にガリレオやデカルトたちによって開始され、次いでニュートンをもって確立された科学を指している。近代科学の基礎となっていたことは言うまでもない。近代科学の自然観には、中世までの自然観と比較して、いくつかの重要な特徴がある。
第一の特徴は、機械論的自然観である。中世までは自然の中には、ある種の目的や意志が宿っていると考えられていたが、近代科学は、自然からそれらの精神性を剥奪し、定められた法則どおりに動くだけの死せる機械とみなすようになった。
第二に、原子論的な還元主義である。自然はすべて微小な粒子とそれに外から課される自然法則からできており、それら原子と法則だけが自然の真の姿であると考えられるようになった。
ここから第三の特徴として、ア物心二元論が生じてくる。二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味も臭いもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間的に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。
真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、cチツジョある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。
それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、主観が対象にそのように意味づけたからである。こうして、物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質なものとみなされる。
これが二元論的な認識論である。そこでは、感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる。いわば、イ自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなったのである。こうした物心二元論は、物理と心理、身体と心、客観と主観、自然と人間、野生と文化、事実と規範といった言葉の対によって表現されながら、私たちの生活に深く広くdシントウしている。日本における理系と文系といった学問の区別もそのひとつである。二元論は、没価値の存在と非存在の価値を作り出してしまう。
二元論によれば、自然は、何の個性もない粒子が反復的に法則に従っているだけの存在となる。こうした宇宙に完全に欠落しているのは、ある特定の場所や物がもっているはずの個性である。時間的にも空間的にも極微にまで切り詰められた自然は、場所と歴史としての特殊性を奪われる。近代的自然科学に含まれる自然観は、自然を分解して利用する道をこれまでないほどに推進した。最終的に原子の構造を砕いて核分裂のエネルギーを取り出せるようになる。自然を分解して(知的に言えば、分析して)、材料として他の場所で利用する。近代科学の自然に対する知的・実践的態度は、ウ自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる。
近代科学が明らかにしていった自然法則は、自然を改変し操作する強力なテクノロジーとして応用されていった。しかも自然が機械にすぎず、その意味や価値はすべて人間が与えるものにすぎないのならば、自然を徹底的に利用することに躊躇を覚える必要はない。本当に大切なのは、ただ人間の主観、心だけだからだ。こうした態度の積み重ねが現在の環境問題を生んだ。
だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた。むしろその逆に、歴史的に見れば、人間に対する態度が自然に対するスタンスに反映したのかもしれない。近代の人間観は原子論的であり、近代的な自然観と同型である。近代社会は、個人を伝統的共同体の桎梏から脱出させ、それまでの地域性や歴史性から自由な主体として約束した。つまり、人間個人から特殊な諸特徴を取り除き、原子のように単独の存在として遊離させ、規則や法に従ってはたらく存在として捉えるのだ。こうした個人概念は、たしかに近代的な個人の自由をもたらし、人権の概念を準備した。
しかし、近代社会に出現した自由で解放された個人は、同時に、ある意味でアイデンティティを失った根無し草であり、誰とも区別のつかない個性を喪失しがちな存在である。そうした誰ともeコウカン可能な、個性のない個人(政治哲学の文脈では「負荷なき個人」と呼ばれる)を基礎として形成された政治理論についても、現在、さまざまな立場から批判が集まっている。物理学の微粒子のように相互に区別できない個人観は、その人のもつ具体的な特徴、歴史的背景、文化的・社会的なアイデンティティ、特殊な諸条件を排除することでなりたっている。
だが、そのようなものとして人間を扱うことは、本当に公平で平等なことなのだろうか。いや、それ以前に、近代社会が想定する誰でもない個人は、本当は誰でもないのではなく、どこかで標準的な人間像を規定してはいないだろうか。そこでは、標準的でない人々のニーズは、社会の基本的制度から密かに排除され、不利な立場に追い込まれていないだろうか。実際、マイノリティに属する市民、例えば、女性、少数民族、同性愛者、障害者、少数派の宗教を信仰する人たちのアイデンティティやニーズは、周辺化されて、軽視されてきた。個々人の個性と歴史性を無視した考え方は、ある人が自分の潜在能力を十全に発揮して生きるために要する個別のニーズに応えられない。
近代科学が自然環境にもたらす問題と、これらのエ従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題とは同型であり、並行していることを確認してほしい。
自然の話に戻れば、分解して個性をなくして利用するという近代科学の方式によって破壊されるのは、生態系であることは見やすい話である。自然を分解不可能な粒子と自然法則の観点のみで捉えるならば、自然は利用可能なエネルギー以上のものではないことになる。そうであれば、自然を破壊することなど原理的にありえないことになってしまうはずだ。
