2011年東大前期国語第1問「河川の風景をつくる」
河川は人間の経験を豊かにする空間である。人間は、本質的に身体的存在であることによって、空間的経験を積むことができる。このような経験を積む空間を「身体的空間」と呼ぼう。河川という空間は、「流れ」を経験できる身体的空間である。
河川の体験は、流れる水と水のさまざまな様態の体験である。と同時に、ア身体的移動のなかでの風景体験である。河川の整備と河川を活かした都市の再構築ということであれば、流れる水の知覚とそこを移動する身体に出現する風景の多様な経験を可能にするような整備が必要だということである。
河川整備の意味は、河川の整備が同時に、河川に沿う道の整備でもあるという点に関わっている。場合によって、道は、水面に近いことも、あるいは水面よりもずいぶんと高くなっていることもある。どちらにしても、ひとは歩道を歩きながら、川を体験し、また川の背景となっている都市の風景を体験し、そしてまた、そこを歩く自己の体験を意識する。
河川の体験とは、河川空間での自己の身体意識である。風景とはじつはそれぞれの身体に出現する空間の表情にほかならないからである。風景の意味はひとそれぞれによって異なっている。河川の空間が豊かな空間であるということは、何かが豊かに造られているから豊かだ、ということではない。とりわけて何もつくられていなくても、たとえば、ただ川に沿って道があり、川辺には草が生えていて、水鳥が遊び、魚がaハねる、ということであっても、そのような風景の知覚がひとそれぞれに多様な経験を与える。体験の多様性の可能性が空間の豊かさである。
豊かさの内容が固定化された概念によって捉えられると、その概念によって空間の再編が行われる。たとえば「親水護岸」は水に親しむという行為を可能にするように再編された空間であるから、空間を豊かにすることであるように思われるが、その空間は「水辺に下りる」「水辺を歩く」というコンセプトを実現する空間にすぎない。そこでひとは、たしかに水辺に下りること、水辺を歩くことはできるが、それ以外のことをする可能性は排除されてしまう。この排除は川という本来自然のものが概念という人工のものによって置換されるということを意味している。それはイ本来身体空間であるべきものが概念空間によって置換されている事態と捉えることができる。
たとえば、流れに沿って歩いていくと、河川整備の区間によってそれを整備した事業者の違いによって、景観がちぐはぐになっていることがある。もちろんこれは同じ風景が連続しいていることがよいということではない。問題なのは、土を中心につくられている上流の警官が下流にいくに従って、大きな石によって組み立てられているような場合である。これは、川の相を無視し、事業主体の概念が流れる川を区分けし、その区分けされた川のbダンペンを概念化した結果である。
川は流れ来る未知なる過去と流れ去る未知なる未来とを結ぶ現在の風景である。この風景を完全に既知の概念によって管理すること、コントロールすることは、川の本質に逆らうことになる。「河川の空間デザイン」という言い方には、危ういところが感じられるが、それは川のもつ未知なるものを完全に人間の概念的思考によってコントロールしうるもの、すべきものという発想が隠れているからである。
完全にコントロールされた概念空間に対して、河川の空間にもとめられているのは、新しい体験が生まれ、新しい発想が生まれ出るような創造的な空間である。川は見えない空間から流れてきて、再び見えない空間へと流れ去る。だから川は人生に喩えられる。人生は概念で完全にコントロールできるようなものではない。川が完全にコントロールされた存在であるならば、川の風景に出会うひとには、そのコントロールされた概念に出会うだけであろう。そうなると、川は、訪れた人びととそれぞれの創造性とは無縁のものとなってしまう。
都市空間は、設計から施工、竣工のプロセスで完成する。建造物が空間をセッティングして、そこで人びとの生活と活動が行われる。空間の創造は、その生活と活動の空間の創造である。人びとの活動の起点は建造物の建築の終点であるが、都市計画そのものは竣工の時点が終点である。しかし、河川空間の事情は異なっている。竣工の時点が河川空間の完成時ではない。むしろ河川工事の竣工は、河川の空間が育つ起点となる。ウそれは庭園に類似している。樹木の植栽は、庭の完成ではなく、育成の起点だからである。
だから、河川を活かした都市の再構築というとき、時間意識が必要である。川は長い時間をかけて育つもの、自然の力によって育つものであり、人間はその手助けをすべきものである。自然の力と人間の手助けによって川に個性が生まれる。時間をかけて育てた空間だけが、その川の川らしさ、つまり、個性をもつことができる。
エ河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく。その履歴が空間に意味を与えるのである。では、この時間にもとづく意味付与は、概念的コントロールによる意味付与とどこがことなるのだろうか。概念的コントロールによる意味付与は、河川空間の設計者の頭のなかにある空間意味づけであり、河川とはこういうものであるべきだ、という強制力をもつ。そのような概念によってつくられた空間に接するとき、風景はcヨクアツ的なものになってしまう。風景に接したひとが自由な想像力のもとでそれぞれの個性的な経験を積み、固有の履歴を積み上げることをdソガイしてしまう。