しかし、そのようにして分解的にとらえられた自然は、生物の住める自然ではない。自然を原子のような部分に還元しようとする思考法は、さまざまな生物が住んでおり、生物の存在が欠かせない自然の一部ともなっている生態系を無視してきた。
生態系は、そうした自然観によっては捉えられない全体論的存在である。生態系の内部の無機・有機の構成体は、循環的に相互作用しながら、長い時間をかけて個性ある生態系を形成する。エコロジーは博物学を前身としているが、博物学とはまさしく「自然史(ナチュラル・ヒストリー)」である。ひとつの生態系は独特の時間性と個性を形成する。そして、そこに棲息する動植物はそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性、歴史性、場所性は見逃されてしまうだろう。これが、環境問題の根底にある近代の二元論的自然観(かつ二元論的人間観・社会観)の弊害なのである。オ自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である。
(河野哲也『意識は実在しない』)
設問
(一)「物心二元論」(傍線部ア)とあるのはどういうことか、本文の趣旨に従って説明せよ。
(二)「自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなった」(傍線部イ)とあるが、なぜそのような事態になるといえるのか、説明せよ。
(三)「自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
(四)「従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
A コカツ b コウリツ c チツジョ d シントウ e コウカン
解説と解答例
設問(一)
【解説】傍線部アの直後に「二元論によれば」とあるので、そこをまとめよう。感覚器官による知覚の世界は主観の世界であり、色も味も臭いも自然本来の「内在的な」性質ではなく、心あるいは脳が生み出した性質だという。「内在的」というのは「固有の」という意味だから、色も味も臭いも自然固有のものではなく主観が生み出したものというように、主観の世界と客観の世界をきびしく分けたうえで、感覚的なものは実在しないという「物心二元論」である。
【解答例】主観と客観を厳しく分けた上で、色や味など感覚的なものは主観的なもので実在しないということ。
設問(二)
【解説】傍線部イは前問のつづきである。前問で答えたように、ここでいう物心二元論によれば、色も味も臭いも感覚的なものはすべて主観の産物であり、自然界に実在しないということになる。そうであれば、人間が自然から感じとったものは、実はすべて主観の産物である。そのため、自然を賛美するということは、そのまま主観を賛美することになる。
【解答例】人間が自然から得た感覚はすべて主観の産物であり、自然の賛美は主観の賛美になるということ。
設問(三)
【解説】傍線部ウのある段落のキーワードは、「場所」である。「ある特定の場所や物がもっているはずの個性」「場所と歴史としての特殊性」「材料として他の場所で利用する」とあり、場所が固有性を示す概念として使用している。そのうえで、近代的自然科学の自然観は、自然を分解して利用し、最終的には原子をも分解して核エネルギーにしたと述べている。これを受けたのが、傍線部ウである。この段落の内容をまとめるといい。
【解答例】自然物の固有性を否定し、人間にとって必要なものを抽出して利用しているから。
設問(四)
【解説】傍線部エの三つ前の「だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた」から、原子論的な個人観の話題になる。これまでの原子論の流れから、物質の個別性や特殊性を否定したのと同様、人間の個別性を否定して、すべての人間を抽象的に平等・自由と見なすのが原子論的な個人概念である。そして、それによってもたらされる問題点については傍線部エの直前の「だが、そのようなものとして人間を扱うことは」で始まる段落を見るといい。個別性や特殊性を捨象した結果、人びとは個性を失ったが、それだけではなく、特定の階層の人びとを標準化して個人概念を作り上げたため、そこから漏れた女性、少数民族、同性愛者など少数派のニーズは無視された、とまとめるといい。
【解答例】個人概念は近代市民男性を標準化したものであり、女性や少数民族・同性愛者など少数派は排除された。
設問(五)
【解説】全体の内容を踏まえた上で、傍線部オのある最後の段落をまとめるといい。生態系は長い時間をかけて形成されたものであり、そこに棲息する動植物がそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性は見逃される。これが二元論的自然観の弊害である。(オ)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」。筆者は「場所」を自然物の固有性を表すのに使用しており、自然破壊の結果、歴史性や特殊性が失われてどこも同じに見える砂漠と化したともいえる。
【解答例】生態系は長い時間をかけて形成されたものであり、そこに棲息する動植物がそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んだが、自然破壊の結果、歴史性や特殊性が失われてどこも同じに見える砂漠と化したといえる。
しかしながら、環境問題をより深いレベルで捉え、私たちの現在の自然観・世界観を見直す必要もある。というのも、自然の搾取を推進したその論理的・思想的背景は近代科学の自然観にあると考えられるからだ。もちろん、自然の搾取は人間社会のトータルな活動から生まれたものであり、環境問題の原因のすべてを近代科学に押し付けることはできない。