流れる水が過去から流れてきて、未来へと流れ去るように、河川の空間は、本来、時間を意識させる空間として存在する。つまり川の空間は、独特の空間の履歴をもつ。履歴は概念のコントロールとは違って、一握りの人間の頭脳のなかに存在するものではない。多くの人びとの経験の蓄積を含み、さらに自然の営みをも含む。こうして積み上げられた空間の履歴が、その空間に住み、またそこを訪れるそれぞれのひとが固有の履歴を構築する基盤となる。
人間はいま眼の前に広がる風景だけを見ているのではない。たとえば、わたしは昔の清流を知っているので、いまの川の水の色をみれば、どれほど空間が貧しくなったかを想像することができる。その人の経験の積み重ね、つまり、そのひとの履歴と空間に蓄積された空間の履歴との交差こそが風景を構築するのである。一人ひとりが自分の履歴をベースに河川空間に赴き、風景を知覚する。だからその風景は人びとに共有される空間の風景であるとともに、そのひと固有の風景でもある。オ風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である。空間再編の設計は、ひとにぎりの人びとの概念の押し付けであってはならない。
(桑子敏雄『風景のなかの環境哲学』)
設問
(一)「身体的移動のなかでの風景体験」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部ア「身体的移動のなかでの風景体験」に続けて、河川の整備と河川を活かした都市の再構築は、流れる水の知覚とそこを移動する身体に出現する風景の多様な経験を可能にする整備が必要だと筆者は述べる。次の段落でも、河川の整備は同時に河川に沿う道の整備でもあり、ひとは歩道を歩きながら川を体験し、また川の背景となっている都市の風景を体験し、そこを歩く自己の体験を意識するという。ここが、分かりやすくまとめやすいだろう。
【解答例】ひとは河川に沿った歩道を歩きながら、川や背景の都市の風景を体験して、自己の体験にするということ。
(二)「本来身体空間であるべきものが概念空間によって置換されている事態」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】前の段落で、風景は人それぞれの身体に出現する空間の表情だと述べ、風景の意味は人それぞれによって異なり、それが空間の豊かさだという。そして傍線部イのある段落で、その豊かさの内容が、概念によって捉えられると、それ以外の可能性は排除されてしまうという。そして本来は自然のものが、概念という人工のものによって置換されると述べ、傍線部イと続く。これをまとめよう。
【解答例】風景の意味は人によって異なるので、ひとつの考えに基づく都市計画で風景の多様性が失われるということ。
(三)「それは庭園に類似している」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
【解説】「都市空間は」から、「育てる」が重要な語句になる。空間の創造は、その生活と活動の空間の創造である。都市計画は工事の始まりの時点が終点であり、工事は完成の時点が終点であり、人びとの生活は工事の完成の時点が起点になる。しかし河川空間は事情が異なり、工事の始まり(竣工)の時点が河川の育つ起点となる。そして傍線部ウがあり、その直後で樹木の植栽は庭の完成ではなく、育成の起点と述べている。このように「育成の起点」に重点がある。
【解答例】河川の風景は庭園と同じく、工事の始まりが起点として、自然の営みを人の手が支え育てていくから。
(四)河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部エのあとで、時間による意味付与は概念的なものとどこが異なるのだろうか、と問題提起をしている。概念的コントロールは、河川とはこうあるべきだという設計者の考えを押し付けたものである。それでは、人びとの自由な想像力を邪魔する。その逆のものが時間による意味付与である。前の設問につづく設問であり、前の設問がヒントになっている。
【解答例】河川の風景は固定されるものではなく、自然の手と人びとの生活の中でつくり上げられていくということ。
(五)「風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上、一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)
【解説】全体の内容から自己と世界との出会いが何か、自己と他者の出会いが何かを考えよう。世界というと自分のまわりをめぐるものだろう。そうであれば自然であり社会である。また他者とは自分とは異なる事物である。文章に即せば、異なる経験・履歴を積み、同一の風景も異なって見ている他人のことである。
【解答例】河川の風景は自然の手によりつくられ、そこに住み・訪れる人びとの生活によってつくられているので自己と世界の出逢いといえる。また同じひとつの河川が人によって異なって見える風景の基盤になっており、異なる経験をもつ人びとの出会いの場でもあるということ。
(六)傍線部a、b、c、dのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a ハ(ねる) b ダンペンン c ヨクアツ d ソガイ
【解答例】
a 跳ねる b 断片 c 抑圧 d 阻害