しかしながら、近代科学が、自然を使用するに当たって強力な推進力を私たちに与えてきたことは間違いない。その推進力とはただ単に近代科学がテクノロジーを発展させ、人減の欲求を追求するためのbコウリツ的な手段と道具を与えたというだけではない(テクノロジーとは、科学的知識に支えられた技術のことを言う)。それだけではなく、近代科学の自然観そのものの中に、生態系の維持と保護に相反する思想が含まれていたと考えられるのである。
近代科学とは、一七世紀にガリレオやデカルトたちによって開始され、次いでニュートンをもって確立された科学を指している。近代科学の基礎となっていたことは言うまでもない。近代科学の自然観には、中世までの自然観と比較して、いくつかの重要な特徴がある。
第一の特徴は、機械論的自然観である。中世までは自然の中には、ある種の目的や意志が宿っていると考えられていたが、近代科学は、自然からそれらの精神性を剥奪し、定められた法則どおりに動くだけの死せる機械とみなすようになった。
第二に、原子論的な還元主義である。自然はすべて微小な粒子とそれに外から課される自然法則からできており、それら原子と法則だけが自然の真の姿であると考えられるようになった。
ここから第三の特徴として、ア物心二元論が生じてくる。二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味も臭いもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間的に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。
真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、cチツジョある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。
それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、主観が対象にそのように意味づけたからである。こうして、物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質なものとみなされる。
これが二元論的な認識論である。そこでは、感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる。いわば、イ自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなったのである。こうした物心二元論は、物理と心理、身体と心、客観と主観、自然と人間、野生と文化、事実と規範といった言葉の対によって表現されながら、私たちの生活に深く広くdシントウしている。日本における理系と文系といった学問の区別もそのひとつである。二元論は、没価値の存在と非存在の価値を作り出してしまう。
二元論によれば、自然は、何の個性もない粒子が反復的に法則に従っているだけの存在となる。こうした宇宙に完全に欠落しているのは、ある特定の場所や物がもっているはずの個性である。時間的にも空間的にも極微にまで切り詰められた自然は、場所と歴史としての特殊性を奪われる。近代的自然科学に含まれる自然観は、自然を分解して利用する道をこれまでないほどに推進した。最終的に原子の構造を砕いて核分裂のエネルギーを取り出せるようになる。自然を分解して(知的に言えば、分析して)、材料として他の場所で利用する。近代科学の自然に対する知的・実践的態度は、ウ自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる。
近代科学が明らかにしていった自然法則は、自然を改変し操作する強力なテクノロジーとして応用されていった。しかも自然が機械にすぎず、その意味や価値はすべて人間が与えるものにすぎないのならば、自然を徹底的に利用することに躊躇を覚える必要はない。本当に大切なのは、ただ人間の主観、心だけだからだ。こうした態度の積み重ねが現在の環境問題を生んだ。
だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた。むしろその逆に、歴史的に見れば、人間に対する態度が自然に対するスタンスに反映したのかもしれない。近代の人間観は原子論的であり、近代的な自然観と同型である。近代社会は、個人を伝統的共同体の桎梏から脱出させ、それまでの地域性や歴史性から自由な主体として約束した。つまり、人間個人から特殊な諸特徴を取り除き、原子のように単独の存在として遊離させ、規則や法に従ってはたらく存在として捉えるのだ。こうした個人概念は、たしかに近代的な個人の自由をもたらし、人権の概念を準備した。
しかし、近代社会に出現した自由で解放された個人は、同時に、ある意味でアイデンティティを失った根無し草であり、誰とも区別のつかない個性を喪失しがちな存在である。そうした誰ともeコウカン可能な、個性のない個人(政治哲学の文脈では「負荷なき個人」と呼ばれる)を基礎として形成された政治理論についても、現在、さまざまな立場から批判が集まっている。物理学の微粒子のように相互に区別できない個人観は、その人のもつ具体的な特徴、歴史的背景、文化的・社会的なアイデンティティ、特殊な諸条件を排除することでなりたっている。
だが、そのようなものとして人間を扱うことは、本当に公平で平等なことなのだろうか。いや、それ以前に、近代社会が想定する誰でもない個人は、本当は誰でもないのではなく、どこかで標準的な人間像を規定してはいないだろうか。そこでは、標準的でない人々のニーズは、社会の基本的制度から密かに排除され、不利な立場に追い込まれていないだろうか。実際、マイノリティに属する市民、例えば、女性、少数民族、同性愛者、障害者、少数派の宗教を信仰する人たちのアイデンティティやニーズは、周辺化されて、軽視されてきた。個々人の個性と歴史性を無視した考え方は、ある人が自分の潜在能力を十全に発揮して生きるために要する個別のニーズに応えられない。
近代科学が自然環境にもたらす問題と、これらのエ従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題とは同型であり、並行していることを確認してほしい。
自然の話に戻れば、分解して個性をなくして利用するという近代科学の方式によって破壊されるのは、生態系であることは見やすい話である。自然を分解不可能な粒子と自然法則の観点のみで捉えるならば、自然は利用可能なエネルギー以上のものではないことになる。そうであれば、自然を破壊することなど原理的にありえないことになってしまうはずだ。
しかし、そのようにして分解的にとらえられた自然は、生物の住める自然ではない。自然を原子のような部分に還元しようとする思考法は、さまざまな生物が住んでおり、生物の存在が欠かせない自然の一部ともなっている生態系を無視してきた。
生態系は、そうした自然観によっては捉えられない全体論的存在である。生態系の内部の無機・有機の構成体は、循環的に相互作用しながら、長い時間をかけて個性ある生態系を形成する。エコロジーは博物学を前身としているが、博物学とはまさしく「自然史(ナチュラル・ヒストリー)」である。ひとつの生態系は独特の時間性と個性を形成する。そして、そこに棲息する動植物はそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性、歴史性、場所性は見逃されてしまうだろう。これが、環境問題の根底にある近代の二元論的自然観(かつ二元論的人間観・社会観)の弊害なのである。オ自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である。
(河野哲也『意識は実在しない』)
設問
(一)「物心二元論」(傍線部ア)とあるのはどういうことか、本文の趣旨に従って説明せよ。
(二)「自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなった」(傍線部イ)とあるが、なぜそのような事態になるといえるのか、説明せよ。
(三)「自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
(四)「従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
A コカツ b コウリツ c チツジョ d シントウ e コウカン
解説と解答例
設問(一)
【解説】傍線部アの直後に「二元論によれば」とあるので、そこをまとめよう。感覚器官による知覚の世界は主観の世界であり、色も味も臭いも自然本来の「内在的な」性質ではなく、心あるいは脳が生み出した性質だという。「内在的」というのは「固有の」という意味だから、色も味も臭いも自然固有のものではなく主観が生み出したものというように、主観の世界と客観の世界をきびしく分けたうえで、感覚的なものは実在しないという「物心二元論」である。
【解答例】主観と客観を厳しく分けた上で、色や味など感覚的なものは主観的なもので実在しないということ。
設問(二)
【解説】傍線部イは前問のつづきである。前問で答えたように、ここでいう物心二元論によれば、色も味も臭いも感覚的なものはすべて主観の産物であり、自然界に実在しないということになる。そうであれば、人間が自然から感じとったものは、実はすべて主観の産物である。そのため、自然を賛美するということは、そのまま主観を賛美することになる。
【解答例】人間が自然から得た感覚はすべて主観の産物であり、自然の賛美は主観の賛美になるということ。
設問(三)
【解説】傍線部ウのある段落のキーワードは、「場所」である。「ある特定の場所や物がもっているはずの個性」「場所と歴史としての特殊性」「材料として他の場所で利用する」とあり、場所が固有性を示す概念として使用している。そのうえで、近代的自然科学の自然観は、自然を分解して利用し、最終的には原子をも分解して核エネルギーにしたと述べている。これを受けたのが、傍線部ウである。この段落の内容をまとめるといい。
【解答例】自然物の固有性を否定し、人間にとって必要なものを抽出して利用しているから。
設問(四)
【解説】傍線部エの三つ前の「だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた」から、原子論的な個人観の話題になる。これまでの原子論の流れから、物質の個別性や特殊性を否定したのと同様、人間の個別性を否定して、すべての人間を抽象的に平等・自由と見なすのが原子論的な個人概念である。そして、それによってもたらされる問題点については傍線部エの直前の「だが、そのようなものとして人間を扱うことは」で始まる段落を見るといい。個別性や特殊性を捨象した結果、人びとは個性を失ったが、それだけではなく、特定の階層の人びとを標準化して個人概念を作り上げたため、そこから漏れた女性、少数民族、同性愛者など少数派のニーズは無視された、とまとめるといい。
【解答例】個人概念は近代市民男性を標準化したものであり、女性や少数民族・同性愛者など少数派は排除された。
設問(五)
【解説】全体の内容を踏まえた上で、傍線部オのある最後の段落をまとめるといい。生態系は長い時間をかけて形成されたものであり、そこに棲息する動植物がそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性は見逃される。これが二元論的自然観の弊害である。(オ)「自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である」。筆者は「場所」を自然物の固有性を表すのに使用しており、自然破壊の結果、歴史性や特殊性が失われてどこも同じに見える砂漠と化したともいえる。
【解答例】生態系は長い時間をかけて形成されたものであり、そこに棲息する動植物がそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態系を営んだが、自然破壊の結果、歴史性や特殊性が失われてどこも同じに見える砂漠と化したといえる。
この記事へのコメント
あとトートロジーになっていると思います。