河川の体験は、流れる水と水のさまざまな様態の体験である。と同時に、ア身体的移動のなかでの風景体験である。河川の整備と河川を活かした都市の再構築ということであれば、流れる水の知覚とそこを移動する身体に出現する風景の多様な経験を可能にするような整備が必要だということである。
河川整備の意味は、河川の整備が同時に、河川に沿う道の整備でもあるという点に関わっている。場合によって、道は、水面に近いことも、あるいは水面よりもずいぶんと高くなっていることもある。どちらにしても、ひとは歩道を歩きながら、川を体験し、また川の背景となっている都市の風景を体験し、そしてまた、そこを歩く自己の体験を意識する。
河川の体験とは、河川空間での自己の身体意識である。風景とはじつはそれぞれの身体に出現する空間の表情にほかならないからである。風景の意味はひとそれぞれによって異なっている。河川の空間が豊かな空間であるということは、何かが豊かに造られているから豊かだ、ということではない。とりわけて何もつくられていなくても、たとえば、ただ川に沿って道があり、川辺には草が生えていて、水鳥が遊び、魚がaハねる、ということであっても、そのような風景の知覚がひとそれぞれに多様な経験を与える。体験の多様性の可能性が空間の豊かさである。
豊かさの内容が固定化された概念によって捉えられると、その概念によって空間の再編が行われる。たとえば「親水護岸」は水に親しむという行為を可能にするように再編された空間であるから、空間を豊かにすることであるように思われるが、その空間は「水辺に下りる」「水辺を歩く」というコンセプトを実現する空間にすぎない。そこでひとは、たしかに水辺に下りること、水辺を歩くことはできるが、それ以外のことをする可能性は排除されてしまう。この排除は川という本来自然のものが概念という人工のものによって置換されるということを意味している。それはイ本来身体空間であるべきものが概念空間によって置換されている事態と捉えることができる。
たとえば、流れに沿って歩いていくと、河川整備の区間によってそれを整備した事業者の違いによって、景観がちぐはぐになっていることがある。もちろんこれは同じ風景が連続しいていることがよいということではない。問題なのは、土を中心につくられている上流の警官が下流にいくに従って、大きな石によって組み立てられているような場合である。これは、川の相を無視し、事業主体の概念が流れる川を区分けし、その区分けされた川のbダンペンを概念化した結果である。
川は流れ来る未知なる過去と流れ去る未知なる未来とを結ぶ現在の風景である。この風景を完全に既知の概念によって管理すること、コントロールすることは、川の本質に逆らうことになる。「河川の空間デザイン」という言い方には、危ういところが感じられるが、それは川のもつ未知なるものを完全に人間の概念的思考によってコントロールしうるもの、すべきものという発想が隠れているからである。
完全にコントロールされた概念空間に対して、河川の空間にもとめられているのは、新しい体験が生まれ、新しい発想が生まれ出るような創造的な空間である。川は見えない空間から流れてきて、再び見えない空間へと流れ去る。だから川は人生に喩えられる。人生は概念で完全にコントロールできるようなものではない。川が完全にコントロールされた存在であるならば、川の風景に出会うひとには、そのコントロールされた概念に出会うだけであろう。そうなると、川は、訪れた人びととそれぞれの創造性とは無縁のものとなってしまう。
都市空間は、設計から施工、竣工のプロセスで完成する。建造物が空間をセッティングして、そこで人びとの生活と活動が行われる。空間の創造は、その生活と活動の空間の創造である。人びとの活動の起点は建造物の建築の終点であるが、都市計画そのものは竣工の時点が終点である。しかし、河川空間の事情は異なっている。竣工の時点が河川空間の完成時ではない。むしろ河川工事の竣工は、河川の空間が育つ起点となる。ウそれは庭園に類似している。樹木の植栽は、庭の完成ではなく、育成の起点だからである。
だから、河川を活かした都市の再構築というとき、時間意識が必要である。川は長い時間をかけて育つもの、自然の力によって育つものであり、人間はその手助けをすべきものである。自然の力と人間の手助けによって川に個性が生まれる。時間をかけて育てた空間だけが、その川の川らしさ、つまり、個性をもつことができる。
エ河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく。その履歴が空間に意味を与えるのである。では、この時間にもとづく意味付与は、概念的コントロールによる意味付与とどこがことなるのだろうか。概念的コントロールによる意味付与は、河川空間の設計者の頭のなかにある空間意味づけであり、河川とはこういうものであるべきだ、という強制力をもつ。そのような概念によってつくられた空間に接するとき、風景はcヨクアツ的なものになってしまう。風景に接したひとが自由な想像力のもとでそれぞれの個性的な経験を積み、固有の履歴を積み上げることをdソガイしてしまう。
流れる水が過去から流れてきて、未来へと流れ去るように、河川の空間は、本来、時間を意識させる空間として存在する。つまり川の空間は、独特の空間の履歴をもつ。履歴は概念のコントロールとは違って、一握りの人間の頭脳のなかに存在するものではない。多くの人びとの経験の蓄積を含み、さらに自然の営みをも含む。こうして積み上げられた空間の履歴が、その空間に住み、またそこを訪れるそれぞれのひとが固有の履歴を構築する基盤となる。
人間はいま眼の前に広がる風景だけを見ているのではない。たとえば、わたしは昔の清流を知っているので、いまの川の水の色をみれば、どれほど空間が貧しくなったかを想像することができる。その人の経験の積み重ね、つまり、そのひとの履歴と空間に蓄積された空間の履歴との交差こそが風景を構築するのである。一人ひとりが自分の履歴をベースに河川空間に赴き、風景を知覚する。だからその風景は人びとに共有される空間の風景であるとともに、そのひと固有の風景でもある。オ風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である。空間再編の設計は、ひとにぎりの人びとの概念の押し付けであってはならない。
(桑子敏雄『風景のなかの環境哲学』)
設問
(一)「身体的移動のなかでの風景体験」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部ア「身体的移動のなかでの風景体験」に続けて、河川の整備と河川を活かした都市の再構築は、流れる水の知覚とそこを移動する身体に出現する風景の多様な経験を可能にする整備が必要だと筆者は述べる。次の段落でも、河川の整備は同時に河川に沿う道の整備でもあり、ひとは歩道を歩きながら川を体験し、また川の背景となっている都市の風景を体験し、そこを歩く自己の体験を意識するという。ここが、分かりやすくまとめやすいだろう。
【解答例】ひとは河川に沿った歩道を歩きながら、川や背景の都市の風景を体験して、自己の体験にするということ。
(二)「本来身体空間であるべきものが概念空間によって置換されている事態」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】前の段落で、風景は人それぞれの身体に出現する空間の表情だと述べ、風景の意味は人それぞれによって異なり、それが空間の豊かさだという。そして傍線部イのある段落で、その豊かさの内容が、概念によって捉えられると、それ以外の可能性は排除されてしまうという。そして本来は自然のものが、概念という人工のものによって置換されると述べ、傍線部イと続く。これをまとめよう。
【解答例】風景の意味は人によって異なるので、ひとつの考えに基づく都市計画で風景の多様性が失われるということ。
(三)「それは庭園に類似している」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
【解説】「都市空間は」から、「育てる」が重要な語句になる。空間の創造は、その生活と活動の空間の創造である。都市計画は工事の始まりの時点が終点であり、工事は完成の時点が終点であり、人びとの生活は工事の完成の時点が起点になる。しかし河川空間は事情が異なり、工事の始まり(竣工)の時点が河川の育つ起点となる。そして傍線部ウがあり、その直後で樹木の植栽は庭の完成ではなく、育成の起点と述べている。このように「育成の起点」に重点がある。
【解答例】河川の風景は庭園と同じく、工事の始まりが起点として、自然の営みを人の手が支え育てていくから。
(四)河川の空間は、時間の経過とともに履歴を積み上げていく」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部エのあとで、時間による意味付与は概念的なものとどこが異なるのだろうか、と問題提起をしている。概念的コントロールは、河川とはこうあるべきだという設計者の考えを押し付けたものである。それでは、人びとの自由な想像力を邪魔する。その逆のものが時間による意味付与である。前の設問につづく設問であり、前の設問がヒントになっている。
【解答例】河川の風景は固定されるものではなく、自然の手と人びとの生活の中でつくり上げられていくということ。
(五)「風景こそ自己と世界、自己と他者が出会う場である」(傍線部オ)とはどういうことか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上、一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。)
【解説】全体の内容から自己と世界との出会いが何か、自己と他者の出会いが何かを考えよう。世界というと自分のまわりをめぐるものだろう。そうであれば自然であり社会である。また他者とは自分とは異なる事物である。文章に即せば、異なる経験・履歴を積み、同一の風景も異なって見ている他人のことである。
【解答例】河川の風景は自然の手によりつくられ、そこに住み・訪れる人びとの生活によってつくられているので自己と世界の出逢いといえる。また同じひとつの河川が人によって異なって見える風景の基盤になっており、異なる経験をもつ人びとの出会いの場でもあるということ。
(六)傍線部a、b、c、dのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a ハ(ねる) b ダンペンン c ヨクアツ d ソガイ
【解答例】
a 跳ねる b 断片 c 抑圧 d 阻害
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